弘前藩 幕末の領地

弘前藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 02:59 UTC 版)

幕末の領地

弘前藩は、明治維新後に、いったん開拓使直轄領となった後志国島牧郡の一部が再び所領に加わった。

藩邸

  • 弘前藩の藩邸(上屋敷)は本所二ツ目(現在の墨田区三丁目北斎通り)。地下鉄両国駅方向に進むと「北斎美術館」がある。
  • 中屋敷は向柳原(現在の台東区鳥越一丁目)にあったが、文政10年(1827)閏(うるう)6月に戸越(現在の品川区戸越一丁目)に移された。[20]。敷地は約六千坪。
  • 下屋敷は日本橋(現在の中央区日本橋浜町二丁目)。今は浜町公園となっており、公園の敷地内にはほかに一橋徳川家、牧野家などの屋敷があった。

説経節『さんせう太夫』

津軽地方の山岳信仰の対象である岩木山には「山椒大夫」(安寿と厨子王丸)に登場する安寿が祀られている。

説教節では安寿は拷問によって非業の死を遂げるが、彼女を酷使して殺害した山椒大夫・山岡太夫らはいずれも丹後国の者であったため、弘前藩領に[丹後の人間が入ると安寿の怨霊によって災害が起こって人々を苦しめるとされた。江戸時代末期になってさえ、弘前藩では丹後の住人を忌避した。これは「丹後日和」と呼ばれた。天明8年 (1788年) 7月、江戸幕府巡見使の一員として弘前藩内に入った古川古松軒は、7月15日の日記に「丹後日和」のことを記録している[21]。これによると、丹後の人が弘前藩内に入ると天候が荒れ災いが生ずるとされ、故に丹後の出身者は領内に一人もいない、というものだった。また同じ著述により、幕府巡見使の江戸出発に際して、幕府に対し津軽藩から一行の中に丹後出身者がいるか否かの照会があり、万一いた場合は構成員から除外して欲しいとの要望が出され、該当の人は一行から外されたと記録されている。古松軒自身は、丹後日和を妄説であると述べているが、津軽藩から要請された幕府はそれを拒否しなかった。[22]これは藩の公式の記録にも残っている。

弘前藩が自らの苛政を隠蔽し、領民の不満を丹後人に向けて逸らせようとする策であったとする説がある[23]

津軽藩の獣害対策

津軽藩の特徴的な政策の一つとして獣害対策がある。これは狩猟に長けた本州アイヌやマタギを士分に取り立て、等を狩りつくして領民を獣害から守ったという。この政策により江戸時代は津軽半島から獣が絶滅近く減少した代わりに、獣害は数える程しか存在しなかったと言われている。


注釈

  1. ^ 山口県文書館 には山鹿素水の漢詩を書いた掛け軸が収蔵されている[16]

出典

  1. ^ 観光施設「津軽藩ねぷた村」など。
  2. ^ 津軽家文書『御日記方編』(弘前図書館蔵)
  3. ^ 『前代暦譜』
  4. ^ 『弘前市史』
  5. ^ 南部根元記
  6. ^ 赤穂藩の宗家である広島藩浅野家は素行が批判した朱子学を藩学とした。(朱子学以外の素行の古学などの教授は講学所への出入りが禁じられた。浅野家の講学所は、現在の修道中学校修道高等学校
  7. ^ 津軽藩の支藩(分家)である黒石藩(当時は大名ではなく旗本)の当主・津軽政兕は、事件直後に真っ先に家臣らと吉良邸に駆けつけ、義央の遺体を発見したと伝わる。松浦静山甲子夜話』にも類似の記述あり。
  8. ^ 津軽家文書『弘前藩庁日記』(国文学研究資料館ほか)
  9. ^ 『山鹿語類』には「主のために命を棄つるは愚かなり」「諫めても改めぬ主君なら臣より去るべし」と「士は二君に仕える」を肯定する箇所があり、素行自身も実践している。(『山鹿語類』君臣論)
  10. ^ 津軽信建は関ヶ原で三成の遺児・石田重成と荘厳院を救出、弘前藩主には石田三成の血をひくものがおり(津軽信義・津軽信政など)、浅野氏はその三成を襲撃した七将のひとりでもある。
  11. ^ 大石無人の次男の良穀も津軽家に仕えるをよしとせず出奔し、讃岐国高松藩松平家に仕官している。半稲独言集3『津軽兵庫の越境顛末 四代藩主信政治世の裏面史』(田澤正、北方新社、2007年)。
  12. ^ 明治政府『旧高旧領取調帳』
  13. ^ 同『各藩高並租税調帳』及び『藩制一覧』明治2年旧暦6月12日(1869年7月20日)
  14. ^ 「弘前候の厄、聞くも憂うるばかり也」と数頁にわたり同情が寄せられ、津軽氏は尊称だが、南部氏は呼び捨てになっている(松浦静山「甲子夜話続篇」 巻九十六、二三話「弘前候 逼塞の事 南部の話」)
  15. ^ 【おもてなし魅せどころ】弘前忍者屋敷(青森県弘前市)身隠す仕掛け、特命に思い『日経MJ』2021年3月22日(観光・インバウンド面)
  16. ^ 吉田松陰関係資料 > 山鹿素水詩文”. 山口県立山口図書館・山口県文書館 (1851年). 2020年2月8日閲覧。
  17. ^ 『乳井貢全集』(「志学幼弁」「五虫論」「王制利権方睦」など)
  18. ^ 「当主・晋様が御廟所参拝」(広報あじがさわ、2013年3月号)
  19. ^ 国道101号 大間越 青森県幹線道路協議会(2021年5月3日閲覧)
  20. ^ 『文政戸越村絵図』では「津軽大隅守」と記される(「品川区史」附図より )
  21. ^ 『日本庶民生活史料集成 三』所収「東遊雑記」三一書房 1969年1月
  22. ^ 長谷川成一:近世津軽領の「天気不正」風説に関する試論『弘前大学大学院地域社会研究科年報』5, 2008年,p.134-154
  23. ^ 小説家・八剣浩太郎の所論(『歴史読本』第22巻第11号「特集 怪奇日本77不思議」)。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「弘前藩」の関連用語

弘前藩のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



弘前藩のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの弘前藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS