広島東洋カープ 球団の歴史

広島東洋カープ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/25 08:17 UTC 版)

球団の歴史

球団創設

1949年
正力松太郎二リーグ構想の前から広島に球団を作ろうという構想は存在していた[10][12][19]。広島は昔からスポーツが盛んで[20]、特に野球に熱狂的な土地柄[21][22][23]。戦前から広島商広陵中呉港中といった名門校があり、鶴岡一人白石勝巳藤村富美男などの名選手を輩出した野球王国という下地があった[9][10][24][25][26]
正力の二リーグ構想が公に出た4月から[10][27][28]、4か月後の8月中旬、中国新聞社東京支社長・河口豪は、東京支社から広島本社に帰る車中で、郷土の有力者、広島電鉄専務・伊藤信之、広島銀行副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の3名と顔を合わせた[29]。四人の話題はプロ野球の話に終始。広島は被爆後の闇市時代が続き、青少年の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が...と四人の意見が一致し、話が一挙に飛躍した[13][29][30]。河口は戦後、カープ誕生の前に広島でプロ野球の興行を手掛けた経験があり[注 4]、三人は河口に基本的な計画を立てるように依頼して別れた。3日後、銀座の東京支社に帰った河口のもとに広島二区選出の衆議院議員谷川昇金鯱軍代表の広島県人・山口勲が訪ねてきて、「谷川さんを中心に、広島にプロ球団を作ろうと思って相談に来たんですよ」と話した[30]。谷川は当時公職追放中で公務からは外されていた[12]。谷川は元々サッカー選手で野球とは無縁だったが[10]、山口に助力を要請され[31]、自身の名誉回復は二の次で、何より「故郷にプロ球団を創りたい」という情熱で動いていた[12][32]。先に伊藤らから賛同を得ていたこともあり、話はスムーズに進み、谷川を中心とした青写真作りを開始した[29]。谷川は実務は河口と山口に任せて、ニックネームの想を練った[29]。アトムズ、ブラックベア、レインボー、ピジョン、カープを有力候補としたが、は出世魚であるし、鯉のぼりは躍進の姿、太田川は鯉の名産地で広島城が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、と「広島カープ」と名付けた(詳細は後述)。谷川の要望で、中国新聞社が近く生まれる広島カープの宣伝を一手に引き受けることになり、河口の打診したところ中国新聞社代表取締役・築藤鞆一が大賛成した[29]
9月28日、中国新聞紙上に初めて「広島カープ (Hiroshima Carp)」という五文字が一般にお目見得した[29]。「チーム名は"鯉" 広島プロ球団誕生か」という見出しで、「チーム名はカープ(鯉)と決定した」と書かれた[28][29]。翌9月29日の同紙に「広島市にフランチャイズをおく広島野球クラブ・カープ(鯉)の創設は急速に進み、9月28日午後、谷川昇、築藤鞆一(中国新聞社代表取締役)、伊藤信之(広島電鉄専務)の3氏[注 5]連名をもって正式に日本野球連盟に届け出が行われた」と書かれた[28][33][29]。11月28日に谷川は巨人軍代表と会見し、正式にセ・リーグ参加承認の通知を受けた[注 6]。河口が早稲田大学出身のため、早大OBの伊達正男に監督を依頼するつもりでいたが[19]、中国新聞の記事を読んだ大陽ロビンス監督石本秀一が「郷里の球団で是非とも最後の花を咲かせたい」と河口に売り込みに訪れ[19][29]、郷土チームにうってつけの監督と、一も二もなく12月3日、初代監督に石本の就任が決定した[10][29][34]。この時、石本は「私が大陽の二軍選手をそっくり連れて行く。チーム作りに心配はかけません」と言うので[29]、チーム作りは石本に一任した[35]。石本の監督就任ニュースは大きな反響を呼んだ[29]。当時の既存チームの主力には広島出身者がたくさんいたため[9]、広島県民は「みんな帰って来たら強いチームが出来るだろう」ぐらいに考え、選手集めには楽観視していたといわれる[9]。設立資金は、広島県と広島市、福山市など県内の各市で出すことにした[35]。本拠地は広島総合球場とした。
核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく[注 7]、12月5日に広島商工会議所で開かれた球団発会式に参加し石本は、この時点で契約選手が1人もいない事実を知った。大陽ロビンスが松竹から資金援助を受け松竹ロビンスになるために、二軍選手の放出をストップしたからである[29]。球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかった。石本は広島出身選手に「みんな、広島に帰って来い!」と呼びかけ[37]、既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、12月29日、コーチにすると口説いて無理矢理入団させた灰山元治、投手では内藤幸三、野手では白石勝巳岩本章ら23人を入団選手として発表した[29]

広島カープ時代

1950年
1月15日、西練兵場跡(現在の広島県庁一帯)でチーム結成披露式が行われ[38]、ファン約1万人が押し寄せた[30][注 8]。人気選手、前巨人の白石勝巳がまだ広島に到着しておらず、石本監督が一番有名であった[29][41]。この日は辻井弘ら7名の追加選手を発表している。翌16日には広島県総合球場で新人採用テストが行われ[43][44]、この中にいた長谷川良平は即座に石本監督の目に止まり、21日に選手契約を結んでいる[8]。16日から合宿に入り、西日本重工業広島造船所(現・三菱重工業広島製作所、広島市西区観音新町)の社員寮を宿舎として借りた[19][30]。暖かいキャンプ地に行けるはずもないので、合宿所近くの広島県総合球場を県の計らいで無料で2月1日からキャンプを張った[30]。石本監督は集金旅行(金策奔走)で忙しくて不在の日が多く、白石勝巳助監督が事実上の指揮官であった[30]。決して高額ではない合宿代も払えず、三菱重工から明け渡し請求を起こされ[12]、4月に合宿所は皆実町(現・南区)の「御幸荘」に引っ越す[10][30][32]
3月10日に福岡市平和台野球場でセ・リーグ開幕戦が行われ、西日本パイレーツとのこの年から加盟の球団同士の公式戦初試合となったが、5-6で敗れている[33]。3月14日の国鉄戦で打線が奮起して16-1と球団初勝利を挙げたものの、その後チームは著しく低迷する。11月13日の大洋とのダブルヘッダーで共に敗れ13連敗を記録するなど惨憺さんたんたるチーム状況で、この年優勝した松竹ロビンスには59ゲーム差をつけられた8位(最下位)に沈んだ[45]。さらに勝率.299で、両リーグで唯一3割に到達できなかった。白石勝巳が遊撃手としてベストナインを受賞した。
この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた[43]。そのため当初1,100万円を見込んでいた入場料収入はチーム成績に比例して落ち込んでいった。さらに資本金調達については、県民から株式を公募する他、広島県や県内各市からの出資を見込んだ計画であったが、各自治体の予算執行が次年度に持ち越されたため、議会が金を出すのに難色を示した[35]。当初2,500万円を予定していた資本金は1950年4月の時点でわずかに600万円しかなかった。5月以降、ようやく各自治体からの出資が相次いだものの、最終的に予定額2,000万円の半分しか集まらなかった。このため「株式会社広島野球クラブ」が設立できたのは1950年9月までずれ込んだ[19]
こうして開幕から僅か3ヵ月で経営危機説が流れるようになった[46]。5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生、二軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみだった。130~140万円相当のユニフォームや、グローブなど、野球用具一式を運動具店に納入させたものの代金が払えず、その運動具店を倒産させた[19] 
6月25日、セ・リーグ連盟は加盟金300万円の支払いを求めてきたが、これに応じることができなかったため、やむを得ず経営合理化策として給料の支払いが滞っていた二軍選手全員を汽車賃だけ渡して郷里に帰らせている[注 9]。さらに7月12日に竹原市出身の池田勇人大蔵大臣に「後援会会長」の名目で球団幹部に就任してもらうことで、ようやく連盟からの督促を回避した。リーグ加盟金300万円は足かけ3年間支払えなかった[19]
12月7日、選手会は球団に対して「給料の遅配を解消すること」を旨とした要望書を提出し、受け入れられない場合は全選手退団も辞さないと通告した。これに対して12月26日、球団側は12月分の給料支払いとチーム再建策を選手会に提示し、ようやく選手会も了承した。
1951年
年明け早々、セ・リーグ連盟顧問に就任したばかりの鈴木龍二が、日刊スポーツ1月9日付け紙上で、2年目も資本の強化などの経営改善の見込みがないカープと西日本パイレーツに対して、「われわれは潰そうとしていない、何らかの形で残したいというのが希望だ。だから広島は大洋の傘下に入って"広島"とか"カープ"の名を残せばいい。西日本は今年どうしてもやっていけないなら"1年間休めばいい"」などと猛烈に批判した[46]
球団は前年からの経済的苦境を脱するため親会社を持とうと、まずは寿屋(現・サントリー)に相談を持ちかけ、600万円で球団買収することで話がまとまったものの、「1年間の税金6,000万円のうち600万円を値切ること」を条件に求められ、後援会会長の大蔵大臣池田勇人に許可を求めたがもちろん「国家に仕える身でもあり、まかりならぬ」と却下されてしまった。続いて専売公社に話を持ち込み、こちらも買収に前向きな回答をもらったものの、「公社が球団を持つことに池田大臣の許可を貰うよう」条件を付けられ、結果「特例は認められない」と、またしても却下されてしまった。最後にはアサヒビールに売り込み、重役会では球団買収が承認されたものの、社長の最終決裁で却下されてしまった[48]
こうして親会社が決まらないまま2月に入ると、遂に給料や合宿費の支払いができなくなり、3月16日から甲子園で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められた。白石助監督が「旅費がないなら甲子園まで歩いていこうじゃないか。ワシについて来い。軍隊時代を思えばできないはずがない」と意気盛んだったが[19]、3月に球団社長の檜山袖四郎、球団代表代理の河口豪、大平正芳(後援会会長・池田勇人の代理)はセ・リーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」「早急に身売りしてはどうか」と厳しい叱責を受けた結果、3月14日、広島市の天城旅館で行われた役員会で当時下関市にチームがあった大洋との合併が決まり[45]、その日のNHKラジオが夜のニュースで「広島解散、大洋に吸収合併」と報じた[10][45]が、役員会に遅れて参加した石本らの説得で合併方針は撤回され、3月15日にナインは急行「安芸」で準公式トーナメント大会に出発。しかし旅館代がなく、選手は甲子園のアルプススタンド下の薄暗い部屋で雑魚寝した[19]
石本は3月16日の中国新聞紙上で「いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ぬだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい」と訴え[45][49][50]、3月20日には広島県庁前で資金集めの後援会構想を発表した[45][44][51]
3月15日、前述の準公式トーナメント大会の上阪に帯同していた球団代表代理の河口豪、石本監督、球団監査役の横山周一は日本野球連盟関西支社において鈴木龍二セ・リーグ顧問と会談し、球団側は合併をせず継続させていく意思を伝えた。また、具体的な再建方策については、同月24、25日頃に池田勇人後援会長と永野重雄代表が連盟立会いのもとで協議することとなった。同15日に鈴木は甲子園球場の選手控え室を訪れ、チーム継続の了承を伝え、「セ・リーグとしては当初の予定通り7球団でペナント・レースのスタートを切る」と語っている[52]。こうして3月23日、鈴木龍二セ・リーグ顧問と河口豪球団代表代理との会談でチーム存続が正式決定した[33]。しかし数日後、連盟側は急遽先述の継続承認の内容を反故にした。球団側としては、連盟側がそれまでに要求してきた地元広島開催を除く過密なスケジュールを受け入れていたにも関わらず、チームとして安定的に試合を行えるようにさらに600万円の拠出金を要求してきた。この要求に対して球団側は、15日の鈴木談話と「全くくつがえっている」として、3月28日に開催された連盟の代表者会議にも出席しなかった。この代表者会議欠席がきっかけとなり、セ・リーグは第2節までのカープの公式戦日程を認めないという「日程延期問題」が発生した[52]
連盟の通告を受けて、檜山袖四郎球団社長は3月30日に広島商工会議所において重役会を開き、「広島としてはあくまで既定方針通りにやってゆく。檜山社長が上京し連盟首脳と話合う」ことで決定した。翌31日に檜山は上京し、連盟当局者や在京の広島県出身の有力者にも積極的にあたり、4月2日に連盟の松島鹿夫セ・リーグ会長と会談し、球団側と連盟側の折り合いがついたことにより[52]、4月2日に棚上げしていた公式戦の開催を正式決定した[45]。これらの事情から、この年の広島の公式戦の開幕は他より9日遅れて、4月7日の広島での対大阪タイガース戦となった[33]
石本監督が発案した後援会には職場単位、あるいは個人での入会者が後を絶たず、「おらがチームを潰すな」の純粋な思いで子どもはなけなしの小遣いを、大人は酒代、タバコ代を削って金を出した[9][45]。石本監督はシーズン中も試合の采配は助監督の白石に任せて、自身は球団の苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回って辻説法を行い、さらには中国新聞に資金調達の必要性を訴える投稿を続けた[8][32][34]。また石本や白石は試合後に選手を連れて県内へ出向いて講演会をしたり、歌をうたったり、カープグッズ第1号ともいわれる"カープ鉛筆"を売ったりした[12][35][38][43][53][54]。その結果、7月29日の国鉄戦直前にセレモニーが開かれ、カープ後援会は正式に発足した。この時、既にカープ後援会は1万3千人の会員数に達しており、本拠地の広島総合球場前での酒樽の中に募金を入れる「樽募金」[38]も合わせ1951年末までに集まった支援金は約440万円(当時)[54]。その結果、この年130万円の黒字を計上した[45]。この一件は、通称「昭和の樽募金」と呼ばれ、2001年5月1日放送のNHKプロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた[10]
しかし、前年度クリーンナップとしてチーム最多の21本塁打・72打点を記録した樋笠一夫が契約でもめた末オフに退団し、シーズン途中に巨人に移籍してしまうなど、前年に引き続きペナントレースは苦戦を続け、チーム成績は2年連続の最下位に終わった。この年は西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパースに吸収合併されたことで、7球団による20回総当り戦の120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日(日米野球)があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。特に広島は最下位決定の後、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった[55]
12月25日には、エースの長谷川良平が自由契約選手として名古屋ドラゴンズへの移籍を表明する[注 10]が、翌年3月10日のコミッショナー裁定により、長谷川の広島復帰が決まっている[33]
1952年
開幕前、同年のシーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされた[19][56]。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれており[注 11]、設立より2年連続最下位だった弱小貧乏球団の広島潰しが狙いであった[19][56]
開幕試合(3月21日)の松竹戦は3-1で勝利して幸先良いスタートを切ったものの、3月23日の同じく松竹戦から7連敗、5月15日の巨人戦から7連敗、さらに7月15日の大洋戦からは8連敗を喫して、7月27日の時点で13勝46敗2分(勝率.220)と最下位に沈んでいた。だが、そこから選手が奮起し、残り試合を24勝34敗1分で乗り切り、シーズン勝率.316(37勝80敗3分)を達成、処罰を免れた[注 12]長谷川良平杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ、さらに杉浦は防御率でセ・リーグ9位に入ったが、これは球団として初の投手ベスト10入りとなった。
なお、この年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになった。これにより広島で圧倒的な人気を誇ったカープは、球団収入の安定化に目途が立つことになった。
10月15日、後援会が「松竹の小鶴・金山らを広島へ」を合言葉に1,000万円募金を行うことを決定する。
1953年
松竹から赤嶺昌志一派小鶴誠金山次郎三村勲)が集団で移籍した。後援会は外国人選手を獲得するため更に400万円を集め、その結果、日系二世選手である銭村兄弟(銭村健三銭村健四)・光吉勉が入団した[58]
さらにオールスターのファン投票では、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手が選出。競争になれば大都市には敵わないため、後援会会員は投票最終日に一斉投票を行っており、「集団投票事件」などと批判を浴びた。
なお5月1日、球団役員会にて、球団と後援会を1本化し、石本監督は「総監督兼常務取締役」として球団運営に専念し、助監督の白石が選手兼任で監督に昇格することが決定。5月3日の国鉄戦が石本の最後の指揮となった(試合は7-1で勝利)。
また、1952年から53年はユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけだった。このユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
1954年
この年はチームの若返りを図り、前年から7人が退団し、新たに19人が入団している。また、発足したばかりの新日本リーグに、二軍(広島グリーンズ)が参加した。
この頃になると球団の財政事情は明るくなってきたものの、首脳陣は監督の白石以外にコーチがおらず、シーズンオフには白石が選手をスカウトしたり[注 13]、キャンプでは白石自ら外野でボールの球拾いという状況であった[59]
広陵野球部OB松本瀧藏代議士の手引きにより、1月16日から31日まで初の海外遠征(フィリピン)[58]
新婚旅行のため来日していたジョー・ディマジオマリリン・モンロー夫妻が、2月11日広島入りし[60][61]、広島に4日間滞在[22][62][63]。宮島口(現:廿日市市)の一茶苑と広島市内の三瀧荘に宿泊し[62][64]広島平和記念公園やABCC(現:放射線影響研究所)などを訪問[61][65]。12日から2日間にわたり、ディマジオ、ボビー・ブラウン、フランク・オドールが広島県総合球場でカープナインに野球指導を行った[8][22][60][61][62][63][66]
シーズンは、開幕7連敗を喫する最悪のスタートとなったものの、9月22日、23日の巨人戦で3連勝するなど後半戦は追い上げて、4位(56勝69敗5分)を確保した。
1955年
この年から助監督に門前真佐人、二軍監督に野崎泰一が就任する。
2月28日、カープの産みの親である谷川昇が衆議院選挙当選の報を聞きながら脳出血のため急逝する。
3月11日、日系2世の平山智が入団。シーズンは4位(58勝70敗2分)を確保し、長谷川良平が30勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得した。
また、この年は球団創設以来の「広島野球倶楽部」の負債が5,635万円まで達してしまい、もはや後援会の手にも負えなくなってしまった[15]。そこで東洋工業社長の松田恒次の提案により、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させて、新たに地元財界の協力を得た新会社を設立することが決定[15]。12月17日、広島野球倶楽部は臨時株主総会を開き、「発展的解消」を決議する[15]。同日、中国新聞東京支社にいた球団代表の河口はスポーツ紙記者から「広島からカープは解散したと通信があったが事実か」と問われた際、「そんなバカげたことはない。新球場の設計が9分どおり出来ているのに解散はありえない」と芝居を打って広島市民球場(初代)の設計図を公表している。
その結果、12月19日の第1回新会社発起人会を経て「株式会社広島カープ」(初代社長は広島電鉄の伊藤信之)が発足した。資本金は500万円(東洋工業、広島電鉄、中国新聞社など13社が出資)。
なお、セ・パ両リーグ理事会では「広島野球倶楽部解散により、選手の拘束力は無くなり彼らは自由契約になった(他球団が獲得できるようになった)」「新会社はリーグ加盟金を支払い直すべき」とパ・リーグから非難の声が上がるが、河口は既にセ・リーグ会長の鈴木竜二と話をつけており、またセ・リーグ理事は6人中4人が河口と同様に新聞出身者であり同情的であったことから、最終的に「会社の名称変更にすぎない」と押し切っている。
1956年
開幕から4連敗を喫するなど序盤戦から低迷し、5位(45勝82敗3分)に終わる。
5月20日、広島総合球場で開催された対読売ジャイアンツ戦で木戸美摸投手負傷事件が起こる。
7月17日、地元政官界の六者会談を経て、広島市民球場(初代)の建設地が「旧二部隊営庭跡地」(現在の広島電鉄原爆ドーム前停留場横)に正式決定する[23]
1957年
1月14日、地元10社が広島市民球場(初代)の建設資金1億6千万円の寄付を広島市に申し入れ、2月22日に「旧二部隊営庭跡地」にて、新球場起工式が行われる。
7月22日、広島市民球場(初代)の完工式が行われ、引き続いて行われた点灯式にはファン1万5千人が詰めかける。7月24日に行われた新球場開幕試合の阪神戦では初ナイターで集まった大観衆を前に1-15で大敗している。
この年は白石監督の「闘志無き者は去れ」のスローガンの元、キャンプから猛練習を行った成果が出て、オールスター戦までは32勝26敗と健闘したものの、後半に入って失速し、最終的には54勝75敗1分の5位に終わっている。
1958年
広島市民球場が完成した結果、観客動員数が大幅増となり球団財政にゆとりが出来たこともあって大補強を敢行する。その結果、古葉毅森永勝治小坂佳隆鵜狩道夫拝藤宣雄大和田明ら、1960年代のチームを支える人材が一斉入団した。一方で「立教三羽烏」とうたわれた長嶋茂雄杉浦忠本屋敷錦吾の獲得にも動いたが、彼らは入団の意志は見せなかった。
また、1950年の灰山元章以来、8年ぶりにコーチを置いた(ヘッドコーチに門前真佐人、コーチに野崎泰一藤村隆男)。7月10日には、総工費1,700万円をかけた自前の選手寮「三省寮」が完成する。同月29日には、広島では初となるオールスター戦が開かれた。
この年は4月8日の中日戦から6連敗、同月24日の阪神戦から10連敗を喫するなど前半戦の不調が祟り、5位(54勝68敗8分)に終わった。シーズン終了後の12月26日、小鶴誠がチーム若返り策により、引退を表明する。
1959年
この年は、新人とトレードを合わせて19人もの補強を敢行する。その結果、チームの平均年齢が21.9歳と、当時12球団で最も若いチームとなった。また、広島市民球場(初代)で行われた春のキャンプでは、球団初のピッチングマシンを導入している。
2月19日、新しい球団旗を発表。この球団旗は以降、変更されていない。
5月7日の対大阪タイガース戦で球団通算500勝を達成。8月には二軍がウエスタン・リーグ初優勝達成[67]
この年は前年に引き続き、5位に終わったものの、勝敗は59勝64敗7分であり、勝率.481は過去最高であった。主軸に座った大和田明樋笠一夫の持つ球団記録21本塁打を塗り替える23本塁打を放っている。また、この年の観客動員数は862,965人と12球団中、巨人に次ぐ2位の集客力を見せた。
1960年
1月11日、河口豪球団代表が辞任、後任は山本正房中国新聞社社長。
この年、球団創設11年目で初めてシーズンで巨人に勝ち越し(17勝8敗1分)、勝率も5割台を達成(62勝61敗7分)する。大石清が球団3人目となるシーズン20勝超え(26勝13敗)し、興津立雄は打率2割6分8厘・21本塁打・64打点の成績を残してチーム3冠王となった。1953年以来7年間指揮をとった白石監督はシーズン終了直後の10月6日に、「チームの地固めは出来た」として退任を発表。
1962年
門前眞佐人が監督を務めたが、いずれのシーズンも勝率5割を割り辞任。
前年に現役を引退した上田利治がコーチに就任。専任コーチとしては日本プロ野球史上最年少の25歳で就任している。
1963年
門前に代わる新監督として小鶴誠を招聘しようとするが球団役員の意志統一が出来なかったため、球団社長の伊藤信之が辞任。後任に東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が就任し、白石勝巳が再び監督となる。
初の県外キャンプとなる春季キャンプ宮崎県日南市で始まる[68]
1964年
5月5日の対巨人戦(後楽園)において、巨人の王貞治を抑え込む作戦として白石監督考案の王シフトが初めて使われる[67]
1965年
5月1日、対大洋戦(川崎)に勝利し、球団初の単独首位に立つが、翌日には首位陥落で一日天下に終わり[67]、このシーズンは首位巨人と31ゲーム差の5位で終わる。
1966年
6月5日、広島総合球場で開催された対阪神戦で山本一義が死球を受けたため一部のファンが暴徒化。一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の怪我を負う事件が発生。そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。
1963年から1965年7月まで、白石が2度目の監督を担当、1965年7月からは長谷川良平が監督を務めた。
1967年
東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が筆頭株主となりオーナーに就任。松田耕平がオーナー代行に就任。12月17日、球団名を広島東洋カープに改称。球団へ経費を渡すにあたり、税務当局から球団名に社名を入れる必要があるとの指摘があり、その上での球団名変更であった[15]。市民球団としての体裁を保ちつつも、東洋工業をメインスポンサーとしつつ、大半の株を松田家が持つ同族経営球団となる。

広島東洋カープ時代

根本監督時代

1968年
根本陸夫が監督に就任。根本はトレードでベテランの山内一弘を獲得する。大打者であった山内を選手たちに見せることで、チームを活性化させるのが狙いだった[69]
阪神との開幕3連戦に連勝し、首位でスタートするも、5月に7連敗で一時3位に転落。しかし、6月には首位に返り咲き、12連敗がスタートする7月初めまで守った。外木場義郎安仁屋宗八両投手、野手では山内の活躍もあって、3位となり、球団創立19年目にして初のAクラス入りを果たした。球団創立1年目(1950年)から1967年までの18年連続Bクラスは当時の日本記録で、現在でもセ・リーグワースト記録[注 14]。なお、シーズン中に12連敗してのAクラスはプロ野球史上唯一。
1969年
前年とは一転し、8月に11連敗するなどで最下位に終わる。根本時代は、当時巨人がV9時代を迎えていることもあり、成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄山本浩司YK砲水谷実雄ら、後の「赤ヘル軍団」フィーバーを巻き起こし中核を成した選手の台頭を促した。オフに監督の根本陸夫とチーム強化の方針をめぐっての意見の対立から、上田利治コーチが退団した。
1970年1971年
1970年10月19日より衣笠祥雄の連続試合出場が始まっている。オフに近鉄に所属していた阿南準郎が現役を引退した。阿南の引退により、広島県総合球場を本拠地としていた時代に在籍経験のある選手が全員引退した。11月15日に松田恒次オーナーが死去、後任にオーナー代行の松田耕平が就任[70]
2年連続でシーズンを勝ち越し、4位と健闘。
1972年
開幕から不振が続いて根本はシーズン途中で監督を休養、森永勝也打撃コーチが代行を務める。この年は最下位に終わる。

別当監督時代

1973年
別当薫が監督に就任する。開幕から6月頃までは大洋とともに首位争いの主導権を握り、前半戦こそ2位で折り返したが後半戦は急失速し、60勝67敗3分の最下位に終わる。しかし、リーグ優勝しV9を達成した巨人とのゲーム差はNPB史上最小の6.5ゲームにとどまる大混戦だった[71][72]

森永監督時代

1974年
チームは最下位に終わるも金城基泰が最多勝・最多奪三振を獲得。しかし、10月12日に交通事故に遭い、あわや失明の重傷を負う。同年オフ、監督・森永勝也の退団および打撃コーチ・ジョー・ルーツの次期監督就任を発表。
1958年に胸ロゴが赤い縁取りとなったユニフォームを着用していたが、1973年に、ユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字・胸番号・背番号に赤の縁取り、袖・腰・ストッキングに赤色のラインが入る。この「赤」は、後にチームカラーとなる。

ルーツ・古葉監督時代

1975年
球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツが監督に就任[73]。「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、燃える闘志を表す意味をこめて球団に赤を基調とする新ユニフォームを提案するが、既にシーズン用のユニフォームは出来上がっており変更可能な帽子・ヘルメットの色だけ紺色から赤になった。
しかし開幕早々の4月27日の対阪神戦において佐伯和司の投球判定を巡って猛抗議、試合のボイコットを起こす騒動となった。この時、重松良典球団代表が試合続行を指示したため、試合中の介入に不満を持ったルーツは4月30日に監督辞任、5月2日までの代行にコーチの野崎泰一が就き、翌5月3日古葉竹識がコーチから監督に就任[74]。この年のオールスターゲームの第1戦(甲子園)では山本浩二衣笠祥雄が共に1試合2本塁打を記録するなど、「赤ヘル旋風」を巻き起こした[74][75]
中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、9月10日の対中日戦(広島市民球場)では乱闘事件があったものの[8][76]、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目で初優勝を達成した[73]。この時の先発は外木場義郎で、ウイニングボールを捕ったのは左翼手の水谷[77]。結果的に2位中日と4.5ゲーム差、3位阪神と6ゲーム差と大混戦だった。長きに亘る低迷で「太陽が西から昇っても広島は優勝できない」とまで揶揄され、身売りの危機もあったがようやく「お荷物球団」を返上した[75]日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦するも4敗2分で敗退。この年の首位打者となった山本浩二や衣笠祥雄、最多勝外木場義郎、盗塁王の大下剛史らの活躍が目立った。優勝後、平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集めた。この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破した[78]。またこの年は春に山陽新幹線岡山駅から博多駅まで延伸開業し、チームの遠征時の列車乗車時間が大幅に短縮された。これを振り返って、外木場は「カープが優勝できたのは新幹線のおかげ」とも語っている[79]
経営面では創設以来の累積赤字をこの年解消している。
1976年
池谷公二郎が20勝を挙げ最多勝と沢村賞。巨人・阪神との優勝争いに加われず当初は山本浩二の不振もあって低迷。9月は11連敗も記録。最後はかろうじて3位に。
1977年
5位に終わった。胸文字・胸番号・背番号・アンダーシャツ・ストッキングが赤一色になり、この年から“カープ=赤”が定着する。12月23日、江夏豊南海ホークスより移籍[80]。南海の監督だった野村克也(古葉は南海でプレーし野村と親交があった)が古葉に「(江夏は)まだ使えるよ」と太鼓判を押したという[81]高橋里が20勝。3年連続同一チームから最多勝投手を輩出。セでは以降なし。一方前年の最多勝池谷投手はシーズン最多被本塁打48(歴代1位)の記録も。
1978年
カープ打線が最も破壊力を発揮したシーズンで、この年のチーム205本塁打は日本プロ野球記録を更新。44本の山本浩二や、40本のヘンリー・ギャレット、33本のジム・ライトル、30本の衣笠祥雄など4人が30本以上を記録した[82]。また打点692、得点713は、ラビットボールを使用して本塁打の増えた1948年から1950年を除いてのプロ野球最多得点であった。しかし前半戦は苦戦が続き、首位巨人に10.5ゲーム差をつけられ、5位に沈む。後半戦は投打がかみ合い、31勝13敗7分と驚異的な追い上げを見せるも、巨人を逆転して優勝したヤクルトスワローズと5ゲーム差で、何とか3位を確保するにとどまった。
1979年
開幕前から独走が予想されたが、開幕は4連敗スタート、序盤は苦戦が続いた。しかし、衣笠の死球による亀裂骨折や、高橋慶彦の33試合連続安打でチームに勢いが付き、8月になり一気に首位に立つと4年ぶり2度目のリーグ制覇。日本シリーズでは、近鉄バファローズを4勝3敗で下し、悲願の日本一を達成する。第7戦では、江夏が無死満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け日本一に導く(江夏の21球[83]
1980年
この年は前年とは打って変わり、序盤から首位を独走し続け、2位以下に大差をつけて球団初の連覇を達成。勢いそのままに、近鉄を4勝3敗で下し、日本シリーズ2連覇を成し遂げた[83]。同年オフ、江夏豊と日本ハムのエース高橋直樹との大型トレードが成立。
1981年
この年は、序盤から苦戦が続き、期待の高橋直樹がわずか2勝、一時は最下位に沈むなど、8月終了時点で46勝48敗6分の4位と、首位巨人に12.5ゲーム差をつけられる。9月に15勝3敗と驚異的な追い上げを見せるも、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わり、3連覇を逃す。
1982年
山本が無冠に終わるなど打線が振るわず、結果は4位に終わる(1980年代唯一のBクラス)が優勝した中日に11勝9敗6分と勝ち越した。オフにテコ入れとして福士敬章内田順三金田留広らに戦力外通告、水沼四郎中日へトレード、水谷実雄阪急ブレーブス加藤英司との大型トレードを敢行するなどV戦士放出を敢行。北別府学が初の最多勝、津田恒美が活躍し、球団初の新人王を獲得。
1983年
7月終了時点まで巨人と首位争いを演じるも、8月に4連敗を2度喫するなど5勝14敗1分と失速、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わる。
1984年
4月に12連勝を記録するなど、14勝2敗2分と開幕ダッシュに成功する。その後、中日の猛追にあい、首位を明け渡すと、8月終了時点で中日と1ゲーム差の2位となる。しかし、9月6日の阪神戦に勝利し、首位に返り咲くと、そのまま逃げ切り、4年ぶりのリーグ優勝。山本、衣笠に加え山根和夫北別府学大野豊ら投手が活躍。この年75勝を挙げたが、これは2016年に更新されるまで球団シーズン最多勝記録だった。西武から復帰の小林誠二が最優秀防御率。小早川毅彦が新人王。日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦し、4勝3敗で3度目の日本一になった。なお、「日本一になっている球団を倒しての日本一」になったのはこの年が唯一であり[注 15]、現存12球団の中で「最も日本一から遠のいている球団」となった[注 16]
1985年
サウスポーの高木宣宏がブレイクしオールスター前までに9勝を挙げるも後半不調に陥る。2年目の川端順が新人王。高橋慶彦が5年ぶり3度目の盗塁王。8月まで阪神、巨人と優勝争いを演じていたが、9月に阪神との直接対決に連敗し、7連敗を喫するなど失速し、最終的には優勝した阪神と7ゲーム差の2位に終わる。この年優勝した阪神には15勝11敗、同じく優勝争いをした巨人にも14勝12敗と勝ち越したものの、阪神が17勝6敗3分と大きく勝ち越した大洋に対し10勝14敗2分と負け越したのが響いた。古葉がこの年限りで監督を辞任。同年、松田元がオーナー代行に就任。

阿南監督時代

1986年
阿南準郎が監督となり、阿南は「『山本浩二監督』実現までのつなぎ」と言われたが[84]、就任1年目にリーグ優勝を果たす[注 17]。レギュラーが固定され不動のオーダーと言われた。北別府が投手部門のタイトルを総なめ。長冨浩志が新人王。日本シリーズでは西武ライオンズと対戦し初戦引き分けの後3連勝するも、第5戦で津田が投手の工藤公康にサヨナラタイムリーを打たれて敗れたのをきっかけに流れが変わり、第8戦まで縺れ込んだものの3勝4敗1分で敗退となった。
前年とこの年はチームに外国人選手は在籍しておらず、スターティングメンバーも「純国産打線」であった。また、この年限りで長年チームの4番を務めてきた山本が引退し、1990年代前半までチームは4番不足に悩まされるようになった。
1987年
6月13日、衣笠がルー・ゲーリッグの2130連続試合出場の世界記録(当時)を更新、衣笠はこの年の最終戦までに2215まで記録を伸ばし、現役を引退した。衣笠の引退により、ドラフト制度導入前に入団した選手と、広島カープに所属した選手が全員引退した。4番打者は5月末まではランス、その後小早川、もしくは片岡光宏が務めた。正田耕三が首位打者、ランスが本塁打王を獲得、優勝した巨人に11勝10敗5分と勝ち越しするも3位に終わる。
1988年
2年連続の3位に終わる。正田が2年連続の首位打者、大野が防御率1.70で最優秀防御率と沢村賞を受賞、阿南が監督を退任した。同年オフ、山本浩二が監督に就任。

第1次山本監督時代

1989年
開幕からはレッズ風の新ユニフォームに変更。新外国人のロッド・アレンウェイド・ロードンが加入。アレンが故障で離脱するもロードン、小早川、西田真二もしくは長内孝でクリーンナップを形成した。津田が最優秀救援投手に輝いたが優勝した巨人と9ゲーム差の2位に終わる。高橋慶彦は2対3のトレードでロッテへ移籍。
1990年
野村謙二郎が1番・遊撃手に定着し盗塁王に輝く。2年目のアレンが好調も新加入のマイク・ヤング高沢秀昭が振るわず開幕直後から巨人に独走を許し、結果的に優勝した巨人と22ゲーム差離され2年連続の2位に終わった。新人の佐々岡真司は13連続セーブポイントの新記録樹立などフル回転した。
1991年
この年リリーフ強化のために山本監督は津田と大野のダブルストッパー構想を打ち出した。しかし、4月に津田が戦線を離脱し闘病生活に入る(津田はこの年の11月に現役を引退)。大野が津田の穴を埋めるべく、一人抑えとしてリリーフを支えた。野手陣では野村謙二郎が高打率、盗塁王を獲得してチームを牽引けんいん。しかしチーム全体長打不足で絶対的4番が不在(チーム最多本塁打は規定打席に達していない江藤智の11本)の中、勝負強い西田真二山崎隆造などが少ないチャンスの中奮闘した(優勝を決めた試合も初回に西田のタイムリーの1点を9回まで守りきった)。2年目の前田智徳がレギュラーに定着、江藤も三塁手として出場し長打力の片鱗を覗かせた。投手陣は2年目の佐々岡がMVP、最多勝、最優秀防御率、沢村賞に川口和久が最多奪三振、北別府が最高勝率となった。大野が最優秀救援投手を獲得するなど投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。投打にわたりチームのほとんどの選手を一軍起用する文字通り全員野球だった。リーグ優勝が本拠地だったので、ビールかけなど祝勝会は広島市民球場のグラウンドでファンが観客席にいる中で行われた。日本シリーズでは西武と対戦し、川口が4試合に奮投するなどし先に王手をかけたが、最終的には3勝4敗で敗退した。チームはこの年以降、2016年までに優勝から遠ざかることになった。
1992年
この年はヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差と例年に見ぬ大混戦で、優勝争いはヤクルト・巨人・阪神との四つ巴となった。優勝したヤクルトとはわずか3ゲーム差であったが、同率2位だった巨人と阪神に僅か1勝の差で及ばずの4位[注 18]となったため、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。北別府が200勝を達成、達川光男が引退した。
1993年
7月20日、津田が脳腫瘍のため32歳で死去した。江藤智が初の本塁打王を獲得するも、前年97試合本塁を守っていた達川の引退による捕手の急な若返りの影響から捕手陣と投手陣がかみ合わず崩壊。前半戦は4月11勝4敗と好スタートしたが5月に8勝15敗となったが不調の投手陣を打撃陣がカバーして6月7月と何とか5割前後を保っていたが、打撃陣に故障者が続出した後半戦は9月には25年ぶりの12連敗を喫するなど5勝19敗で急失速し10月も6勝13敗、チームとして1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落、山本監督は責任を取って辞任した。山崎が引退、山本の後任監督には三村敏之が就任し、チーフ兼打撃コーチに山本一義を招聘した[85]

三村監督時代

1994年
新任の三村監督は前年崩壊した投手陣を再編し、主に中継ぎ投手だった紀藤真琴近藤芳久を先発に抜擢し、紀藤は16勝5敗で最高勝率を獲得した。近藤は巨人キラーとして活躍しシーズン11勝を挙げている。野手陣では控えだった金本知憲緒方孝市音重鎮等を積極的に起用、一定の成果を残した。前年苦しんだ捕手も西山秀二ゴールデングラブ賞・ベストナインを獲得する活躍をみせた。一時期は最下位から10連勝の快進撃で優勝争いに加わるものの、その後失速し3位に終わった。オフに川口和久が巨人にFA移籍、北別府が引退した。
1995年
この年のドラフト1位山内泰幸とカープアカデミー出身ロビンソン・チェコが大活躍した。しかし、主軸の前田が序盤戦でアキレス腱断裂の大怪我を負い、抑えの大野も不調でシーズン途中先発に回り、開幕投手を務めた佐々岡が抑えに回る等落ち着かない状況だった。チェコが15勝、山内が14勝で新人王、野村が3割30本30盗塁(最多安打のタイトルも取った)のトリプルスリーを達成した。江藤が2年ぶりの本塁打王・初の打点王、緒方が規定打席不足ながら初の盗塁王獲得し投打に目立った活躍をしながら怪我人や不調者が相次ぎ駒不足故に勝負どころで勝てず、一時は2.5ゲーム差に迫ったが首位ヤクルトの独走を許し6.0ゲーム差の2位に終わった。
1996年
チーム打率.281の打線とダイエーからテスト入団した加藤伸一、5年目の山﨑健が大活躍で前半戦を首位で折り返すも、後半戦主砲の江藤が負傷でシーズン復帰が絶望、エース紀藤が後半6連続先発失敗と前年同様勝負どころで怪我人・不調者が出てしまい最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、最終的には中日にも抜かれ3位で終えた。江藤が最高出塁率、緒方が2年連続の盗塁王、ルイス・ロペスが打点王を獲得した。
1997年
野手陣では江藤が前年の大怪我の影響からか打撃守備に精彩を欠き、正捕手の西山も開幕早々怪我でリタイアした。緒方が3年連続盗塁王、ロペス2年連続打点王、他のレギュラー陣も数字は残したが3年連続で勝負どころで打てなかった。投手陣は前年合計41勝した山内、紀藤、加藤、山崎が合計で9勝に終わった(山崎は未勝利)が、代わりにこの年のドラフト1位の澤﨑俊和、ドラフト2位の黒田博樹、3年目の横山竜士、8年目の高橋英樹が奮闘した。澤崎が新人王を獲得、横山がリリーフで10勝、黒田が6勝、高橋英樹が苦しい8月に4勝を挙げた。大野豊が42歳で史上最年長の最優秀防御率のタイトルを獲得したものの、順位は3位ながら中日以外の4球団に負け越して貯金は作れず、その後貯金を作ってのAクラス入りは2014年まで達成できなかった。
1998年
新外国人のネイサン・ミンチー、この年のドラフト4位の小林幹英が活躍。前田も首位打者まで後少しの大接戦を繰り広げるが、5月頭までは好調だったがゴールデンウィークが終わる頃にはここまで支えていた投打の主力選手が軒並み不調・怪我人が出だし選手層の薄さから負けが込みだし、最終的には5球団全てに負け越しながらも借金15で5位に終わった。また、この年は神宮球場での試合は10戦全敗に終わった[86]。オフに監督の三村が辞任。後任に1992年の引退後、ダイエーで城島健司を育て、フジテレビや地元のテレビ新広島で野球解説者を務めた後、この年から二軍監督となっていた達川光男が就任。この年限りで大野、正田が引退した。

達川監督時代

1999年
達川新監督は黄金時代復活のため、自らの登録名を「達川晃豊」(読みはそのまま)に変更。また、チーム再建の切り札としてかつての同僚だった大下剛史を一軍ヘッド、OBの西田真二を打撃コーチ、前年引退の大野豊を投手コーチ、同じく同僚の正田耕三を内野守備走塁コーチに据えるなど、コーチ陣を一新してキャンプイン。しかし、三村監督時代のキャンプが緩かったのに対し、大下ヘッドコーチの主導で行ったキャンプがあまりにも地獄過ぎたことから、主力選手の故障者が続出。それでも開幕からの2か月は借金1で健闘したものの、6月後半からほとんど勝てなくなり、13連敗で一気に最下位に落ちると、8月も8勝17敗で苦戦。同じく主力選手の故障や不振、離脱が相次いだ阪神の12連敗に助けられ、5位に上がるのがやっとで、優勝の中日に24ゲーム差を付けられて達川監督の1年目は2年連続5位に終わった。オフに大下ヘッドコーチ(シーズン途中で休養)と大野投手コーチと正田守備走塁コーチは成績不振の責任を取って辞任。4番の江藤智が巨人へFA移籍し、チームは転換期を迎える。
2000年
達川監督2年目を迎えてチームはOBの木下富雄をヘッドコーチに迎えてコーチ陣を若干手直ししたが、それ以外の戦力は不変だった。大下剛史前ヘッドコーチの退団もあり、地獄のキャンプから解放されたチームは絶好調で、4月を15勝9敗と勝ち越し、Aクラス入りが期待された。しかし、前田智徳や緒方孝市や野村謙二郎ら主力選手がケガに見舞われるなどのアクシデントもあり、その反動から一気に成績が低下。投手陣でも前年の不振から復活したネイサン・ミンチーや不動のエース佐々岡真司、さらに後に球界の大エースとなる黒田博樹などが勝ち星を増やしたもののリリーフ陣は相変わらず不調で、打撃陣はこの年から4番に座った金本知憲や復帰したルイス・ロペスの活躍もあったが投打のアンバランスが多少見られた。終盤までまずまずの成績を残し、ヤクルトと4位争いを演じるも投壊にあえぎ、前年から借金は減ったものの故障者続出もあり、3年連続5位となり、達川監督はたった2年で辞任。

第2次山本監督時代

2001年
達川光男前監督の突然の辞任を受け、1993年まで監督を務めた山本浩二が8年ぶりに監督再登板。山本新監督は達川前監督が育てていた東出輝裕や新井貴浩をこの年の開幕スタメンで起用し、木村拓也を1番に据えるなど打撃陣のテコ入れを図った。しかし、開幕3番の緒方孝市が開幕戦でクロスプレーの際に負傷し、前田智徳もケガの影響で出場機会が減るなどの誤算もあった。投手陣ではエースに成長した黒田博樹が低迷するチームの中で主力となり、リリーフでの起用が多かった高橋建も10勝を上げる活躍を見せ、先発・リリーフ両方で活躍した佐々岡真司やこの年ローテーション入りの長谷川昌幸もそれなりの成績を残し、菊地原毅が140試合のうち78試合に登板するなど明るい話題が多かった。チームは中日が脱落した8月以降横浜とAクラス争いを演じるも勝ち星の差に泣き、山本監督1年目は4位で終え1997年以来のAクラス入りはならなかった。しかし、終わってみれば、68勝65敗7分で5年ぶりに勝ち越した。
2002年
山本監督2年目を迎えたチームはこの年、山本監督の親友の星野仙一監督が率いる阪神にあやかるべく縦縞のデザインを採用。これが功を奏したのか4月を13勝11敗1分で勝ち越すスタート。7月には最下位独走の横浜を除く4球団で2位争いを演じるが、その後は阪神と4位争いに終始するも毎年恒例の夏場の息切れが響き借金8の5位に沈んだ。投手陣は7年目の長谷川昌幸がエースとして13勝を上げる活躍を見せ、それ以外ではエースの黒田博樹やベテランの佐々岡真司も奮闘し、リリーフではこの年オールスター出場の小山田保裕や広池浩司などが活躍した。打撃陣では開幕後に主力打者の前田智徳とルイス・ロペスがベンチ裏で大喧嘩するハプニングもあり、「3割5分打つ」と宣言していたロペスもモチベーションが低下。結局かつての勝負強い打撃が鳴りを潜め通算6年間在籍したカープを去り、もう一人の外国人選手エディ・ディアスもこの年限りで退団した。それ以外では11年目でベテランの金本知憲は4番で奮闘するものの、オフにFAで阪神へ移籍し、戦力の弱体化が懸念され、翌年以降の戦いぶりに暗い影を落とすことになった。
2003年
毎年のようにAクラス候補と言われながらも夏場で息切れするチームはこの年開幕から優勝候補の巨人が投手陣崩壊で開幕ダッシュに失敗したこともあり、8月までは巨人を含め最下位独走の横浜を除く4球団でAクラスを争った。しかし、8月まで2位の巨人と3.5ゲーム差でAクラス復帰が目前に見えながらも終盤で息切れ。最後は阪神の18年ぶり優勝を許し、阪神と20.5ゲーム差の5位に終わり山本監督の悲願であるAクラス復帰はならなかった。投手陣は球界のエースとなった黒田博樹や2番手エース高橋建や先発・抑え両方で活躍の佐々岡真司などがそれなりの成績を収め、リリーフでもこの年ルーキーの永川勝浩はチーム1位の25セーブを挙げて守護神となり、澤崎俊和・天野浩一・小山田保裕などもそれなりの成績を残した。打撃陣ではFA移籍の金本知憲に代わって新井貴浩が4番に入ったものの、わずか19本塁打に終わり打率も2割3分台に低下した。それでも夏場から4番のアンディ・シーツや前田智徳・緒方孝市・木村拓也などが打ちまくり、不振に陥った新井をカバーした。山本監督が「新井は(打率)2割8分でも行けると思ったが」と悔やむほどであったが、この年の不振をバネに新井はセ・リーグを代表する打者へと成長していく。
2004年
前年やその前の年もチームはAクラス寸前までこぎつけるものの、夏場の息切れで失速。就任4年目の山本監督は「今年こそAクラスに入る」と宣言したが、開幕後はこの年ローテ入りの河内貴哉はじめ、ジョン・ベイルや黒田博樹がローテーションを守るもののリリーフ陣が打たれる試合が相次ぎ、チームは6月以降横浜と最下位争いを展開。その後も浮上できず、山本監督が就任した2001年以来4年連続のBクラス(カープ全体では1998年から7年連続)に終わり辛うじて最下位を逃れるのがやっとだった。投手陣はベイル・黒田・河内といった先発陣は好調だったものの、高橋建が2ケタ敗戦の上に防御率5点台、ローテ入りが期待されたトム・デイビーは防御率6点台に終わり、リリーフでも広池浩司が2点台、大竹寛と小山田保裕が3点台前半、佐々岡真司が3点台後半と悪くなかったもののそれ以外の投手は4点台から7点台に終わるなど、投手陣が崩壊した。打撃陣ではグレッグ・ラロッカ、アンディ・シーツ、前田智徳などが打ちまくり、嶋重宣が首位打者に輝いた。
2005年
2002年以来勝率5割から遠ざかるチームは前年崩壊の投手陣の危機を救うべく、1970年代のエースだった安仁屋宗八を投手コーチに招聘。安仁屋コーチの投げ込み指令のもと、主力投手の黒田博樹・大竹寛・佐々岡真司などがキャンプから多く投げ込んだ。これが吉となったのか巨人との開幕3連戦を3連勝するなど、出足の悪い4月を12勝10敗1分で勝ち越すまずまずのスタートで、5月まではほぼ五分五分の成績だった。しかし、6月になると投打のアンバランスが現れ、2番手エースの大竹やこの年先発転向の小山田保裕、トム・デイビー、リリーフ佐々岡など投手陣が打ちこまれて最下位に転落。打撃陣では4番に座った新井貴浩が過去2年間の不振から復活して本塁打を量産し、前年首位打者の嶋重宣やベテラン野村謙二郎、前田智徳、緒方孝市などがそれなりの成績を残すも、投手陣の不調をカバーできず、最終的に借金26で1993年以来12年ぶりの最下位が確定し、山本監督は責任を取って辞任。また、1998年まで監督を務めた三村敏之ヘッドコーチと安仁屋投手コーチも成績不振の責任を取って辞任。この年2000本安打を達成した野村も引退するなど、チームは世代交代に入る。

ブラウン監督時代

2006年
ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティ・ブラウンが監督に就任。戦力補強はチームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を図った。キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹が就任。
開幕戦から4月11日の巨人戦まで1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。その後も波に乗れず、黒田以外の先発投手が期待に応えられず、借金を増やし、5位に終わった。ドラフトでは後に絶対的エースとなる前田健太の単独1位指名に成功。
2007年
キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田であった。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割を維持していた。このシーズンからセ・リーグでは初となるプレーオフ制度(クライマックスシリーズ)が導入され、進出を目指したが、交流戦では最下位に沈み、優勝争いから脱落。最終順位は2年連続5位に終わったが、阪神には2001年以来6年ぶり、ヤクルトには2000年以来7年ぶりに勝ち越した。
課題の投手陣では黒田以外にも、大竹寛が先発として一定の成績を残したものの、3番手以降が続かず、守護神・永川勝浩がたびたび救援失敗するなど、中継ぎ陣も安定感を欠いた。チーム防御率もリーグワーストの4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。この年の日本シリーズでは中日(セ・リーグ2位からCSを突破)が1954年以来53年ぶりに日本一となったため、広島は2013年で初めて日本一となった東北楽天ゴールデンイーグルスを含む12球団の中で「最も日本一から遠ざっている球団」となった。オフに新井と黒田がFA宣言し、新井は阪神、黒田はロサンゼルス・ドジャースに移籍。
投打の柱を失った広島は思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。
2008年
苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、対巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの、選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし、11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、北京五輪での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に2001年以来7年ぶりの4位となった[注 19]。延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、スピードアップ賞をチームで受賞した。オフに横浜を自由契約となった石井琢朗を獲得。
2022年現在、旧広島市民球場を本拠地としていた時代に在籍経験のあるNPBの現役日本人選手は白濱裕太會澤翼松山竜平安部友裕(いずれも広島)[注 20]丸佳浩(巨人)の5人。
2009年
この年から広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「トップス広島=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。本拠地も旧広島市民球場から「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(通称・マツダスタジアム)」に移転した。この新スタジアムの開場が後に人気球団になる布石となった[87]
オープン戦の最中に栗原健太WBC参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。
シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く、低迷状態に陥り、対中日戦では13連敗で球団記録を1950年以来59年ぶりに更新した。しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0.5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し5位に終わる。Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったためブラウン監督と再契約せず退任が決定し、ブラウンは楽天の監督へ移籍した[88]緒方孝市が現役を引退した。ブラウンの後任にOBの野村謙二郎が監督に就任した。チーム勝ち頭であったコルビー・ルイスが残留目前から一転して退団した。

野村監督時代

(動画) 広島時代の前田健太
2010年
シーズンに入ると大竹、セットアッパーのマイク・シュルツ、守護神・永川が故障で離脱、4年目の前田健太が最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠に輝き、孤軍奮闘したが、チーム防御率は前年から1点以上悪化するなど、投手陣が崩壊。また、攻撃では梵英心が盗塁王に輝くなど、チーム盗塁数はリーグ最多だったが、主砲・栗原が故障で離脱、前年3番の天谷宗一郎や新戦力のジャスティン・ヒューバーなど、主力が打撃不振で得点に結びつかず、その結果、対巨人戦で8連敗を含む6勝18敗、対中日戦では昨年に続き、11連敗を記録するなど、8勝16敗、対阪神で9勝15敗と3強に大きく負け越したことが影響し、ヤクルトを含む上位4チームに大きく離され、1度も3位争いに加われず、2年連続5位となった。
2011年
東日本大震災の影響で開幕が当初の3月25日から4月12日に変更となり、開幕直後は不振の前田健に代わり、新外国人のブライアン・バリントンデニス・サファテに新人の福井優也、打撃では4年目の丸佳浩が活躍し、一時は首位に立つなど、2位で交流戦を迎えたが、その交流戦ではリーグワーストの50イニング連続無得点、球団ワーストの4試合連続完封負けと打線が沈黙し、交流戦を最下位で終え、リーグ順位も5位に急降下、前半戦を5位で終える。後半戦に入ると、7月までわずか3本塁打の栗原が8月だけで9本塁打、25打点と活躍し月間MVPを獲得、チームも当時首位を走っていたヤクルトの急失速もあり、8月終了時点で首位と3.5ゲーム差の3位に浮上した。栗原は9月も好調を維持し、広島の打者として初めて2か月連続で月間MVPを獲得したがチームはサファテ、豊田清と救援陣の相次ぐ故障離脱などで6勝16敗1分けと大きく負け越し、Aクラス争いから脱落した。10月8日にはBクラスが確定し、結果は3年連続5位となった。
2012年
中日との開幕3連戦は2敗1分としたものの、巨人との本拠地での開幕戦では1988年以来の3連勝で4月6日の対横浜DeNAベイスターズ戦で前田健がノーヒットノーランを達成するなど、投手陣が球団新記録となる39回無失点[89]もあり、4月8日に一時首位に立つものの、その後は失速し、4月を11勝11敗の5分とした。4月25日に栗原が離脱するなど、故障者が続出、交流戦は10勝11敗3分の6位とし、7月16日に5割復帰するなど、交流戦以降14勝7敗で前半戦を1997年以来の3位で折り返す[90]。8月は5割で3位をキープしたものの、9月に入り15日から25日にかけて8連敗するなど、6勝17敗1分と負け越し[91]、9月29日の対阪神戦(甲子園)で敗れ、Bクラスが確定した[92]。最終的には首位巨人と26ゲーム、3位ヤクルトとは6.5ゲーム差の4位で終わった。野村祐輔が梵以来となる新人王となり、平成生まれでは初の受賞となった。
2013年
3月、オーナー代行に松田一宏が就任[93]。開幕対巨人3連戦で1分2敗に終わり、前年から続く東京ドームでの連敗記録(引き分けを挟む)を10に更新したのを含め[94]、2008年以来5年ぶりの開幕から4連敗とつまずく[95]。4月13日に前田健太がナゴヤドームでは2010年開幕戦以来となる勝利を挙げようやく勝率5割に戻すが、同じ試合で5試合連続2桁三振のリーグタイ記録を作るなど[96]、必ずしも調子は上向かず、同月18日の試合終了後に2度目の勝率5割となり、翌19日に借金生活に戻って以降、レギュラーシーズン終了まで一度も勝率5割に戻ることはなかった。交流戦は11勝13敗で西武と同率の8位[97]。中日、DeNAとの3位争いとなるが、前半はオールスター直前の試合に敗れ、5位で折り返す[98]。後半戦は8月13日に3位に浮上[99]してからも、引き続き中日、DeNAとの3位争いとなるが、9月10日から9月17日にかけて2009年以来4年ぶりの7連勝を記録[100]し、下位との差を広げた。なお、この連勝中の9月16日に4位中日の自力CSの可能性が消滅した[101]。9月24日、対中日戦(ナゴヤドーム)に勝利し、CSクリンチナンバーを2[102]として迎えた翌9月25日の対中日戦(ナゴヤドーム)に2対0で勝利し、1997年以来16年ぶりのAクラスと球団史上初のクライマックスシリーズ進出が決定し[103]、10月3日の対中日戦(マツダ)に3対5で敗れ、12年連続負け越しと3位が確定した[104]前田智徳菊地原毅が現役を引退した[105][106]。2位の阪神とのCSファーストステージ(甲子園)は2連勝でファイナルステージ進出を決めた[107]が、巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)では3連敗でCS敗退が決定[108]した。
2014年
前年に続き、巨人と阪神との優勝争いとなるが、9月26日の対阪神戦(マツダ)に敗れ、巨人の優勝が決まったが、同時に2年連続クライマックスシリーズ進出も決定した[109]。その後、阪神との2位争いとなったが、10月6日のシーズン最終戦の対巨人戦(マツダ)に敗れ、2年連続3位が確定した[110](なお、貯金を作ってのシーズン終了は2001年以来13年ぶり、貯金を作ってのAクラス入りは1996年以来18年ぶりである)。10月8日、野村謙二郎が監督辞任を球団に申し入れ、了承された[111]。阪神とのCSファーストステージ(甲子園)では、第2戦で延長12回表に0対0とされた時点で阪神の勝ち上がりが決定し、0勝1敗1分でCS敗退が決定[112]。10月15日に野村の後任に野手総合コーチの緒方孝市の就任が発表された[113]。11月14日に阪神を自由契約となった新井貴浩[114]、12月27日にニューヨーク・ヤンキースをFAとなった黒田博樹[115]が8年ぶりに復帰。

緒方監督時代

2015年
序盤は一時最下位に沈むなど、Bクラスに低迷し、特にリリーフ陣の救援失敗が多発した。6月19日、対DeNA戦に3-1で勝ち、球団通算4000勝を達成[116]、交流戦は9勝9敗で7位に終わった。交流戦明けには一時Aクラスの3位に立つも、結局5位で前半戦をターン、それでもこの年のセ・リーグは混戦だったこともあり、首位のDeNAとは2ゲーム差であった[117]。後半戦は巨人・阪神・ヤクルトを追い、9月15日には借金を完済して勝率を5割まで上げるものの[118]、その後も貯金を作れず、9月24日の対巨人戦で敗れ、リーグ優勝の可能性が消滅した[119]。その後は阪神とのCS進出争いとなったが、勝てばCS進出となる10月7日のシーズン最終戦の対中日戦に敗れ、2012年以来3年ぶりのBクラスと4位が確定した[120]。なお、先発投手の勝ち星はリーグトップの57勝を挙げ勝率でもトップだったが、救援勝敗は12勝20敗でセ・リーグの救援勝率では最下位であり、12球団でも11位の成績だった。オフに前田健太が沢村賞を受賞した後[121]ポスティングシステムロサンゼルス・ドジャースへ移籍[122]。外国人選手ではライネル・ロサリオデュアンテ・ヒースマイク・ザガースキー(DeNAに移籍)、ヘスス・グスマンネイト・シアーホルツが自由契約となった。中日を自由契約となったエクトル・ルナを獲得[123]
2016年
サヨナラ本塁打を放ちダイヤモンドを一周する鈴木誠也(2016年6月17日 マツダスタジアムにて)
1点差負けが20度以上あった昨年から前田のメジャー移籍で戦力低下が不安視されたが、3・4月に16勝12敗と好スタートを切って上位をキープすると交流戦は3位でセ・リーグ唯一の勝ち越し[124]。「1番・田中、2番・菊池、3番・丸」の「タナキクマル」と呼ばれる打順が定着すると鈴木誠也が2試合連続サヨナラ本塁打を含む3試合連続決勝本塁打を放ち、交流戦で3位に導いた。交流戦最後の6連戦から11連勝を飾って6月以降は首位を独走し、25年ぶりのリーグ優勝を達成した。クライマックスシリーズでは初進出(3位)のDeNAと対戦。4勝1敗(アドバンテージ1勝を含む)で日本シリーズ出場権を獲得した。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと対戦し広島で連勝したものの、この年に交流戦では勝ち越した敵地・札幌ドームで3戦全敗。セ・リーグ代表チームがビジターで6連敗[注 21]中だった流れを止められず、第6戦ではジェイ・ジャクソンが4-4で迎えた8回に西川遥輝中島卓也岡大海に3本の単打を浴びるとパ・リーグ打点王を獲得した中田翔に押し出しの四球、5番手投手のアンソニー・バースにセンター前タイムリー、パ・リーグ本塁打王を獲得したブランドン・レアードに満塁本塁打を浴びるという、一方的な展開となった。3番手以降の投手が踏ん張れずに第3戦以降全て敗戦投手となり[注 22]、2勝4敗で敗れ、32年ぶりの日本一とはならず、マツダスタジアムで胴上げを見守る結末となった。黒田博樹、廣瀬純倉義和が現役を引退した。
2017年
リーグ優勝後の胴上げの様子(2017年9月18日 阪神甲子園球場にて)
前々年の2015年がBクラス(4位)のため、当年に開幕権はなかったが、開幕権を保有していた阪神が返上したため、開幕戦をマツダスタジアムで迎えることとなった。開幕戦こそ落としたものの、その翌日から10連勝(1分けを挟む)[125]。交流戦はソフトバンクと並ぶ勝率1位で、ソフトバンクとの直接対戦成績が1勝2敗であったことにより、2位。公式戦は5月に2位となるものの、6月以降は首位を独走。9月18日に甲子園球場で阪神に勝ちリーグ優勝を決めた。なお、二軍も9月26日に阪神鳴尾浜球場で阪神に勝利し、ウ・リーグ優勝を決めた[126]
2年連続でリーグ優勝を収めたが、クライマックスシリーズではレギュラーシーズンで唯一負け越していたDeNAに2勝4敗(アドバンテージ1勝を含む)で敗れ、日本シリーズ進出はならなかった。
2018年
リーグ優勝後の胴上げの様子(2018年9月26日 マツダスタジアムにて)
開幕カード3連勝と好スタートを切ると4月24日以降は一度も首位を譲ることなく独走した。5、6月の交流戦こそ負け越したが、リーグ戦再開後も好調を維持し続けた。9月5日にベテランの新井が今季限りでの引退を表明した後に6連敗するなど一時調子を落としたが優位は変わらず、9月26日に球団史上初のリーグ3連覇、9度目の優勝を達成した[127]。セ・リーグの3連覇は巨人に次いで史上2球団目[128]。本拠地での優勝は1991年以来27年ぶり、2009年開場のマツダスタジアムでは初となった[129]
クライマックスシリーズではシーズン3位の巨人と対戦。4勝0敗(アドバンテージ1勝を含む)で昨年の雪辱を果たし日本シリーズ出場権を獲得した。福岡ソフトバンクとの日本シリーズでは甲斐拓也に6度も盗塁を阻止される等セ・リーグトップの95盗塁の機動力を完璧に封じられたのに加え、アウェー5連敗中(1991年当時の西武球場で2連敗、2016年の札幌ドームで3連敗)の敵地・福岡でこの年も3戦全敗し、マツダスタジアムに戻った第6戦で0-2で敗れ、日本シリーズ敗退となった。2年前の日本ハム戦同様、マツダスタジアムに戻っての第6戦で相手の胴上げを見守る結末だった。新井貴浩、天谷宗一郎が現役を引退した。丸佳浩がFA宣言し、5年25億円の大型契約を用意した巨人[130]福井優也菊池保則との交換トレードで楽天に移籍。外国人選手では来日7年目となり、外国人選手在籍年数の球団記録を更新したブラッド・エルドレッド、入団から3年間セットアッパーとして活躍したジェイ・ジャクソン、一軍での登板がわずか1試合に終わった来日1年目のレオネル・カンポスと契約を更新せずに退団した。
この年は平成最後のペナントレースだったため、広島は「平成最後のセ・リーグ優勝球団」となったが、日本シリーズ敗退のため、阪神と共に「平成時代に一度も日本一になれなかった球団」となった[注 23]
2019年
1月7日、丸が移籍した巨人から人的補償で長野久義を獲得。開幕後は丸の抜けた穴や大瀬良、田中の不調で負け越す等しばらくは下位に低迷していたが、5月には20勝で球団の月間勝利記録を更新と復調し[注 24]、交流戦前には首位に躍り出た。しかし、6月3日から始まった交流戦に入ると2勝1敗と勝ち越した楽天以外のチームには全て負け越し[132]、5勝12敗1分けと再び負けが込み、交流戦明けにかけて引き分けを挟んで11連敗と首位から陥落し、オールスター前には3位で終える。その後は一旦持ち直し、一時は首位巨人に1ゲーム差まで詰めるも、奪回する事は出来ず、8月にはバティスタがドーピング検査で陽性反応が出た事が発覚し、9月3日から半年間の出場資格禁止を余儀無くされた。9月になると負けが増え、バティスタが出場停止以降の試合は7勝9敗と失速し、9月19日のDeNA戦で敗れた事で。4連覇の夢が潰え、同時に猛迫してきた阪神にゲーム差を縮められる。永川勝浩が9月23日の引退試合を最後に現役を引退した。レギュラーシーズンは阪神より先に3位で終えたが、9月27日に行われた最終戦のホーム・中日戦で1-4で敗れ、自力で4年連続のクライマックスシリーズ進出を決める事が出来なかったのが祟り、6連勝した阪神に抜かれ、4位に転落し、2015年以来4年ぶりのBクラスが確定した。これを受け、監督の緒方が辞任を表明。後任に一軍投手コーチの佐々岡真司が就任する事が決まった。マツダスタジアムの入場者数は222万3619人であった[2]

佐々岡監督時代

2020年
新型コロナウイルスの影響で開幕が3か月遅れて開幕し、エースの大瀬良やクリス・ジョンソンなどの不調及びケガによる離脱、新守護神で獲得したテイラー・スコットが開幕から乱調など前年同様に投手陣、特にリリーフ陣の崩壊や僅差での試合を多く落として開幕から最下位を行き来するなど低迷した。10月2日のヤクルト戦に勝利したことで、最下位を脱出したものの、その後も好転せず、対巨人戦には2014年以来6年ぶりの負け越しを喫するなど、2011年以来9年ぶりの5位でシーズンを終え、2年連続Bクラスが確定した。しかしながらルーキーの森下暢仁が新人王を受賞する活躍を見せた。正捕手の石原慶幸が11月7日の引退試合を最後に現役を引退した。マツダスタジアムの入場者数は53万7857人と前年比で大幅減となったが、それでも12球団としては最多であった。この年、58年間トレーナーを務めた福永富雄が12月末で勇退した。
2021年
8選手、コーチ含む11人が新型コロナウイルス陽性と判定された。その直後に始まったセ・パ交流戦では3勝12敗3分と大きく負け越し、一時はリーグ最下位に転落した。後半戦は中日、DeNAとの最下位争いとなったが、10月以降は13勝7敗1分と大きく勝ち越し、最終的には4位でシーズンを終え、3年連続Bクラスが確定した。鈴木誠也が自信2度目の首位打者のタイトル、九里亜蓮が初めて最多勝利のタイトルを獲得した。ルーキーの栗林良吏(新人最多タイ記録となる37セーブを挙げ、新人王を受賞。防御率0.86)、5年目の坂倉将吾(初めて規定打席に到達し、リーグ2位の打率.315をマーク)、3年目の小園海斗(初めて規定打席に到達し、打率.298をマーク)、3年目の林晃汰(規定打席には届かなかったものの、10本塁打をマーク)が活躍するなど、若手の活躍が目立った1年でもあった。オフに新外国人としてドリュー・アンダーソンニク・ターリーライアン・マクブルームを獲得。鈴木がポスティングシステムでシカゴ・カブスに移籍。中継ぎ右腕としてチームを支えた今村猛が戦力外通告を受け、その後現役を引退した。
2022年

注釈

  1. ^ 球団設立の際に終戦からの復興という名目で公的資金が投入された。自治体プロスポーツという私企業に資本援助を行った例はカープ設立以外に他になかったが、1996年Jリーグアルビレックス新潟が設立される際に、同様に自治体が資本金援助を行った[4]
  2. ^ 現在の常務取締役球団本部長である鈴木清明はマツダからの出向である。
  3. ^ 第3位株主の「カルピオ」は広島東洋カープの完全子会社であるため、議決権を有しない。
  4. ^ 終戦直後、プロ野球を地方で行う場合、連絡先を務めた団体に「木曜会」というものがあり、これは共同通信社に本部を置く主な地方新聞社が集まり結成したもので、地方試合は、その土地の有力新聞社に興行を一任した。これはヤクザ関係興行団体の入る隙を与えないようにすることが狙いで、プロ野球が戦後、比較的健全な発達を遂げた理由の一つともいわれる。河口は「木曜会」の幹事で、カープ誕生以前の広島でのプロ野球開催は「木曜会」主催によるもの。広島大学設立資金の一部もここから拠出された[23][19][24][29]
  5. ^ 発起人代表。
  6. ^ 当初はパ・リーグに加盟申請したが、2リーグ分立の混乱と、当時パ・リーグの中心であった毎日オリオンズ大阪タイガースのパ・リーグ加盟に注力していた(プロ野球再編問題 (1949年)参照)ことで、広島の加盟申請は放置されてしまった。そのためセ・リーグに加盟申請したところ、すぐに受理されたものであった[31]
  7. ^ 同じくセ・リーグの新規球団であった大洋ホエールズ(親会社は大洋漁業)は選手獲得資金として6,000万円かけたが、広島の予算は800万円であったという[36]
  8. ^ 結成披露式で、石本秀一監督(手前)らカープ選手が一列に並ぶ中国新聞の写真位置は[6][39][40][41]、2017年8月30日放送『鯉のはなシアター』(広島ホームテレビ)第137回「特別編 鯉が歩んだあの場所は今」で[42]桝本壮志長谷部稔が当地を訪れ、長谷部が後方の福屋などとの位置関係から[39]広島中央警察署前の交差点あたりでないか」と話した[42]
  9. ^ 後に二軍選手達は労働基準監督署に訴えたが、「プロ野球選手は労働者に該当せず」と受け入れてもらえなかった。球団からは音沙汰なく、彼らはそのまま解雇となった[47]
  10. ^ 当時、球団は12月15日までに選手に対して、契約更改を書類で申し込む規則になっていたのだが、印刷会社の手違いにより、名古屋に帰郷していた長谷川には期日までに書類が届かなかったことに端を発する。
  11. ^ 具体的な処罰内容は決められておらず、「3割を切ったら自動的に解散と決めていた」という記述は誤りである。
  12. ^ この年は松竹ロビンスが最下位で、勝率は.288(34勝84敗2分)。規定通りロビンスは、旧・大洋ホエールズとの合併を余儀なくされた[56]。また、これとは別に、シーズン終了後の代表者会議で勝率3割を割った松竹に合併を申し入れたが拒否されている[57]
  13. ^ 白石のスカウトによって西鉄でくすぶっていた大和田明を獲得している。
  14. ^ 現在の日本記録は1978年から1997年にかけて南海ホークス→福岡ダイエーホークスが記録した19年連続。
  15. ^ 1979年と1980年の日本一時の相手の近鉄は1度も日本一にならず、2004年に消滅した。
  16. ^ ただし、プレーオフクライマックスシリーズなどの特殊ルールを除けば、日本一から最も長く遠ざかっているのは千葉ロッテマリーンズで、最後の日本一は毎日オリオンズ時代の1950年まで遡る。
  17. ^ この年後半戦開始時点で1位巨人と最大7.5ゲーム差を逆転しての優勝。
  18. ^ この年は勝率ではなく勝利数で優勝チームを決定していたため引き分けの数だけ試合数が増える(実質再試合制)のため勝利数の差=ゲーム差であった。
  19. ^ 8月19日からの本拠地での阪神3連戦はブラウン監督が母親の葬儀に参列するため一時帰国し、ジェフ・リブジー監督代行になった。その3試合目でリブジーが退場した後は小早川毅彦コーチが監督代行代理に就いた。
  20. ^ いずれも他球団への移籍を一度も挟むことなく、旧広島市民球場を本拠地としていた時代から一貫してカープに在籍し続けているフランチャイズ・プレイヤーでもある。
  21. ^ 2013年の日本シリーズで巨人が仙台での第7戦に敗れて以降2014年の阪神が福岡で3連敗、2015年の東京ヤクルトが同じく福岡で2連敗を喫している。
  22. ^ 第3戦が5番手の大瀬良。第4戦では3番手で、第6戦では4番手で登板したジャクソン。第5戦が4番手で登板した中崎。
  23. ^ 中日も巨人、ヤクルト、DeNAとは異なり、「リーグ優勝した上での日本一」には平成時代に一度もなっていない。
  24. ^ 月間20勝はNPBでも2002年8月に西武ライオンズが記録して以来17年ぶりであった[131]
  25. ^ プロ野球記録は1953年に大映スターズが記録した59イニング。
  26. ^ 同試合は後楽園球場で開催されたが、対戦相手の読売ジャイアンツに45打数25安打で打率.556と打ち込まれた[133]
  27. ^ ただし、チーム名として英単語を使用する場合には、文法上の複数形に関わらず語尾にsを付ける流儀があり、「カープス(Carps)」は間違いではない。実際、ナショナルホッケーリーグにはトロント・メープルリーフスというチームがある。leafにsを付けてチーム名としているが、文法上の複数形はleavesである。
  28. ^ スポーツ紙などの紙上見出しでは「コイ」の略称も見られる。
  29. ^ ユニフォームを赤に代えようとしたが、経費の都合でヘルメットと帽子のみになった。「我が道」山本浩二 スポーツニッポン 2010年10月14日より。
  30. ^ 純粋な外様は、監督では日本人では別当薫が、外国人を含めるとジョー・ルーツが最後。コーチ・二軍監督では芦沢真矢中利夫(登志雄)・伊勢孝夫片岡新之介らが在籍した。
  31. ^ 現在は主催試合を開催していないが、主にヤクルト主催のビジターとして対戦することがある。
  32. ^ そのため、1990年代にカープで主力選手として活躍した金本知憲は、歴代2位タイとなる33球場でホームランを打っている(歴代1位は山内一弘)。
  33. ^ パ・リーグ初の公式戦は、2000年5月20日・21日の西武ライオンズ対オリックス・ブルーウェーブ。
  34. ^ 福岡ソフトバンクホークス(2011年 - )、読売ジャイアンツ(2016年 - )[147]
  35. ^ 阪神が(唯一)日本一となったのは、広島が日本一となった翌年の1985年
  36. ^ 日本シリーズのナイター開催は、東京オリンピックとの兼ね合いで例外として開催された1964年を除き、1994年から導入。2016年に出場する以前は、最初の出場が1975年で最後の出場が1991年であり、全試合がデーゲーム開催であった。
  37. ^ 2016年以前の対戦相手は、阪急近鉄西武であるが、対戦当時の本拠地はいずれもオープン球場であった
  38. ^ 現に中畑清(当時・日本テレビ野球解説者)が日本テレビの特番『刑務所24時』の取材で広島刑務所を慰問中に緊急企画で中畑が巨人時代のユニフォームでソフトボールに出場し対戦し、刑務官や受刑者から拍手喝采を浴びた。
  39. ^ 当時とは異なりベルトレスではなくカバー付ベルト仕様に変更。
  40. ^ セ・リーグではスポンサー広告の掲示がホーム用ユニフォームにしか認められていないため。
  41. ^ 正確にはKが左右反転している。
  42. ^ 旧市民球場が開業した1957年と1958年には同球場での広島主管試合が開催された例。
  43. ^ 京セラドーム大阪で対阪神戦を開催している[166]
  44. ^ ただし当時はまだ1リーグ時代からの名残りで「フランチャイズ制度」の概念がなく、球団事務所所在都道府県であってもビジター(アウェー)扱いとなる試合は数多くあった(フランチャイズ制が正式に採用されたのは1952年から)。
  45. ^ 北海道日本ハムファイターズでは2006年以降使用休止となり、2009年から永久欠番になった。
  46. ^ ミッキーが登場した公式戦に限定すれば、カープは15勝7敗と大きく勝ち越している。
  47. ^ 大阪タイガース阪急軍ブラスバンド演奏は数々の文献に出ている。
  48. ^ トランペット応援の発祥がカープにあるという指摘は『プロ野球ヤジ講座』(おかひろみ編・自由国民社[208]、『巨人がプロ野球をダメにした』(海老沢泰久著・講談社[209]にも記述されている。
  49. ^ 試合途中で結果が出ていないときは「…今日カープは…」と歌われることもある。
  50. ^ a b 18時台は広島局のみ放送。山口松江鳥取岡山はローカルニュース終了後の18:59飛び乗り。
  51. ^ a b 2019年以降に山口・松江・鳥取・岡山では、総合テレビの木曜・金曜のレギュラー番組で人気番組が増加したことから、それらを優先する編成方針により同時ネットを見送る傾向がある。
  52. ^ 2015年までのナイター開催時はトップ中継は別制作(TBSチャンネル1ではこのメンバーで全編放送)で、リレー中継は地上波中継と同じメンバーが担当する形式だったが、2016年以降のデーゲーム開催は原則としてリレー中継のみ(13:30試合開始時はトップ&リレー中継)実施し、中国放送では16時以降も中継するが、地上波同時放送とはならず、TBSチャンネル1との同時放送となる。
  53. ^ 対阪神戦は毎日放送が、交流戦の対ソフトバンク戦はRKB毎日放送が各々スタッフを現地に派遣し(何れも年度によってはネット受けの場合あり)、対中日戦はCBCテレビが名古屋からのオフチューブで放送(2021年は広島県ではテレビ新広島が放送したため、中国放送の協力で映像の別制作を行った)。交流戦の対日本ハム戦については北海道放送が解説者やリポーターを派遣して同時ネットするか、別実況で放送するかのいずれかとなるが、後者の場合は乗り込みまたは札幌からのオフチューブのどちらかとなる。2002年には、開幕戦の対横浜戦をTBSテレビ(関東ローカル)とBS-i(現:BS-TBS)が両局共通の実況で中国放送とは別制作で放送。2003年までは地方開催のデーゲームをTBSテレビ主導の中国放送や開催地地元局との共同制作で関東・広島県・開催地・ビジター地元局などの任意ネットで放送したことがあった。
  54. ^ 番組タイトルの「完全カープ主義」は広島テレビ放送のステーションキャッチコピー(2015年1月 - )でもある。
  55. ^ 対阪神戦は読売テレビが別実況で放送。交流戦の対日本ハム戦は札幌テレビが、対ソフトバンク戦は福岡放送が何れもネット受けで放送。対中日戦を中京テレビで、交流戦の対楽天戦をミヤギテレビで何れも中継する場合はネット受け・別実況のどちらかとなる。
  56. ^ 対巨人戦のナイター中継・デーゲーム中継は日本テレビ・広島テレビで放送開始時間が異なるため、BS日テレ・日テレジータス向けの中継(地上波とは別制作)を前者は18時台のみ、後者は14時台のみに限り何れもネット受けで放送する(2018年以降はBS日テレ・日テレジータスのみで中継する試合もそのままネット受けで放送することがある)。また、対阪神戦のナイター中継では読売テレビでは18時台にトップナイターの編成を行っていないため、18時台は読売テレビからの裏送り放送となる他、年度により広島テレビが乗り込みによる別制作を行ったことがある。また対楽天戦では宮城県内で他系列またはNHKでの放送となった場合にも、球団制作映像の利用とミヤギテレビの制作協力で乗り込み自社制作を行ったことがある。
  57. ^ 2018年のみロッテ戦もロッテ球団制作でBS日テレで放送した。
  58. ^ 2012年までは要員の都合に応じてテレビ朝日と広島ホームテレビのどちらかが制作して、地上波広島県ローカルとの同時放送と衛星波単独放送のどちらかとしていた。
  59. ^ 対中日戦はメ~テレが、対阪神戦は朝日放送テレビが、交流戦の対ソフトバンク戦は九州朝日放送が各々スタッフを派遣し、同じく交流戦の対日本ハム戦は北海道テレビが札幌からのオフチューブで、対楽天戦は東日本放送が仙台からのオフチューブで各々中継。なお、2008年までは、テレビ朝日主導制作による一部地域ネットの週末デーゲーム中継(年度により広島ホームテレビが地元向けを別制作)が行われたほか、2018年は対阪神戦で朝日放送テレビとの共同制作による特別企画込みの同時ネットが企画されたが、雨天中止となった。
  60. ^ オリックス主催も同様の制作形態となるが、対広島戦は2021年までの時点で放送実績がない。
  61. ^ フジテレビTWO向けと実況を別制作のため、アナウンサーと解説者の両方またはどちらかがテレビ朝日からの派遣の場合あり。
  62. ^ ソフトバンク主催時は九州朝日放送(主にBS単独放送時)とテレビ朝日(主に福岡県または九州ブロックとの別制作時)のいずれかが制作するが、対広島戦は2021年までの時点で放送実績がない。
  63. ^ 対阪神戦は関西テレビがスタッフを派遣して別実況で放送。交流戦の対日本ハム戦は北海道文化放送で中継する場合は解説者(主に建山義紀)を派遣してのネット受け(年度によりリポーターも派遣)または別実況のどちらかとなる。対中日戦は2003年までに東海テレビが散発的に解説者・リポーター派遣の上でのネット受けまたは別実況のどちらかで行っただけだった(1991年には広島ホームテレビでの中継日に東海テレビがテレビ新広島の協力で、2021年はテレビ新広島の中継日にCBCテレビが中国放送の協力で1試合を別制作)。また、1990年代までは年度により週末のデーゲームをフジテレビ主導のテレビ新広島との共同制作でビジター地元局(対中日戦の東海テレビなど)を含む一部地域への任意ネットとして放送したことがあった。
  64. ^ リーグ優勝が懸かる試合や一部クライマックスシリーズの中継は広島県向けで放送。
  65. ^ 2021年からデーゲームと週末ナイターの放送を休止しているため。

出典

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  280. ^ a b 「○○山から雲が出た…」は上・中越地方特有の応援歌だった!
  281. ^ 応援歌「宮島さん」- 『お好みワイドひろしま』(NHK広島)(Internet Archive)
  282. ^ 広島)39年ぶり「燃える赤ヘル僕らのカープ」再録音、朝日新聞デジタル、2017年2月20日。






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