広島東洋カープ 概要

広島東洋カープ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/16 03:40 UTC 版)

概要

特定の親会社を持たない市民球団を源流としており[注 1]、他球団と比較して特異な歴史を有する[5][6][7][8][9][10][11]。地元・広島の自動車メーカーであるマツダが球団の3分の1以上の株式を保有する筆頭株主であり、球団名の「東洋」もマツダの旧社名「東洋工業」に由来する。ただし、マツダは広島東洋カープを「持分法を適用していない非連結子会社」と位置づけており[12] 親会社としての球団への資金提供(赤字補填など)など球団経営への積極関与は行っていない[13]。その一方で、マツダ創業家である松田家一族の所有株式を全て合わせるとマツダの所有比率を上回り、議決権ベースでは過半数に達する[14]。歴代のオーナーも松田家から出ていることから、実質的には同族経営を行っているという見方もある。市民が直接株式を保有するという意味での市民球団ではないが、特定の企業に全面依存せずに経営を成り立たせているという意味では今なお市民球団のイメージを有する[15][16][17][18][19]

球団の歴史

球団創設

セ・リーグ優勝記念碑(旧広島市民球場横「勝鯉の森」内)
撮影当時は2016年以降の成績が未刻印
旧広島市民球場・三塁側より 2004年3月14日(広島対ダイエー〈現ソフトバンク〉)撮影
1949年
正力松太郎二リーグ構想の前から広島に球団を作ろうという構想は存在していた[10][11][20]。広島は昔から野球に熱狂的な土地柄[21][22][23]。戦前から広島商広陵高呉港高といった名門校があり、鶴岡一人白石勝巳藤村富美男などの名選手が輩出した野球どころという下地があった[8][10][24][25][26]
正力の二リーグ構想が公に出た4月から[10][27][28]、4ヶ月後の8月中旬、中国新聞社東京支社長・河口豪は、東京支社から広島本社に帰る車中で、郷土の有力者、広島電鉄専務・伊藤信之、広島銀行副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の3名と顔を合わせた[29]。四人の話題はプロ野球の話に終始。広島は被爆後の闇市時代が続き、青少年の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が...と四人の意見が一致し、話が一挙に飛躍した[29][30]。河口は戦後、カープ誕生の前に広島でプロ野球の興行を手掛けた経験があり[注 2]、三人は河口に基本的な計画を立てるように依頼して別れた。3日後、銀座の東京支社に帰った河口のもとに広島二区選出の衆議院議員谷川昇金鯱軍代表の広島県人・山口勲が訪ねてきて、「谷川さんを中心に、広島にプロ球団を作ろうと思って相談に来たんですよ」と話した[30]。谷川は当時公職追放中で公務からは外されていた[11]。谷川は元々サッカー選手で野球とは無縁だったが[10]、山口に助力を要請され[31]、自身の名誉回復は二の次で、何より「故郷にプロ球団を創りたい」という情熱で動いていた[11][32]。先に伊藤らから賛同を得ていたこともあり、話はスムーズに進み、谷川を中心とした青写真作りを開始した[29]。谷川は実務は河口と山口に任せて、ニックネームの想を練った[29]。ブラックベア、レインボー、ピジョン、カープを有力候補としたが、は出世魚であるし、鯉のぼりは躍進の姿、太田川は鯉の名産地で広島城が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、と「広島カープ」と名付けた(詳細は後述)。谷川の要望で、中国新聞社が近く生まれる広島カープの宣伝を一手に引き受けることになり、河口の打診したところ中国新聞社代表取締役・築藤鞆一が大賛成した[29]
9月28日、中国新聞紙上に初めて「広島カープ (Hiroshima Carp)」という五文字が一般にお目見得した[29]。「チーム名は"鯉" 広島プロ球団誕生か」という見出しで、「チーム名はカープ(鯉)と決定した」と書かれた[28][29]。翌9月29日の同紙に「広島市にフランチャイズをおく広島野球クラブ・カープ(鯉)の創設は急速に進み、9月28日午後、谷川昇、築藤鞆一(中国新聞社代表取締役)、伊藤信之(広島電鉄専務)の3氏[注 3]連名をもって正式に日本野球連盟に届け出が行われた」と書かれた[28][33][29]。11月28日に谷川は巨人軍代表と会見し、正式にセ・リーグ参加承認の通知を受けた[注 4]。河口が早稲田大学出身のため、早大OBの伊達正男に監督を依頼するつもりでいたが[20]、中国新聞の記事を読んだ大陽ロビンス監督石本秀一が「郷里の球団で是非とも最後の花を咲かせたい」と河口に売り込みに訪れ[20][29]、郷土チームにうってつけの監督と、一も二もなく12月3日、初代監督に石本の就任が決定した[10][29][34]。この時、石本は「私が大陽の二軍選手をそっくり連れて行く。チーム作りに心配はかけません」と言うので[29]、チーム作りは石本に一任した[35]。石本の監督就任ニュースは大きな反響を呼んだ[29]。当時の既存チームの主力には広島出身者がたくさんいたため[8]、広島県民は「みんな帰って来たら強いチームが出来るだろう」ぐらいに考え、選手集めには楽観視していたといわれる[8]。設立資金は、広島県と広島市、福山市など県内の各市で出すことにした[35]。本拠地は広島総合球場とした。
核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく[注 5]、12月5日に広島商工会議所で開かれた球団発会式に参加し石本は、この時点で契約選手が1人もいない事実を知った。大陽ロビンスが松竹から資金援助を受け松竹ロビンスになるために、二軍選手の放出をストップしたからである[29]。球団幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なかった。石本は既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、12月29日、コーチにすると口説いて無理矢理入団させた灰山元治、投手では内藤幸三、野手では白石勝巳岩本章ら23人を入団選手として発表した[29]

1950年代

1950年
1月15日、西練兵場跡(現在の広島県庁一帯)でチーム結成披露式が行われ、ファン約1万人が押し寄せた[5][30][注 6]。カープ選手紹介の前に、カープ創設に努力したお偉方の祝辞が3時間以上続いた[29]。人気選手、前巨人の白石勝巳がまだ広島に到着していなかったので石本監督が一番有名であった[29]。選手は総勢20人にも満たない。当初遠目にながめていた人たちも選手がお披露目のキャッチボールを始めるとその周囲をグルリと取り囲んだ。続いてトスバッティングを演じたところ、大受け。こうして熱烈歓迎を受けて、空前絶後の"貧乏チーム"が誕生した[29]。この日は辻井弘ら7名の追加選手を発表している。翌16日には広島総合球場で新人採用テストが行われ[40]、この中にいた長谷川良平は即座に石本監督の目に止まり、21日に選手契約を結んでいる[7]。16日から合宿に入り、西日本重工業広島造船所(現・三菱重工業広島製作所、広島市西区観音新町)の社員寮を宿舎として借りた[20][30]。暖かいキャンプ地に行けるはずもないので、合宿所近くの広島総合球場を県の計らいで無料で2月1日からキャンプを張った[30]。石本監督は集金旅行(金策奔走)で忙しくて不在の日が多く、白石勝巳助監督が事実上の指揮官であった[30]。決して高額ではない合宿代も払えず、三菱重工から明け渡し請求を起こされ[11]、4月に合宿所は皆実町(現・南区)の「御幸荘」に引っ越す[10][30][32]
3月10日福岡市平和台野球場でセ・リーグ開幕戦が行われ、西日本パイレーツとのこの年から加盟の球団同士の公式戦初試合となったが、5-6で敗れている[33]。3月14日の国鉄戦で打線が奮起して16-1と球団初勝利を挙げたものの、その後チームは著しく低迷する。11月13日の大洋とのダブルヘッダーで共に敗れ13連敗を記録するなど惨憺さんたんたるチーム状況で、この年優勝した松竹ロビンスには59ゲーム差をつけられた8位(最下位)に沈んだ[41]。さらに勝率.299で、両リーグで唯一3割に到達できなかった。白石勝巳が遊撃手としてベストナインを受賞した。
この当時は試合で得た入場料(1試合あたり20万円)を開催地に関係なく、勝ったチームに7割、敗れたチームに3割配分していた[40]。そのため当初1100万円を見込んでいた入場料収入はチーム成績に比例して落ち込んでいった。さらに資本金調達については、県民から株式を公募する他、広島県や県内各市からの出資を見込んだ計画であったが、各自治体の予算執行が次年度に持ち越されたため、議会が金を出すのに難色を示した[35]。当初2,500万円を予定していた資本金は1950年4月の時点でわずかに600万円しかなかった。5月以降、ようやく各自治体からの出資が相次いだものの、最終的に予定額2,000万円の半分しか集まらなかった。このため「株式会社広島野球クラブ」が設立できたのは1950年9月までずれ込んだ[20]
こうして開幕から僅か3ヵ月で経営危機説が流れるようになった[42]。5月の時点で早くも選手に支払う給料の遅配が発生、2軍選手にいたっては給料が支払われたのは4月のみだった。130~140万円相当のユニフォームや、グローブなど、野球用具一式を運動具店に納入させたものの代金が払えず、その運動具店を倒産させた[20]
6月25日、セ・リーグ連盟は加盟金300万円の支払いを求めてきたが、これに応じることができなかったため、やむを得ず経営合理化策として給料の支払いが滞っていた2軍選手全員を汽車賃だけ渡して郷里に帰らせている[注 7]。さらに7月12日に竹原市出身の池田勇人大蔵大臣に「後援会会長」の名目で球団幹部に就任してもらうことで、ようやく連盟からの督促を回避した。リーグ加盟金300万円は足かけ3年間支払えなかった[20]
12月7日、選手会は球団に対して「給料の遅配を解消すること」を旨とした要望書を提出し、受け入れられない場合は全選手退団も辞さないと通告した。これに対して12月26日、球団側は12月分の給料支払いとチーム再建策を選手会に提示し、ようやく選手会も了承した。
1951年
年明け早々、セ・リーグ連盟顧問に就任したばかりの鈴木龍二が、日刊スポーツ1月9日付け紙上で、2年目も資本の強化などの経営改善の見込みがないカープと西日本パイレーツに対して、「われわれは潰そうとしていない、何らかの形で残したいというのが希望だ。だから広島は大洋の傘下に入って"広島"とか"カープ"の名を残せばいい。西日本は今年どうしてもやっていけないなら"1年間休めばいい"」などと猛烈に批判した[42]

球団は前年からの経済的苦境を脱するため親会社を持とうと、まずは寿屋サントリーに相談を持ちかけ、600万円で球団買収することで話がまとまったものの、「1年間の税金6,000万円のうち600万円を値切ること」を条件に求められ、後援会会長の大蔵大臣池田勇人に許可を求めたが「国家に仕える身でもあり、まかりならぬ」と却下されてしまった。続いて専売公社に話を持ち込み、こちらも買収に前向きな回答をもらったものの、「公社が球団を持つことに池田大臣の許可を貰うよう」条件を付けられ、結果「特例は認められない」と、またしても却下されてしまった。最後にはアサヒビールに売り込み、重役会では球団買収が承認されたものの、社長の最終決裁で却下されてしまった[44]

こうして親会社が決まらないまま2月に入ると、遂に給料や合宿費の支払いができなくなり、3月16日から甲子園で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められた。白石助監督が「旅費がないなら甲子園まで歩いていこうじゃないか。ワシについて来い。軍隊時代を思えばできないはずがない」と意気盛んだったが[20]、3月に球団社長の檜山袖四郎、球団代表代理の河口豪、大平正芳(後援会会長・池田勇人の代理)はセ・リーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」「早急に身売りしてはどうか」と厳しい叱責を受けた結果、3月14日、広島市の天城旅館で行われた役員会で当時下関市にチームがあった大洋との合併が決まり[41]、その日のNHKラジオが夜のニュースで「広島解散、大洋に吸収合併」と報じた[10][41]が、役員会に遅れて参加した石本らの説得で合併方針は撤回され、3月15日にナインは急行「安芸」で準公式トーナメント大会に出発。しかし旅館代がなく、選手は甲子園のアルプススタンド下の薄暗い部屋で雑魚寝した[20]

石本は3月16日の中国新聞紙上で「いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ぬだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい」と訴え[41][45][46]3月20日には広島県庁前で資金集めの後援会構想を発表した[41][47]3月15日、前述の準公式トーナメント大会の上阪に帯同していた球団代表代理の河口豪、石本秀一監督、球団監査役の横山周一は日本野球連盟関西支社において鈴木龍二セ・リーグ顧問と会談し、球団側は合併をせず継続させていく意思を伝えた。また、具体的な再建方策については、同月24、25日頃に池田勇人後援会長と永野重雄代表が連盟立会いのもとで協議することとなった。同15日に鈴木は甲子園球場の選手控え室を訪れ、チーム継続の了承を伝え、「セ・リーグとしては当初の予定通り7球団でペナント・レースのスタートを切る」と語っている[48]。こうして3月23日鈴木龍二セ・リーグ顧問と河口豪球団代表代理との会談でチーム存続が正式決定した[33]。しかし数日後、連盟側は急遽先述の継続承認の内容を反故にした。球団側としては、連盟側がそれまでに要求してきた地元広島開催を除く過密なスケジュールを受け入れていたにも関わらず、チームとして安定的に試合を行えるようにさらに600万円の拠出金を要求してきた。この要求に対して球団側は、15日の鈴木談話と「全くくつがえっている」として、3月28日に開催された連盟の代表者会議にも出席しなかった。この代表者会議欠席がきっかけとなり、セ・リーグは第2節までのカープの公式戦日程を認めないという「日程延期問題」が発生した[49]。 連盟の通告を受けて、檜山袖四郎球団社長は3月30日に広島商工会議所において重役会を開き、「広島としてはあくまで既定方針通りにやってゆく。檜山社長が上京し連盟首脳と話合う」ことで決定した。翌31日に檜山は上京し、連盟当局者や在京の広島県出身の有力者にも積極的にあたり、4月2日に連盟の松島鹿夫セ・リーグ会長と会談し、球団側と連盟側の折り合いがついたことにより[50]、4月2日に棚上げしていた公式戦の開催を正式決定した[41]。これらの事情から、この年の広島の公式戦の開幕は他より9日遅れて、4月7日の広島での対大阪タイガース戦となった[33]

石本監督が発案した後援会には職場単位、あるいは個人での入会者が後を絶たず、「おらがチームを潰すな」の純粋な思いで子どもはなけなしの小遣いを、大人は酒代、タバコ代を削って金を出した[8][41]。石本監督はシーズン中も試合の采配は助監督の白石に任せて、自身は球団の苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回り辻説法、さらには中国新聞に資金調達の必要性を訴える投稿を続けた[7][32][34]。また石本や白石は試合後に選手を連れてあっちの町内、こっちの町内へ出向いて講演会をしたり、歌をうたったり、カープグッズ第1号ともいわれる"カープ鉛筆"を売ったりした[11][35][40][51][52]。その結果、7月29日の国鉄戦直前にセレモニーが開かれ、カープ後援会は正式に発足した。この時、既にカープ後援会は1万3千人の会員数に達しており、本拠地広島総合球場前での酒樽の中にカンパする「樽募金」も合わせ1951年末までに集まった支援金は約440万円(当時)[52]。その結果、この年130万円の黒字を計上した[41]。この一件は、通称昭和の樽募金と呼ばれ、2001年5月1日放送のNHKプロジェクトX〜挑戦者たち〜』で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた[10]
しかし、前年度クリーンナップとしてチーム最多の21本塁打・72打点を記録した樋笠一夫が契約でもめた末オフに退団し、シーズン途中に巨人に移籍してしまうなど、前年に引き続きペナントレースは苦戦を続け、チーム成績は2年連続の最下位に終わった。この年は西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパースに吸収合併されたことで、7球団による20回総当り戦の120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日(日米野球)があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。特に広島は最下位決定の後、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった[53]
12月25日には、エースの長谷川良平が自由契約選手として名古屋ドラゴンズへの移籍を表明する[54]が、翌年3月10日のコミッショナー裁定により長谷川の広島復帰が決まっている[33]
1952年
開幕前、同年のシーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされた[20][55]。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれており[注 8]、設立より2年連続最下位だった弱小貧乏球団の広島潰しが狙いであった[20][55]
開幕試合(3月21日)の松竹戦は3-1で勝利して幸先良いスタートを切ったものの、3月23日の同じく松竹戦から7連敗、5月15日の巨人戦から7連敗、さらに7月15日の大洋戦からは8連敗を喫して、7月27日の時点で13勝46敗2分(勝率.220)と最下位に沈んでいた。だが、そこから選手が奮起し、残り試合を24勝34敗1分で乗り切り、シーズン勝率.316(37勝80敗3分)を達成、処罰を免れた[注 9]長谷川良平杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ、さらに杉浦は防御率でセ・リーグ9位に入ったが、これは球団として初の投手ベスト10入りとなった。
なお、この年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになった。これにより広島で圧倒的な人気を誇ったカープは、球団収入の安定化に目途が立つことになった。
10月15日、後援会が「松竹の小鶴・金山らを広島へ」を合言葉に1,000万円募金を行うことを決定する。またこれら動きとは別に、シーズン終了後の代表者会議で勝率3割を割った松竹に合併を申し入れたが拒否されている(最終的には松竹は大洋ホエールズと合併して大洋松竹ロビンスとなった)[56]
1953年
松竹から赤嶺昌志一派小鶴誠金山次郎三村勲)が集団で移籍した。後援会は外国人選手を獲得するため更に400万円を集め、その結果、日系二世選手である銭村兄弟(銭村健三銭村健四)・光吉勉が入団した。
さらにオールスターのファン投票では、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手が選出。競争になれば大都市には敵わないため、後援会会員は投票最終日に一斉投票を行っており、「集団投票事件」などと批判を浴びた。
なお5月1日、球団役員会にて、球団と後援会を1本化し、石本監督は「総監督兼常務取締役」として球団運営に専念し、助監督の白石が選手兼任で監督に昇格することが決定。5月3日の国鉄戦が石本の最後の指揮となった(試合は7-1で勝利)。
また、1952年から53年はユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけだった。このユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
1954年
この年はチームの若返りを図り、前年から7人が退団し、新たに19人が入団している。また、発足したばかりの新日本リーグに、二軍(広島グリーンズ)が参加した。
この頃になると球団の財政事情は明るくなってきたものの、首脳陣は監督の白石以外にコーチがおらず、シーズンオフには白石が選手をスカウトしたり[注 10]、キャンプでは白石自ら外野でボールの球拾いという状況であった[57]
新婚旅行のため来日していたジョー・ディマジオマリリン・モンロー夫妻が2月11日広島入りし、広島に4日間滞在[58][59]。宮島口(現:廿日市市)の一茶苑と広島市内の三瀧荘に宿泊し[58]広島平和記念公園やABCC(現:放射線影響研究所)などを訪問[60][61]。12日から2日間にわたり、ディマジオ、ボビー・ブラウン、フランク・オドール広島県総合球場でカープナインに野球指導を行った[7][58][59][60][62]
シーズンは、開幕7連敗を喫する最悪のスタートとなったものの、9月22日、23日の巨人戦で3連勝するなど後半戦は追い上げて、4位(56勝69敗5分)を確保した。
1955年
この年から助監督に門前真佐人、2軍監督に野崎泰一が就任する。
2月28日、カープの産みの親である谷川昇が衆議院選挙当選の報を聞きながら脳出血のため急逝する。
3月11日、日系2世の平山智が入団。シーズンは4位(58勝70敗2分)を確保し、長谷川良平が30勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得した。
また、この年は球団創設以来の「広島野球倶楽部」の負債が5,635万円まで達してしまい、もはや後援会の手にも負えなくなってしまった。そこで東洋工業社長の松田恒次の提案により、負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させて、新たに地元財界の協力を得た新会社を設立することが決定。12月17日、広島野球倶楽部は臨時株主総会を開き、「発展的解消」を決議する。同日、中国新聞東京支社にいた球団代表の河口豪はスポーツ紙記者から「広島からカープは解散したと通信があったが事実か」と問われた際、「そんなバカげたことはない。新球場の設計が9分どおり出来ているのに解散はありえない」と芝居を打って広島市民球場 (初代)の設計図を公表している。
その結果、12月19日の第1回新会社発起人会を経て「株式会社広島カープ」(初代社長は広島電鉄の伊藤信之)が発足した。資本金は500万円(東洋工業、広島電鉄、中国新聞社など13社が出資)。
なお、セ・パ両リーグ理事会では「広島野球倶楽部解散により、選手の拘束力は無くなり彼らは自由契約になった(他球団が獲得できるようになった)」「新会社はリーグ加盟金を支払い直すべき」とパ・リーグから非難の声が上がるが、河口は既にセ・リーグ会長の鈴木竜二と話をつけており、またセ・リーグ理事は6人中4人が河口と同様に新聞出身者であり同情的であったことから、最終的に「会社の名称変更にすぎない」と押し切っている。
1956年
開幕から4連敗を喫するなど序盤戦から低迷し、5位(45勝82敗3分)に終わる。
5月20日、広島総合球場で開催された対読売ジャイアンツ戦で木戸美摸投手負傷事件が起こる。
7月17日、地元政官界の六者会談を経て、広島市民球場 (初代)の建設地が「旧二部隊営庭跡地」(現在の広島電鉄原爆ドーム前停留場横)に正式決定する。
1957年
1月14日、地元10社が広島市民球場の建設資金1億6千万円の寄付を広島市に申し入れ、2月22日に「旧二部隊営庭跡地」にて、新球場起工式が行われる。
7月22日、広島市民球場の完工式が行われ、引き続いて行われた点灯式にはファン1万5千人が詰めかける。7月24日に行われた新球場開幕試合の阪神戦では、初ナイターで集まった大観衆を前に1-15で大敗している。
シーズンは、白石監督の「闘志無き者は去れ」のスローガンの元、キャンプから猛練習を行った成果が出て、オールスター戦までは32勝26敗と健闘したものの、後半に入って失速し、最終的には54勝75敗1分の5位に終わっている。
1958年
広島市民球場が完成した結果、観客動員数が大幅増となり球団財政にゆとりが出来たこともあって大補強を敢行する。その結果、古葉毅森永勝治小坂佳隆鵜狩道夫拝藤宣雄大和田明ら、1960年代のチームを支える人材が一斉入団した。一方で「立教三羽烏」とうたわれた長嶋茂雄杉浦忠本屋敷錦吾の獲得にも動いたが、彼らは入団の意志は見せなかった。
また、1950年の灰山元章以来、8年ぶりにコーチを置いた(ヘッドコーチに門前真佐人、コーチに野崎泰一藤村隆男)。7月10日には、総工費1,700万円をかけた自前の選手寮「三省寮」が完成する。同月29日には、広島では初となるオールスター戦が開かれた。
シーズンは、4月8日の中日戦から6連敗、同月24日の阪神戦から10連敗を喫するなど前半戦の不調がたたって、5位(54勝68敗8分)に終わった。シーズン終了後の12月26日小鶴誠がチーム若返り策により引退を表明する。
1959年
この年は、新人とトレードを合わせて19人もの補強を敢行する。その結果、チームの平均年齢が21.9歳と、当時12球団で最も若いチームとなった。また広島市民球場(初代)で行われた春のキャンプでは、球団初のピッチングマシンを導入している。
2月19日、新しい球団旗を発表。この球団旗は以降、変更されていない。
5月7日の対大阪タイガース戦で球団通算500勝を達成。8月には二軍がウエスタン・リーグ初優勝達成[63]
シーズンは、前年に引き続き5位に終わったものの、勝敗は59勝64敗7分であり、勝率.481は過去最高であった。主軸に座った大和田明は、樋笠一夫の持つ球団記録21本塁打を塗り替える23本塁打を放っている。またこの年の観客動員数は862,965人と、12球団中、巨人に次ぐ2位の集客力を見せた。

1960年代

1960年
1月11日、河口豪球団代表が辞任、後任は山本正房中国新聞社社長。
この年、球団創設11年目で初めてシーズンで巨人に勝ち越し(17勝8敗1分)、勝率も5割台を達成(62勝61敗7分)する。大石清が球団3人目となるシーズン20勝超え(26勝13敗)し、興津立雄は打率2割6分8厘・21本塁打・64打点の成績を残してチーム3冠王となった。1953年以来7年間指揮をとった白石監督はシーズン終了直後の10月6日に、「チームの地固めは出来た」として退任を発表。
1962年
門前眞佐人が監督を務めたが、いずれのシーズンも勝率5割を割り辞任。
前年に現役を引退した上田利治がコーチに就任。専任コーチとしては日本プロ野球史上最年少の25歳で就任している。
1963年
門前に代わる新監督として小鶴誠を招聘しようとするが球団役員の意志統一が出来なかったため、球団社長の伊藤信之が辞任。後任に東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が就任し、白石勝巳が再び監督となる。
1964年
5月5日の対巨人戦(後楽園)において、巨人の王貞治を抑え込む作戦として白石監督考案の王シフトが初めて使われる[63]
1965年
5月1日、対大洋戦(川崎)に勝利し、球団初の単独首位に立つが、翌日には首位陥落で一日天下に終わり[63]、このシーズンは首位巨人と31ゲーム差の5位で終わる。
1966年
6月5日、広島総合球場で開催された対阪神戦で山本一義が死球を受けたため一部のファンが暴徒化。一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の怪我を負う事件が発生。そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。
1963年から1965年7月まで、白石が2度目の監督を担当、1965年7月からは長谷川良平が監督を務めた。
1968年
東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が筆頭株主となりオーナーに就任。松田耕平がオーナー代行に就任。球団名を広島東洋カープに改称。市民球団としての体裁を保ちつつも、東洋工業をメインスポンサーとしつつ、大半の株を松田家が持つ同族経営球団となる。根本陸夫が監督に就任。根本はトレードでベテランの山内一弘を獲得する。大打者であった山内を選手たちに見せることで、チームを活性化させるのが狙いだった[64]
阪神との開幕3連戦に連勝し首位でスタートするも、5月に7連敗で一時3位に転落。しかし6月には首位に返り咲き、12連敗がスタートする7月初めまで守った。外木場義郎安仁屋宗八両投手、野手では山内の活躍もあって3位となり、球団創立19年目にして初のAクラス入りを果たした。球団創立1年目(1950年)から1967年までの18年連続Bクラスは、当時の日本記録で、現在でもセ・リーグワースト記録[注 11]。なおシーズン中に12連敗してのAクラスはプロ野球史上唯一。
1969年
前年とは一転し、8月に11連敗するなどで最下位に終わる。根本時代は、当時巨人がV9時代を迎えていることもあり、成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄山本浩司YK砲水谷実雄ら、後の「赤ヘル軍団」フィーバーを巻き起こし中核を成した選手の台頭を促した。
シーズン後、当時の監督である根本陸夫とチーム強化の方針をめぐっての意見の対立から上田利治コーチが退団している。

1970年代前半

1970年1971年
2年連続でシーズンを勝ち越し4位と健闘。1970年10月19日より衣笠祥雄の連続試合出場が始まっている。11月15日に松田恒次オーナーが死去、後任オーナーには、オーナー代行の松田耕平が就任[65]
1972年
開幕から不振が続いて根本はシーズン途中で監督を休養、森永勝也打撃コーチが代行を務める。この年は、最下位に終わる。
1973年
別当薫が監督に就任する。開幕から6月頃までは大洋とともに首位争いの主導権を握り、前半戦こそ2位で折り返したが後半戦は急失速し最下位。しかし、結果的にリーグ優勝しV9を達成した巨人と最下位の広島までのゲーム差が6という大混戦だった。
1974年
チームは最下位に終わるも金城基泰が最多勝・最多奪三振を獲得。しかし、10月12日に交通事故に遭い、あわや失明の重傷を負う。同年オフ、監督・森永勝也の退団および打撃コーチ・ジョー・ルーツの次期監督就任を発表。
1958年に胸ロゴが赤い縁取りとなったユニフォームを着用していたが、1973年に、ユニフォームがニット式のベルトレスに変更され、胸文字・胸番号・背番号に赤の縁取り、袖・腰・ストッキングに赤色のラインが入る。この「赤」は、後にチームカラーとなる。

ルーツ、古葉監督時代

1975年
球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツが監督に就任。「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、燃える闘志を表す意味をこめて球団に赤を基調とする新ユニフォームを提案するが、既にシーズン用のユニフォームは出来上がっており変更可能な帽子・ヘルメットの色だけ紺色から赤になった。
しかし開幕早々の4月27日の対阪神戦において佐伯和司の投球判定を巡って猛抗議、試合のボイコットを起こす騒動となった。この時、重松良典球団代表が試合続行を指示したため、試合中の介入に不満を持ったルーツは4月30日に監督辞任、5月2日までの代行にコーチの野崎泰一が就き、翌5月3日古葉竹識がコーチから監督に就任[66]。この年のオールスターゲームの第1戦(甲子園)では山本浩二衣笠祥雄が共に1試合2本塁打を記録するなど、「赤ヘル旋風」を巻き起こした[66]
中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、9月10日の対中日戦(広島市民)では乱闘事件があったものの[7][67]10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目で初優勝を達成した。この時の先発は外木場義郎で、ウイニングボールを捕ったのはレフトの水谷[68]。結果的に2位中日と4.5ゲーム差、3位阪神と6ゲーム差と大混戦だった。日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦するも4敗2分で敗退。この年の首位打者となった山本浩二や衣笠祥雄、最多勝外木場義郎、盗塁王の大下剛史らの活躍が目立った。優勝後、平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集めた。この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破した[69]。またこの年は春に山陽新幹線岡山駅から博多駅まで延伸開業し、チームの遠征時の列車乗車時間が大幅に短縮された。これを振り返って、外木場は「カープが優勝できたのは新幹線のおかげ」とも語っている[70]
経営面では創設以来の累積赤字をこの年解消している。
1976年
池谷公二郎が20勝を挙げ最多勝と沢村賞。巨人・阪神との優勝争いに加われず当初は山本浩二の不振もあって低迷。9月は11連敗も記録。最後はかろうじて3位に。
1977年
5位に終わった。胸文字・胸番号・背番号・アンダーシャツ・ストッキングが赤一色になり、この年から“カープ=赤”が定着する。12月23日江夏豊南海ホークスより移籍[71]。南海の監督だった野村克也(古葉は南海でプレーし野村と親交があった)が古葉に「(江夏は)まだ使えるよ」と太鼓判を押したという[72]高橋里が20勝。3年連続同一チームから最多勝投手を輩出。セでは以降なし。一方前年の最多勝池谷投手はシーズン最多被本塁打48(歴代1位)の記録も。
1978年
カープ打線が最も破壊力を発揮したシーズンで、この年のチーム205本塁打は日本プロ野球記録を更新。44本の山本浩二や、40本のヘンリー・ギャレット、33本のジム・ライトル、30本の衣笠祥雄など4人が30本以上を記録した[73]。また打点692、得点713は、ラビットボールを使用して本塁打の増えた1948年から1950年を除いてのプロ野球最多得点であった。しかし前半戦は苦戦が続き、首位巨人に10.5ゲーム差をつけられ、5位に沈む。後半戦は投打がかみ合い、31勝13敗7分と驚異的な追い上げを見せるも、巨人を逆転して優勝したヤクルトスワローズと5ゲーム差で、何とか3位を確保するにとどまった。
1979年
開幕前から独走が予想されたが、開幕は4連敗スタート、序盤は苦戦が続いた。しかし、衣笠の死球による亀裂骨折や、高橋慶彦の33試合連続安打でチームに勢いが付き、8月になり一気に首位に立つと4年ぶり2度目のリーグ制覇。日本シリーズでは、近鉄バファローズを4勝3敗で下し、悲願の日本一を達成する。第7戦では、江夏がノーアウト満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け日本一に導く(江夏の21球[74]
1980年
この年は前年とは打って変わり序盤から首位を独走し続け、2位以下に大差をつけて球団初の連覇を達成。勢いそのままに、近鉄を4勝3敗で下し、日本シリーズ2連覇を成し遂げた[74]。同年オフ、江夏豊と日本ハムのエース高橋直樹との大型トレードが成立。
1981年
この年は、序盤から苦戦が続き、期待の高橋直樹がわずか2勝、一時は最下位に沈むなど、8月終了時点で46勝48敗6分の4位と、首位巨人に12.5ゲーム差をつけられる。9月に15勝3敗と驚異的な追い上げを見せるも、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わり、3連覇を逃す。
1982年
山本が無冠に終わるなど打線が振るわず、結果は4位に終わる(1980年代唯一のBクラス)が優勝した中日に11勝9敗6分と勝ち越した。オフにテコ入れとして福士敬章内田順三金田留広らに戦力外通告、水沼四郎中日へトレード、水谷実雄阪急ブレーブス加藤英司との大型トレードを敢行するなどV戦士放出を敢行。北別府学が初の最多勝、津田恒美が活躍し、球団初の新人王を獲得。
1983年
7月終了時点まで巨人と首位争いを演じるも、8月に4連敗を2度喫するなど5勝14敗1分と失速、優勝した巨人と6ゲーム差の2位に終わる。
1984年
4月に12連勝を記録するなど、14勝2敗2分と開幕ダッシュに成功する。その後、中日の猛追にあい、首位を明け渡すと、8月終了時点で中日と1ゲーム差の2位となる。しかし、9月6日の阪神戦に勝利し、首位に返り咲くと、そのまま逃げ切り、4年ぶりのリーグ優勝。山本、衣笠に加え山根和夫北別府学大野豊ら投手が活躍。この年75勝を挙げたが、これは2016年に更新されるまで球団シーズン最多勝記録だった。西武から復帰の小林誠二が最優秀防御率。小早川毅彦が新人王。日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦し、4勝3敗で3度目の日本一。
1985年
サウスポーの高木宣宏がブレイクしオールスター前までに9勝を挙げるも後半不調に陥る。2年目の川端順が新人王。高橋慶彦が5年ぶり3度目の盗塁王。8月まで阪神、巨人と優勝争いを演じていたが、9月に阪神との直接対決に連敗し、7連敗を喫するなど失速し、最終的には優勝した阪神と7ゲーム差の2位に終わる。この年優勝した阪神には15勝11敗、同じく優勝争いをした巨人にも14勝12敗と勝ち越したものの、阪神が17勝6敗3分と大きく勝ち越した大洋に対し10勝14敗2分と負け越したのが響いた。古葉がこの年限りで監督を勇退した。同年、松田元がオーナー代行に就任している。

阿南監督時代

1986年
阿南準郎が監督となり、阿南は「『山本浩二監督』実現までのつなぎ」と言われたが[75]、就任1年目にリーグ優勝を果たす[注 12]。レギュラーが固定され不動のオーダーと言われた。北別府が投手部門のタイトルを総なめ。長冨浩志が新人王。日本シリーズでは西武ライオンズと対戦し初戦引き分けの後3連勝するも、第5戦で津田が投手の工藤公康にサヨナラタイムリーを打たれて敗れたのをきっかけに流れが変わり、第8戦まで縺れ込んだものの3勝4敗1分で敗退となった。
前年とこの年はチームに外国人選手は在籍しておらず、スターティングメンバーも「純国産打線」であった。また、この年限りで長年チームの4番を務めてきた山本が引退し、1990年代前半までチームは4番不足に悩まされるようになった。
1987年
6月13日、衣笠がルー・ゲーリッグの2130連続試合出場の世界記録(当時)を更新、衣笠はこの年の最終戦までに2215まで記録を伸ばし現役を引退した。4番打者は5月末まではランス、その後小早川、もしくは片岡光宏が務めた。正田耕三が首位打者、ランスが本塁打王を獲得、優勝した巨人に11勝10敗5分と勝ち越しするも3位に終わる。
1988年
2年連続の3位に終わる。正田が2年連続の首位打者、大野が防御率1.70で最優秀防御率と沢村賞を受賞、阿南が監督を退任した。同年オフ、山本浩二が監督に就任。

第1次山本監督時代

1989年
新外国人のロッド・アレンウェイド・ロードンが加入。アレンが故障で離脱するもロードン、小早川、西田真二もしくは長内孝でクリーンナップを形成した。津田が最優秀救援投手に輝いたが優勝した巨人と9ゲーム差の2位に終わる。
1990年
野村謙二郎がトップバッターに定着し盗塁王に輝く。2年目のアレンが好調も新加入のマイク・ヤング高沢秀昭が奮わず開幕直後から巨人に独走を許し、結果的に優勝した巨人と22ゲーム差離され2年連続の2位に終わった。
1991年
この年リリーフ強化のために山本監督は津田と大野のダブルストッパー構想を打ち出した。しかし、4月に津田が戦線を離脱し闘病生活に入る(この年の11月津田は現役引退)。津田の穴を埋めるべく大野が一人抑えとしてリリーフを支える。野手陣では野村謙二郎が高打率、盗塁王を獲得してチームを牽引けんいん。しかしチーム全体長打不足で絶対的4番が不在(チーム最多本塁打は規定打席に達していない江藤智の11本)の中、勝負強い西田真二山崎隆造などが少ないチャンスの中奮闘した(優勝を決めた試合も初回に西田のタイムリーの1点を9回まで守りきった)。2年目の前田智徳がレギュラーに定着、江藤も三塁手として出場し長打力の片鱗を覗かせた。投手陣は2年目の佐々岡真司MVP、最多勝、最優秀防御率、沢村賞に川口和久が最多奪三振、北別府が最高勝率となった。大野が最優秀救援投手を獲得するなど投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。投打にわたりチームのほとんどの選手を一軍起用する文字通り全員野球だった。リーグ優勝が本拠地だったので、ビールかけなど祝勝会は広島市民球場のグラウンドでファンが観客席にいる中で行われた。日本シリーズでは西武と対戦し、川口が4試合に奮投するなどし先に王手をかけたが、最終的には3勝4敗で敗退した。チームはこの年以降、2016年まで優勝から遠ざかることとなった。
1992年
この年はヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差と例年に見ぬ大混戦で、優勝争いはヤクルト・巨人・阪神との四つ巴となった。優勝したヤクルトとはわずか3ゲーム差であったが、同率2位だった巨人と阪神に僅か1勝の差で及ばずの4位[注 13] となったため、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。北別府が200勝を達成、達川光男が引退した。
1993年
7月20日、津田が脳腫瘍のため32歳で死去した。江藤智が初の本塁打王を獲得するも、前年97試合本塁を守っていた達川の引退による捕手の急な若返りの影響から捕手陣と投手陣がかみ合わず崩壊。前半戦は不調の投手陣を打撃陣がカバーして何とか5割前後を保っていたが、打撃陣に故障者が続出した後半戦は9月には25年ぶりの12連敗を喫するなどで急失速し、チームとして1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落、山本監督は責任を取って辞任した。山崎が引退、山本の後任監督には三村敏之が就任した。

三村監督時代

1994年
新任の三村監督は前年崩壊した投手陣を再編し主に中継ぎ投手だった紀藤真琴近藤芳久を先発に抜擢し、紀藤は16勝5敗で最高勝率を獲得した。近藤は巨人キラーとして活躍しシーズン11勝を挙げている。野手陣では控えだった金本知憲緒方孝市音重鎮等を積極的に起用、一定の成果を残した。前年苦しんだ捕手も西山秀二ゴールデングラブ賞・ベストナインを獲得する活躍をみせた。一時期は最下位から10連勝の快進撃で優勝争いに加わるものの、その後失速し3位に終わった。オフに川口和久が巨人にFA移籍、北別府が引退した。
1995年
この年のドラフト1位山内泰幸とカープアカデミー出身ロビンソン・チェコが大活躍した。しかし、主軸の前田が序盤戦でアキレス腱断裂の大怪我を負い、抑えの大野も不調でシーズン途中先発に回り、開幕投手を務めた佐々岡が抑えに回る等落ち着かない状況だった。チェコが15勝、山内が14勝で新人王、野村が3割30本30盗塁(最多安打のタイトルも取った)のトリプルスリーを達成した。江藤が2年ぶりの本塁打王・初の打点王、緒方が規定打席不足ながら初の盗塁王獲得し投打に目立った活躍をしながら怪我人や不調者が相次ぎ駒不足故に勝負どころで勝てず、一時は2.5ゲーム差に迫ったが首位ヤクルトの独走を許し6.0ゲーム差の2位に終わった。
1996年
チーム打率.281の打線とダイエーからテスト入団した加藤伸一、5年目の山崎健が大活躍で前半戦を首位で折り返すも、後半戦主砲の江藤が負傷でシーズン復帰が絶望、エース紀藤が後半6連続先発失敗と前年同様勝負どころで怪我人・不調者が出てしまい最大11.5ゲーム差をつけていた巨人に逆転され、最終的には中日にも抜かれ3位で終えた。江藤が最高出塁率、緒方が2年連続の盗塁王、ルイス・ロペスが打点王を獲得した。
1997年
野手陣では江藤が前年の大怪我の影響からか打撃守備に精彩を欠き、正捕手の西山も開幕早々怪我でリタイアした。緒方が3年連続盗塁王、ロペス2年連続打点王、他のレギュラー陣も数字は残したが3年連続で勝負どころで打てなかった。投手陣は前年合計41勝した山内、紀藤、加藤、山崎が合計で9勝に終わった(山崎は未勝利)が、代わりにこの年のドラフト1位の澤崎俊和、ドラフト2位の黒田博樹、3年目の横山竜士、8年目の高橋英樹が奮闘した。澤崎が新人王を獲得、横山がリリーフで10勝、黒田が6勝、高橋英樹が苦しい8月に4勝を挙げた。大野豊が42歳で史上最年長の最優秀防御率のタイトルを獲得したものの順位は3位ながら中日以外の4球団に負け越して貯金は作れず、この後貯金を作ってのAクラス入りは2014年まで達成できなかった。
1998年
新外国人のネイサン・ミンチー、この年のドラフト4位の小林幹英が活躍。前田も首位打者まで後少しの大接戦を繰り広げるが、5月頭までは好調だったがゴールデンウィークが終わる頃にはここまで支えていた投打の主力選手が軒並み不調・怪我人が出だし選手層の薄さから負けが込みだし、最終的には5球団全てに負け越しながらも借金15で5位に終わった。また、この年は神宮球場での試合は10戦全敗に終わった[76]
シーズン後に三村監督が退任、三村の後任監督は達川晃豊が就任した。この年限りで大野、正田が引退した。

達川監督時代

1999年 2000年

伝統の猛練習でチームの底上げを図るも慢性的な戦力不足の結果、99年は6月に13連敗、その後も連敗を繰り返し、この年ノーヒットノーランを達成した佐々岡以外全滅状態の投手陣、金本が自己最多本塁打を記録するも全体的に低調の打線[77]、5位に終わり、チーム防御率は3年連続リーグ最下位だったが優勝した中日には唯一、14勝13敗と勝ち越した。99年オフに江藤智はFAで巨人に移籍した。また、引退直後から就任していた大野投手コーチと正田守備走塁コーチ、8年ぶりに復帰した大下剛史ヘッドコーチも1年限りで辞任した。00年は3年連続の5位に終わり達川監督はわずか2年で辞任した。

第2次山本監督時代

2001年 2002年 2003年 2004年 2005年

山本が8年ぶりに監督として復帰した。しかし、チーム成績は2001年は5年ぶりに勝ち越し、勝率3位ながら勝利数で横浜を下回り4位に終わった[注 14]が巨人には6年ぶりに、阪神には5年ぶりに勝ち越した。2002年、2代目オーナー松田耕平が死去し、3代目オーナーにオーナー代行の松田元が就任する。2002年から2004年まで3年連続の5位(2004年は6位横浜とゲーム差なし)。元大洋4番・松原誠をチーフコーチに招聘し、新井貴浩が中軸打者に成長する。一方で金本知憲が2002年オフにはFAで阪神に移籍する。2003年では阪神が18年ぶりの優勝を果たしたため、広島は2003年から2015年までセ・リーグの中で最も優勝から遠ざっているチームとなった。2004年には嶋重宣が首位打者・最多安打・ベストナインを獲得している。

2005年には投手陣再生の切り札として安仁屋宗八コーチを招聘、新井が本塁打王を獲得し、エース格のジョン・ベイルを抑えに転向させるも初めての交流戦での失速や投手陣の不調が響いて最下位に転落した[78]。この年のシーズン終了後に山本監督が辞任、2000本安打を達成した野村も現役を引退した。

ブラウン監督時代

2006年
ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティ・ブラウンが監督に就任。戦力補強はチームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を図った。キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹が就任。
開幕戦から4月11日の巨人戦まで1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。しかし、その後も波に乗れず、黒田以外の先発投手が期待に応えられずに借金を増やし5位に終わった。
2007年
キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田であった。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割を維持していた。このシーズンからセ・リーグでは初となるプレーオフ制度(クライマックスシリーズ)が導入され、進出を目指したが、交流戦で最下位に沈み優勝争いから脱落。最終順位は前年と同じ5位に終わったが阪神には6年ぶりに、ヤクルトには7年ぶりに勝ち越した。
課題の投手陣では黒田以外にも大竹寛が先発として一定の成績を残したものの3番手以降が続かず、守護神・永川勝浩がたびたび救援失敗するなど中継ぎ陣も安定感を欠いた。チーム防御率もリーグワーストの4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。この年の日本シリーズでは中日(セ・リーグ2位からCSを突破)が53年ぶりに日本一となったため、広島は2013年で初めて日本一となった東北楽天ゴールデンイーグルスを含む12球団の中で最も日本一から遠ざっているチームとなった。シーズンオフに新井と黒田がFA宣言し新井は阪神に、黒田は大リーグ・ロサンゼルス・ドジャースに移籍した。
投打の柱を失った広島は思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。
2008年
苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、対巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、北京五輪での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に7年ぶりの4位となった[注 15]
延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、スピードアップ賞をチームで受賞した。
2009年
この年から、広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「トップス広島=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。本拠地も旧・広島市民球場から「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)(通称・マツダスタジアム)」に変更した。
オープン戦の最中に栗原健太WBC参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。
シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く、低迷状態に陥り、対中日戦では13連敗で球団記録を59年ぶりに更新した。しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0.5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し5位に終わる。Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったためブラウン監督と再契約せず退任が決定し、ブラウンは楽天の監督へ移籍した[79]。この年、緒方孝市が現役引退している。ブラウンの後任にOBの野村謙二郎が監督に就任した。チーム勝ち頭であったコルビー・ルイスが残留目前から一転して退団した。

野村監督時代

(動画) 広島東洋カープの前田健太
2010年
シーズンに入ると大竹、セットアッパーのマイク・シュルツ、守護神・永川が故障で離脱、4年目の前田健太が最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の三冠に輝き孤軍奮闘したが、チーム防御率は前年から1点以上悪化するなど、投手陣が崩壊。また攻撃では梵英心が盗塁王に輝くなどチーム盗塁数はリーグ最多だったが、主砲・栗原が故障で離脱、前年3番の天谷宗一郎や新戦力のジャスティン・ヒューバーなど主力が打撃不振で得点に結びつかず、その結果、対巨人戦で8連敗を含む6勝18敗、対中日戦では昨年に続き11連敗記録するなど8勝16敗、対阪神で9勝15敗と3強に大きく負け越したことが影響し、ヤクルトを含む上位4チームに大きく離され1度も3位争いに加われずに2年連続の5位となった。
2011年
東日本大震災の影響で開幕が当初の3月25日から4月12日に変更となり、開幕直後は不振の前田健に代わり新加入のブライアン・バリントンデニス・サファテに新人の福井優也、打撃では4年目の丸佳浩が活躍し、一時は首位に立つなど2位で交流戦を迎えたがその交流戦ではリーグワーストの50イニング連続無得点、球団ワーストの4試合連続完封負けと打線が沈黙し、交流戦を最下位で終えリーグ順位も5位に急降下、前半戦を5位で終える。後半戦に入ると、7月までわずか3本塁打の栗原が8月だけで9本塁打、25打点と活躍し月間MVPを獲得、チームも当時首位を走っていたヤクルトの急失速もあり、8月終了時点で首位と3.5ゲーム差の3位に浮上した。栗原は9月も好調を維持し、広島の打者として初めて2か月連続で月間MVPを獲得したがチームはサファテ、豊田清と救援陣の相次ぐ故障離脱などで6勝16敗1分けと大きく負け越しAクラス争いから脱落した。10月8日にはBクラスが確定され、結果は3年連続の5位に終わる。
2012年
[80]

中日との開幕3連戦は2敗1分としたものの、巨人との本拠地での開幕戦では1988年以来の3連勝で4月6日の対横浜DeNAベイスターズ戦で前田健がノーヒットノーランを達成するなど投手陣が球団新記録となる39回無失点[81] もあり、4月8日に一時首位に立つものの、その後は失速し4月を11勝11敗の5分とした。4月25日に栗原が離脱するなど故障者が続出、交流戦は10勝11敗3分の6位とし7月16日に5割復帰するなど、交流戦以降14勝7敗で前半戦を1997年以来の3位で折り返す[82]。8月は5割で3位をキープしたものの、9月に入り15日から25日にかけて8連敗するなど6勝17敗1分と負け越し[83]、9月29日の対阪神戦(甲子園)で敗れたことで、Bクラスが確定している[84]。最終的には首位巨人と26ゲーム、3位ヤクルトとは6.5ゲーム差の4位で終わっている。 なおこの時期を境に後に連覇に貢献する鈴木誠也、菊池涼介、丸佳浩らが入団、台頭し始め、野村祐輔が梵以来新人王となり、平成生まれでは初の受賞となった。

2013年
3月、オーナー代行に松田一宏が就任[85]。開幕対巨人3連戦で1分2敗に終わり、前年から続く東京ドームでの連敗記録(引き分けを挟む)を10に更新したのを含め[86]、2008年以来5年ぶりの開幕から4連敗とつまずく[87]。4月13日に、前田健太がナゴヤドームでは2010年開幕戦以来となる勝利を挙げようやく勝率5割に戻すが、同じ試合で5試合連続2桁三振のリーグタイ記録を作るなど[88] 必ずしも調子は上向かず、同月18日の試合終了後に2度目の勝率5割となり、翌19日に借金生活に戻って以降、レギュラーシーズン終了まで一度も勝率5割に戻ることはなかった。交流戦は11勝13敗で西武と同率の8位[89]。中日、DeNAとの3位争いとなるが、前半はオールスター直前の試合に敗れ5位で折り返す[90]。後半戦は8月13日に3位に浮上[91] してからも、引き続き中日、DeNAとの3位争いとなるが、9月10日から9月17日にかけて4年ぶりの7連勝を記録[92] し、下位との差を広げた。なお、この連勝中の9月16日に4位中日の自力CSの可能性が消滅した[93]9月24日、対中日戦(ナゴヤドーム)に勝利し、CSクリンチナンバーを2[94] として迎えた翌9月25日の対中日戦(ナゴヤドーム)に2対0で勝利し、16年ぶりのAクラスと球団史上初のクライマックスシリーズ進出が決定[95]、10月3日の対中日戦(マツダ)に3対5で敗れ、12年連続シーズン負け越しとレギュラーシーズン3位が確定した[96]。2位の阪神とのCSファーストステージ(甲子園)は2連勝でファイナルステージ進出を決めた[97] が、巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)では3連敗でCS敗退が決定[98] した。前田智徳菊地原毅が現役を引退した[99][100]
2014年
前年に続き巨人と阪神との優勝争いとなるが、9月26日の対阪神戦(マツダ)に敗れ、巨人の優勝が決まったが同時に広島の2年連続クライマックスシリーズ進出も決定した[101]。その後、阪神との2位争いとなったが、10月6日のシーズン最終戦の対巨人戦(マツダ)に敗れ、2年連続3位が確定した[102](なお貯金を作ってのシーズン終了は2001年以来13年ぶり、貯金を作ってのAクラス入りは1996年以来18年ぶりである)。10月8日、野村謙二郎が監督辞任を球団に申し入れ、了承された[103]。阪神とのCSファーストステージ(甲子園)では、第2戦で延長12回表に0対0とされた時点で阪神の勝ち上がりが決定し、0勝1敗1分でCS敗退が決定[104]10月15日に野村の後任に野手総合コーチの緒方孝市の就任が発表された[105]。11月14日に阪神から自由契約となった新井貴浩[106]、12月27日にヤンキースからFAとなった黒田博樹[107] が広島に復帰した。

緒方監督時代

2015年
序盤は一時最下位に沈むなどBクラスに低迷、特にリリーフ陣の救援失敗が多発した。
6月19日、対DeNA戦に3-1で勝ち、球団通算4000勝を達成[108]、交流戦は9勝9敗で7位に終わった。交流戦明けには一時Aクラスの3位に立つも、結局5位で前半戦をターン、それでもこの年のセ・リーグは混戦だったこともあり、首位のDeNAとは2ゲーム差であった[109]。後半戦は巨人・阪神・ヤクルトを追い、9月15日には借金を完済して勝率を5割まで上げるものの[110]、その後も貯金を作ることはできず9月24日の対巨人戦に敗れたことでリーグ優勝の可能性が消滅した[111]。その後は阪神とのCS進出争いとなったが、10月7日、勝てばCS進出となる対中日戦(シーズン最終戦)に敗北したことで3年ぶりのBクラス(4位)が確定した[112]。尚、先発投手の勝ち星はリーグトップの57勝を挙げ勝率でもトップだったが、救援勝敗は12勝20敗でこれはセ・リーグの救援勝率では最下位であり、12球団でも11位の成績で課題の残るシーズンとなった。オフに前田健太が沢村賞を受賞した後[113]ポスティングシステムロサンゼルス・ドジャースへ移籍[114]。今期加入した外国人はクリス・ジョンソンの他はパッとせず全員が退団。このうち、マイク・ザガースキーは2016年途中にDeNAに移籍している。中日を自由契約となったエクトル・ルナを獲得した[115]
2016年
サヨナラホームランを放ちダイヤモンドを一周する鈴木誠也(2016年6月17日 マツダスタジアムにて)
1点差負けが20度以上あった昨年から前田のメジャー移籍で戦力低下が不安視されたが、3・4月に16勝12敗と好スタートを切って上位をキープすると、交流戦は3位でセ・リーグ唯一の勝ち越し[116]。1番・田中、2番・菊池、3番・丸の所謂タナキクマルと言われる打順が定着すると、鈴木誠也が2試合連続サヨナラホームランを含む3試合連続決勝ホームランを放ち交流戦で3位に導いた。交流戦最後の6連戦から11連勝を飾って6月以降は首位を独走し、9月10日の対巨人戦に勝利して25年ぶりのリーグ優勝を達成した。クライマックスシリーズでは初進出(3位)のDeNAと対戦。4勝1敗(アドバンテージ1勝を含む)で日本シリーズ出場権を獲得した。しかし、日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズと対戦し広島で連勝したものの、セ・リーグ代表チーム6連敗[117]中だった流れを止められず、この年も交流戦では勝ち越した筈の敵地・札幌ドームで3戦全敗し2勝4敗で敗れ、32年ぶりの日本一とはならずマツダスタジアムで胴上げを見守る結末となった。黒田博樹、廣瀬純倉義和が現役を引退した。
2017年
リーグ優勝後の胴上げ(2017年9月18日阪神甲子園球場にて)
リーグ優勝後の胴上げの様子(2017年9月18日 阪神甲子園球場にて)
前々年の2015年がBクラス(4位)であったため当年に開幕権はなかったが、開幕権を保有していた阪神が返上したため開幕戦をマツダスタジアムで迎えることとなった。その開幕戦こそ落としたものの、その翌日から10連勝(1分けを挟む)[118]。5月6日の阪神戦で9点リードした状態からの逆転負けを喫した[119]。交流戦はソフトバンクと並ぶ勝率1位で、ソフトバンクとの直接対戦成績が1勝2敗であったことにより2位。公式戦は5月に2位となるものの6月以降は首位を独走。9月18日に甲子園球場で阪神に勝ちリーグ優勝を決めた。なお、2軍も9月26日に鳴尾浜球場で阪神に勝利しウ・リーグ優勝を決めた[120]
2年連続でリーグ優勝を収めたが、クライマックスシリーズではレギュラーシーズンで唯一負け越していたDeNAに2勝4敗(アドバンテージ1勝を含む)で敗退し、日本シリーズ進出はならなかった。
2018年
リーグ優勝後の胴上げの様子(2018年9月26日 マツダスタジアムにて)
この年も開幕カード3連勝と好スタートを切ると4月24日以降は一度も首位を譲ることなく独走した。5、6月の交流戦こそ負け越したが、リーグ戦再開後も好調を維持し続けた。9月5日にベテランの新井が今季限りでの引退を表明した後に6連敗するなど一時調子を落としたが優位は変わらず、9月26日に球団史上初のリーグ3連覇、9度目の優勝を達成した[121]。セ・リーグの3連覇は巨人に次いで史上2球団目。本拠地での優勝は1991年以来27年ぶり、2009年開場のマツダスタジアムでは初となった[122]
クライマックスシリーズではシーズン3位の巨人と対戦。4勝0敗(アドバンテージ1勝を含む)で昨年の雪辱を果たし日本シリーズ出場権を獲得した。福岡ソフトバンクとの日本シリーズでは甲斐拓也に6度も盗塁を阻止される等セ・リーグトップの95盗塁にものを言わせた機動力を完璧に封じられたのに加え、アウェー5連敗中(1991年当時の西武球場で2連敗、2016年の札幌ドームで3連敗)の敵地・福岡でこの年も3戦全敗しマツダスタジアムに戻っての第6戦で0-2で敗れまたしても日本シリーズ敗退、2年前の北海道日本ハム同様マツダスタジアムに戻っての第6戦で相手の胴上げを見守る結末だった。新井貴浩天谷宗一郎が現役を引退。丸佳浩がFA宣言し5年25億円の大型契約を用意した巨人へ移籍[123]福井優也菊池保則との交換トレードで楽天へ移籍した。外国人選手では来日7年目となり、外国人選手在籍年数の球団記録を更新したブラッド・エルドレッド、入団から3年間セットアッパーとして活躍したジェイ・ジャクソン、制球難に苦しみ、一軍での登板がわずか1試合に終わった来日1年目のレオネル・カンポスと契約を更新せず、退団となった。
2019年
開幕後は丸の抜けた穴や大瀬良、田中の不調で負け越すなどしばらくは下位に低迷していたが、5月には復調し、交流戦前には首位に躍り出た。しかし交流戦に入ると再び負けが込み、交流戦明けにかけて11連敗と首位から陥落し、オールスター前には3位で終える。その後は一旦持ち直し、一時は首位巨人に1ゲーム差まで詰めるも、奪回することはできず、8月にはバティスタがドーピング検査で陽性反応が出たことが発覚し、出場資格禁止を余儀無くされた。9月になると負けが増え、9月19日の横浜戦で敗れたことで4連覇の夢が潰え、同時に猛迫してきた阪神にゲーム差を縮められ、レギュラーシーズンは先に3位で終えた。しかし6連勝した阪神に抜かされ、4位に転落し、5年ぶりのBクラスが確定した。これを受け、監督の緒方が辞任を表明。後任に一軍投手コーチの佐々岡真二が就任することが決まった。

所属選手・監督・コーチ




注釈

  1. ^ 球団設立の際に終戦からの復興という名目で公的資金が投入された。自治体プロスポーツという私企業に資本援助を行った例はカープ設立以外に他になかったが、1996年Jリーグアルビレックス新潟が設立される際に、同様に自治体が資本金援助を行った[4]
  2. ^ 終戦直後、プロ野球を地方で行う場合、連絡先を務めた団体に「木曜会」というものがあり、これは共同通信社に本部を置く主な地方新聞社が集まり結成したもので、地方試合は、その土地の有力新聞社に興行の全てを一任した。これはヤクザ関係興行団体の入る隙を与えないようにすることが狙いで、プロ野球が戦後、比較的健全な発達を遂げた理由の一つともいわれる。河口は「木曜会」の幹事で、カープ誕生以前の広島でのプロ野球開催は「木曜会」主催によるもの。広島大学設立資金の一部もここから拠出された[20][24][29]
  3. ^ 発起人代表。
  4. ^ 当初はパ・リーグに加盟申請したが、2リーグ分立の混乱と、当時パ・リーグの中心であった毎日オリオンズ大阪タイガースのパ・リーグ加盟に注力していた(プロ野球再編問題 (1949年)参照)ことで、広島の加盟申請は放置されてしまった。そのためセ・リーグに加盟申請したところ、すぐに受理されたものであった[31]
  5. ^ 同じくセ・リーグの新規球団であった大洋ホエールズ(親会社は大洋漁業)は選手獲得資金として6000万円かけたが、広島の予算は800万円であったという[36]
  6. ^ 結成披露式で、石本秀一監督(手前)らカープ選手が一列に並ぶ中国新聞の写真位置は[5][37][38]、2017年8月30日放送『鯉のはなシアター』(広島ホームテレビ)第137回「特別編 鯉が歩んだあの場所は今」で[39]桝本壮志長谷部稔が当地を訪れ、長谷部が後方の福屋などとの位置関係から[37]広島中央警察署前の交差点あたりでないか」と話した[39]
  7. ^ 後に二軍選手達は労働基準監督署に訴えたが、「プロ野球選手は労働者に該当せず」と受け入れてもらえなかった。球団からは音沙汰なく、彼らはそのまま解雇となった[43]
  8. ^ 具体的な処罰内容は決められておらず、「3割を切ったら自動的に解散と決めていた」という記述は誤りである。
  9. ^ この年は松竹ロビンスが最下位で、勝率は.288(34勝84敗2分)。規定通りロビンスは、旧・大洋ホエールズとの合併を余儀なくされた[55]
  10. ^ 白石のスカウトによって西鉄でくすぶっていた大和田明を獲得している。
  11. ^ 現在の日本記録は1978年から1997年にかけて南海ホークス→福岡ダイエーホークスが記録した19年連続。
  12. ^ この年後半戦開始時点で1位巨人と最大7.5ゲーム差を逆転しての優勝。
  13. ^ この年は勝率ではなく勝利数で優勝チームを決定していたため引き分けの数だけ試合数が増える(実質再試合制)のため勝利数の差=ゲーム差であった。
  14. ^ 2001年は勝率ではなく勝利数で順位を決定していた。
  15. ^ 8月19日からの本拠地での阪神3連戦はブラウン監督が母親の葬儀に参列するため一時帰国し、ジェフ・リブジー監督代行の3試合目、退場後は小早川毅彦コーチが監督代行代理に。
  16. ^ プロ野球記録は1953年に大映スターズが記録した59イニング。
  17. ^ スポーツ紙などの紙上見出しでは「コイ」の略称も見られる。
  18. ^ ユニフォームを赤に代えようとしたが、経費の都合でヘルメットと帽子のみになった。「我が道」山本浩二 スポーツニッポン 2010年10月14日より。
  19. ^ 純粋な外様は、監督では日本人では別当薫が、外国人を含めるとジョー・ルーツが最後。コーチ・二軍監督では芦沢真矢中利夫(登志雄)・伊勢孝夫片岡新之介らが在籍した。
  20. ^ 広島は2000年オフにも当時高校生だった内川のドラフト1位指名による獲得を目指していたが本人が入団を希望せず獲得を断念、結果的に横浜がドラフト1位で指名し獲得した経緯がある。
  21. ^ 現在は主催試合を開催していないが、主にヤクルト主催のビジターとして対戦することがある。
  22. ^ そのため、1990年代にカープで主力選手として活躍した金本知憲は、歴代2位タイとなる33球場でホームランを打っている(歴代1位は山内一弘)。
  23. ^ パ・リーグ初の公式戦は、2000年5月20日・21日の西武ライオンズ対オリックス・ブルーウェーブ。
  24. ^ 福岡ソフトバンクホークス(2011年 - )、読売ジャイアンツ(2016年 - )[139]
  25. ^ 阪神が(唯一)日本一となったのは、広島が日本一となった翌年の1985年昭和60年)。
  26. ^ 日本シリーズのナイター開催は、東京オリンピックとの兼ね合いで例外として開催された1964年を除き、1994年から導入。2016年に出場する以前は、最初の出場が1975年で最後の出場が1991年であり、全試合がデーゲーム開催であった。
  27. ^ 2016年以前の対戦相手は、阪急近鉄西武であるが、対戦当時の本拠地はいずれもオープン球場であった
  28. ^ 現に中畑清(当時・日本テレビ野球解説者)が日本テレビの特番『刑務所24時』の取材で広島刑務所を慰問中に緊急企画で中畑が巨人時代のユニフォームでソフトボールに出場し対戦し、刑務官や受刑者から拍手喝采を浴びた。
  29. ^ 当時とは異なりベルトレスではなくカバー付ベルト仕様に変更。
  30. ^ セ・リーグではスポンサー広告の掲示がホーム用ユニフォームにしか認められていないため。
  31. ^ 旧市民球場が開業した1957年1958年には同球場での広島主管試合が開催された例。
  32. ^ 京セラドーム大阪で対阪神戦を開催している[156]
  33. ^ 北海道日本ハムファイターズでは2006年以降使用休止となり、2009年から永久欠番になった。
  34. ^ ミッキーが登場した公式戦に限定すれば、カープは15勝7敗と大きく勝ち越している。
  35. ^ 大阪タイガース阪急軍ブラスバンド演奏は数々の文献に出ている。
  36. ^ トランペット応援の発祥がカープにあるという指摘は『プロ野球ヤジ講座』(おかひろみ編・自由国民社[194]、『巨人がプロ野球をダメにした』(海老沢泰久著・講談社[195] にも記述されている。
  37. ^ 試合途中で結果が出ていないときは「…今日カープは…」と歌われることもある。
  38. ^ 阪神戦は毎日放送、ソフトバンク戦はRKB毎日放送が各々スタッフを現地に派遣。中日戦は2018年にCBCテレビがオフチューブで放送。日本ハム戦は北海道放送が乗り込みまたはオフチューブの何れかで放送。2002年には、対横浜との開幕戦をTBSテレビ(関東ローカル)とBS-i(現:BS-TBS)が別制作で放送。
  39. ^ ナイター開催はトップ中継は別制作(TBSチャンネル1ではこのメンバーで全編放送)だが、リレー中継は地上波中継と同じメンバーが担当する。デーゲーム開催は原則としてリレー中継のみ(13:30試合開始時はトップ&リレー中継)実施し、中国放送では16時以降も中継するが、地上波同時放送とせず、TBSチャンネル1との同時放送となる。
  40. ^ 阪神戦は読売テレビがスタッフを派遣し別実況で放送。日本ハム戦は札幌テレビ・ソフトバンク戦は福岡放送との2局ネットで放送。中日戦は中京テレビ、楽天戦はミヤギテレビで中継する場合はネット受けか別実況の何れかになる。
  41. ^ 中日戦はメ~テレ、阪神戦は朝日放送テレビ、楽天戦は東日本放送が各々スタッフを派遣。過去には日本ハム戦を北海道テレビがオフチューブで中継。
  42. ^ 阪神戦は関西テレビがスタッフを派遣して別実況で放送。日本ハム戦は北海道文化放送で中継する場合はネット受けまたは別実況の何れかになる。

出典

  1. ^ 2010年新春トップインタビュー”. 中国新聞 (2010年1月1日). 2010年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年1月6日閲覧。(Internet Archive)
  2. ^ a b c 株式会社広島東洋カープ 第63期決算公告
  3. ^ 平野博昭. “《特別寄稿》新球場建設とカープの経営方針について”. 一橋総合研究所. 2015年10月15日閲覧。
  4. ^ 「サッカー批評」編集部『ニイガタ現象 日本海サッカー天国の誕生をめぐって』双葉社、2004年、115頁。ISBN 4575296724
  5. ^ a b c 平和記念都市建設法と復興事業の進展 市民球団広島カープの誕生”. 広島平和記念資料館. 2017年6月22日閲覧。
  6. ^ 復興の象徴 きずな探る元祖「市民球団」広島 - 中国新聞 2004年11月3日、学習開発学研究 2号 - 学内刊行物 - 広島大学 学術情報リポジトリ フィールドと学び 一広島というローカリティをグローバル文化で考える、22-27頁。
  7. ^ a b c d e f g “ボクの思い出STADIUM:広島総合&広島市民球場”. 中日スポーツ. (2016年7月12日). オリジナルの2016年8月1日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160801025853/http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/column/omoidestadium/CK2016072102100020.html 2016年11月21日閲覧。 思い出のスタジアム広島市民球場…2千人暴徒乱入事件
  8. ^ a b c d e f 広島カープ、濃密な伝統”. 週刊ベースボールONLINE. ベースボール・マガジン社 (2018年6月25日). 2018年6月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月30日閲覧。
  9. ^ a b 石戸諭 (2016年10月8日). “「素質を見抜く力」 広島カープの礎を築いた名スカウトが遺したもの”. BuzzFeed Japan. オリジナルの2017年4月20日時点によるアーカイブ。. https://archive.fo/20170420033816/https://www.buzzfeed.com/satoruishido/kiniwa-hiroshima?utm_term=.slOX6MJwN%23.om38Z2Lbr#.om38Z2Lbr 2017年4月20日閲覧。 細谷拓海 (2015年10月5日). “情報・分析・決断:プロ野球・ドラフト50年/2 問われるスカウトの目”. 毎日新聞. オリジナルの2015年11月18日時点によるアーカイブ。. https://archive.fo/20151118170507/http://mainichi.jp/shimen/news/20151015ddm035050075000c.html 2017年4月20日閲覧。 
  10. ^ a b c d e f g h i j 「史上最大の集金作戦 広島カープ」『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』(archive)、プロジェクトX 挑戦者たち 熱き心、炎のごとく 史上最大の集金作戦 広島カープ
  11. ^ a b c d e f g h i j k 野球考古学 2008, pp. 194-199.
  12. ^ 第149期 (自 平成26年4月1日 至 平成27年3月31日) 有価証券報告書マツダ株式会社、2016年3月15日閲覧。
  13. ^ ただし、現在の常務取締役球団本部長である鈴木清明はマツダからの出向である。
  14. ^ 第3位株主の「カルピオ」は広島東洋カープの完全子会社であるため。
  15. ^ 臼北信行 (2014年4月17日). “市民球団「広島東洋カープ」、徹底した黒字追求型経営の姿勢とその裏側 (3/3)”. ITmedia ビジネスオンライン. ITmedia. 2015年10月15日閲覧。
  16. ^ a b 【新聞記者 難波太郎】今年こそ!胸ふくらむ「カープ女子」20億円けり復帰“男気”黒田で加速”. 産経ニュース. 産経新聞 (2015年4月26日). 2015年10月15日閲覧。
  17. ^ “「ベイスターズは市民球団に」自民党の小泉進次郎氏がベイ売却検討”. 神奈川新聞(カナロコ). (2010年10月2日). オリジナルの2012年7月14日時点によるアーカイブ。. https://archive.fo/20120714021958/http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1010020005/ (Internet Archive)
  18. ^ “優勝が遠い「赤ヘル軍団」孤軍奮闘する老舗地方球団広島”. 47NEWS. (2012年4月17日). http://www.47news.jp/topics/entertainment/2012/04/post_4885.php 
  19. ^ a b “赤ローソンが熱いワケ…CS初進出効果”. デイリースポーツ. (2013年10月10日). http://www.daily.co.jp/opinion-d/2013/10/10/0006408906.shtml 2015年10月15日閲覧。 
  20. ^ a b c d e f g h i j k l m 広島カープのすべて 1975, pp. 90-100.
  21. ^ 高校野球100回目の夏 広島中、アカシアに笑う – 中国新聞アルファ (Internet Archive)
  22. ^ 『スポーツ人國記』ポプラ社、1934年、68-71頁。
  23. ^ 森芳博『ドラゴンズ魂』リイド社、1982年、16頁。ISBN 4-947538-24-4
  24. ^ a b c d JAIRO | 菅真城 広島カープと広島大学・広島高等師範学校 : アーカイブズと市民(利用者)との関係に関する試論
  25. ^ 【プロ野球人国記 広島】レジェンドを続々輩出した全国屈指の野球県”. 週刊ベースボールONLINE. ベースボール・マガジン社 (2017年8月22日). 2017年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年8月29日閲覧。時事ドットコム:「全国」 夢のベストナイン - 時事通信社 広島県バーチャル高校野球 ひろしまの50回大会史 広島の早慶戦こと広商―広陵 町を真っ二つ”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社 (2017年8月28日). 2017年8月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年8月29日閲覧。(オリジナル、1968年5月22・23日掲載)、“連載「内田雅也の猛虎人国記(1)~広島県(上)~」”. スポーツニッポン. (2011年11月23日2面). オリジナルの2017年4月20日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170420051435/http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/mouko/kiji/K20120327002918770.html 鈴木美嶺「それ初優勝だ!広島カープ野球大特集 ひろしま野球人国記—この雄大な"野球山脈"—」『サンデー毎日』、毎日新聞社、1975年9月28日号、 130-134頁。
  26. ^ a b c d はだしのゲン作者が描いた熱すぎるカープファン狂騒史 「それー審判をみな殺しじゃ」
  27. ^ 大内隆雄 (2014年3月31日). “「対決」で振り返るプロ野球80年史 第11回 8球団のセントラル・リーグ vs 7球団のパシフィック・リーグ”. 週刊ベースボールONLINE. ベースボール・マガジン社. 2017年6月22日閲覧。
  28. ^ a b c d 広瀬集 (2016年10月19日). “昔の新聞点検隊 広島「カープス」誕生!”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社. 2016年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月22日閲覧。
  29. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 日本野球史 1980, pp. 87-96.
  30. ^ a b c d e f g h 【1月15日】1950年(昭25) 金ナシ、寮ナシの広島カープ、原っぱでお披露目式”. スポニチ. 2008年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月9日閲覧。
  31. ^ a b 阿部珠樹 『Hiroshima 都市と球場の物語 ありがとう!広島市民球場』、PHP研究所、2009年4月27日、23-26頁
  32. ^ a b c “ヒロシマ 復興を支えた市民たち”. NHKオンライン. (2015年11月3日). オリジナルの2015年1月30日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150130053435/http://www.nhk.or.jp/hiroshima/fukkou/cast.html 2017年6月22日閲覧。 広島カープの草創期をドラマ化!イッセー尾形が初代石本監督を演じる『シリーズ被爆70年 ヒロシマ復興を支えた市民たち』
  33. ^ a b c d e カープの歩み 2012, p. 77.
  34. ^ a b “「カープ50年 夢を追って」 よみがえる熱球 石本秀一 郷土愛貫きチーム守る 広島の礎築いた名将”. 中国新聞 (中国新聞社). (1999年9月17日). オリジナルの2000年11月20日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20001120111400/http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/50y/retu/9/990917.html 2017年7月4日閲覧。 (Internet Archive)
  35. ^ a b c d 池辺史生「オーラスプロ野球 今年こそ勝たせたい人たちの興奮度 "赤ヘル緋鯉軍団"広島カープ26年目の滝のぼり」『週刊朝日』、朝日新聞社、1975年9月19日号、 25-26頁。
  36. ^ 駒沢悟(監修)、松永郁子『広島カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡』宝島社宝島社文庫〉、2002年、19頁。ISBN 4796627278
  37. ^ a b その 5 - 福屋創業80周年 | 広島の百貨店 福屋
  38. ^ 原爆投下の広島で希望の象徴、初優勝の熱狂も紹介 「復興の記憶・カープ物語」写真展
  39. ^ a b 特別編 鯉が歩んだあの場所は今”. 鯉のはなシアター. 広島ホームテレビ (2017年8月30日). 2018年12月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年12月26日閲覧。
  40. ^ a b c “被爆から70年…カープは復興の象徴”. デイリースポーツ. (2015年8月6日). https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2015/08/06/0008277829.shtml 2017年6月22日閲覧。 
  41. ^ a b c d e f g h 【3月29日】1951年(昭26) 開幕なのに試合が棚上げされたカープへの“嫌がらせ”(Internet Archive)
  42. ^ a b 立石泰則『魔術師 三原脩と西鉄ライオンズ』文藝春秋、1999年、159 - 163頁。ISBN 416355100X
  43. ^ 西本恵『広島カープ昔話・裏話 じゃけえカープが好きなんよ』トーク出版、2008年、57 - 58頁。ISBN 9784904014073
  44. ^ 西本恵『広島カープ昔話・裏話 じゃけえカープが好きなんよ』トーク出版、2008年、86 - 88頁。ISBN 9784904014073
  45. ^ “後援會の結成急ぐ 石本秀一監督”. 中国新聞: p. 2. (1951年3月16日) 
  46. ^ 広島東洋カープを支える市民の力 | PHPオンライン
  47. ^ “広島市民球場 半世紀 語り継ぐ歴史 復興の象徴心に刻む”. 中国新聞: p. 31. (2007年10月27日) 
  48. ^ 濱保仁志「所蔵資料紹介 カープ関係寄贈資料」『広島市公文書館紀要 第30号』(2018年、広島市公文書館)pp=57
  49. ^ 濱保仁志「所蔵資料紹介 カープ関係寄贈資料」『広島市公文書館紀要 第30号』(2018年、広島市公文書館)pp=57
  50. ^ 濱保仁志「所蔵資料紹介 カープ関係寄贈資料」『広島市公文書館紀要 第30号』(2018年、広島市公文書館)pp=57
  51. ^ “64年前のカープグッズ第1号発見!球団消滅の危機に瀕して売り出した1本5円の…”. ひろスポ! (スポーツコミュニケーションズ・ウェスト). (2015年9月10日). http://hirospo.com/pickup/21192.html 2017年6月22日閲覧。 
  52. ^ a b 新球場の夢キャッチ 今も昔も「支えたる」(archive)
  53. ^ 『定本 プロ野球40年』報知新聞社、1976年、121頁。
  54. ^ 当時、球団は12月15日までに選手に対して、契約更改を書類で申し込む規則になっていたのだが、印刷会社の手違いにより、名古屋に帰郷していた長谷川には、期日までに書類が届かなかったことに端を発する
  55. ^ a b c 中国新聞 カープ50年選手列伝 第2部 1950 ~ 52 (3) 白石勝巳 球団救った逆シングル 解散回避へ弾みつく(Internet Archive)
  56. ^ 中野晴行『球団消滅 幻の優勝チーム・ロビンスと田村駒治郎』筑摩書房、2000年、208頁。ISBN 4480818162
  57. ^ 週刊ベースボール』、ベースボール・マガジン社、2011年11月14日、 80頁。
  58. ^ a b c 佐山和夫『ディマジオとモンロー ー運命を決めた日本での二十四日間』河出書房新社、1995年12月、171-190頁。ISBN 4-309-01027-X
  59. ^ a b きょうはDONな日 1962年8月5日 マリリン・モンローが亡くなった日”. おもいっきりDON!. 日本テレビ (2009年8月5日). 2015年10月15日閲覧。
  60. ^ a b 西本恵「絶世の美女マリリン・モンロー、広島総合球場に現る。『スロー』『スロー』『ブーン』のアメリカ流指導に耳を傾ける。」『広島カープ昔話・裏話 じゃけえカープが好きなんよ』トーク出版、2008年、222 - 227頁。ISBN 9784904014073
  61. ^ MillerのABCC-放影研の想い出、1953~1990年:第1部
  62. ^ 2014年01月14日(火) - 今日は何の日?”. CDJournal.com (2002年12月25日). 2015年10月15日閲覧。山中善和. “みんなで語ろう民放史. 泣き笑いスポーツアナ奮戦記 -カープを追い続けた地方局-”. 2015年10月15日閲覧。
  63. ^ a b c 60年史 2009, p. 41.
  64. ^ 「とにかく石頭だった」という山内一弘監督 - 週刊ベースボールオンライン
  65. ^ 60年史 2009, p. 47.
  66. ^ a b 60年史 2012, p. 53.
  67. ^ 日めくりプロ野球 【8月3日】1975年(昭50)― スポニチ Sponichi Annex 野球第15回 プロ野球 前代未聞!警備不安による中止 ― スポニチ ウォーリー与那嶺氏の「お別れの会」 - 谷沢健一のニューアマチュアリズム
  68. ^ カープ伝説(1)悲願のリーグ初優勝(1975年10月16日付中国新聞朝刊)”. 中国新聞アルファ. 2016年3月15日閲覧。
  69. ^ 宇佐見徹也 1993, p. 1087.
  70. ^ 2014年9月27日付中日新聞1面「時代の先へ 東海道新幹線50周年」第4回
  71. ^ 60年史 2009, p. 53.
  72. ^ 日本経済新聞私の履歴書・江夏豊』2017年12月25日
  73. ^ 宇佐美徹也 1993, p. 428.
  74. ^ a b 『昭和55年 写真生活』p30-31(2017年、ダイアプレス)
  75. ^ スポーツニッポン、古葉竹識の我が道、2016年11月26日。古葉は山本浩二に監督やるように言ったが山本は現役一本にこだわり監督要請を断り阿南が監督に就任した。
  76. ^ 朝日新聞東京本社版1998年8月28日付朝刊19面
  77. ^ 週刊プロ野球 セ・パ誕生 60年 第36号 1999年(平成11年) 博多が揺れた! 王ダイエー初V、P40、ベースボールマガジン社
  78. ^ ただし交流戦を除く同一リーグ球団間の成績は47勝60敗3分け(勝率.439)で、巨人の44勝66敗(勝率.400)を上回った。
  79. ^ “広島が来季監督を野村謙二郎氏に要請”. 日刊スポーツ. (2009年10月4日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/f-bb-tp0-20091004-551661.html 2009年10月4日閲覧。 
  80. ^ この年の記述の出典は特記ない場合『週刊ベースボール』、ベースボール・マガジン社、2012-12-10日、 68頁。
  81. ^ “広島39回無失点の球団新記録!”. スポーツニッポン. (2012年4月8日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/04/08/kiji/K20120408003006990.html 2015年10月16日閲覧。 
  82. ^ “えっ!?広島負けて3位浮上 15年ぶりAクラスターン”. スポーツニッポン. (2012年7月19日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/07/19/kiji/K20120719003710740.html 2015年10月16日閲覧。 
  83. ^ “8連敗…広島、3位と7.5差でCS絶望的に”. スポーツニッポン. (2012年9月26日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/26/kiji/K20120926004196400.html 2015年10月16日閲覧。 
  84. ^ “広島零敗でヤクルトのCS進出&3位確定”. スポーツニッポン. (2012年9月29日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/09/29/kiji/K20120929004223530.html 2015年10月16日閲覧。 
  85. ^ a b カープオーナー代行に松田氏 Archived 2013年3月29日, at the Wayback Machine. - 中国新聞 2013年3月26日
  86. ^ “広島、最後に力尽きる…野村監督「よっしゃーという感じだったが」”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2013年3月31日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/03/31/kiji/K20130331005518930.html 2013年10月19日閲覧。 
  87. ^ “広島 5年ぶり開幕4連敗 12球団唯一の未勝利”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2013年4月4日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/04/04/kiji/K20130404005539610.html 2013年10月19日閲覧。 
  88. ^ “マエケン 1114日ぶり白星 鬼門ナゴヤDで8回零封”. Sponichi Annex (スポーツニッポン). (2013年4月14日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/04/14/kiji/K20130414005605400.html 2013年10月19日閲覧。 
  89. ^ 2013年度 交流戦チーム勝敗表”. 日本野球機構. 2015年10月16日閲覧。
  90. ^ “広島 救援陣が2日連続の乱調…5位に転落”. スポーツニッポン. (2013年7月17日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/07/17/kiji/K20130717006239310.html 2015年10月16日閲覧。 
  91. ^ “マエケン 4年連続2桁勝利 メジャー3球団スカウトが視察”. スポーツニッポン. (2013年8月14日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/08/14/kiji/K20130814006413580.html 2016年10月24日閲覧。 
  92. ^ “広島7連勝!石原が万年Bクラスにサヨナラ弾 4位中日と5・5差”. スポーツニッポン. (2013年9月18日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/18/kiji/K20130918006637870.html 2016年10月24日閲覧。 
  93. ^ “中日 自力CS進出の可能性消滅…浅尾“痛恨”逆転打許す”. スポーツニッポン. (2013年9月16日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/16/kiji/K20130916006628970.html 2016年10月24日閲覧。 
  94. ^ “広島 中日に逆転勝ちで球団史上初CS進出に王手”. スポーツニッポン. (2013年9月24日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/24/kiji/K20130924006680570.html 2016年10月24日閲覧。 
  95. ^ “広島 球団史上初CS進出決定 Aクラスは16年ぶり”. スポーツニッポン. (2013年9月25日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/25/kiji/K20130925006687080.html 2015年10月16日閲覧。 
  96. ^ “広島 前田智引退試合●で12年連続負け越し&3位確定”. スポーツニッポン. (2013年10月3日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/03/kiji/K20131003006741470.html 2015年10月16日閲覧。 
  97. ^ “3位広島が下剋上!阪神に2連勝、巨人とのファイナルS進出”. スポーツニッポン. (2013年10月13日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/10/13/kiji/K20131013006802330.html 2015年10月16日閲覧。 
  98. ^ 産経新聞2013年10月18日スポーツ面
  99. ^ “前田智が引退表明 広島一筋24年、現役生活にピリオド”. スポーツニッポン. (2013年9月27日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2013/09/27/kiji/K20130927006699320.html 2015年10月16日閲覧。 
  100. ^ 菊地原 今季限りで引退、のべ3球団で左のセットアッパー スポニチアネックス(2013年9月28日)2016年3月15日閲覧。
  101. ^ “広島 V逸も2年連続CS決定 藤浪から3得点はCSへ収穫”. スポーツニッポン. (2014年9月27日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/09/27/kiji/K20140927008999720.html 2015年10月16日閲覧。 
  102. ^ “広島 痛恨の逆転負けで3位転落 CS本拠地開催ならず 阪神2位確定”. スポーツニッポン. (2014年10月6日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/10/06/kiji/K20141006009058060.html 2015年10月16日閲覧。 
  103. ^ 広島・野村謙二郎監督がCS直前に電撃辞任”. 東スポWeb (2014年10月8日). 2016年3月15日閲覧。
  104. ^ “セCS初の同点コールド適用 0―0のまま12回表終了で打ち切り”. スポーツニッポン. (2014年10月12日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/10/12/kiji/K20141012009090750.html 2015年10月16日閲覧。 
  105. ^ 緒方孝市新監督就任会見”. 広島球団公式サイト (2014年10月15日). 2015年9月23日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年10月16日閲覧。
  106. ^ 新井貴浩選手入団記者会見!”. 広島球団公式サイト (2014年11月14日). 2015年9月23日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年10月16日閲覧。
  107. ^ 黒田博樹選手復帰のお知らせ”. 広島球団公式サイト (2014年12月27日). 2015年9月23日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年10月16日閲覧。
  108. ^ “広島、4000勝!マエケンが今季初完投でビジター連敗止める”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社). (2015年6月20日). http://www.sanspo.com/baseball/news/20150620/car15062005060001-n1.html 2015年10月16日閲覧。 
  109. ^ “セ・リーグ6球団監督が前半戦を総括”. 日刊スポーツ. (2015年7月16日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1507867.html 2015年10月3日閲覧。 
  110. ^ “広島5割復帰!巨人に迫る1.5差”. デイリースポーツ. (2015年9月15日). http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2015/09/15/0008398475.shtml 2016年1月8日閲覧。 
  111. ^ “広島3連敗、リーグ優勝の可能性消滅”. デイリースポーツ. (2015年9月24日). http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2015/09/24/0008426261.shtml 2015年10月16日閲覧。 
  112. ^ “広島、最終戦で競り負け逆転CSならず”. デイリースポーツ. (2015年10月8日). http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2015/10/07/0008464515.shtml 2016年1月8日閲覧。 
  113. ^ “前田健太投手「2015年度 沢村賞」受賞!”. 広島東洋カープ公式サイト. (2015年10月26日). オリジナルの2015年12月30日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151230155647/http://www.carp.co.jp/news15/s-049.html 2016年1月8日閲覧。 
  114. ^ “マエケン「誇りに思う」ドジャース会見 背番号18”. 日刊スポーツ. (2016年1月8日). http://www.nikkansports.com/baseball/mlb/news/1587719.html 2016年1月8日閲覧。 
  115. ^ “エクトル・ルナ選手、選手契約合意!”. 広島東洋カープ公式サイト. (2015年10月7日). オリジナルの2016年1月2日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160102005432/http://www.carp.co.jp/news15/s-073.html 2016年1月8日閲覧。 
  116. ^ 2016年度 交流戦 チーム勝敗表 - 日本野球機構
  117. ^ 2013年の日本シリーズで巨人が仙台での第7戦に敗れて以降2014年の阪神が福岡で3連敗、2015年の東京ヤクルトが同じく福岡で2連敗を喫している。
  118. ^ “広島が10連勝、代打・松山の同点弾から一気7点 巨人は4連敗”. デイリースポーツ. (2017年4月13日). https://www.daily.co.jp/baseball/carp/2017/04/13/0010093373.shtml 2017年5月4日閲覧。 
  119. ^ “5月6日阪神戦 コイ9点差、大逆転負け22年ぶり屈辱、2位に転落”. 中国新刊α アルファ. (2017年5月6日). http://www.chugoku-np.co.jp/carp/article/article.php?comment_id=339989&comment_sub_id=0&category_id=123 2017年5月6日閲覧。 
  120. ^ 広島2軍が優勝!26年ぶり1軍と同時V - デイリースポーツ、2017年9月26日
  121. ^ 渡辺裕明 (2018年9月26日). “カープ3連覇 V9 マツダ球場初の胴上げ” (日本語). 中国新聞号外. 中国新聞社 (広島県広島市中区: 中国新聞社): p. 01。 
  122. ^ “広島、初のリーグ3連覇 ヤクルト破り本拠で歓喜:朝日新聞デジタル” (日本語). 朝日新聞デジタル. https://www.asahi.com/articles/ASL9V5VPYL9VPTQP018.html 2018年9月27日閲覧。 
  123. ^ 巨人・丸、“原魂”背番号「8」継承!5年総額25億500万円”. サンケイスポーツ (2018年12月12日). 2018年12月12日閲覧。
  124. ^ 前田の「背番号1」後継者は本人に決定権東スポWeb 2013年9月19日
  125. ^ 誠也「ミスターカープ」継承!前田氏以来6年ぶり背番「1」復活スポニチアネックス 2018年11月20日
  126. ^ 新井氏、背番25後継条件はフォア・ザ・チーム モデルデビューは大反響デイリースポーツ 2018年12月21日
  127. ^ a b カープの歩み 2012, p. 91.
  128. ^ a b c カープの歩み 2012, p. 93.
  129. ^ a b c カープの歩み 2012, p. 135.
  130. ^ “オーナーに松田元氏 広島”. 47news. (2002年7月15日). オリジナルの2013年5月18日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130518045022/http://www.47news.jp/CN/200207/CN2002071501000349.html 2015年10月16日閲覧。 
  131. ^ カープ三省寮 老朽化で閉鎖 Archived 2013年5月18日, at the Wayback Machine. - 47NEWS 2010年8月3日
  132. ^ a b 東京スポーツ連載『川口和久 Gキラーのダンディズム〈11〉』2008年4月24日3頁。
  133. ^ a b c 東京スポーツ連載『川口和久 Gキラーのダンディズム〈14〉』2008年4月30日4頁。
  134. ^ ただしチーム名として英単語を使用する場合には、文法上の複数形に関わらず語尾にsを付ける流儀があり、「カープス(Carps)」は間違いではない。実際、ナショナルホッケーリーグにはトロント・メープルリーフスというチームがある。leafにsを付けてチーム名としているが、文法上の複数形はleavesである
  135. ^ 「カープV逸20年 私の提言 渡邉恒雄」中国新聞、2011年12月18日13面。
  136. ^ 河口豪『栄光の広島カープ風雪25年』恒文社、1975年、115 - 116頁。
  137. ^ 2019年度セントラル・リーグ選手権試合日程 (PDF) - セントラル・リーグ公式サイト、2018年11月6日
  138. ^ 広島が3軍改革 不振選手サポートも”. デイリースポーツ (2013年12月28日). 2015年12月13日閲覧。
  139. ^ 三軍の設置について”. 読売ジャイアンツ公式サイト (2015年10月22日). 2015年12月13日閲覧。
  140. ^ ホークスの圧倒的強さを支える「3軍」の正体”. 東洋経済オンライン (2015年10月11日). 2015年12月13日閲覧。
  141. ^ 2012年6月21日OA 広島カープ芸人|アメトーーク!【Web限定ムービー 】” (2013年5月10日). 2015年10月16日閲覧。
  142. ^ 『アメトーーク!』高視聴率を記録! - 広島ホームテレビ“『ロンドンハーツ』『アメトーーク!』の名プロデューサーが明かすヒットの秘密”. Livedoor ニュース (集英社). (2013年1月29日). http://news.livedoor.com/article/detail/7358076/ 2015年10月16日閲覧。 “広島優勝ならアメトーーク再び”. 東スポWeb (東京スポーツ新聞社). (2012年6月26日). http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/19121/ 2015年10月16日閲覧。 
  143. ^ 「ぴあ」とカープ密着情報誌「Athlete」が強力コラボ!球団公認のファンブックを発売!”. ぴあ関西版WEB (2013年3月26日). 2015年10月16日閲覧。本折浩之 (2012年12月2日). “あの「広島カープ芸人」に直撃インタビュー!これがカープ愛だ”. マイナビニュース. http://news.mynavi.jp/c_career/level1/yoko/2012/12/post_2693.html 2015年10月16日閲覧。 
  144. ^ 広島東洋カープ 年度別成績
  145. ^ “斎藤元年!日本ハム ユニホームも刷新”. スポーツニッポン. (2011年1月6日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/2010university/saito_yuki/KFullNormal20110106077.html 2015年10月16日閲覧。 
  146. ^ マツダ、日本ペイントと共同で広島東洋カープのヘルメット用に「ソウルレッドプレミアムメタリック」をイメージした特別色を提供”. マツダ (2013年3月19日). 2015年10月16日閲覧。
  147. ^ カープのヘルメットとマツダのソウルレッドは同じ色!? カープとマツダにその真相を聞いてみた - カーセンサーリクルート)、2015年10月7日
  148. ^ 広島・新井、優勝エンブレムついた袖に大感激「誇らしい」 サンケイスポーツ 2017年2月1日
  149. ^ 「デニムデザインユニフォーム」お披露目!!”. 広島球団公式サイト (2013年7月27日). 2014年11月1日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年10月16日閲覧。
  150. ^ 「赤道直火ユニフォーム」お披露目!!”. 広島球団公式サイト (2014年7月25日). 2015年6月9日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年10月16日閲覧。
  151. ^ 8月6日(木)ピースナイター 背番号「86」ユニフォーム着用”. 広島球団公式サイト (2015年7月7日). 2015年10月8日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年10月16日閲覧。
  152. ^ 「常昇魂ユニフォーム」お披露目!!”. 広島東洋カープ球団公式サイト (2015年7月19日). 2015年10月21日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年10月16日閲覧。
  153. ^ 「真赤激ユニフォーム」お披露目!!
  154. ^ 3月18日(土)オープン戦 黒田博樹特別ユニフォーム着用・チャンピオンズリング贈呈!
  155. ^ 「ドッカンカープユニフォーム」お披露目!!
  156. ^ 2008年8月6日【公式戦】試合結果(阪神vs広島東洋)”. 日本野球機構 (2008年8月6日). 2015年10月15日閲覧。
  157. ^ 2011年8月6日【公式戦】試合結果(広島東洋vs読売)”. 日本野球機構 (2011年8月6日). 2015年10月15日閲覧。
  158. ^ ピースナイター・3万人が心を一つに (PDF)”. ひろしまのせいきょう. 広島県生活協同組合連合会. p. 1 (2011年9月20日). 2015年8月5日閲覧。
  159. ^ 8月6日(木)ピースナイター 背番号「86」ユニフォーム着用”. 広島球団公式サイト (2015年7月7日). 2015年8月10日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年8月5日閲覧。
  160. ^ momonga『広島カープ物語』トーク出版、2013年、[要ページ番号]ISBN 978-4-904014-387
  161. ^ 平成17年9月30日 広島市議会定例会議事録”. p. 47 (2005年9月30日). 2015年10月16日閲覧。
  162. ^ a b c d e 植松啓介 (2014年7月). “広島カープの黒字経営”. TKC. 2015年10月17日閲覧。戦略経営者 2014年7月号の特集記事より
  163. ^ カープ売上高117億円 新球場効果で46億円増[リンク切れ] - 中国新聞 2010年3月25日
  164. ^ 新球場 知恵と資金出す 松田オーナーに聞く 中国新聞 2004年12月12日付記事より
  165. ^ ALL-IN 地域密着へ試行錯誤 中国新聞 2006年1月7日付記事より
  166. ^ 変わる球団-ファン重視で増収策 中国新聞 2004年12月8日付記事より。2004年までは、当時1試合1億円とされた放映権料を支払うテレビ局への配慮からナイターを重視していたが、2005年のセパ交流戦導入を契機に、観戦客の利便性を考慮してデーゲームの主催を増やした。
  167. ^ 中国新聞2009年3月28日付記事より
  168. ^ 『若ゴイ新生活へ大州寮が完成』中国新聞 2011年3月11日付記事より
  169. ^ 2012年3月 竣工現場”. 下野工業株式会社. 2015年10月16日閲覧。
  170. ^ “鯉16億円で悲願の室内練習場が今秋完成”. デイリースポーツ. (2014年1月9日). http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2014/01/09/0006624063.shtml 2015年10月16日閲覧。 
  171. ^ a b c d e 橘川奈良 2009, pp. 70-74.
  172. ^ プロ野球特別読み物 人を育てる組織 広島カープのような手作りチームに幸あれ!“広島、若コイ生き生き スカウトに聞く伝統の育成力”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2014年7月22日). http://www.nikkei.com/article/DGXZZO74435060Y4A710C1000000/ 2017年3月23日閲覧。 “阪神金本監督が信念激白 広島の倍速で常勝軍団築く”. 日刊スポーツ. (2018年1月1日). オリジナルの2018年1月1日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180101154812/https://www.nikkansports.com/baseball/news/201801010000423.html 2018年1月5日閲覧。 
  173. ^ a b 橘川奈良 2009, pp. 105-119.
  174. ^ 橘川奈良 2009, pp. 87-90.
  175. ^ a b “海外FA木村昇が退団へ 再契約の意思なし”. スポーツ報知. (2015年11月30日). http://www.hochi.co.jp/baseball/npb/20151130-OHT1T50002.html 2016年1月7日閲覧。 
  176. ^ a b “広島・丸がFA権行使 球団引き留めへ、残留も選択肢に”. 朝日新聞デジタル. (2018年11月7日). https://www.asahi.com/articles/ASLC741QRLC7PTQP002.html 2019年8月22日閲覧。 
  177. ^ “広島木村「感謝」、海外FA宣言→西武テスト生へ”. 日刊スポーツ. (2015年12月26日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/1583989.html 2016年1月7日閲覧。 
  178. ^ ベースボールマガジン』、ベースボール・マガジン社、2010年3月、 [要ページ番号]
  179. ^ a b c d e f g h i j 塩口喜乙「直良勇二 広島カープの苦難時代」『朝日新聞記者の証言2 スポーツ記者の視座』朝日ソノラマ、1980年、144 - 153頁。
  180. ^ 『日本プロ野球偉人伝 1934-1940編プロ野球誕生期の37人の豪傑たち』ベースボール・マガジン社、2013年、30 - 31、102 - 103。
  181. ^ 2020年度セントラル・リーグ選手権試合日程 (PDF)”. 日本野球機構 (2019年7月22日). 2019年7月23日閲覧。
  182. ^ 御苦労様、広島市民球場(第428回): 蛭間豊章記者の「Baseball inside」
  183. ^ 藤島大 「元祖カープ女子 佐々木久子の生涯。」 『Sports Graphic Number』878号、文藝春秋社、2015年6月8日、pp.48-49。
  184. ^ 二宮清純「唯我独論」第668回 75年初優勝支えた“元祖カープ女子”二宮清純、2014年12月3日。2015年1月30日閲覧。
  185. ^ 爆報!THE フライデー ワイドショーを騒がせた美女 2018/03/02(金)19:00放送 TBS”. TVでた蔵. 富士ソフト株式会社. p. 1 (2018年3月2日). 2018年10月13日閲覧。
  186. ^ a b c d e f g “あれもこれも発祥はカープ!? 好調・広島を支える熱狂応援文化の秘密”. gooニュース (goo). (2014年4月18日). http://news.goo.ne.jp/article/yakyutaro/sports/yakyutaro-20140418020710431.html?pageIndex=1 2015年10月16日閲覧。 
  187. ^ a b c d e カープ応援にはスクワット - 広島 - 地域”. 朝日新聞デジタル. 朝日新聞社 (2013年10月17日). 2014年9月14日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年6月4日閲覧。
  188. ^ a b c 『るるぶ広島カープ』JTBパブリッシング〈JTBのムック〉、2013年、20頁。ISBN 9784533089916
  189. ^ 豊田泰光『プロ野球を殺すのはだれだ』ベースボール・マガジン社〈ベースボール・マガジン社新書〉、2009年、125頁。ISBN 9784583101620
  190. ^ a b c d e Forever 2009, p. 89.
  191. ^ 永井良和橋爪紳也『南海ホークスがあったころ 野球ファンとパ・リーグの文化史』紀伊國屋書店、2003年、233 - 234頁。ISBN 4314009470
  192. ^ a b c 丸谷才一 ほか『丸谷才一と16人の東京ジャーナリズム大批判』青土社、1989年、126 - 128頁。ISBN 4791750373
  193. ^ インタビュー|旧広島市民球場メモリアルサイト(Internet Archive)
  194. ^ 『プロ野球ヤジ講座 熱烈マニアにおくる』おかひろみ 編、自由国民社、1984年、[要ページ番号]ISBN 4426600006
  195. ^ 海老沢泰久『巨人がプロ野球をダメにした』講談社講談社+α文庫〉、2001年、[要ページ番号]ISBN 4062564947
  196. ^ “ラストナイン 市民球場最後の9試合 コイ流応援 大勝後押し”. 中国新聞. (2008年9月21日). オリジナルの2008年10月3日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20081003200706/http://www.chugoku-np.co.jp/kikaku/carp/last9_8.html 2008年10月3日閲覧。 “広島「新球場専用ジェット風船」を開発中”. 日刊スポーツ. (2008年10月19日). http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20081019-420680.html 2015年10月16日閲覧。 “はてな?探偵団47.ジェット風船の応援 発祥は? 甲子園で広島ファンが始める”. 神戸新聞. (2006年8月9日). オリジナルの2012年8月3日時点によるアーカイブ。. https://archive.is/20120803013219/http://www.kobe-np.co.jp/kurashi/200504hatena/50.htm 2006年8月9日閲覧。 “タカく飛べ ジェット風船”. 西日本新聞. (2013年8月22日). オリジナルの2003年12月5日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20031205102235/http://www.nishinippon.co.jp/nishispo/hawks/03vroad/jet/ 2003年12月5日閲覧。 
  197. ^ 2008年2月のご質問 - 阪急阪神ホールディングスグループ”. 阪急阪神ホールディングス (2008年2月). 2014年9月10日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年10月17日閲覧。
  198. ^ 読売新聞 2013年12月20日 朝刊25面 「赤い旋風 ファン熱狂」
  199. ^ カープ女子の秘密!その2”. アポロン. TOKYO FM (2014年5月26日). 2015年10月16日閲覧。
  200. ^ 岡崎秀正. “役員談話室”. 日本知的財産協会. 2015年10月16日閲覧。
  201. ^ a b 週刊SPA!』、扶桑社、2014年6月10日、 30-31頁。
  202. ^ a b 長谷川晶一 (2015年4月23日). “カープ女子が牽引? 今、野球界に女性向けグッズが急増中!”. Web Sportiva. 集英社. 2015年10月16日閲覧。長谷川晶一 (2015年5月5日). “【プロ野球】球団グッズは高級志向か、独創性か? それが問題だ”. Web Sportiva. 集英社. 2015年10月16日閲覧。
  203. ^ 井上智博 (2016年2月6日). “地下足袋、ふんどし、ライン引き…。 ファンを虜にする広島カープグッズ人気の謎に迫る”. マイナビ. http://news.mynavi.jp/news/2016/02/06/083/ 2017年9月9日閲覧。 
  204. ^ “プロ野球:広島の松田オーナー 地域に愛されてこそ”. 毎日新聞: p. 3. (2014年8月9日). http://mainichi.jp/sports/news/20140808mog00m050015000c.html 2015年10月16日閲覧。 
  205. ^ オグマナオト (2014年2月4日). “広島カープ グッズ企画力の秘密”. web R25. リクルート. 2015年10月16日閲覧。
  206. ^ “台車にギターも…ユニークグッズ続々”. デイリースポーツ. (2014年1月28日). http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2014/01/28/0006667886.shtml 2015年10月16日閲覧。 下半身イス? カープグッズが凄い”. web R25. リクルート (2015年2月1日). 2015年10月16日閲覧。
  207. ^ 【広島好き】独自路線を突き進む、恐るべきカープグッズ(Internet Archive)
  208. ^ 【広島カープ】これまでのサヨナラ記念Tシャツをまとめてみた”. 福岡ch (2011年5月16日). 2015年10月16日閲覧。
  209. ^ 2014年5月16日NHK総合『もうひとつのプレーボール〜カープ快進撃の舞台裏〜』
  210. ^ 観客数を1.5倍増させた横浜DeNAベイスターズ。球団運営に必要な利益を出すための取り組みとは”. U-NOTE (2015年4月16日). 2015年10月16日閲覧。[リンク切れ]
  211. ^ a b c 芳賀宏 (2015年4月11日). “【プロ野球通信】「広島さんは現金あふれ、銀行に預けに行った」…カープ圧勝「グッズ販売」”. 産経ニュース. http://www.sankei.com/premium/print/150411/prm1504110005-c.html 2015年10月16日閲覧。 
  212. ^ a b 吉田純哉 (2017年5月8日). “カープグッズ、急成長の秘訣 十数年で売り上げ15倍に”. 朝日新聞デジタル. 2017年5月8日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年6月4日閲覧。
  213. ^ a b c 広島県・湯崎知事、県民のカープ愛を熱弁「カープの授業」「ローソンが赤」”. マイナビニュース. マイナビ (2015年5月30日). 2015年10月17日閲覧。
  214. ^ 「カープロード」リニューアル!”. 広島東洋カープ公式サイト (2015年3月8日). 2015年9月23日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年10月17日閲覧。
  215. ^ 『るるぶ広島カープ』JTBパブリッシング〈JTBのムック〉、2015年、12頁。ISBN 978-4533102943
  216. ^ 広島電鉄 カープ応援企画![リンク切れ]
  217. ^ 名取紀之 (2014年6月20日). “JR西日本227系を発表。”. 編集長敬白. ネコ・パブリッシング. 2015年10月17日閲覧。
  218. ^ 227系に「カープ坊や」のLED表示 ”. 鉄道ファン. 交友社 (2016年9月12日). 2016年9月12日閲覧。
  219. ^ 227系のカープ坊や表示は製造時より用意されており、優勝を機に満を持しての登場となった
  220. ^ “カープの試合がある日は残業なしに 広島労働局が提案”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社). (2015年3月29日). http://www.asahi.com/articles/ASH3V41TCH3VPITB00K.html 2015年10月17日閲覧。 
  221. ^ Mr.サンデー - gooテレビ番組,2016年10月23日
  222. ^ 「金満球団と違う貧乏球団、奇跡の化学反応」久米宏さん”. asahi.com. 朝日新聞社 (2016年9月10日). 2016年9月11日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2013年5月13日閲覧。
  223. ^ 「カープ女子」関東にも経済効果 なぜ支持を集めているのか (2/3ページ)(Internet Archive)
  224. ^ a b c 小笠原芳 (2013年8月16日). “カープ盛り上げ隊(2) 漫才コンビ・チュートリアル徳井義美さん 『軽妙トークで愛語る』”. 中国新聞 (中国新聞社): p. 23 
  225. ^ a b c 水野誠 (2016年8月30日). “広島カープファンを急増させたメカニズム…プロ野球の「熱狂」から学ぶべきこと”. ニュース|dメニュー. NTTドコモ. 2017年6月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月3日閲覧。
  226. ^ 朝日新聞デジタル:カープファン 首都圏席巻!?-マイタウン広島(Internet Archive)神宮もドームも真っ赤! カープファン、首都圏で増殖中”. 朝日新聞デジタル (2012年9月7日). 2017年6月3日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年6月4日閲覧。
  227. ^ 「カープ女子」関東にも経済効果 なぜ支持を集めているのか (1/3ページ)(Internet Archive)
  228. ^ 森田和樹 (2013年10月14日). “【広島好き】真っ赤に染まった甲子園。次は関東のカープファンの底力を”. J SPORTS. 2015年10月17日閲覧。
  229. ^ 阿佐智 (2016年12月8日). “巨人は世界4位、阪神は6位…。プロ野球の観客動員数で日本は大健闘”. web Sportiva. 2017年6月4日閲覧。
  230. ^ a b c もりひろし (2015年9月19日). “カープ女子的愛称は他球団に広まるのか?~セリーグ編~”. 日経ビジネスオンライン. 2017年6月4日閲覧。
  231. ^ a b なぜ首都圏で急増? カープファン”. NHK 特集まるごと. 日本放送協会 (2013年9月30日). 2014年5月27日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年10月17日閲覧。
  232. ^ a b c “「カープ女子」に対抗! オリックス女性ファン、候補は「オリ姫」「オリ嬢」”. エキサイトニュース. AOLニュース (エキサイト). (2013年12月25日). http://www.excite.co.jp/News/world_ent/20131225/Aol_celebrity_orix.html 2015年10月17日閲覧。 
  233. ^ a b “首位快走でさらに急増中! カープに熱烈視線を送る「カープ女子」の最新動向!”. GREEニュース (GREE). (2014年5月14日). http://jp.news.gree.net/news/entry/1477113 2015年10月17日閲覧。 
  234. ^ a b “新語・流行語大賞「カープ女子」が年間トップテン受賞”. 日刊SPA! (扶桑社). (2014年12月1日). http://nikkan-spa.jp/757723 2015年10月17日閲覧。 
  235. ^ 村瀬秀信 (2011年8月16日). “森ガール、山ガールの次に来るのは、“カープガール”って本当か!?”. Number Web 野次馬ライトスタンド. 文藝春秋社. 2015年10月17日閲覧。
  236. ^ カープ女子(かーぷじょし)とは”. コトバンク (2014年8月7日). 2015年10月17日閲覧。
  237. ^ a b “カープ女子”NHK「ニュースウオッチ9」でわずか4秒初登場から流行語大賞トップテンに!”. スポーツ報知. 報知新聞社 (2018年11月4日). 2018年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年11月5日閲覧。
  238. ^ “増える「野球女子」に対応 セパ5球団が共同プロジェクト発表”. Fashionsnap.com (レコオーランド). (2015年3月13日). http://www.fashionsnap.com/news/2015-03-13/baseball-girl/ 2015年10月17日閲覧。 “阪神がいいオンナ開拓作戦”. 東京スポーツ. (2017年5月19日). http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/687092/ 2017年6月4日閲覧。 “「カープ女子」の次に来るのは?球界女性ファン最新事情”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2015年2月2日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/02/02/kiji/K20150202009735720.html 2017年6月4日閲覧。 有馬賢治 (2015年9月17日). “ディズニー男子、プロレス女子…「男性らしさ・女性らしさ」の社会的認識の変化も”. Business Journal. 2017年6月4日閲覧。ミムラユウスケ (2016年12月12日). ““Bリーグ版カープ女子”を目指せ! 千葉ジェッツの企画仕掛人は大学生。”. NumberWEB. 2017年6月4日閲覧。
  239. ^ カープ女子の影響? 広島ファン唯一4年連続増加”. ニッカンスポーツ (2017年4月8日). 2017年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月4日閲覧。
  240. ^ 関東カープ女子 野球観戦ツアー”. 広島東洋カープ公式サイト (2014年3月27日). 2014年5月27日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2015年10月17日閲覧。
  241. ^ a b スポカルラボ (2014年5月12日). “関東カープ女子148名を感激させた、広島球団の営業戦略”. 日刊SPA! (扶桑社). http://nikkan-spa.jp/640913 2015年10月17日閲覧。 
  242. ^ “プロ野球:広島の松田オーナー 地域に愛されてこそ”. 毎日新聞. (2014年8月9日). http://mainichi.jp/sports/news/20140808mog00m050015000c.html 2015年10月17日閲覧。 
  243. ^ “倍率15倍超!関東カープ女子ご招待ツアーで広島打線爆発”. (2014年5月10日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/05/10/kiji/K20140510008132430.html 2015年10月17日閲覧。 
  244. ^ “関東カープ女子の前で大勝 マエケン4失点も「勝てて良かった」”. スポーツニッポン. (2014年5月10日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/05/10/kiji/K20140510008133230.html 2015年10月17日閲覧。 
  245. ^ 「怒り新党」で新たなる「徹子の部屋」伝説を公開!?”. ニュースウォーカー. KADOKAWA (2014年5月1日). 2015年10月17日閲覧。
  246. ^ “衰え知らずのカープブーム”. デイリースポーツ. (2014年7月5日). http://www.daily.co.jp/opinion-d/2014/07/05/0007115928.shtml 2015年10月17日閲覧。 
  247. ^ “カープをより良く知るためのオススメの5冊+αはこれだ!(週刊野球太郎)”. gooニュース (goo). (2014年10月28日). http://news.goo.ne.jp/article/yakyutaro/sports/yakyutaro-20141028132426292.html?pageIndex=1 2015年10月17日閲覧。 
  248. ^ a b 村瀬秀信 (2015年1月14日). ““文系野球の聖地”の書店が選ぶ2014年「野球本」アワード、1位は!?”. Number Web (文藝春秋社). オリジナルの2017年6月3日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170601151835/http://number.bunshun.jp/articles/-/822465?page=4 2017年6月3日閲覧。 
  249. ^ プロ野球公式戦開幕!カープ本特集”. 広島県立図書館 (2013年9月30日). 2017年6月3日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年6月3日閲覧。
  250. ^ 球団史 (PDF)”. 広島県立図書館. 2015年10月17日閲覧。
  251. ^ ドーム響く 宮島さん - 広島 - 地域”. 朝日新聞デジタル (2013年10月17日). 2014年9月14日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年6月4日閲覧。
  252. ^ 赤き賛歌『宮島さん』に息づく100年ばなし”. 鯉のはなシアター. 広島ホームテレビ (2015年8月26日). 2017年6月4日閲覧。
  253. ^ “【虎のソナタ】「勝っち勝ち」コイ応援歌聴かずに済んだ”. サンケイスポーツ (産業経済新聞社). (2014年9月15日). http://www.sanspo.com/baseball/news/20140915/tig14091505000001-n1.html 2015年10月17日閲覧。 
  254. ^ a b 「○○山から雲が出た…」は上・中越地方特有の応援歌だった!
  255. ^ 応援歌「宮島さん」- 『お好みワイドひろしま』(NHK広島)(Internet Archive)
  256. ^ 総合テレビでは18時台は広島県のみで放送。山口松江鳥取岡山はローカルニュース終了後の18:59飛び乗り。但し、編成によっては、一部県のみの放送になり、金曜以外は広島県のみの放送になる





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「広島東洋カープ」の関連用語

広島東洋カープのお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング



広島東洋カープのページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの広島東洋カープ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2019 Weblio RSS