広田弘毅 逸話

広田弘毅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/01 14:23 UTC 版)

逸話

福岡市にある広田の銅像
  • 「石屋の倅から総理大臣へ」としばしば言われるように、立身出世した。現在の国会議事堂は広田が首相の当時の1936年(昭和11年)に「帝国議会議事堂」として完成しており、現在の議事堂に初めて登壇した首相でもある。
  • 戦前唯一の福岡県出身の首相であり、2008年(平成20年)に麻生太郎が就任するまで唯一の福岡県出身首相であった。
  • 福岡市中央区福岡市美術館前に広田の銅像が設置されている。この像は玄洋社最後の社長であり、戦後には福岡市長を務めた進藤一馬の呼びかけで建立された。
  • 首相・外相としては批判されることの多い広田であるが、大使時代の外交官としての能力や評価は高く、東京裁判でのオランダ出身のベルト・レーリンク判事の広田無罪論に結びついた。レーリンクは1977年に発表した著書で、国際連合で後に広田弘毅の外交が世界のルールになったことに触れ、広田弘毅が有罪で死刑になったことは間違っていたと語っている[44]
水鏡天満宮鳥居の題額
石碑「水鏡神社」
  • 能筆家であり、福岡市天神の水鏡天満宮鳥居の題額は小学校の時、日清戦争戦勝を祝して建立された石碑「水鏡神社」は、広田が17歳のときに揮毫したものである(各右画像参照)[注釈 16]
  • 重光葵によると、広田は巣鴨プリズン収監中に受けた揮毫の依頼には何十篇でも「物來順応 弘毅書」と書き、まるで自身の経文であるかのようで筆跡も見事なものだったという[45]
  • 前記のように名門出身でないことから色々と苦労した広田だが、首相時代に江戸時代の身分ではさらに下になる全国水平社出身の衆議院議員松本治一郎から「(被差別部落民に対する)差別観念の撤廃には華族制度の廃止が不可欠」と質問され、「華族制度は宮内省の管轄[注釈 17]なので答弁を差し控えたい」と答えたことがある。
  • 巣鴨拘置所に自由に出入りし得た唯一の日本人である花山信勝の著『平和の発見-巣鴨の生と死の記録』によると花山が絞首刑前の感想を求めたところ「すべては無に帰して、言うべきことは言ってつとめ果たすという意味で自分は来たから、今更何も言うことは事実ない。自然に生きて自然に死ぬ」と言い、後に評論家・唐木順三はそれを引き「東條らと比べ虚飾がなく態度ができている」と評した。
  • 処刑に際し、先に執行された東條らの万歳三唱について「いま、『マンザイ』をやっていたのでしょう」と日本人で唯一立ち会いが許された僧の花山に問いかけたとされる。漫画家小林よしのりは自著『いわゆるA級戦犯』の中で「単なる駄洒落ではないか」との説を提唱している。また小林も引用している城山三郎の『落日燃ゆ』では「文官の自分が処刑されるのは漫才のようなもの」との皮肉を込めたと、終戦後にも関わらず万歳をした東條らへの皮肉とも受け取ることができる描写がされている。また、後から処刑執行された広田らの組も万歳をしたが、城山三郎は、広田は万歳に加わらなかったと書いている。しかし現場にいた花山は、一同で万歳三唱したと書いており、作家の城山三郎が小説「落日燃ゆ」で記述したことについて2019年の講演で「広田さんも一緒に天皇陛下万歳と大日本帝国万歳を三唱された。作者の誤解にすぎない」と明確に否定している[46]
  • 次男が旧制高校に2浪して落ち三男と一緒に早稲田予科を受けたが、三男が受かって次男が落ち自殺している(自殺後に、補欠合格の通知が届く)。
  • 後輩外交官の杉原千畝は、長男に弘樹(読みはひろき)と命名するほど広田を尊敬していた[47]

注釈

  1. ^ 広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』などでは正式な社員とならなかったとしており、『落日燃ゆ』などでも踏襲されているが、服部龍二は玄洋社記念館の館報『玄洋』第2号の記述から広田が正式な社員になったとしている(服部、4-6、16p)。また東京裁判開廷前のキャルプーン・フェルプス大尉による尋問では「イギリスから帰ったとき青年教育のために入社するよう求められ、改めて社員になった」と供述している(服部、229-230p、『国際検察局尋問調書』第28巻よりの引用)。
  2. ^ 伊藤博文原敬を代表するように、明治以降は業績主義が徹底していたが、首相は士族や富農の出がほとんどである。
  3. ^ この人物たちが陸軍にとって好ましくない理由としては、吉田茂は重臣である牧野伸顕の女婿であるため、川崎卓吉は内相なのに党人であったため、小原直は天皇機関説に対して厳格な態度をとらなかった人物であったため、下村海南は東京朝日新聞の副社長であったため、中嶋知久平は軍需産業に関係があり、政党に資金を出していたためであった。
  4. ^ 総辞職直前の閣議前に、「閣議で陸海軍大臣が論争するようなことがあっては面白くない」と西園寺の秘書原田熊雄に語っている。(服部、145p、原田熊雄『西園寺公と政局』よりの引用)
  5. ^ 広田弘毅の訓電を受けた日高信六郎は7月17日夜、王寵恵外交部長を訪ねて公文を手渡し「日支間の平和を維持するためには、何はともあれ7月11日の現地停戦協定を実行して事件の拡大を阻止することが最緊要である。また現地におげる日支両軍の兵力は、日本側が比較にならぬほど少ない(支那駐屯軍・5774名)ものであるから、事件の勃発以来、現地の事態が切迫したために日本側では居留民の保護を十分にするためだけ ではなく、駐屯軍の安全のためにも増援部隊を送る必要に迫られているのである。従ってまず、現地で停戦協定を実行して空気を緩和することが重要である。こういう時に当たって南京政府が北支に増兵することは事態拡大の危険性をもっとも多く含むものである。ゆえに現在、盛んに北上しつつある国民政府・中央軍を速やかに停止して欲しい」と述べた。これは英訳して「在南京の英米大使」にも送られた。
  6. ^ この時有田に対し「黙っていても、上海に来ている、南京側の者をはじめ、いろいろな人が、自然君に接近してくるだろう。そんなところから蔣介石との交渉の端緒をつかみたいと思っている」と語っている。服部、164p(有田八郎『馬鹿八と人はいう』より引用)
  7. ^ 広田とディルクセンは同時期に駐ソ大使を務めており、両者の間には交友があった。
  8. ^ 尋問調書が米国の国立公文書館に保存されている。以下、内容については2007年8月13日放送のNHKスペシャル「A級戦犯は何を語ったのか ~東京裁判・尋問調書より~」による。尋問調書は英文で180ページに及ぶ。
  9. ^ 当時駐華大使館の参事官であった日高信六郎は閣議に持ち出すことは「逆効果であったろう」として、広田が最も有効な手段をとったとしている。服部、184-185p(広田弘毅伝記刊行会編『広田弘毅』よりの引用)
  10. ^ 木戸は裁判で終身刑になっている。ただし、木戸が弁明に努めた背景には、「天皇側近の木戸に対する判決は天皇への判決に等しい意味を持つ」と木戸らが見ていたこともある。
  11. ^ 特に多かったのが郷里である福岡での7万2千、東京での3万人。
  12. ^ 広田自身は息子を通して、嘆願書は絶対に出してはいけないという声明を出した。
  13. ^ 東條英機の孫娘・東條由布子も「東條英機は不当な東京裁判の犠牲者であり、英霊として靖国神社に祀られるべき。分祀には絶対反対」と述べている。
  14. ^ 広田は閣議で「犠牲を多く出したる今日、斯くの如き軽易なる条件を以ては之を容認し難き」と述べている。175-176p(『支那事変戦争指導史』よりの引用)。
  15. ^ トラウトマン工作提示の際に、広田は戦争が継続される場合にはこの条件ははるかに加重されるであろうと強調した(「日独伊三国同盟の研究」85・86ページ)。
  16. ^ 長らく、「天満宮」の扁額が広田11歳の筆になるものと言い伝えられてきた。水鏡天満宮外の説明板には小学校1年生の時に「天満宮」の扁額を書いたと記されている。
  17. ^ 当時の宮内省は内閣から独立していた。

出典

  1. ^ 服部、13-14p
  2. ^ 服部、16p
  3. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員3頁
  4. ^ 『第一高等学校一覧(自昭和16年至昭和17年)(附録)』(第一高等学校編、1941年)83頁
  5. ^ 『東京帝国大学一覧(從大正7年至大正8年)』(東京帝国大学、1919年)学士及卒業生姓名119頁
  6. ^ 服部、17p
  7. ^ 服部、17-19p
  8. ^ 服部、22-23p
  9. ^ 永松浅造『新日本の巨人を語る : 人間・広田弘毅(他三編)』(森田書房、1936年)34p
  10. ^ 服部龍二『広田弘毅―「悲劇の宰相」の実像』中央公論新社、2008年6月1日、42頁。ISBN 978-4121019516 
  11. ^ 広田外相は玄洋社出身の硬骨漢『大阪毎日新聞』昭和8年9月15日(『昭和ニュース事典第3巻 昭和6年-昭和7年』本編p244 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  12. ^ 服部、75-80頁
  13. ^ 服部、93-94p
  14. ^ 服部、96-97p
  15. ^ 外務省『日中歴史共同研究』https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html 戸部良一「第2部第1章:満洲事変から日中戦争まで 」https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf
  16. ^ 服部龍二は天皇の発言をこの問題をふまえたものではないかとしている。服部、190-191p
  17. ^ 昭和19年10月6日『毎日新聞』7面「国事に尽くした90年、無官の国士逝く」広田弘毅
  18. ^ 服部、137-139p
  19. ^ 『官報』第3121号、昭和12年6月1日。
  20. ^ 服部、156-160p
  21. ^ 服部、161p
  22. ^ 服部、175p「北平大使館記録」よりの引用
  23. ^ 服部、190-191p
  24. ^ 服部、201-202p
  25. ^ 服部、204p(原田熊雄『西園寺公と政局』第八巻よりの引用)
  26. ^ 服部、
  27. ^ 服部、211-212p(昭和天皇の発言は『昭和天皇独白録 寺崎英成・御用掛日記』よりの引用)
  28. ^ 「泰へ同盟慶祝答礼使節 特派大使、広田弘毅氏 補佐に矢田部全権大使 近く出発」『大阪毎日新聞』1942年6月21日付。神戸大学経済経営研究所「新聞記事文庫」収録
  29. ^ 服部、215p(『玄洋』14号、末永信夫『広田先生と浩々居時代の私』よりの引用)
  30. ^ 長谷川毅『暗闘(上)』中公文庫、2011年、p225 - 227
  31. ^ 服部、225p(『昭和天皇独白禄 寺崎英成・御用係日記』よりの引用)
  32. ^ 米戦略爆撃調査団、近衛・木戸らを招致『朝日新聞』昭和20年11月22日(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p340 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  33. ^ 梨本宮・平沼・広田ら五十九人に逮捕命令『朝日新聞』昭和20年11月20日(『昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年』本編p341)
  34. ^ 服部、232-233p(『国際検察局尋問調書』第28巻よりの引用)
  35. ^ 『秘録東京裁判』中央公論社、93-97頁。 
  36. ^ 服部、256-262p
  37. ^ アメリカ占領下の日本 第3巻 東京裁判 企画・制作:ウォークプロモーション NPO法人科学映像館
  38. ^ 服部、259-265p
  39. ^ 山崎晴一 『文藝春秋』昭和24年10月号 「鬼検事キーナン行状記」
  40. ^ 竹内正浩『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』(実業之日本社、2017年)p.57
  41. ^ “東京裁判で処刑された唯一の文官、広田弘毅元首相の孫・弘太郎さん語る 「評価は歴史がする」”. 産経新聞 (産経新聞社). https://www.sankei.com/article/20151231-HCDQLUNX5VOYZNSDQLVGRKO2VA/3/ 
  42. ^ 服部、155p(石射猪太郎『外交官の一生』よりの引用)
  43. ^ 服部、194-195p(『猪木正道著作集』第四巻、岩見隆夫『陛下の御質問 昭和天皇と戦後政治』よりの引用)
  44. ^ ベルト・レーリンク『レーリンク判事の東京裁判―歴史的証言と展望 』1996年
  45. ^ 『巣鴨日記』(「文藝春秋」昭和27年(1952年)8月号掲載)より。
  46. ^ 東条英機らA級戦犯の最期、克明に 教誨師が講演で語る(京都新聞)”. Yahoo!ニュース. 2019年12月23日閲覧。
  47. ^ 渡辺勝正『決断・命のビザ』大正出版、1996年、p258
  48. ^ a b c d e f 『人事興信録 第8版』(人事興信所、1928年)ヒ67頁
  49. ^ 『人事興信録 第14版 下』(人事興信所、1943年)ヒ68頁
  50. ^ 北川晃二『黙してゆかむ 広田弘毅の生涯』(講談社、1975年)212-213頁
  51. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 広田弘毅特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11114445800 
  52. ^ 『官報』第7076号「叙任及辞令」1907年2月2日。
  53. ^ a b 『官報』第2031号「叙任及辞令」1933年10月6日。
  54. ^ a b c d e f g h 法廷証第108号: 廣田弘毅關スル人事局履歴書』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  55. ^ 『官報』第3041号「叙任及辞令」1937年2月24日。
  56. ^ 『官報』第8454号「叙任及辞令」1911年8月25日。
  57. ^ 『官報』第1846号「叙任及辞令」1918年9月27日。
  58. ^ 『官報』第4038号「叙任及辞令」1926年2月12日。
  59. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  60. ^ 谷正之外二十五名」 アジア歴史資料センター Ref.A10113476800 






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