後醍醐天皇 偏諱を与えた人物

後醍醐天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/26 09:40 UTC 版)

偏諱を与えた人物

※後醍醐の(実名)、「尊治」のいずれかの字を与えられた人物。

皇子
武士
  • 足利[注釈 37](※足利高氏より改名(読み変更なし))
    • 饗庭 - 別名、饗庭氏直。尊氏に近臣(寵童)として仕えて重用され、「尊」の字を賜う。
    • 吉良 - 初め義貴、のち尊氏から「尊」の字を賜う。
  • 小田[335] (※小田高知より改名)

在位中の元号

著作

陵・霊廟

後醍醐天皇塔尾陵

(みささぎ)は、宮内庁により奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾の如意輪寺内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は円丘。

通常天皇陵は南面しているが、後醍醐天皇陵は北面している。これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。軍記物語『太平記』では、後醍醐天皇は「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したとされている。また、遺言に従って「御終焉ノ御形ヲ改ス」として、火葬は行われず土葬にて埋葬されたとされる。久水俊和は土葬を裏付ける史料はないものの、天皇が崩じた場合には土葬による山陵造営が通例であるため、後醍醐天皇の崩御後も院号を付けずに「天皇としての崩御(天皇崩)」に拘った南朝が土葬後に山陵を造営した可能性が高いとしている[336]

奈良県(大和国)内に葬られた最後の天皇である。

また明治22年(1889年)に同町に建てられた吉野神宮に祀られている。

皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

後醍醐天皇が紫衣を許して官寺とした總持寺神奈川県横浜市鶴見区)には、後醍醐天皇の尊像、尊儀などを奉安する御霊殿がある。この御霊殿は、後醍醐天皇の600年遠忌を記念して、昭和12年(1937年)に建立された。

足利尊氏は後醍醐の菩提を弔うために天龍寺を造営している。また足利義政は小槻雅久や吉田兼倶といった学者の意見に従い、東山山荘(現慈照寺)の東求堂に後醍醐の位牌を安置して礼拝した[337]

伝説・創作

北闕の天を望まん

太平記』では、崩御時に「北闕の天を望まん」と徹底抗戦を望み、吉野金輪王寺で朝敵討滅・京都奪回を遺言したと描かれている。ただし史実としては、室町幕府に最大の敵意を持っていたのは腹心の北畠親房であり、後醍醐自身としてはそこまで大きな敵意を持っていた訳ではないようである(#武士への対応)。

武士への冷遇

軍記物太平記』では、後醍醐天皇は武士に対して冷淡な人物として創作された。

たとえば、流布本巻12「公家一統政道の事」では、鎌倉武士の特権階級である御家人身分を撤廃、武士はみな奴婢雑人のように扱われるようになった、という[222]。ただし、歴史的事実としてはこれと反対で、後醍醐天皇が御家人制を廃止した理由の一つは、彼らを直臣として取り立てるためであった(『結城錦一氏所蔵結城家文書』所収「後醍醐天皇事書」)[注釈 38][62]

また、同巻では、後醍醐天皇は身内の公家・皇族を依怙贔屓し、彼らに領地を振る舞ったため、武士に与えられる地がなくなってしまった、という[222]。ただし、歴史的事実としては、側近の北畠親房が『神皇正統記』において「後醍醐天皇は足利兄弟を始めとする武士を依怙贔屓し、彼らに恩賞を配りすぎたため、本来貴族・皇族に与えるべきであった土地さえなくなってしまった」と批判しており、全くあべこべである[206]

また、同巻では、身内の皇族を依怙贔屓した実例として、元弘の乱で失脚した北条泰家の所領をすべて実子の護良親王に与えたことが記されている[222]。ただし、歴史的事実はこれと異なり、新田氏庶流で足利氏派閥の武将岩松経家に対しても、複数の北条泰家旧領が与えられている(『集古文書』)[338][339][340]

愛刀

太刀〈銘雲生/〉(重要文化財東京国立博物館蔵)、雲生は後醍醐天皇の御番鍛冶という説が江戸時代にあったが、後に否定されている

江戸時代後期、山田浅右衛門吉睦の『古今鍛冶備考』(文政13年(1830年))が語る伝説によれば、後醍醐天皇は鵜飼派(うかいは、宇甘派、雲類(うんるい)とも)の名工の雲生(うんしょう)・雲次(うんじ)兄弟が打った太刀を愛刀としていたという[341]。鵜飼派は、備前国宇甘郷(うかいごう/うかんごう、岡山県岡山市北区御津)で、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した刀工流派である[341]。雲生と雲次は初め、長船派の鍛冶で、それぞれ国友と国吉という名前だったが、元亨年間(1321年 - 1324年)に入京し、後醍醐天皇の勅命で太刀を鍛刀することになった[341]。そこで、天に対して、帝の叡慮に叶うような名剣が作れるように祈っていると、ある夜、浮雲を模した刃文を焼いた夢を、兄弟揃って見た[341]。そこで、夢の通りの刃文を試してみると、比類ない見事さだった[341]。兄弟が太刀を献上する時に浮雲の夢の話を後醍醐天皇にしてみたところ、帝は感じ入って、国友に「雲生」の名を、国吉に「雲次」に名を下賜した[341]。そして、兄弟は長船派から独立して、新しく鵜飼派を立てたのだという[341]

しかし、そもそも後醍醐天皇即位以前から「雲生」銘の刀があるため、この伝説は実証的に否定される[341]。刀剣研究家の福永酔剣は、このような伝説は『古今鍛冶備考』以前に見当たらないことを指摘し、山田浅右衛門自身による創作であろうと推測した[341]

みたらし団子

みたらし団子

伝承によれば、後醍醐天皇が京都市左京区下鴨の下鴨神社に行幸した際、御手洗池(みたらしいけ)で水を掬おうとしたところ、1つの大きな泡が出てきて、続いて4つの泡が出てきた[342]。この泡を模して、串の先に1つ・やや間をあけた4つの団子を差して、その水泡が湧いた様を団子にしたのが、みたらし団子の起源であるという[342]

妙福院宮

大鹿村の伝説によると、後醍醐天皇の10子に妙福院宮という人物がいたとされる。宮は応永4年7月7日に大鹿村で亡くなり、その墓は大鹿村釜沢の大嶋山にあるとされる[343]


注釈

  1. ^ 皇位継承が発生した年代順。後醍醐天皇は4回の皇位継承を行っており、そのうち光厳と光明の践祚は当初は後醍醐の意志でなく、それぞれ後伏見上皇と光厳上皇の詔で行われたものを追認したものである(その後再度否定)。また、『太平記』などに見える恒良親王の皇位継承も、恒良親王の「綸旨」が存在することから事実であるとされる。
  2. ^ 後醍醐天皇皇子のうち、上の三人の長幼について、定説では尊良親王を一宮(第一皇子)とし、その次に世良親王護良親王と続く。しかし、護良親王を一宮とする説もある。詳細は尊良親王#誕生および護良親王を参照。
  3. ^ ただし、本文記述するとおり、持明院統北朝側の主張としては在位途中に2度の廃位譲位を経ている。
  4. ^ 室町幕府を創設した初代征夷大将軍足利尊氏は、後醍醐天皇を心情的にも政策的にも肯定した(#足利尊氏からの評価)。尊氏の腹心として改革を行った幕府初代執事高師直は、後醍醐の政策の多くを方向性は正しいと認め、非効率的な部分に改良を加えた上で幕府に採用した(亀田俊和説)[7]。後醍醐崩御後に南朝の実権を握った准三宮歴史家思想家北畠親房は、人材政策面で後醍醐に苛烈な批判を展開しつつも、学芸の振興については高い評価を与え、また宗教政策・訴訟制度改革についても賞賛し、総評としては名君としている(#北畠親房からの評価)。また、親房は思想上は後醍醐の人材政策を嫌悪したが、実務上はその人材政策を積極的に採用している(同節参照)。
  5. ^ 光明寺残篇」「梨本青蓮院両門跡の竹園はこれを捕り奉るべし、彼の門跡方の事に於いては、諸事大塔二品親王の下知を相伺うべし、違勅の北嶺法師等は、仰せ下ささるの交名に任せ、時剋を廻らさず追罰すべし」
  6. ^ 『梅松論』「宮の御謀叛、真実は叡慮にてありしかども、御科を宮に譲り給ひしかば、鎌倉へ御下向とぞ聞えし。宮は二階堂の薬師堂の谷に御座有りけるが、武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふと御独言有りけるとぞ承る。」
  7. ^ 『太平記』巻第十六「円心不肖の身を以て、元弘の初大敵に当り、逆徒を責却候し事、恐は第一の忠節とこそ存候しに、恩賞の地、降参不儀の者よりも猶賎く候し間、一旦の恨に依て多日の大功を捨候き。乍去兵部卿親王の御恩、生々世々難忘存候へば、全く御敵に属し候事、本意とは不存候。所詮当国の守護職をだに、綸旨に御辞状を副て下し給り候はゞ、如元御方に参て、忠節を可致にて候。」
  8. ^ 『太平記』巻第十六「(中略)手の裏を返す様なる綸旨をば、何かは仕候べき。」
  9. ^ 後醍醐天皇即位前後の記録所は、朝廷の問題から土地に関する民事まで幅広い訴訟に対応した。
  10. ^ 一方、細川重男は、後醍醐天皇が尊氏を寵遇したのは、「駒」の一つとしてであり、心の底からのものではなかったのではないか、としている[69]
  11. ^ 足利尊氏寄進状建武2年(1335年3月28日付(『神奈川県史』資料編3所収)[75]
  12. ^ 「将軍足利尊氏寄進状案」「将軍足利尊氏御教書案」(『神奈川県史』資料編3所収)、「惟賢灌頂授与記」(『鎌倉市史』史料編1所収)[75]
  13. ^ 建武年中行事』「行末のかゞみまではなくとも、おのづから、またその世にはかくこそ有けれ、などやうの物語のたよりには成なんかし」[86]
  14. ^ 例外の2回は、華厳宗の俊才に対する「俊才国師」と、浄土宗の如一に対する「如一国師」(なお、内田 2010の本文では如一が臨済宗と誤植されている)[92]
  15. ^ ただし、この時期の治天の君後宇多法皇である[1]
  16. ^ 保立道久は、さらに北畠親子北畠師親の娘)の大徳寺への寄進と、後醍醐・親子の子とされてきた天台座主・尊雲法親王(護良親王)との関係について論じている[103]。しかし親子は護良の母ではないという説もあり(護良親王#誕生)、詳細は不明。
  17. ^ なお、岡野友彦は、後醍醐天皇と度会家行の間の良好な関係に加えて、「法楽舎」(中世の伊勢神宮に置かれた仏教施設)へは村上源氏支配の強い醍醐寺から僧侶が送られることが多かったことを指摘し、北畠家が村上源氏の一員であることも、北畠親房が伊勢神宮に地盤を築くことに間接的に寄与したのではないか、と述べている[115]
  18. ^ なお、佐藤進一の『南北朝の動乱』(1965年)など古い研究書では、親房は前もって伊勢神道を身につけており、その(親房自身の)縁で家行を頼ったのだと解説されていた[116]。しかし、白山芳太郎の『北畠親房の研究』(1998年)は親房の思想形成史を調べ、伊勢下向以前に親房が伊勢神道を学んだことはないと結論付けており、岡野友彦も白山説を支持している[116]
  19. ^ 延喜・天暦の治醍醐天皇から村上天皇の治世である897–967年のこと。14世紀の人間はこの頃を日本の最盛期と考えていた。
  20. ^ 昭和初期、平泉澄によってこの綸旨が後醍醐天皇自筆であることは既に指摘されていたが(『建武』8巻1号、昭和18年)、第二次世界大戦後、皇国史観への反動から平泉の学説と業績が忘れ去られると共に、この史料も長く埋もれていた[161]
  21. ^ 伝・仁徳天皇御歌「高き屋に 登りて見れば 煙立つ 民のかまどは にぎはひにけり」(『新古今和歌集』賀・707)
  22. ^ 源実朝「時により 過ぐれば民の 嘆きなり 八大竜王 雨やめたまへ」(『金槐和歌集』)[165]
  23. ^ 藤原資忠「旅寝する 庵を過る むらしぐれ なごりまでこそ 袖は濡れけれ」(『千載和歌集』羇旅・539)
  24. ^ 読人知らず「美作や 久米のさら山 さらさらに わが名はたてじ 万代までに」(『古今和歌集』巻20)[176]
  25. ^ 西行法師山家集』「惜しめども 思ひげもなく あだに散る 花は心ぞ 畏かりける」(121)
  26. ^ 藤原公衡「行末の おぼつかなさや 立ち返り この世にとまる 心なるらん」(『続拾遺和歌集』雑中)[179]
  27. ^ 伝・天武天皇「をとめごが をとめさびすも からたまを たもとにまきて をとめさびすも」[189]。珣子を本物の天つ乙女(天女)に喩えると共に、天つ乙女に模した「五節舞姫」に選ばれた女性は、平安時代には天皇の正妃になることもあったので(清和天皇女御藤原高子など)、両方の意を含んでいる。
  28. ^ 『新葉和歌集』では、第2句が「思出(おもひいづ)や」(思い出すこともあるのだろうか)となっている[190]
  29. ^ 古今著聞集 』「和歌第六」:「後鳥羽院の御時、木工権頭孝道朝臣に、御琵琶をつくらせられけるを、世かはりにける時、やがてその御琵琶を、彼の朝臣にあづけられたりけるを、程経て御尋ありければ、御琵琶につけて奉りける。ちりをだに すゑじと思ひし 四の緒に 老のなみだを のごひつるかな」[196]
  30. ^ 「緒」と「絶つ」は、和歌における縁語である[194]。内容だけではなく、和歌の技巧的にも、禧子の歌の詞「四つの緒」に意識的に寄り添うものとなっている。
  31. ^ 紫式部源氏物語』「きもあへず もろき涙の 玉の緒に 長き契りを いかが結ばむ」(総角)
  32. ^ 鎌倉幕府では、官位が恩賞として与えられることはなく、その代わり、成功(じょうごう)といって、寺社に献金し、その見返りに官途奉行が任官を朝廷に推薦する、という手続きが、武士が官位を獲得する上で一般的だった[63]
  33. ^ 原文:「天下之重事、言語道断之次第也、公家之衰微不能左右、愁歎之外無他事、諸道再興、偏在彼御代、賢才卓爍于往昔、衆人不可不悲歎者歟」[215]
  34. ^ 後醍醐天皇の第二皇女である宣政門院(懽子内親王)は光厳上皇の妃で、光明天皇も上皇の猶子であるため、宣政門院と光明天皇の間には母子の関係が成立するという見解に基づく。
  35. ^ ただし宋朝型独裁君主説の主要な論者である佐藤進一自身は、当時宋銭の普及によって貨幣経済が広まりつつあったことを指摘し、その後押しを図る紙幣発行計画には現実的な面もあったとして、ある程度高く評価している[234]
  36. ^ 新千載和歌集』夏・194および195、『新千載和歌集』春下116・117、『新葉和歌集』雑下・1294および1295[198]および『増鏡』「久米のさら山」[194]
  37. ^ 太平記』巻十三「足利殿東国下向事付時行滅亡事」に「是のみならず、忝も天子の御諱の字を被下て、高氏と名のられける高の字を改めて、尊の字にぞ被成ける。」とある。但し、実際の改名時期については『公卿補任』(新訂増補国史大系本)や『足利家官位記』(『群書類従』第四輯所収)が示す元弘3年/正慶2年(1333年)8月5日が正確とされる[334]
  38. ^ 吉田賢司の指摘[344]による[62]

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