徳川綱吉 官歴

徳川綱吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/17 06:15 UTC 版)

官歴

※日付は旧暦。

  • 承応2年(1653年
    • 8月12日、元服。従四位下右近衛権中将兼右馬頭に叙任。
    • 8月17日、正三位に昇叙。
  • 寛文元年(1661年)12月28日、参議補任。
  • 延宝8年(1680年
    • 5月7日、将軍後継者となり、従二位権大納言。
    • 8月21日、正二位内大臣兼右近衛大将。征夷大将軍・源氏長者宣下。
  • 宝永2年(1705年)3月5日、右大臣
  • 宝永6年(1709年
    • 1月10日、薨去。
    • 1月23日、贈正一位太政大臣。

評価

綱吉の行状については価値の低い史料による報告が誇張されて伝えられている部分もあり、近年では綱吉の政治に対する評価の再検討が行われている。

綱吉は「側近の寵臣以外の意見を軽視し、悪法で民衆を苦しめた」という否定的評価がなされる一方で、元禄4年(1691年)と同5年(1692年)に江戸で綱吉に謁見したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの「非常に英邁な君主であるという印象を受けた」といった評価も受けている(ケンペル著『日本誌』)。ケンペルの綱吉観や両者の交流についてはベアトリス・M. ボダルト・ベイリー『ケンペルと徳川綱吉』(中公新書、1994年 ISBN 4-12-101168-6)に詳しい。

綱吉の治世下は、近松門左衛門井原西鶴松尾芭蕉といった文化人を生んだ元禄期であり、好景気の時代だったことから優れた経済政策を執っていたという評価もある。また、治世の前期と後期の評価を分けて考えるべきだという説もある。前期における幕政刷新の試みはある程度成功しており、享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗も綱吉の定めた天和令をそのまま「武家諸法度」として採用するなど、その施政には綱吉前期の治世を範とした政策が多いと指摘されている。

深井雅海によれば、綱吉はその治世を通して46家の大名を改易もしくは減封し、1297名の旗本・御家人を処罰している[4]。旗本の5人に1人は何らかの処罰を受けたことになるが、処罰の理由として際だって多いのが「勤務不良」(408名)と「故ありて」(315名)である。深井は旗本の大量処罰を「封建官僚機構の整備」と評価している[4]。一方で、処罰された旗本の32パーセントは小姓や近習といった行政官僚ではない役職で、その理由の多くは仔細不明の「故ありて」に該当し、政治的な意図のない恣意的な人事も相当数行われたと考えられる[4]。『徳川実紀』附録巻下には、柳沢吉保が旗本の処罰があまりに厳しいことについて、家康以来の家臣である彼らを「扇子・鼻紙などのごとく」軽々しく扱ってはならない、と諫言したとある[4]

富士山に大穴を開けた大噴火による宝永山の出現は綱吉や重秀の悪政の証拠の一つとされた[5][6][7]

綱吉の治世の評価が低いことについては、晩年期に頻発した不幸な偶然もいくつかあると指摘されている。具体的には、元禄8年(1695年)頃から始まる奥州飢饉、元禄11年(1698年)の勅額大火[注釈 2]、元禄16年(1703年)の元禄地震・火事、宝永元年(1704年)前後の浅間山噴火・諸国の洪水、宝永4年(1707年)の宝永地震富士山噴火、および宝永5年(1708年)の京都大火などである[8]。それらは、現代では治世の評価を左右するものとは考えにくいが、当時はこういった天変地異を「天罰(=主君の徳が無いために起こった)」と捉える風潮が残っていた[8][5]

新井白石は、元禄8年(1695年)以来始まった貨幣改鋳は、近年の奢侈流行による幕府の出費拡大の穴埋めのために金銀の如き天地から生まれた大宝に混ぜ物をした結果、天災地変を招いたのであって、これよりひどい悪政は前後にその類を見ないと酷評した[5][9][10]。これは白石の儒教的思想に基づくもので、家康の時代より続いた慶長の幣制は変えてはならず、金銀は「天地の骨」とする陰陽五行説から来る信仰であった[11][6]

また、現代においての評価はテレビドラマによるところが大きい。綱吉がドラマに登場するのは基本的に『忠臣蔵』関連か『水戸黄門』関連のドラマのどちらかであることが多いためである。

『忠臣蔵』(赤穂事件)では大抵の場合、高家吉良義央が浅野長矩へ悪態を見せる姿が描かれる。その結果、長矩にのみ切腹を命じて義央の罪を問わなかった綱吉には義央の悪態に加担したかのような否定的イメージが付きまとってしまう。このことも、綱吉の評価を実際以上に低めていると言える。

綱吉のもう一つの不運は、「水戸黄門」徳川光圀の存在である。光圀には生類憐れみの令に抗議して犬の毛皮を送ったという逸話を中心に綱吉に直言したという記録がいくつかあるため、『水戸黄門』の物語中では悪役を割り当てられてしまっている。また、光圀が『大日本史』を編纂し、綱吉が自ら『易経』を講じるなど、類似した方向性を持っていたことから、水戸黄門ファンの中には、黄門を持ち上げるためにことさらに綱吉をけなすという風潮もある[12]

綱吉再評価に関する文献として、代表的で入手が容易なものとして、塚本学『徳川綱吉』(吉川弘文館、1998年)、山室恭子『黄門さまと犬公方』(文春新書、1998年 ISBN 4-16-660010-9)が挙げられる。また、2004年12月28日にフジテレビ系列で放送されたドラマ『徳川綱吉 イヌと呼ばれた男』も、この再評価に連なる系列のものである。井沢元彦も『逆説の日本史』中で「戦国の気風を残した世相を、生命を大事にする太平の世へと変革した」と非常に高く評価している。

綱吉と能

家康以来、代々の将軍はを愛好してきたが、綱吉はその中でも「能狂」[13]と言われるほどの執着を示した。綱吉の能狂の特徴として、能楽研究者の表章は以下の5点を挙げる[13]

  1. 自ら能を舞い、それを人に見せることを好んだこと。
  2. 側近・諸大名に能を舞うことを強制したこと。
  3. 能役者の追放・登用、また流派を超えての移籍などを繰り返したこと。
  4. 能役者を士分に取り立てたこと。
  5. 稀曲・珍曲を見ることを好んで、廃曲となっていたものをも多く復活させたこと。

まず1については、将軍就任後間もない延宝9年(1681年)2月、桂昌院のために催した能で、自ら「船弁慶」「猩々」を舞うなど、早い時期から見られる傾向である。これは年を追うごとに頻度を増し、江戸城内のみならず、寵臣邸や寺社へ赴く際には、儒学の講義に続いて綱吉が能を舞うことが常であり[注釈 3]、元禄10年(1687年)には71番の能、150番以上の舞囃子を舞っている。諸大名や公家もまた、追従としてその拙い能を所望せねばならなかった[13]

2についても、将軍就任当初から小姓に能を舞わせるなどしていたが、後には側近ばかりか大大名にもこれを強制した。貞享3年(1686年)4月、徳川綱教・前田綱紀徳川光友・徳川綱豊・徳川光貞・徳川光圀・徳川綱誠徳川綱條による能が催されているのがその好例であるが、この場合も彼らは直前になって綱吉の命を受け、慌てて稽古をせねばならなかった。綱吉が宝生流を好んだため、諸大名も宝生流を取り立てたことが、現在まで加賀などで宝生流が盛んな一因となった[13]

3の例となるのは、宝生大夫による「道成寺」の小鼓を打つことを命じられた小鼓観世家当主・観世新九郎が、流派が違うことを理由にこれを拒否したことに対し、天和3年(1683年)2月に新九郎父子を追放、翌3月、宝生座に移籍させ姓まで宝生に変えさせて呼び戻した一件である。他にも館林時代のお抱え役者の登用、さらに貞享3年には喜多流三世・喜多七太夫宗能を追放し、喜多座を解体するという「能界を震撼させる大事件」を起こしている(翌年赦免)[13]

4については、『徳川実紀』にも批判する文章が載せられている。士分に取り立てられた役者は、特に貞享以後はこのために新設された廊下番のポストにつけられて表向き能役者を廃業し、綱吉が城中で私的に催す能に出演させられた。当初は五座以外の役者を士分としていたが、次第に諸座の大夫・家元クラスがその対象となっていった。これを断ればやはり追放が待っており、当主・後継者を奪われた各家は大きく混乱した。特に大夫を2度にわたって取り立てられた喜多座では、分家の権左衛門家が断絶を余儀無くされている。登用された役者たちは、三世喜多七太夫宗能改め中条直景のように900石取りにまで出世するものもいたが、五世喜多七太夫恒能のように綱吉の男色の相手を断り切腹させられるなど、多くは過酷な運命をたどることとなった[13]

5であるが、綱吉は日頃演じられない珍しい曲を観ることを好み、廃絶されていた古曲を積極的に復曲させて上演させた。それまで長く演じられなかったにもかかわらず、綱吉の時代に復活した曲は実に41番にも及ぶ。もっともこれも、6日ほど前に急に命じられ、慌てて間に合わせたものがほとんどであったが、そのうち20番は現在まで各流派で演じられており、中には「雨月」「大原御幸」「蝉丸」など現在でも高く評価されている曲が含まれている。同様の傾向のあった家宣による復曲と合わせ、「怪我の功名」ながら、これは後世に残る業績となっている[13]


注釈

  1. ^ 徳川実紀」「折たく柴の記」によれば、家宣が廃止すると宣言し、吉保も廃止に賛同したとある。が、『楽只堂年録』によれば、家宣は「いずれもあひ守り、断絶なきやうにすべし」としながらも、罰則を無くして罪人が出たり経済的負担が増えたりしないようにした、とある。どちらも事実上は廃止であるが、前者と後者では家宣および幕府のとった行動の意味がかなり異なってくる。『黄門さまと犬公方』山室恭子
  2. ^ 数寄屋橋門外より出火し上野を経て千住まで300町余を焼失、死者3,000人以上。
  3. ^ 例えば元禄4年3月22日(1691年)に初めて神田橋門の柳沢吉保邸に行った際自ら五番舞った。以降、宝永5年10月5日(1708年)まで(計58回)柳沢邸で能曲を楽しんだ。

出典

  1. ^ a b c 深井雅海『綱吉と吉宗』2012年、吉川弘文館
  2. ^ 三上隆三『江戸の貨幣物語』東洋経済新報社、1996年
  3. ^ 第7回「麻疹(はしか)」 -天然痘と並ぶ2大感染症だった 加藤茂孝 (PDF) モダンメディア 2010年7月号(第56巻7号)
  4. ^ a b c d 鈴木則子、三成美保(編)「元禄期の武家男色」『同性愛をめぐる歴史と法:尊厳としてのセクシャリティ』 明石書店 2015年、ISBN 9784750342399 pp.229-230.
  5. ^ a b c 『図説 日本の歴史11.江戸の開幕』集英社、1975年
  6. ^ a b 井沢元彦『逆説の日本史14 近世爛熟編文治政治と忠臣蔵の謎』小学館、2007年
  7. ^ 三上参次『江戸時代史 上』講談社学術文庫、1992年
  8. ^ a b 『なるほど元禄忠臣蔵 完全ガイドブック』世界文化社、1998年
  9. ^ 桑田忠親『徳川綱吉と元禄時代』秋田書店、1975年
  10. ^ 『図説 日本の歴史12.変動する幕政』集英社、1975年
  11. ^ ヤン・シーコラ (PDF) 江戸時代の経済思想における市場原理の概念についての一考察
  12. ^ 鈴木一夫「水戸黄門 - 江戸のマルチ人間・徳川光圀」など。
  13. ^ a b c d e f g 表章天野文雄『岩波講座 能・狂言 I 能楽の歴史』(1987年、岩波書店)
  14. ^ 冷泉為人他「瑞穂の国・日本─四季耕作図の世界」1996年 P74~77
  15. ^ 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書2005年5月ISBN 978-4106101199)より。また、謎解き!江戸のススメBS-TBS2015年3月2日放送)でも紹介された。
  16. ^ a b 堀池春峰「唐招提寺」 『改訂新版世界大百科事典平凡社、2007年。 






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