徳川家康 (1965年の映画) 徳川家康 (1965年の映画)の概要

徳川家康 (1965年の映画)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/12 03:29 UTC 版)

徳川家康 (山岡荘八) > 徳川家康 (1965年の映画)
徳川家康
監督 伊藤大輔
脚本 伊藤大輔
原作 山岡荘八徳川家康
製作 大川博
出演者 北大路欣也
中村錦之助
山本圭
西村晃
有馬稲子
音楽 伊福部昭
撮影 吉田貞次
編集 宮本信太郎
製作会社 東映京都撮影所
配給 東映
公開 1965年1月3日
上映時間 143分
製作国 日本
言語 日本語
配給収入 2億1500万円[1]
テンプレートを表示

同じく山岡の小説を原作としたNET(現・テレビ朝日)系列のテレビドラマ徳川家康』(1964年)で徳川家康を演じた北大路欣也が主演[3][4](クレジット上は織田信長を演じた中村錦之助=のちの萬屋錦之介がトップである)。北大路は、その後のキャリアにおいて幾度も家康を演じることとなった。

徳川家康の出生から桶狭間の戦いまでが描かれる[3]内田吐夢監督の『宮本武蔵』シリーズのように、全5部作とし、年1~2本の頻度で公開する予定だったが、当時は東映時代劇の退潮時期であり[5]、本作以降の続編は製作されなかった。監督の伊藤大輔はこの年、東映を退社した。

ストーリー

駿府を居城とし、駿の三国を領する今川義元が強大な勢力を誇っていた。西には新鋭の織田信秀が東方に進出し、西三河は東西勢力の接触点となっていた。この地域を拠点としていた岡崎と刈谷は、両勢力いずれかにつかざるを得ず、刈谷の水野下野守信元は、刈谷の姫・於大(おだい)を和睦のしるしに三州岡崎の城主・松平広忠の許へやり、今川方の松平に属した。

天文11年、於大は男子を出生、松平竹千代と名づけた。寅の日、寅の刻という奇瑞に岡崎城下は沸いた。

3歳の春、於大の父は病死し、城主となった信元は今川の勢力を脱し織田方と盟を結んだ。於大は兄の一決で織田方阿久居の城主・久松俊勝のもとに嫁いだ。病弱な広忠は如何なる運命にも耐えて、竹千代を守れと於大を送る。今川義元は伯父・雪斎禅師の進言を容れ、岡崎を織田進撃を喰い止める要路とみて、竹千代を人質に迎える旨岡崎に伝えた。弱小国・岡崎のとる道は唯一つ、竹千代は七人の侍童に守られて駿府に向かった。だが途中、田原領主・戸田弾正の寝返りで、竹千代は一千貫で織田方に売られ、侍童たちは次々と割腹した。

信元は竹千代の命と引き換えに、織田方へ加担をすすめたが、広忠は武士の意地から拒否。これを聞いた於大は熱田に向かい、吉法師(後の織田信長)のおかげで竹千代の姿を垣間見る。竹千代は「母はおらん」というが、吉法師は於大の心に激しく心を揺さぶられ、竹千代が折った金色の折鶴を於大に渡す。

天文18年、広忠が病死し、弔いにかこつけて安祥城を奇襲した岡崎勢は城主信広と交換に、竹千代を3年ぶりに三河に迎えた。それもつかの間、竹千代は岡崎を去って駿府の人質となり、三河は今川に統轄された。

10年後、吉法師は信長と名を改め、勢力を拡げ、今川方を脅す。竹千代の動静を藤吉郎を派遣し、つぶさに於大に知らせるが、信長の真意は分からなかった。竹千代も元服して元信と名を改め、義元の姪・瀬野と婚儀を結ぶ。雪斎は「お主は岡崎の者か、今川の者か」と問いつめる。

永禄3年、義元は天下統一のため上洛を決める。信長は元信の動静に眼を離すなと藤吉郎に命ずる。松平の血を継ぐ元信は岡崎譜代の家臣と自分のために切腹した7人の侍童に報いるため、大高城にこもり、織田方との戦いを避ける。信長は大高城を迂回し、桶狭間の今川の本陣に入り、義元の首をはねる。報を聞いた元信は織田軍に乗り込むと義元の首を受けたいと告げる。恨みよりも恩を返そうとする元信の心に、信長は拒否するが、かねて約束の馬を与えるといい、馬と馬がぶらさげていた義元の首を手渡す。

出演

順序は本作冒頭のタイトルバックおよび国立映画アーカイブ[6]に、役名はキネマ旬報映画データベース(KINENOTE[7])に基づく。


  1. ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』(キネマ旬報社、2012年)210頁
  2. ^ a b c 徳川家康 - 日本映画製作者連盟
  3. ^ a b c 「お正月の日本映画ご案内 EIGA CORNER 『徳川家康』」『月刊明星』、集英社、1965年2月号、239頁。 
  4. ^ 大黒東洋士「今月の話題映画はこれだ!」『月刊平凡』1965年2月号、平凡出版、198-199頁。 
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 「大川指導路線の全貌 東映独立体制の整備成る 東映事業団の成長促進の歩み 東急傘下を離れ独立独歩の姿勢」『映画時報』1964年11月号、映画時報社、28-34頁。 
  6. ^ a b 徳川家康 - 国立映画アーカイブ
  7. ^ a b c 徳川家康 - KINENOTE
  8. ^ 「日本映画製作者名鑑」『キネマ旬報』1966年3月上旬号、キネマ旬報社、34頁。 
  9. ^ “バラエティに富む東映正月番組 話題呼ぶ超大作『徳川家康』”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 7. (1964年11月14日) 
  10. ^ a b c 「東映事業中心の多角経営を促進 東映、時代に則した新機構人事」『映画時報』1964年3月号、映画時報社、24-26頁。 
  11. ^ a b c 「座談会日本映画界はどう進むべきか?―現代の経営路線に悩む各社―」『映画時報』1964年5月号、映画時報社、20-21頁。 
  12. ^ a b c d e f g h i j k 私の東映30年 1991, pp. 139–147.
  13. ^ 井沢淳・瓜生忠夫大黒東洋士・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿「〈特別座談会〉 日本映画製作批判 ーこれからの企画製作はいかに進めるべきか」『キネマ旬報』1965年7月上旬号、キネマ旬報社、16頁。 
  14. ^ 波瀾万丈の映画人生 2004, pp. 164–165.
  15. ^ a b c “【戦後史開封】(290) チャンバラ映画(5) 時代劇撤退次々去った東映スター”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 朝刊特集. (1995年3月18日) 
  16. ^ 「日本映画界の巻返しと前進 各社各様の経営戦略を探る 映画界の若獅子に試練の波 東映、岡田体制の確立急ぐ」『映画時報』1973年4月号、映画時報社、12-14頁。 
  17. ^ a b クロニクル東映2 1991, p. 36.
  18. ^ a b c 「座談会新しき企業路線に適した明日を背負う人々を探る企業役員構成を一新した東映大川社長、陣頭指揮の新体制」『映画時報』1964年12月号、映画時報社、12-16頁。 
  19. ^ 「五島東急軍団、岡田東映が16年振りに復縁 実力社長同士の『信頼』から生まれた『兄弟仁義』の一部始終」『経済界』1980年3月21日号、経済界、18 - 21頁。 
  20. ^ 由原木七朗「その日のスタア」『近代映画』1964年3月号、近代映画社、158頁。 
  21. ^ a b c d 「噂のパトロール『ライバルスタアを採点する 佐久間良子vs.三田佳子』」『近代映画』1964年12月号、近代映画社、218頁。 
  22. ^ a b c d 加東康一「BIG STAR/19 三田佳子」『映画情報』、国際情報社、1977年11月号、65-66頁。 
  23. ^ “製作界近況”. 週刊映画プレス (全国映画館新聞社): p. 2. (1964年12月5日) 
  24. ^ a b クロニクル東映2 1991, p. 5.
  25. ^ 悔いなきわが映画人生 2001, pp. 133.
  26. ^ a b c d 日本映画は生きている 2010, pp. 269.
  27. ^ a b c 「〔トップに聞く〕 岡田茂常務 東映映画のエネルギーを語る」『キネマ旬報』1969年6月下旬号、127頁。 
  28. ^ a b 「全面特集 日本映画この生きている10年史 '60の豚は'70の狼になるか 『やくざ襲撃前夜のゴールデンエージ?』 文・中島貞夫」『映画芸術』1969年10月号 No266、43-45頁。 
  29. ^ 脇田巧彦・川端晴男・斎藤明・黒井和男「映画・トピック・ジャーナルワイド版 特別ゲスト岡田茂 映連会長、東映社長、そしてプロデューサーとして」『キネマ旬報』1987年3月上旬号、キネマ旬報社、95頁。 
  30. ^ a b c 東映不良性感度路線の父 岡田茂逝去」『映画秘宝』2011年7月号、洋泉社、52頁。 
  31. ^ a b 「トップ戦後50年東映・岡田茂会長インタビュー『おもしろおかしく生きて勲二等瑞宝』」『AVジャーナル』1995年12月号、文化通信社、27頁。 
  32. ^ a b 悔いなきわが映画人生 2001, pp. 147–152.
  33. ^ 日本の映画人 2007, p. 122.
  34. ^ 「追悼特集 プロデューサー、岡田茂 不良性感度と欲望の帝王学 岡田茂論 文・高崎俊夫」『東映キネマ旬報 2011年夏号 vol.17』2011年8月1日、東映ビデオ、2-5頁。 あかんやつら――東映京都撮影所血風録 | 春日太一 | 評者 鈴木毅鈴木毅(進駸堂書店中久喜本店)『私と東映』× 神先頌尚氏インタビュー(第3回 / 全4回)金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP社、2006年、211-215頁。ISBN 4-8222-0158-9 NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した(Internet Archive)
  35. ^ a b c あかんやつら 2013, pp. 191–229.
  36. ^ a b c 「匿名座談会 如何にしてこの危機を乗り切るか 経営者は頂上作戦に大童わ 五社長も危機突破に陣頭指揮 東映王国も"新体制確立運動"展開」『映画時報』1965年8月号、映画時報社、15-17頁。 
  37. ^ a b あかんやつら 2013, pp. 208–209.
  38. ^ a b 仁義なき日本沈没 2012, pp. 102–107.
  39. ^ a b 由原木七郎「由原木七郎の日本映画スケッチ(82) (秘)エピソードでつづるあの男優この女優 萬屋錦之介 その四 東映"城"との対決」『週刊明星』、集英社、1979年5月13日号、168-167頁。 
  40. ^ a b c d 東映の軌跡 2016, pp. 564.
  41. ^ a b 浜田奈美 (2011年5月17日). “『映画は商品』持論貫く 岡田茂・東映名誉会長”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 1 
  42. ^ a b c d e f 悔いなきわが映画人生 2001, pp. 399–412.
  43. ^ 「東映・岡田茂会長インタビュー『製作配給の赤字をどう止めるか』」『AVジャーナル』1994年1月号、文化通信社、27-28頁。 
  44. ^ 『うしおそうじとピープロの時代 スペクトルマンVSライオン丸』(太田出版)


「徳川家康 (1965年の映画)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「徳川家康 (1965年の映画)」の関連用語

徳川家康 (1965年の映画)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



徳川家康 (1965年の映画)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの徳川家康 (1965年の映画) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS