忌野清志郎 人物

忌野清志郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/16 04:22 UTC 版)

人物

音楽性

共通語標準語)のイントネーションにこだわった楽曲製作が特徴で、曲先の場合でも、イントネーションがおかしくなった場合は、メロディーを修正してでもイントネーションを正しくするという手法を取っていた。また、促音を強調し、日本語のメリハリを強調するという発声法を1970年代半ばから続けていた。[6]日本語をはっきり明瞭に歌うというスタイルは、後に甲本ヒロト真島昌利(共にザ・クロマニヨンズ)、どんと(BO GUMBOS)、水戸華之介(アンジー)、宮田和弥 (JUN SKY WALKER(S))、中川敬ソウル・フラワー・ユニオン)、YO-KING真心ブラザーズ)、宮本浩次エレファントカシマシ)、トータス松本ウルフルズ)、佐藤伸治フィッシュマンズ)などの数多くのフォロワー[7]を生む。

サウンド的なルーツは主にビートルズベンチャーズなど1960年代中期に日本で人気のあったロック、ブラザーズ・フォアピーター・ポール・アンド・マリーなど1960年代に日本で人気のあったフォーク、オーティス・レディングを筆頭としたソウル・ブルース系のミュージシャンで、多くの楽曲で彼らのオマージュを行っている。ライブにおいてジェイムス・ブラウンのマントショーを再現することもしばしばあった。

前述の促音を強調をするきっかけになったのがオーティスの「ガッタ、ガッタ」シャウトだったり、「愛しあってるかい?」のフレーズがオーティスのMCからの意訳だったりと、オーティスからの影響は非常に強く、清志郎自身も最も影響を受けたミュージシャンの一人としてオーティスの名を挙げている。1991年にはスティーブ・クロッパープロデュースでアルバム『Memphis』を製作、翌1992年にはBooker T. & THE MG's(元オーティスのバックバンド)とツアーを行った。2006年にはオーティスの足跡を辿るドキュメンタリー番組をきっかけにスティーブと再会し、スティーブのプロデュースでアルバム『夢助』を製作した。

RCサクセションの停滞時期に、行き詰まって複雑なコード進行の曲ばかり作ってしまう悪循環に陥っているという反省から、たとえシンプルなコード進行の曲であってもロックのダイナミズムを持つローリング・ストーンズの楽曲研究を重ねた。のちに『RHAPSODY』で結実。RCサクセションのロックバンド化と並行しての作業だったことから、当時のライブパフォーマンスなどにも強い影響を及ぼした。

歌詞の転機は少なくとも

  • 「雨あがりの夜空に」を書いた時(当時の事務所に下ネタをズバズバ言う人が多く、彼らの影響を受けた)。
  • 「サマータイムブルース」を書いた時(清志郎の父親[当時すでに故人]の誕生日にチェルノブイリ原子力発電所事故が起こったことから反原発の歌詞を書いた)。
  • 『COVERS』製作の時(母親の遺品整理の際に第二次世界大戦中の恨みつらみが書かれた日記を発見し、それを読み強い衝撃を受け、反戦・反体制の歌詞を書くようになる[8])。

の3度ある。ただし、いかにドギツイ歌詞の場合も高田渡のように諧謔精神を忘れなかった。

ミュージシャン間の交流

  • 桑田佳祐原由子 - 桑田佳祐はサザンオールスターズとして1983年のライブイベント「北海道スーパージャム'83」でRCと共演し、サザンが演奏した後がRCの出番であり、桑田は客席でそれを見た際に涙を流し、その理由を「(RCは)全然変な力が入ってなくて、まったくオーソドックスな事をやってるのね。こっち(サザン)は意識してキメ作ってビッカンビッカンやってるのに」「要するに昔と変わらないRCというか、不滅なもの、伝統的なものに完全に負けちゃったなと思ってね」と著書で語った[9]。また、清志郎の話によるとライブの打ち上げで桑田は清志郎に対し「俺の昔のオンナに似ているんですよね」「顔、姿、それにしぐさまで。もー、何から何までそっくりなんです」と話したといい、清志郎は「いったい、どんなオンナなんだ」と感じたという[10]。また、桑田が企画した『メリー・クリスマス・ショー』にも出演している。清志郎が『さんまのまんま』に出演した際に、番組のテーマソングを桑田が制作した話題に触れ、桑田の音楽性・歌唱法を揶揄する発言をし、その回をテレビで見た桑田から電話が掛かってきたという。これについて清志郎は「テレビを見てすぐに電話してくるあたりが、なかなか憎めないヤツだ」と発言した[10]。清志郎の葬儀式には原と共に参列し、同日の自身のラジオ「桑田佳祐のやさしい夜遊び」で「数えるほどしか会ったことがないけれど、ワクワクする人でした」と思い出を語り、番組の最後には「ぼくの好きな先生」を生歌で歌唱し、清志郎をしのび[11]、同年に発表された「声に出して歌いたい日本文学 <Medley>」の「たけくらべ」の箇所で清志郎の物まねが挿入された。原由子は横浜のラジオの公開収録でフォーク時代のRCを初めて見たのがRCを知るきっかけであったと語っており、「初期のRCサクセション」を大好きなアルバムであると述べている[12]
  • THE ALFEE - 3人がブレイクする前からの知人である。特に坂崎幸之助は清志郎のモノマネを得意としており、トリビュートコンサートに出演した際、清志郎のモノマネを披露している。ただし、桑田佳祐からテレビでアルフィーとのセッションを依頼された際、清志郎は「ヤダよ! 俺はアルフィーなんぞとやるのは。俺にも友達がいる。あんな奴らとテレビで仲良くしているところを見られたら、なんて言い訳すりゃいいんだ? アルフィーにとっちゃ俺と共演することにはメリットあんだろうけど、俺にはなんの得にもならないよ」とセッションを断った経緯があり、清志郎自身はアルフィーを認めていなかった節があるが[13]、その後、坂崎とはラジオ・テレビなどで何度も共演していることから、考えを改めた可能性もある。奇しくも清志郎の死去した2009年5月2日には坂崎の実父も亡くなっている。
  • 泉谷しげる - RC・古井戸・泉谷の3組は、デビュー前から同じライブハウスの常連であった。RCの曲「あきれて物もいえない」の「どっかのヤマ師」は、泉谷のことを歌っている(泉谷は当時、全く売れなかった清志郎を励ますため、わざと軽蔑していたらしい)。清志郎の死に真っ先にコメントを寄せたのも泉谷であり、「あいつの死を受け入れることはない」と沈痛な思いをのぞかせた。清志郎への尊敬の念から時折、清志郎を「忌野さん」と呼びながら語ることがある。
  • 春日"ハチ"博文 - カルメン・マキ&OZのメンバーとして知られている。かねてより清志郎の音楽性を高く評価しており、不遇時代のRCを自ら主催したライブの前座などに出演させていた。1977年を過ぎたころから78年にかけてRCにギターとしてたびたび参加。エレキ化していくRCの発展に一役買った。RCを離れた後も80年代中盤に清志郎と「ガラム」というユニットで何度かライブ活動を行い、RC末期には再びドラムとして参加している。口癖は「思うにィ〜」と「ちゅーかさ」。ニックネームは春日八郎から来ている。
  • GO-BANG'S - 1983年に結成され地元である札幌市を拠点として活動していたが、親の転勤によりメンバーの森若香織が東京に行くことにより、バンドは自然消滅状態に。バンドの記念として自分たちの曲をテープに録ってライブハウスに残したものを、たまたまプライベートで札幌に居合わせた清志郎が、このライブハウスを訪れテープを聞き、放った一言「いいじゃん!!」がきっかけでデビューとなる。先に東京に住んでいた森若以外のメンバーを清志郎が呼び寄せる形で東京での活動が始まった。まだアマチュアバンドだったGO-BANG'Sのデモテープ制作や演奏方法に、RCサクセションのメンバーも色々親身になってアドバイスし、後に「これがプロデビューに大きなきっかけになった」と森若は語っている。
  • ザ・クロマニヨンズ - 甲本ヒロト真島昌利THE BLUE HEARTSTHE HIGH-LOWS、ザ・クロマニヨンズを通して清志郎のステージにゲスト参加するなど、交流を持っている。ハイロウズ時代には忌野清志郎30周年記念RESPECT!のステージで「テクノクイーン」を演奏した。また、甲本は清志郎の「REMEMBER YOU」でダブルボーカルをとっている。
  • 渋さ知らズ - 清志郎と親交のあるミュージシャンが多くかかわっており、2004年1月10日のライブ(DVD『ALLD OF SHIBUSA』に収録)では、清志郎もほら貝とボーカルで参加。
  • ジョニー・サンダース - 伝説的なパンクバンド、ニューヨーク・ドールズの元ギタリスト。RCのアルバム『COVERS』にゲスト参加している。サンダースの最後となったライブをたまたま見に行っていた清志郎はステージに上げられてアンコールを1曲共演した。サンダースは、その数週間後に死去した。
  • 竹中直人 - 俳優。清志郎、仲井戸の大ファンで映画のみならずステージでも度々共演を果たしている。ブレーク前からの友人でもあり、付き合いは長く深く、竹中がホスト役を務めるラジオ番組にも、清志郎や仲井戸は度々ゲスト出演し、清志郎は病気療養中にも出演していた。古井戸ファンの竹中は藤原ヒロシと結成した古井戸のコピーバンド「高井戸」でも活動を行っていた。清志郎の本葬では、自ら弔辞を読み上げた。
  • De-ga-show - 片山広明と林栄一を中心としたフリー・ジャズ・バンド。清志郎は、同バンドの2作目『続デ・ガ・ショー』のライナーノーツを執筆し、「俺も参加させろ」「片山、なんで俺をさそわないんだよ」と書いたところ、本当に共演アルバム『Hospital』を発表する運びとなった。
  • トータス松本 - ウルフルズのボーカリスト。デビュー直後から清志郎の影響を公言している。楽曲を度々カバー、ライブでも清志郎と共演するなど親交は深い。
  • 間寛平 - プライベートでも清志郎と交友があり、2001年のミニアルバム「ジャングル野郎」では清志郎から曲を提供された。レギュラー出演している「探偵!ナイトスクープ」では、清志郎を連れて探偵レポートをしたこともある。2006年2月25日大阪城ホールで行われた清志郎主催のロックンロール・イベント「新 ナニワ・サリバン・ショー」ではシークレットゲストとして登場した。しかしアースマラソン挑戦中の2009年、寛平はアメリカカンザス州において電話で清志郎の訃報を知り、声を上げ号泣した。そのシーンは当時の日本テレビでの特番で放送された。
  • 氷室京介 - BOØWY結成前に参加していたバンドに嫌気が差し、辞めて帰郷することを決意したが帰る前に日比谷野外音楽堂で行われたRCのライヴを観て、「もう一度バンドをやろう」と思い直した。そして布袋寅泰を誘い、結成したのがBOØWYである。
  • ヒルビリー・バップス - 楽曲「バカンス」を清志郎から提供された。なお、同バンドのVo.宮城宗典の自殺後に行われた追悼コンサートでは、「いなくなったヤツよりも残された人のために」という名言を吐いて清志郎自身がこの曲を歌い上げた。
  • ブッカー・T&ザ・MG's - 清志郎が尊敬するオーティス・レディングのバックバンドとして活躍した。また、単独でもインストゥルメンタル作品を発表している、世界的に評価されているバンド。清志郎のソロアルバム『MEMPHIS』のバックを担当し、ツアーも行った。その後も清志郎はギタリストのスティーヴ・クロッパーと親交を深めて行き、クロッパーをプロデューサーとして迎えた『夢助』などを発表している。
  • ブルーデイ・ホーンズ - 梅津和時、片山広明によるホーンセクション。両人は、多彩なソロ活動を行いながらもRC及びソロ転向後の清志郎と活動を共にする。
  • 三浦友和 - 俳優。清志郎の中学時代からの友人で、東京都立日野高等学校でも同窓生だった。デビュー前のRCに参加しパーカッションを担当、その後も三浦はRCサクセションのライブに飛び入り出演したり、発売禁止となったアルバム『COVERS』にも参加していた。毎年1〜2回は清志郎が酒を持って三浦の自宅を訪ね、夜通し酒を酌み交わして旧交を温めていた。
  • 森川欣信 - オフィスオーガスタの社長。キティレコードのディレクターだったときにRCの『RHAPSODY』を手がけた。アコースティックトリオだった頃からのRCの大ファンであり、清志郎とは公私に亘って親しい。連野城太郎のペンネームで『GOTTA! 忌野清志郎』を執筆した。
  • 矢野顕子 - 度々共演している清志郎の友人。以前はニューヨークと日本でファクスでのやり取りをしていた。近年は矢野の「ひとつだけ」をよくデュエットしている(スタジオ・アルバムでは、矢野の『はじめてのやのあきこ』(2006年)に収録)。矢野の楽曲「湖のふもとでねこと暮らしている(DOWN BY THE LAKE, LIVING WITH MY CAT)」(『LOVE LIFE』収録)はRCのナンバー「山のふもとで犬と暮らしている」のアンサーソングと言われている。また、矢野は清志郎のことを歌った「きよしちゃん」という楽曲もステージで披露している(清志郎の死後、『音楽堂』(2010年)に収録)。月刊カドカワで連載されていた「月刊アッコちゃん」では、早朝に「起きろー!!」と大書きされたファクスが送りつけられていたエピソードを紹介している(角川文庫刊・「月刊アッコちゃん・峠のわが家編」に掲載されている)。また、「最近、連続紙使用(相手方の記録紙がなくなるまで)を編み出したとか」というエピソードを紹介している。
  • 山口冨士夫 - 日本の伝説的なロックバンド、村八分のギタリスト。度々ステージで共演したり、RCのアルバム『COVERS』にもゲスト参加している。
  • 吉田拓郎 - 1971年、拓郎が定期コンサートを開催していた時に、よく前座を務めていたのがRCサクセションだった。清志郎は当時、拓郎が嫌いで出番が終わると顔も見ないで帰っていたという。しかし、拓郎は清志郎を「音楽の世界ではスペシャルな男、リハーサルとかに彼が入ってくるだけで雰囲気が変わる」と高く評価していた。吉見佑子がアルバム『シングル・マン』の再発に業界を奔走した時も、拓郎は「オレはRCが好きだ」と自身のラジオ番組でRCの曲をプッシュしていた。後に清志郎は拓郎に「こころのボーナス」(アルバム『ハワイアン ラプソディ』収録)を提供した。

主な事件

  • 1982年6月14日、生放送番組「夜のヒットスタジオ」(第709回)にRCサクセションとして出演した際、曲の最中暴れまわったり、司会者とのトーク時より噛み続けていたガムをテレビカメラに向かって吐きかけるなどの悪ふざけをし、さらにそのことで視聴者へ謝罪する司会者の後ろで舌を出したり顔をしかめるなどしたことから、テレビ局に抗議の電話が殺到。その数は500件近くに上ると言われている。
  • 1988年、東芝EMI から発売予定だったRCのアルバム『COVERS』が、原発問題を取り扱った歌詞などがネックとなり、急遽発売中止に。後にレコード会社を変えて、ようやく発売される(詳細は『COVERS』の頁を参照のこと)。
  • 1999年、パンク・ロック風にアレンジした「君が代」を収録したアルバム『冬の十字架』がポリドールから発売される予定だったが、同年8月に国会で成立した国旗・国歌法を巡る議論に巻き込まれることを危惧した同社が発売を拒否。結局、販売をUKプロジェクトにしインディーズのSWIM RECORDSレーベルから発売される。
  • 2000年、SWIM RECORDSレーベルから発売予定だったラフィータフィー名義の『夏の十字架』は、インディーズ商人の実態を揶揄した「ライブ・ハウス」という曲中で暗に批判されたライブハウス・下北沢QUEのオーナーが激怒、同店と系列関係にあるUKプロジェクトの逆鱗に触れインディーズからも販売中止という前代未聞の事態となる。奇しくも、同曲が批判するインディーズ業界の問題点が実証された形となる。同アルバムは、最終的にSWIM RECORDSから発売・販売される。
  • 2002年6月1日FM802開局13年記念イベント「JAPANESOUL」に三宅伸治と共に、それぞれ長間敏(おさまびん)、神田春(かんだはる)と名乗ったデュオ「アルカイダーズ」として出演。米国9.11テロに関連した曲を演奏したが、放送ではカットされた。
  • 2003年4月22日、日本武道館で開催された「アースデイ・コンサート」(TOKYO FMなどJFN加盟する全国のFM各局に生放送)に出演した際、当初予定になかった「君が代」や「あこがれの北朝鮮」の替え歌(発売当時の金賢姫をキム・ヘギョンに変更するなどした)などを歌い、会場を騒然とさせた。混乱が心配されたが、直後に出演した佐野元春による「自由に歌える国に生まれてよかった」という発言や、佐野やバンドの冷静な演奏に、イベントは救われる。なお演奏された曲の一部は、イベント開催の趣旨説明などに差し替えられ、その部分が放送されなかった。ちなみに清志郎はその後、アースデイコンサートに呼ばれてはいないが、佐野は翌年も参加している。

その他のエピソード

  • 右利きであるにもかかわらず左手でハンドマイクを握るようになったのは、まだオーティス・レディングをレコードで聴いたことしかなかったころ、数少ないステージ写真で「オーティスが左手でマイクを握っていた」のがきっかけだったが、のちにかつて見ていた写真が実は裏焼きされたものだったことを知り愕然としたという。
  • RCサクセション時代、千葉県神野寺で飼育されていた2頭が逃げ出すという事件があり、マザー牧場でのライブ(1979年8月4日)が中止になった。清志郎は警察に「虎を殺すな!」と電話で訴えたが、結局2頭とも射殺されて一連の騒動が鎮静化。RCサクセションはその後渋谷屋根裏で「虎追悼コンサート」(1979年9月15日)を行っている。
  • 清志郎が高校三年生のとき、担任の先生(「ぼくの好きな先生」のモデルとなった美術教師)から卒業式の後「自分が本当にやりたいことがあるなら、結婚はするな」と真剣な顔で言われたことが頭から離れず、30代後半まで独身だった。その先生が初めてライブに来てくれたときにそのことを伝えると、「君はもういいんだよ」と言ってくれたため、不遇時代より交際を続けていた「石井さん」と結婚した[14]
  • 長男・竜平(たっぺい)が生まれたことが大変うれしかったらしく、1989年のライブではMC中に突然「♪oh- タツ、魔法のタツが生まれたぞ お父さん子だよ」とPP&Mの「Puff,the magic dragon」の替え歌を歌う親バカぶりを披露していた。ただし、聴いている観客はなんのことかわからずきょとんとしていたため、「なんでもありません」とつぶやいて次の曲へ移るというパターンだった。1991年には忌野清志郎&竜平名義でソノシート『あこがれのソノ・シート』(「タッペイくん」「竜平くんとお父さん」「おやすみなさい」の3曲を収録、「おやすみなさい」はビートルズのカバー)をファンクラブ限定で発売した。
  • 「音楽で生計を立てられなければ絵描きになるしかなかった」と本人が言うほど画才があり、清志郎自身のアルバムジャケットや書籍の表紙などを描いている。毎年恒例の日野高校OB展にも作品を出品していた。死後には「個展 忌野清志郎の世界」という展覧会も行われ、画集も発売されている[15]。生前最期の作品という真の意味での遺作は意外にも楽曲ではなく、絵画で、前述のデビュー39周年を記念して描かれた一旗ウサギの『39!BABY』[3]がそれにあたる。この作品は描かれた日付が2009年3月となっており、文字どおり清志郎のラストメッセージとなった作品である(「Oh! RADIO」は2009年2月完成とされている)。
  • 中日ドラゴンズの熱狂的なファンで、ライブ衣装として中日のユニフォーム・ヘルメットを着たこともある(ビデオ『Screaming Revue』などで確認できる)。「ズームイン!朝!!」の野球コーナーに「おはよう川又さん」という楽曲を提供(中日勝利の翌朝の放送でBGMとして使用)した縁もあり、名古屋でのライブの際は、川又米利がゲスト出演することもたびたびあった。余談だが、前述のアルバム発売中止騒動が起きた1988年と1999年は、いずれも中日がリーグ優勝した年でもある。
  • 初期のころは、肝沢幅一のペンネームで作曲をしていたこともある。清志郎の父親が沢田研二のことをなぜか決まって「肝沢幅一」と間違えていたことから。
  • メンフィス名誉市民。1男1女の父親であった。
  • 特に自慢話を好む性格ではないが、冗談交じりに自慢していた例として、高校の同級生だった三浦友和のことを語る際に「あいつ(三浦友和)にギターを教えたのは俺だ」というのがある。
  • 高校生の頃、母親が「息子が音楽に夢中になっていって、将来が心配です」と新聞の人生相談に投書し、それが新聞に掲載されたことがある。このことは『トリビアの泉 〜素晴らしきムダ知識〜』(フジテレビジョン)で取り上げられ、確認VTRでは清志郎本人が出演し、事実であることを認めた。掲載されたのは朝日新聞の「身上相談」コーナーだった。[16] [17]
  • 2007年から神奈川県三浦市で開催されている音楽イベント『ロックの学園』では"校長"となっており、「忌野清志郎校長室」が一般公開されている。開校当初(第1回)から現在もなお"出張中"という設定で、校訓は「愛し合ってるかい?」。
  • 自転車愛好家で、仕事先が都内であれば自転車で通っていた。[18]
  • 「音楽以外で収入を得るのは負け」という考えを持っていた。



  1. ^ 清志郎の従弟・西久保酒店のご主人が語る「素顔の清志郎」――たまらんニュース - ニュースとライヴ - OTOTOY
  2. ^ 2008年11月23日のBooker T. & THE MG'sのブルーノート東京公演への飛び入り。「In The Midnight Hour」「Soul Man」を歌い、これが清志郎の最後のステージになった。
  3. ^ a b 公式サイトTOPICS No59
  4. ^ 所属レコード会社のユニバーサルミュージック発表
  5. ^ 葬儀#歴代の葬式参列者数より
  6. ^ 長谷川博一編『Mr.OUTSIDE わたしがロックをえがく時』(大栄出版、1991年)清志郎ロングインタビュー内のP42-44
  7. ^ どんとがボ・ガンボス以前に組んでいたローザ・ルクセンブルグは「京都のRC」の異名を持つほどで、エレファントカシマシもデビュー直前はRCサクセションのカバーをやらせれば右に出るものはいないと言われていた。
  8. ^ 1999年10月25日「西日本新聞」
  9. ^ 桑田佳祐『ブルー・ノート・スケール』P186、ロッキン・オン、1987年
  10. ^ a b 忌野旅日記 音楽之友社 1987年より
  11. ^ 桑田佳祐、ラジオで本音…清志郎さん「生歌」で偲ぶ zakzak
  12. ^ 原由子『あじわい夕日新聞〜夢をアリガトウ〜』18頁、朝日新聞出版、2013年
  13. ^ 泉谷しげる自伝『わが奔走』(1988年、株式会社ロッキングオン)
  14. ^ 1992年1月18日「朝日新聞」
  15. ^ 忌野清志郎さん、生前の意向受け「個展」実現へ-絵画など一堂に シブヤ経済新聞 2009年6月17日閲覧
  16. ^ 朝日新聞 身上相談 1969年11月4日
  17. ^ 朝日新聞 天声人語 2019年5月2日
  18. ^ INLIFE 男の履歴書 忌野清志郎
  19. ^ 長谷川博一編『Mr.OUTSIDE わたしがロックをえがく時』(大栄出版、1991年)清志郎ロングインタビュー内のP37-38
  20. ^ BARBEE BOYSのエンリケがプロデュースしたバンド
  21. ^ ザ・タイマーズのローディー
  22. ^ 付録CD付。収録曲は、「瀕死の双六問屋のテーマ」「遠いシナリオ」「フリーター・ソング」「瀕死の双六問屋 エンディング・テーマ」





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「忌野清志郎」の関連用語

忌野清志郎のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング



忌野清志郎のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの忌野清志郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2019 Weblio RSS