徳川家康 遺品

徳川家康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/18 04:27 UTC 版)

遺品

死去時における家康の遺品は「駿府御分物」として秀忠や側室・娘・孫に一部が、残りの大部分が御三家に分与された。尾張家と水戸家にはその目録があり、大雑把な分類を下記する[224]

  • 武具類 刀剣・薙刀・槍・弓・鉄砲・拵装剣具・甲冑・旗幟・幕・法螺貝・陣太鼓・軍配・采配・馬印・陣中使用調度・馬具・鷹狩道具
  • 金銀道具 風炉・釜・天目茶碗等の茶の湯道具一式・香箱・香盆・盃等
  • 御数寄屋道具 茶壺・茶入・茶碗・釜・花活等の茶の湯道具・掛物・歌書・香道具類・文房具類
  • 能狂言道具 面・衣装・腰帯・髷帯・被服・小道具・楽器等
  • 振舞道具 茶碗・皿・徳利・盃・盆・膳・椀等
  • 調度類 碁将棋道具・屏風・各種箱類・敷物・鋏・爪切・望遠鏡・ビードロ鏡等
  • 衣類反物類 小袖・羽織・帷子等衣服類、絹・木綿・麻等反物類、糸・綿類
  • その他 紙・蝋燭・香木・薬類・薬道具等

これらの大半は長い年月の内に使用・贈答・破損等で失われたが、それでも多くの遺品が残存している。この他に生前家臣等へ下賜したものを含めれば、他の人物とは比較にならない多種多様な遺品が伝来している。

刀剣

「駿府御分物」目録に記載された刀剣・薙刀・槍の総数は1,172点を数える。この内、目録の記述が簡略なため現存品と確認できるのは少なく100点、刀剣85点中国宝・重要文化財・重要美術品指定42点、御物4点、また名物は40点を数える。

家康は、武家の棟梁として古い名刀を蒐集し、「日光助真」(国宝、東照宮蔵)など多くの名物がその手元にあった。また、晩年の慶長19年(1614年)春には、大坂冬の陣に備えるために、伊賀守金道という刀工に1,000振りの陣太刀を急造発注し、その政治的見返りとして朝廷に対し金道を「日本鍛冶惣匠」に斡旋している[225]

一方で、家康を始めとする徳川家臣団が、戦場で使う武器として愛用していたのが、当時の「現代刀」だった伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)の刀工、千子村正(せんご むらまさ)と千子派(村正の一派)、そしてその周辺流派の作である[226]

家康自身も村正の打刀脇差を所有し、これらは尾張徳川家に「村正御大小(むらまさおだいしょう)」として伝来した[227]。脇差は大正期に売却されたが、打刀は現在も徳川美術館に所蔵され、村正に珍しい皆焼(ひたつら)刃の傑作として名高い[227]。家康がこの大小を一揃いで差し実戦で使用したのか確実なところは不明だが、少なくとも今も打刀にはわずかに疵の跡が残っている[227][注釈 62]。この「皆焼」の刃文を持つ村正は相当な稀少品で[227]、現存するのは他に短刀「群千鳥(むらちどり)」[228]や短刀「夢告(むこく)」[229]などの数点しかなく、そのいずれもが評価の高い名作とされている[229]

お膝元の駿河には村正と作風を共有する島田義助(元今川氏のお抱え刀工)がいて、六代目の義助に御朱印を与えるなど厚遇している[230]。村正と義助は直接の師弟関係ではないが、お互いの派で技術的交流を続けていたから、作風が近づくことがよくあった[229]

なお、かつては家康が村正を忌避していたという俗説があったが、現在では完全に否定されている[231][226]。村正は徳川家に祟るとする妖刀伝説が江戸時代に広く流布していたことそのものは事実(村正#妖刀村正伝説)で、村正は銘を潰されるなどの悲惨な被害を受けたが、そうした伝説は家康の死後に発生したものである[226]。徳川美術館は、家康が村正を忌避していたとするのは後世の創作、家康は実際は村正を好んでいた、と断言している[231]

妖刀伝説が広まった理由としては、以下の理由が考えられる。

  • 三河後風土記』で、家康が村正を忌避し、織田有楽斎が家康を憚って村正の槍を打ち捨てたという逸話が捏造された[232]。これは正保年間(1645-1648年)後に書かれた著者不明の偽書だが、江戸時代後期までは慶長15年(1610年)に平岩親吉が自ら著した神君家康の真実と信じられていた[233]
  • 家康の親族が村正で傷つけられたという妖刀伝説の逸話も、出処が怪しいものが多くそもそもどこまでが真実か極めて疑わしい[234]。主家の家康自身が村正を好んだように、徳川家の重臣には村正や千子派(村正派)の作を持つ者が多かった[226]。仮にそれらの傷害事件が事実としても、確率の問題でたまたま用いられたのが村正だったとしても不思議はなく[226]、また、嘘だとしても、家臣団に普及していた村正を物語に登場させるのは説得力があった。家康の村正愛好のせいで逆に忌避伝説につながった皮肉な例と言える。

甲冑

伊予札黒糸威胴丸具足
金溜塗具足
文字威胴丸具足(兜は別品)

家康所用とされる甲冑は多数伝来しており、記録伝承が確実なものだけで10領が現存する。

代表的なものとして上述の「南蛮胴具足」(下賜品含め5領、他兜のみも有)、「伊予札黒糸威胴丸具足(歯朶具足)」(2領、内1領は兜欠)[235]、「金溜塗具足」(2領)などが伝来している。

当時の武将は存在を誇示するため派手な甲冑や前立を好んでいたが、家康が大坂の陣で使用した歯朶具足は飾りが少ない漆黒の甲冑は「現代刀」と共に家康の気質を表しているとされる[236][235]。一方で、金色の「金溜塗具足」や「金小札緋縅具足」[237]、水牛の角を立物として熊毛を植えた「熊毛植黒糸威具足」[238]、一の谷と大釘を組み合わせた立物に銀箔と白糸による総白色の「白糸威一の谷形兜」[239]、華麗な姿や桐紋から当初は秀吉所用と思われた「花色日の丸威胴丸具足」[240]等派手な甲冑も多数伝来しており、実際には多種多様な甲冑を着用・所持した。

また家康は秀吉と同様に欧州に甲冑を贈っているが、オーストリアアンブラス城にある「文字威胴丸具足」は「日本の皇帝及び皇后が神聖ローマ皇帝ルドルフ2世」に贈った品と記録がある。この具足は先述の「花色日の丸威胴丸具足」や1613年に秀忠がイギリス国王ジェームズ1世に贈った甲冑等の家康やその近辺の甲冑と同一の特徴があり、1608年から1612年に家康が贈った甲冑とされる。この甲冑は胴前面と左袖に「天下」、胴後面と右袖に「太平」の文字が紅糸で縅してある[241]

衣服

目録記載の主な衣類として小袖2,746領、単物2,258領、糸490貫がある。生前の下賜品を含めた現存品は180点を超え、その種類も羽織・胴服・陣羽織・小袖・綿子・下着・カルサン・小袴・襟巻・長裃・裃・肩衣・帷子・浴衣・紙子・下帯・足袋、素材も絹・天鵞絨羅紗・革・麻・紙と多彩である。

衣類の中でも辻ヶ花の小袖は技術的・美術的にも価値が高い遺品が多く、「葵梶葉文染分辻が花染小袖」のように重要文化財に指定された品も多い。『慶長板坂卜斎記』には家康が家臣へ数多くの小袖(年間に9から14・15領)を下賜した結果、天正末から文禄に掛けて小袖が天下に広まったとして、日本衣装が結構な事は家康に始まるとして、日本建築が結構な事は秀吉に始まると対比させている。

例として「練緯地白紫段葵紋散辻が花染陣羽織」[242]は天正10年(1582年)伊賀越え時の下賜品とされ時期が判明する最も古い衣装であり、慶長15年(1610年)に下賜された「白練緯地松皮菱竹模様小袖[243]は半世紀以上後に流行した寛文小袖とする説も出た斬新なデザインである[244]。また大破した残欠を化学分析した結果、黄金色に復元された「黄金色地葵紋波兎文辻ケ花染羽織」[245]は地味と言われる家康の趣向に対する認識を大きく変えた。

蔵書

家康の駿府城中にあった文庫「駿府御文庫」に収められた蔵書は、「国内の旧記・稀覯本」は将軍家に収められ「紅葉山文庫」の基となった。残りは前述のように御三家に相続され、この内尾張家に収められた分は「蓬左文庫」の基となった。

将軍家相続分は「先代旧事本紀」・「古事記」・「釈日本紀」等国書が多く、史書・故実書が大半を占めるが、漢詩文集や漢籍(史書が殆ど)もある。これらの多くは社寺・公家・院御所等から得られたもので、概算で51部1,200冊を数える。御三家の内、目録のある尾張家の分は378部2,838冊、水戸家の分は180部907冊とされる。「駿府御文庫」の収蔵数は約1,000部7,800冊と推測され、これとは別に林羅山へ預けた分は記録がある漢籍800部に和書を加えれば1,000部になると推測される。

蔵書の分類は漢籍が8割、和書が2割とされ、学問書が多くを占めている。これらの蔵書は江戸幕府による文治政策の基礎を成したと見られる[246]










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