広岡達朗 広岡達朗の概要

広岡達朗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 10:59 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。
  • 廣岡達朗
広岡 達朗
基本情報
国籍 日本
出身地 広島県呉市
生年月日 (1932-02-09) 1932年2月9日(89歳)
身長
体重
180 cm
70 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 遊撃手
プロ入り 1954年
初出場 1954年4月4日
最終出場 1966年5月11日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1992年
選出方法 競技者表彰

現役時代は読売ジャイアンツで活躍、監督としてヤクルトスワローズ西武ライオンズをそれぞれリーグ優勝・日本一に導いた。千葉ロッテマリーンズゼネラルマネージャーを経て現在は野球評論家。愛称は「ヒロ(さん)」。

実兄・広岡富夫公務員広島県庁)からプロ入りした異色の経歴を持ち、広島市民球場第1号本塁打を打った広島カープの元選手である[2][3]

辛辣で歯に衣をきせない一面があり、古巣である巨人に対しても厳しい批評を下すことがある[4][5]

来歴

プロ入りまで

1932年2月9日、広島県呉市にて六人兄弟の末っ子として生まれる[6]。広岡は大日本帝国海軍少佐駆逐艦の機関長だった父親[2][7]の影響で、海軍兵学校に入学して海軍将校になることに憧れていた[8]。海軍兵学校では器械体操が必須であったことから、呉市立二河小学校(現:呉市立呉中央小学校)時代は鉄棒や雲梯をよく行っていた。1944年、海軍兵学校への登竜門である広島県立呉第一中学校へ入学。敗戦後、クラブ活動を選ぶことになった時は、バレーボールか父親から紳士のスポーツと聞かされていたテニスをプレーしようと考えていたが、父親とキャッチボールをしているところを自分より年上の野球部員に見られて野球部に誘われ、野球を始めた。海軍兵学校へ入学するために器械体操で身体を鍛えていたことで、野球を始めてから上達は早かった。広岡はこの体験から、現役引退後に指導者となった時、ウェイトトレーニングの重要性に球界でいち早く気づくことが出来たと振り返っている[9]。ポジションは三塁だった。

呉一中は1948年の学制改革で新制の呉竹高校となったが野球部は弱かった。49年の学校統廃合により広島県立呉三津田高校となってからチーム力が上がる[10]。高校3年生となった1949年の夏の広島県の大会で4強入りして西中国大会に進出し、決勝戦まで進出した。しかし山口県立柳井高等学校との決勝戦では自身の悪送球も重なって1-6で敗れ、甲子園出場は果たせなかった。

卒業後は野球を辞めて広島大学ないし山口大学への進学を考えていたが、早稲田大学野球部入団テストの受験を勧誘される。これは早稲田大学OBだった杉田屋守が監督の森茂雄へ広岡を推薦したことによるものだった[11]。早大野球部が宮崎県宮崎市の宮崎県営野球場で実施中のキャンプに赴いて入団テストを受け、合格。受験者は甲子園出場経験のある選手ばかりで引け目を感じていたが、プレーを見たら大したことがなかったと述懐している[12]

1950年、早稲田大学教育学部社会科に入学し、同大野球部に入部。入部後すぐに、同学年で小森光生が同じ三塁手であったため監督の森茂雄から遊撃手への転向を命じられ、以後のポジションは遊撃手となる。東京六大学野球リーグでは1950年春季リーグからの三連覇を含む四度の優勝を経験、1学年上の荒川博沼沢康一郎と共にスタープレーヤーとして活躍、「六大学(神宮)の貴公子」とも呼ばれた。

大学4年次には毎日オリオンズ・近鉄パールス・大阪タイガース、さらには同郷の鶴岡一人率いる南海ホークスや入団を勧誘されたが、広岡は当初から「一番強いチームに行きたい」と決めていた。他球団の話を断り、大学4年の終わり後に球団代表の宇野庄治から勧誘され、読売ジャイアンツへの入団を決めた[13]

吉田と競い合う華麗な遊撃守備

雑誌「週刊ベースボール」1958年4月16日号(創刊号)、左は新人の長嶋茂雄

読売ジャイアンツへ入団した広岡は、自慢の守備力をまざまざと見せつけた。1954年5月には正遊撃手だった平井三郎からレギュラーを奪って規定打席にも到達するなど、打率.314(リーグ6位)、15本塁打、67打点を記録して新人王を獲得し、ベストナインにも選ばれた[14]

1955年はチーム事情もあって主に三塁手として起用されるが翌年には遊撃手に戻り、これ以降、セントラル・リーグにおいては吉田義男大阪タイガース)と共にリーグを代表する遊撃手と称され、守備の堅実・華麗さを吉田と競い合った[15]。一方で打撃面では2年目以降に打率が低迷、広岡にとって大きな課題となる。

1956年1957年はいずれも4月から故障で2か月間離脱したが復帰し、1957年には自己最多の18本塁打を打つなど長打力に進歩を見せる[16][注 2]

1958年は努力の甲斐もあって打率.277(リーグ7位)の好成績を記録すると、この年には後に王貞治と共に「ON砲」として歴史に名を残す大型新人・長嶋茂雄立教大学)が入団し、早稲田大学卒でスラリとした長身の広岡と共に女性ファンの人気を集める。私生活においては、1957年12月に品川主計球団社長(当時)の媒酌により挙式を行った[注 3]

川上との衝突

広岡は自身の野球の原点を「プロの厳しさを『嫌』というほど思い知らされた入団当時の巨人軍の野球」としているが、現役時代は川上哲治との衝突が絶えなかった[17]。川上は「打撃の神様」と呼ばれた大選手だったが[18]一塁守備は下手で、しかも守る姿勢を取らずに打撃フォームを取ったまま捕球しようとし、捕球できないと首を捻っていた[17]。この行為がやる気の無さに見えた広岡は、後輩でありながら少し悪い送球を取れないと「それくらいの球は取って下さいよ」と意見することが多くなり、川上は「若造が生意気な…」という感情を持つようになった[19][20]

1960年11月19日、巨人は監督の水原茂が辞任し、川上が新監督に就任する[21]。川上は広岡に「今まで色々あったが水に流してくれ。これからは力になって欲しい。よろしく頼むぞ」と頭を下げ、広岡はコーチ兼任選手となった。翌年、巨人は2年ぶりにリーグ優勝を果たし、日本シリーズも南海ホークスを4勝2敗で下し、6年ぶりの日本一を達成した。その翌年、広岡は大学の先輩で毎日オリオンズを現役引退した直後の荒川を打撃コーチとして川上に推薦する[22]。荒川は生前、「プライドの高い広岡が、犬猿の仲の川上に頭を下げてくれた。広岡には感謝してもしきれない。今でも深い恩義がある」と話していた[22]

1964年8月6日の対国鉄スワローズ戦(明治神宮球場)において、0対2とリードされた7回表一死三塁の場面で打席に立ったが、金田正一が投じた3球目に三塁走者の長嶋茂雄が本盗を敢行し、長嶋は本塁でアウトとなった。しかし広岡は、長嶋の本盗が川上のサインと解釈して「自分の打撃がそんなに信用できないのか」と激怒した[23]。結局、広岡は次の球を空振りして三振すると、そのまま試合の途中で帰宅してしまう。その夜、藤田元司は広岡の自宅に電話して川上に謝罪するよう説得するが、広岡は拒否した[24]

同年のペナントレース終了後、川上は広岡をトレードで放出することを決断する。広岡は秋のオープン戦で遠征から外されたため、マスコミには広岡がトレード要員として大きく報じた。広岡自身は球団がトレードで自身の放出を検討していることを知ると、オーナーの正力亨の元を訪れ、「私は巨人が好きで入って、巨人から出る意志はありません。もし(トレードで)出すというなら、このまま『巨人の広岡』で辞めたいと思います」と訴える[25]。亨はこの広岡の訴えに当惑して実父である正力松太郎に報告すると、松太郎は広岡を日本テレビの社長室に呼び出し、「君は巨人軍の広岡として死にたいのだな?」と尋ねる。広岡は間髪入れずに「はい。そのとおりです」と答えると、松太郎は「わかった。君は巨人軍に必要だ。残れ」と言い[26]、11月25日に騒動の手打ちの意味合いで、広岡、川上らコーチ陣と共に会食を開いた[27]。広岡は事前に亨から「いいか?当日は何もしゃべるなよ。親父(松太郎)の言葉は業務命令だから、どんなことがあっても反論しちゃいかん。言いたい事があっても言ってはいかん。誰に何を言われても沈黙を守ってくれよ」とくぎを刺されている[28]。案の定、会食では川上が広岡に対してコーチ兼任でありながら監督に協力的でないと厳しく批判したが、広岡は亨との約束を守り、自分への批判を黙って聞いていた。しかし、広岡は後年「あの時、言うべき事を言うべきだった。私が川上監督とコーチたちと、意思の疎通を図る絶好のチャンスを自ら放棄したことを意味する」と後悔した[29]。広岡は会食の翌日に再び亨を訪ね、残留するわけにはいかないとして現役引退を申し入れたが、亨は態度を保留した。さらに多くの球界関係者から残留するよう説得され、中でもセ・リーグ会長の鈴木龍二と東映フライヤーズ監督の水原茂は「川上に背くのはまだ良いとしよう。しかし、大正力(初代オーナー)の君に対する温情を無にしてはいかん。大正力だけは、絶対に背いてはいかん」と広岡に助言した。この助言を受けて、広岡は12月に三度亨を訪ねて残留を申し入れ[30]、翌年もプレーすることが決まった。

野球理論の形成は原稿書き

1965年には87試合に先発出場していた。

1966年の開幕10試合以降は出場機会が激減し、土井正三黒江透修に定位置を奪われた。10月31日、広岡はオーナーの正力亨と話し合って現役を引退した。幾度となく川上と衝突した経験から、自分の野球理念が正しいかどうかを確かめるため、アメリカに渡りメジャー・リーグを視察することを決意した[31]。この直前、東京オリオンズからコーチとしての入団を誘われたが、既に渡米を決意していたために断っている[32]

1967年2月23日に広岡は羽田空港を出発して渡米し、最初にハワイのマウイでキャンプ中だった東京オリオンズを訪ね、次にサンフランシスコ・ジャイアンツを約2週間にわたって訪問した。その後、ロサンゼルス・ドジャースのキャンプ地であるフロリダ州ベロビーチにあるドジャー・タウンを訪問し、古巣・巨人がキャンプを行っているために再会を楽しみにしていたが、出迎えに来た関係者からドジャー・タウン以外のホテルを紹介された。広岡は困惑して一夜を過ごし、翌日になってドジャースの社長秘書の生原昭宏に会うと、生原から「巨人軍から『広岡をタウンに入れないでほしい』という申し入れがあったのです。誰がそう言ったのか、その人の名は訊かないで下さい」と打ち明けられる[33]。その発言を受けた広岡は発言主が川上であると確信し、激しい怒りを覚えたという。同時に川上を超える野球を身に着けることを決意したが[34]、広岡への対応は川上個人だけでなく巨人の選手の大半から接触を避けられて不快感を示したが、森昌彦だけは広岡が宿泊しているホテルを度々訪ねたこともあり、広岡は森の好意に感謝した[35]

アメリカから帰国後は、ラジオ関東の野球解説者に就任。また、スポーツニッポンとの契約も決まっていたが、アメリカ視察が長引いたために契約を打ち切られてしまう[36]。広岡は仕方なくサンケイスポーツを自ら訪ね、評論家として契約してもらえるよう直談判した[37][38]が、同紙の運動部長だった北川貞二郎からは「自分自身で原稿を書く」ことを条件に採用される。北川から文章について猛特訓を受けたこの時の経験が、後に自身の野球理論形成に大きな影響を与えることになる[37]

広岡の大きな財産~苑田のコンバート成功

1969年大晦日、根本陸夫に請われる形で故郷・広島へ戻り、広島東洋カープ内野守備コーチに就任する。ヘッドコーチの関根潤三と共に、のちに「ミスター赤ヘル」「鉄人」と称される山本浩二衣笠祥雄に加え、地元出身で現役引退後に広島の監督に就任する三村敏之、山本・衣笠と同時期に主力選手として活躍する水谷実雄を育て、後の広島黄金時代の礎を築いた[39][40]。なお、広岡の入団と入れ替わりで退団したのが上田利治[41][42]だが、両者は理論家肌のために「同一組織内では共存できない」と言われていた。広岡はさらに西本明和を投手から三塁手へ、井上弘昭外野手から二塁手へそれぞれコンバート[43]させたほか、根本から外野手だった苑田聡彦を内野手にコンバートするよう命じられる[44]。広岡は苑田の守備を見て「内野のセンスはゼロですね。教えても絶対に上達しない。私が保証しますよ。苑田だけは勘弁して下さい」と話したが、根本は「オレが責任を持つからとにかくやれ」と厳命した。苑田は当初、一向に上達せず、厳しい指導のストレスで円形脱毛症となり、広岡も一度は苑田の転向を諦めかけるほどだった。しかし根気強く続けた結果、ある時を境に突然内野手としての動きが熟せるようになり、苑田はこれ以降、広島の内野守備陣の要となった。このコンバート成功は広岡にとって大きな財産となり、「プロに来る選手は誰でも大変な才能を持っている。しかし、答えの出し方を知らないから自分には才能が無いと思い込んでしまう。その答えを泥まみれになりながら選手と共に探してやるのが指導者の務め。選手と指導者にやる気があれば、選手は必ずや答えを見つけて上達してくれる」「指導者としての自分があるのは苑田のおかげ」と述べている[39][43][45]

苑田のコンバート成功が大きな財産となった広岡は、1971年限りで広島東洋カープを退団する。広島でコーチを務めていた中でもまだ広岡自身の意識の中では古巣・巨人についてが大きな比重を占めていたが、退団後に川上の自宅を訪ね、広島でのコーチ経験を述べると共に、ドラフト制度が定着する今後の球界は選手の育成が重要になると説き、巨人の二軍の指導をお手伝いしたいと申し入れている[46]

広岡イズムで悲願の日本一

1973年ヤクルトスワローズから監督要請を受けるが、ヤクルトには打撃コーチに早稲田大学時代の先輩である荒川博がおり、先輩を差し置いて監督になるわけにはいかないとして辞退、守備コーチとして入団した(監督には荒川が昇格した)。コーチには広岡以外に小森光生沼澤康一郎がおり、監督と合わせた「早大カルテット」として大いに話題になった[47][48]。これは当時の明治神宮外苑長だった伊丹安広の「神宮は東京六大学のメッカ。六大学の卒業生を使ってくれないか」との意向に沿ったもので、この年の一軍コーチは全員が東京六大学OBだった[48]

1976年にはヘッドコーチに昇格し、同年のシーズン途中の6月17日に休養した荒川の後任として監督に就任した[49]

当時のヤクルトはオーナー・松園尚巳の方針で家族主義的なチームカラーだったが[47][50][51]、広岡は「広島以上にぬるま湯」としてプロとして弛緩した雰囲気が流れていると判断した[38][52][53][54]。シーズンに入って故障者が続出したことで、広島時代に根本に進言して実践した選手の食生活管理を行い、正式に監督に就任した1977年以降は「麻雀花札ゴルフの禁止」「禁酒(練習休みの前日のみ食事時に可)」「(骨を酸化させるとして)炭酸飲料の禁止(その代わりにプラッシーを飲ませた)」「ユニフォーム姿では禁煙」「練習中の私語禁止」を打ち出し、選手の生活態度に対して厳しい規制を打ち出した[49][55][56][57]。投手陣整備には堀内庄を招聘[58]、守備重視の広岡イズムを浸透させるために、キャンプから守備走塁を重視した練習メニューと試合方針を打ち出した。投手陣を優先的に整備し、荒川監督時代に巨人戦でエース級の松岡弘を先発、安田猛を中継ぎ、浅野啓司を抑えで起用して連敗が続くような采配をしていたが、メジャーリーグのようなローテーション確立を目指して、先の3人に鈴木康二朗会田照夫を加えて5人で先発を回した[38][59]。先発投手には中継ぎ起用はさせないこととし、抑えに井原慎一朗を任命[59]、この年に加入したチャーリー・マニエルには守備練習を行わなければ起用しないと厳しく接する一方[59]水谷新太郎を遊撃手として辛抱強く育て上げた[60]。当然、突然の方針転換に当初は選手から反発を受けたがこの方針は成功し、チームを球団史上初のシーズン2位に導く結果となった。しかし広岡は満足せず、まだ基礎体力が充分でないと判断して、ドジャースタウンで見た立派なトレーニング施設を思い出し、専門家の指導によるウエイトトレーニングを導入した[61]。当時はシーズンオフにトレーニングを行う発想はなく、不平不満を発する選手もいた[61]。さらに、シーズン2位とはいえ、首位・巨人とは7勝19敗と大きく負け越しており、「巨人コンプレックスを払拭しない限り優勝はない」という理念の下、松園に米国キャンプを直談判する。しかし松園は「(ヤクルトの工場がある)ブラジルならいい」と返答したため、広岡は「それは出来ません」と拒否する。さらに松園から「負けたらどうする?」と聞かれたことに「責任を取って辞めます」と発言、ヤクルト球団初の海外キャンプアリゾナ州ユマで実施された[61][62]。ユマはパンチョ伊東の紹介によるもの[61]で、現地においてサンディエゴ・パドレスの選手が練習の合間に黙々とウエイトトレーニングをやっている姿を実際に選手が目で見ることが出来たのは大きな収穫になった[61][63]。チームは悲願の日本一に輝いたことで、これ以降、海外でキャンプを実施するチームが増えることになった。

1978年は、ユマキャンプでデーブ・ヒルトンを直接、自分の目で実力を判定した上で採用[64][65]したほか、森昌彦をバッテリーコーチとして招聘[58]する。森は広岡の意向を受けて選手の私生活も細かく管理し、広岡は森のデータに基づいて巨人戦の対策を強化する。前年に続いてキャンプからシーズン開幕後も休日無しで守備中心の練習を行った[66]。開幕当初はつまずいたが、ヒルトンと角富士夫で1・2番コンビを組ませた作戦が当たり、若松勉、マニエル、大杉勝男の中軸の調子が上がると強力打線が力を発揮し、5月からペナントレース争いに加わり、前半戦終了時に首位で折り返した[64]球宴休み期間の激励会で、後援会関係者と会話した際に「巨人に勝つとヤクルト商品が売れなくなる。優勝しなくてもいいから」と言われショックを受け[64]、後半戦に入ると調子を落とし、8月25日の時点で巨人に4.5ゲーム差をつけられて優勝は絶望に見えたが、福富邦夫、若松、大矢明彦船田和英らを中心にチームが結束[64]、巨人の失速もあり、多くの逆転勝利を収めて快進撃を続け、10月4日に球団創設初のリーグ優勝を決めた。優勝決定後、広岡に真っ先に抱き着いて頬ずりまでしたのは選手ではなくオーナーの松園だった[64]。日本シリーズでは4年連続日本一を狙う阪急ブレーブスとの対戦となり、世間の予想は「阪急有利」という評が圧倒していたが[67]、ここでもヤクルトは阪急を4勝3敗で下して初の日本一を手にした。阪急との日本シリーズで圧倒的に不利との前評判で勝てたのはヤクルトの方がベストコンディションだったからで、阪急は六・七分、その上、有馬温泉で休んでいたから、心のスキがあったんだろう」と話している[63]

広岡は日本一になった時点でヤクルトの退団を決意したが、フジサンケイグループから「優勝監督を『契約切れ』といって放出したら商売にならない」と慰留を受け、新たに3年契約を結んだ[68]。この契約の際に現場のことは全面的に広岡に任せ、協力する約束を交わしたが、チーム補強のために意図したロッテの山崎裕之の獲得・トレードは合意の段階で決まって球団上層部からクレームが付き、次々に潰されていった[68][69]。広岡はこれを「トレードに予定していた選手が残留を訴えたため」と述べている。

1979年も優勝候補の一角だったが開幕から8連敗を喫して低迷、球団社長の佐藤邦雄は選手から不評だった森を広岡に無断でバッテリーコーチから解任し、投手コーチの植村義信を二軍に降格させようとした[68]。これを知った広岡は球団人事案を巡って対立し、8月17日に辞任を申し出たが、佐藤から「じゃ辞めろ」と素っ気無く言われ、広岡、森、植村の3人が同時に8月29日付けで正式に退団した[70]

常勝西武の礎

ヤクルト退団後は日本テレビ、夕刊フジの野球解説者として活動。1981年9月、近鉄バファローズからこの年限りで退任する西本幸雄の後任として監督就任の要請を受ける[71]。だが、西本に認めてもらえた喜びの一方であまり縁の無いパシフィック・リーグ、しかも在阪球団に引っ掛かりを覚える。さらに、同じ在阪球団の阪神タイガース球団社長・小津正次郎からも声が掛かる[71]。阪神はヤクルトと同じセ・リーグで、「巨人のライバル」「打倒・巨人」でやってきたこれまでの努力を実現するには格好のチームと考えて前向きに検討したが、契約年数で合意に至らなかった[71]。阪神は伝統的に監督交代劇が起こり、それに終止符を打つために広岡は任期を5年を主張したが、小津が3年を譲らず、折り合いがつかなかった[71]。そして広島時代の監督で、西武ライオンズの監督兼管理部長の根本陸夫から「お前しかいない。良い選手はしっかり取ってある。行儀作法、お辞儀の角度までしっかり仕込んであるぞ」と誘われる。

1981年10月29日、西武ライオンズの監督に就任することが正式に発表された。5年の任期で契約金6,000万円・年俸3,600万円と、当時の一軍監督としては異例の厚遇だった[72]。広岡の西武入りは根本の仕掛けだけでなく、広岡の反・巨人意識とオーナー・堤義明の「巨人に追い付け追い越せ」の経営哲学が一致した結果だった[56]。監督としては長期的な5年契約だが、広岡は自身にとっても非常に厳しい契約書を作成してもらう。その内容は、

  1. 広岡自身の都合により退団する場合、年俸はそこでカット。受領済みの契約金も返還する。
  2. 休養中は給料は支払われない。
  3. 舌禍に対しては厳罰を処する。

といったもので、監督就任記者会見の席でこれについて聞かれると、「納得したから契約した」と語っていた[73]。監督就任後、作戦参謀に森、打撃コーチに佐藤孝夫と、1978年にヤクルトスワローズを率いて日本一になった際のコーチを招聘した。また、契約時には球団代表(当時)の坂井保之に「優勝したら裏方を含めて年俸を上げてほしい」と要望すると、「当然だよ、常識ですよ」という口約束があった[71][74]。しかし、後に本当に優勝・日本一を達成しても年俸は上がらず、坂井へ「上げるのが当然って言ったじゃないか」というと、「そんなこと契約書に書いてない。君のミスだよ」と返された[71]。広岡は監督就任決定後に聞いた話として、最初は長嶋へ声を掛けたものの即座に断られ、上田に九分九厘決まっていたものが引っ繰り返され、広岡への打診は3番目だったという[71][75]

広岡は、西武でもヤクルト時代と同様に厳しい自己管理と守備重視の野球を行う[74]。就任一年目に前期優勝を遂げると、1982年プレーオフでは後期優勝を果たした日本ハムファイターズを下して、球団19年ぶりのパ・リーグ優勝を果たす[76]同年の日本シリーズでも中日ドラゴンズを4勝2敗で下し、球団24年ぶりの日本一を達成、第一次黄金時代の幕開けを導いた[15]。プレーオフで敗れた日本ハムファイターズの監督・大沢啓二は「『近鉄ロッテさえ注意すりゃあ優勝は間違いねえ』と思ってたんだ。ところが蓋を開けてビックリよ。それまで弱小球団だった西武がいきなり勝ちまくってそのまま前期優勝しちまった。広岡が(監督就任)一年目で優勝なんてなかなか出来るもんじゃねえ。ほんと、あれには驚いたよ」と述べている[77]

1983年も2位・阪急ブレーブスに17ゲーム差を付ける独走でリーグ連覇を果たす。同年の日本シリーズの対戦相手は古巣・巨人で、広岡は巨人を倒して日本一に輝くことで自分の野球の正しさを証明しようと取り組んできたため、待ちに待った舞台となる[78]。巨人監督の藤田元司とはかつてのチームメイトで、二人が監督としての対戦は「球界の盟主の座を賭けた戦い」として第7戦まで日本中の注目を集めた。激闘の結果、4勝3敗で2年連続日本一となり、球界に「西武時代到来」と騒がれた。日本シリーズから数日後、森を伴って、軟化していたとはいえまだ対立状態だった川上を訪ねて優勝を伝えると、 「負けりゃ良かったのに。藤田に勝たせてやれば良かったのに」と言われている[78]

シーズンオフ、日本ハムからトレードで江夏豊が入団した。西武側からの申し入れと、大沢の「広岡の下でやった方が江夏のためになる」という意向によるものである[79]。しかし、江夏獲得のために中継ぎ投手の木村広柴田保光を放出、小林誠二も古巣・広島へトレードとなり、中継ぎ投手3名が一度に退団したが、このトレードは広岡の意向に反しており、次第に広岡は根本やフロントに対して反感を抱くようになる。また、江夏自身も一匹狼の性格であり、選手管理で有名だった広岡との間で衝突が起こることが予想されていた。

1984年は主力の田淵幸一山崎裕之大田卓司がケガによる離脱や不振のため、好調の阪急に押されてペナントレースから早々と脱落してしまう。そこで広岡は5月20日から方針転換し、若手選手を多数起用して新旧交代を見据える采配を行った[38][80][81]伊東勤が正捕手となったのをはじめ[82]、起用する選手の大半を若手選手に切り替えて「育てながら勝つ」という命題に挑み、3位で終えたことで会心のシーズンだったと語っている[38][80]。シーズン終了後、バッテリーコーチの森が退団し、黒田正宏が兼任することとなった[82]。一方で田淵・山崎が現役引退を決意、江夏は8月に二軍落ちすると再昇格することなく西武を自由契約となった。江夏は広岡について「オレの生活権を奪った男」と語っているが、江夏があまりにもチームメイトに馴染めない、結果を残せないこともあって対応に苦慮した[83][84]。江夏は11月12日、球団に対し退団を申し入れて了承され、現役を引退した。江夏の要望で任意引退ではなく、自由契約となった。江夏は西武退団後の1985年頃に「最近、広岡さんの話をすると虫唾が走る。あの人は将の器じゃない。他人に責任を擦り付けて自分は責任を取らない。さん、佐藤さんと広岡さんを支えた人は西武を去り、ロクさんもよく二軍で残ったもんだ。ブチ(田淵)みたいに他人の悪口を言わないのが、広岡さんの悪口を言った。納得いかない監督はチビ1と今度の監督(広岡)」と語っている[85]

1985年は、中日から巨人OB黒江透修をヘッドコーチ、土井正博を二軍打撃コーチ、宮田征典を一軍投手コーチ、長池徳士を一軍打撃コーチに招聘するなどコーチ陣を一新。背番号を80から91に変更する。田淵の引退により、広岡は長距離砲の外国人選手を渇望する。筆頭としてドン・ベイラーカリフォルニア・エンゼルス)の獲得を進言したが、球団は打者ではなく台湾球界のエース・郭泰源を獲得した[81][86]1985年秋山幸二辻発彦工藤公康渡辺久信などの若手選手の台頭により、従来の寄せ集め選手中心から生え抜き選手中心のチームへ姿を変え[82]、独走状態でリーグ優勝を果たした。広岡はシーズン終盤に持病の痛風が悪化して病気療養し、コーチの黒江透修が監督代行を務め、優勝決定試合では不在だった[87]同年の日本シリーズでは、現役時代のライバル・吉田率いる阪神に2勝4敗で敗れ、日本一を逃した[15]

シーズン終了後、広岡は監督権限を強化するようにフロントに要望したが聞き入れられず、夕刊紙にフロント批判を繰り返したことを根本が問題視すると、同年11月8日に広岡は辞任を申し出た[80][81]。広岡が根本に「辞めてあげましょうか」と言うと、根本は嬉しそうに「おお、辞めてくれるか」と答えた[81]。5年契約を1年残し、優勝監督の突然の辞任という衝撃的なものだったが、広岡自身は「相当いい仕事しているのにクビになった」と話している[88]。辞任記者会見では、「痛風が出て終盤の大事な試合で指揮が取れなかった。球団にはわがままを聞いてもらった」と、球団が書いたシナリオ通りに辞任の理由を健康上の問題としたが、「4年間で三度のリーグ優勝、二度の日本一と出来過ぎとも言える成績を残した自分をどうして追い出しにかかったか、今でもわからない」と話している[81]が、一部では広岡の選手に対する厳し過ぎる指導、言いたい放題、勝っても思ったより伸びない観客動員、フロントとの確執を挙げている[87]。正捕手の伊東は同日、温泉治療で群馬県の上牧温泉病院へ向かっている途中で広岡の辞任を知り、「サービスエリアビールを買って小宴会みたいになった。私のあの厳しさから解放されると思うとホッとした」と当時を振り返っている[82]

広岡の後任には長嶋、古葉竹織、田淵らが候補として挙がったが[87]、同年12月5日に前年限りで退団していた森が監督として復帰し[87]、後に黄金時代と呼ばれる[89][90][91][92]

西武退団後はNHKの野球解説者に就任した。

球界初のGM就任

1990年阪神タイガース監督に就任した大学の後輩・中村勝広に請われて臨時コーチを務め、東京遠征時には仲田幸司猪俣隆野田浩司を指導した[93]。特に仲田には徹底的に指導し、鳴かず飛ばずだった仲田は2年後の1992年にエースとして君臨する[94]

広岡は、アメリカに比べて日本は指導者育成の場が少な過ぎると考え、1988年に「ジャパンスポーツシステム」を設立、アメリカの著名選手や球団経営者を招いて勉強会「日米ベースボールサミット」を開催した[95]。これは1990年まで3回実施され、MLBコミッショナーを務めたボウイ・キューンドン・ドライスデールボビー・ボニーヤなどのMLB元指導者、およびボビー・バレンタインテキサス・レンジャーズ監督)などの現役監督や選手が来日した[95][96]ほか、日本からも広岡をはじめ張本勲鈴木啓示古葉竹織らが参加して議論を繰り広げ[95]、当時プロ入り前だった野茂英雄新日本製鐵堺)、古田敦也トヨタ自動車)などのアマチュア選手も参加し、実技指導を受けた。また、「ジャパンスポーツシステム」は日本人選手の受け入れを目指してアメリカのマイナーリーグ球団の経営にも乗り出し、当時ミネソタ・ツインズ傘下1Aだったバイセイリア・オークスを買収、読売ジャイアンツから吉田孝司コーチ、藤本健治佐川潔小沢浩一四條稔を受け入れた[97]1990年にはトロント・ブルージェイズ傘下3Aのバンクーバー・カナディアンズを買収した[97]。バンクーバーで通訳・経営に携わったエーシー興梠は能力を買われてロサンゼルス・ドジャースアジア地区担当取締役に就任し、黒田博樹を獲得している。

1994年11月1日、オーナー代行・重光昭夫に誘われて千葉ロッテマリーンズゼネラルマネージャー(GM)に就任した[96][98][99]。GM制度は日本球界初の試みで、当時のロッテは毎シーズン下位と低迷し、「オーナーから『全部任せる』と言われ、革命的なことをやる必要がある」と、前述の日米野球サミットで知り合ったボビー・バレンタインを監督に招聘、選手ではフリオ・フランコ、ビート・インカビリア、エリック・ヒルマンを獲得する。しかし、バレンタインとはシーズン序盤から野球観の違いで確執を起こし、伊良部秀輝小宮山悟愛甲猛・ヒルマン・フランコら主力選手とも確執を起こした。広岡は二軍ヘッドコーチだった江尻亮を一軍に昇格させ、バレンタインの意向を遮って休養日に練習を課したが、広岡はバレンタインが泣きついてきたため、日本式の練習を導入し、練習に飢えていたチームは軌道に乗ったと話している[96][100]。チームは後半戦から調子を上げたため、新外国人選手獲得のために渡米し、帰国後にバレンタインが「自分(広岡)に任せていたらチームはもっと上(位)に来ていた。GMが横槍を入れたから」という趣旨の記事を書かせたという[100]

チームは最終的に、1985年以来の2位へ躍進したが、江尻と江藤省三尾花高夫が「選手が不調になればすぐ対処するのがコーチの仕事なのに、監督は『疲労が原因だから休ませれば良い』と言う。これでは我々コーチの仕事が無い。出来れば(ロッテを)辞めたい」と辞任を申し出た。これを受け、オーナー代行・重光昭夫に事情を説明すると、オーナー・重光武雄の裁定を仰ぐこととなったが、武雄から「監督解任でも良いか?」と聞かれて「困りません」と答え、同年限りでバレンタインの解任が決定、後任に江尻が昇格した[100]。広岡は自身に「監督を解任する権限は無かった」と話している[54]が、後にバレンタインは「GMは選手集めが仕事なのに、広岡はそれをせずに現場へ口を出すだけだった」と批判し、広岡は「監督は泥まみれで選手を教えるのが仕事なのに、バレンタインはやらなかった」と反論している[54]1996年は江尻が監督を務めたが、フランコ、インカビリアに替わる新外国人野手として獲得したランディ・レディ(登録名・スパイク)、ジャック・ドウティー(同・ジャック)が絶不調で6月に解雇される非常事態に陥る。その後、ウェス・チェンバレンダレル・ウィットモアを獲得したものの5位に終わり、広岡は3年契約を1年残して同年10月8日に解任された[101][102]

再び解説者として

1998年から2007年まではアール・エフ・ラジオ日本の野球解説者を務め、その間はスポーツ情報番組のラジオパーソナリティとしても活躍した。

現在は野球評論家として活動する傍ら、読売巨人軍OB会副会長を務めていた。2004年に会長である長嶋茂雄脳梗塞で倒れて以降は事実上の会長格として活動していたが、正式な会長ではない。また、長嶋の前々任だった別所毅彦が死去した時や、前任の藤田元司が辞任した際も会長候補として名が挙がったが、就任は実現しなかった。その後、2009年王貞治がOB会の会長に就任した。

「指導者とは自身の身体で見本を示さなければならない」を持論としており[103]、高齢の監督・コーチ業には否定的な立場をとっているため、2000年代以降は正式な指導者として腕を振るうことは無いが、シーズン終了後には読売ジャイアンツの臨時コーチを務めており、2012年には中日ドラゴンズ東京ヤクルトスワローズの臨時コーチを務めた[104][105]。また、母校・早稲田大学の指導も熱心で、特に内野手のスローイングの指導を行っている。

また、「読売ジャイアンツの監督は生え抜きに限る」ことも持論としており、2001年シーズン終了後に長嶋が勇退した後も東京スポーツ紙上で「これからはOB会が巨人軍の再建のため遠慮なく発言する」というなど、球団経営に介入する発言を繰り返している。2005年堀内恒夫が解任され、後任として星野仙一の名が挙がったが、広岡は大反対し、2007年原辰徳が率いて5年ぶりのリーグ優勝を果たすと、「原が優勝してくれて心底ホッとした。原には『巨人魂』がある。やはり(巨人監督に)余所者を入れてはダメ。巨人の飯を食ったことの無い者には任せられません」と話した[106]

一時期、中日新聞において「広岡達朗の痛言独論」というコーナーを不定期で受け持ち、日本の野球界に対する苦言などを自らの持論を元にして語っていた。オリンピックへのプロ選手の参加にも否定的で、「オリンピックというアマチュア選手の夢を奪うことは野球界のレベルアップにはつながらない」というのが持論である。

現在はベースボール・マガジン社より発行されている週刊ベースボールにおいて「「やれ」と言える信念」という隔週連載コラムを受け持つほか、複数のニュースサイトへ記事を寄稿している。内容は野球のみに留まらず、2017年日馬富士貴ノ岩に暴行を働いた傷害事件に端を発する角界の一連の騒動や日大アメフト部反則タックル問題新型コロナウイルス流行や対応といったものを取り上げることもあり、現代文化概念に対して拒絶的な意見を寄せることもある[107]

評価

球界一の遊撃手とは

1956年のオールスターゲームにて吉田義男

優れた守備力のある遊撃手と評価されていたものの、ベストナイン遊撃手部門の選出回数にあるように、当時は球界ナンバーワンといえば吉田義男大阪タイガース)とされていた(吉田は9回に対して広岡は僅か1回)。広岡は、吉田のずば抜けた守備力を「甚だ迷惑」と語っていたが、吉田は「広岡さんからグラブ捌きなど色んなことを学んだ」と述べている[108]。吉田の俊敏、華麗な守備に対抗するために広岡が行き着いたのは「基本に忠実、堅実なプレー」で、岩本尭は「どんなデコボコのグラウンドで、(打球の)バウンドがどうなろうと、広岡は百発百中捌いていた。広岡へのノックが始まると、他の選手は練習を止めて見入っていた」と称えている。

広岡が守備の手本としたのは、ポジションが異なるものの、1958年秋の日米野球で来日したセントルイス・カージナルスの二塁手で、後に阪神タイガースの監督に就任するドン・ブレイザーだったという [109][110]。広岡は、基本動作を一から全て丁寧に練習するブレイザーを見て「最初はバカにして見ていたけど、それはとんでもない大間違いで、自分はあのように丁寧に野球をやってないことに気付かされた。ブレイザーの真似をして打球にひたすら丁寧に向き合うようにしたら、自分の守備力が急激に上がった」と言い、自らの守備理論の確立にブレイザーは最も大きく貢献したと常々語っている。

妥協を許さない厳しい姿勢は監督時代に有名となったが、それは現役時代から変わっておらず、読売ジャイアンツコーチだった牧野茂は「彼(広岡)には『この位で良い』というのが無い。どこかで固めてしまえば“広岡スタイル”が出来ただろうが、常に上を求めてしまう」と語っている。牧野と、現役時代に大先輩だった千葉茂は口を揃えて「広岡のエラーは『理由の無いエラー』が無い。エラーをすると必ずその原因を追究し、翌日にはそれを修正するための練習をしていた」と、その探求心を評価している。

伸び悩んだ打撃

1年目から打率3割を記録して大型打者との評価を受けるが、以降伸び悩み打率が.250を越えたのが1955年(.257)と1958年(.277)のみであった。初めは新田理論に傾倒するが、のちに荒川理論で打つなど、器用に何でも採り入れられる一方、理論家だけにとにかく理詰めでバッティングに取り組み、これが迷い道となって暗中模索のまま終わってしまった[111]。また、投球をあまりに怖がり積極性がなかったとの評価もある[112]

指導者としての広岡

監督として就任当初は弱小球団だったヤクルトスワローズ西武ライオンズを就任から僅かな期間でリーグ優勝、日本一へ導いた手腕は多方面から高く評価されている。西武から監督の就任の要請を受けた際、管理部長の根本陸夫から「真のプロ野球を教え、彼らを戦う集団に変貌させてほしい」と乞われている。根本も広岡について「球界で最も妥協の無い人物」、関根潤三も「文句無しに球史に残る名監督。大指導者」と評している[113]早稲田大学の後輩である近藤昭仁[114]中村勝広八木沢荘六や、監督時代の教え子だった若松勉大杉勝男田淵幸一からは深く信奉されている。近藤は「広岡監督の戦略は、いままで見た監督の中で間違いなくナンバーワン。特に選手に自己管理を徹底させる方法と、根気良く選手の欠点を矯正していく技術はプロ中のプロ」と述べている[115]

田淵幸一は広岡のコーチングに最も強烈な影響を受けたと自著で述べているが、それは“まさに、ケンカ、選手を怒らせて上手くさせるコーチング”と解説している。西武キャンプ初日に全選手を前に主力選手を「給料泥棒」「引き際を考えろ」などと一人ずつ批判したため、選手間で「アイツの目が節穴だったと証明してやる。絶対優勝してアイツを胴上げして4回目で全員の手を離して落としてやる」が合言葉になったという[76][116]。これは、このチームはベテランの働きが鍵を握ると考え、ベテランを奮起させればチームの体質が変わるという広岡の戦略でまんまとこれにはまった。不思議なものでチームが強くなると指揮官に信頼感が湧いてきて胴上げの時はしっかり広岡を受けとめたという[76]。広岡は不世出の勝負師と思うと話している[117]。 田淵は広岡の食事療法を受け入れた結果、体質が改善されたと述べている[118]

二年目にチームリーダーとしての教育を施した[103]石毛宏典は「俺にとっても広岡さんの存在は大きい。1年目に新人王を取って、ああプロってこんなもんかって少し甘く考えていたんだけど、2年目に広岡さんが来たら下手だ、なんだとボロクソ言われて。腹の立ったこともあったけど『将来、指導者になりたければ自己流はダメだ。しっかりした理論を体にしみこませろ』と言われた」[119][120]「正確に問題点を再現するので納得するしかなかった」[121]「俺の中で昭和の名将は広岡達朗しかいない。監督人事は"有事"なんですよ。問題があって、それを解決して勝てるようにしなきゃならないから、その能力を持った人にやってもらうわけでしょう。あの時の西武はバラバラで、個々の選手の技術やレベルも十分じゃなかった。だから広岡達朗という男は個人のスキルアップを徹底的に行い、それでチーム力を上げ、勝てる集団にした。それだけの技術を持った"技術屋"でもありました」「厳しい広岡監督に野武士たちが付いていくようになったのは、やっぱり広岡監督が技術理論に長けた人だったからではないかと思う」[91]「ベテランは猛反発したけど、自分は中高大学と軍隊のような部活で育ったから(広岡野球に)違和感はなかった」と話している[91]。広岡も石毛はリーダーシップのある選手と見抜き、天狗にならないよう意識的に挑発したと述べている[122]

広岡は一軍で指揮を執る一方で森、近藤、佐藤孝夫の3コーチらと共に二軍に足を運び、若い選手を鍛え上げた[38][122][123][124]。その成果もあって1985年に一気に若手が台頭した[123][125]。2012年阪神球団初のゼネラルマネジャーに就任した中村勝広は、この一軍首脳陣が二軍にいる期待の若手を直接指導して西武の黄金時代を築いた広岡の指導方式を導入した[124]

渡辺久信は「高校を卒業していきなりの管理野球にはとんでもないとこに来たと思ったけど、今思えばその経験が良かったと思う。最初の上司が放任主義者なら、もう今頃はどうなっているか、何をやっているかすら分からない。そういう意味では広岡さんに礎をつくってもらったのかも知れない[126]。蹴飛ばされたこともあったが、野球に関してあんなに厳しい人はいなかった。若いときに広岡さんと出会えたことは僕にとっては幸運だった」と話している[127]

2010年まで球界最高齢選手(47歳)として現役を続けた工藤公康は、広岡に"坊や"と可愛がられ、入団1年目から使われたことでも知られるが[128]、西武時代に広岡に教えられた食事法を現在も実践し、体調管理に役立てているといい[129]「管理野球が自分の基礎」[130]「これまで何度もあった逆境を乗り越えられたのは、広岡監督に若いうちにプロ魂をたたき込まれたお陰」[131]「玄米じゃなきゃ壊れてたかもしれない」「頭が上がらないというより、今でも顔を見たら直立不動です」[119][132]「野球に懸ける情熱、思いはあまりにすごすぎてまねできない」などとと話している[133]。なお熊谷組への就職を発表していた工藤をドラフト6位で強行指名し入団させた仕掛人は、長らく工藤自身含めて全て根本と信じられてきたが、実は根本は工藤指名には反対で、強行指名の仕掛人は広岡だったという[134]。渡辺と工藤は広岡が一軍に置いたまま、特別教育した成果である[135]

金森栄治は「俺は玄米嫌いじゃなかった。今はみんな五穀米を食べている。広岡さんは時代の先を行っていたということ。野球のスタイルに関してもそう」と話している[136]伊東勤も基本の大事さを教えられた最も影響を受けた野球人として広岡を挙げ[137]「(広岡の監督辞任直後)その時広岡さんのおかげでチームが強くなったことに感謝する選手はほとんどいなかったと思う。だが、やがて分かる。広岡さんに基礎をしっかり叩き込んでもらったからこそ、その後のライオンズがあったのだ」[82]「広岡達朗さんが土台を作って寄せ集め球団を優勝に導き、西武になってから入団した生え抜きが勝つためにはこういう野球をやらなきゃいけない。という基本を引き継ぐ。戦力的に足りない部分を管理部長の根本陸夫さんがトレードで埋め、バランスのいいチームを作った」[82]と述べている。

辻発彦は「広岡さんの下で野球がやりたくてアマチュアの時から西武志望でした」と話し[138]、2016年10月の西武監督就任会見で、基本に立ち返ることの重要性を説いた広岡から授けられた座右の銘「稽古とは一から習い十を知り十よりかえる元のその一」を披露した[139][140]。自ら手本を見せた広岡同様、自身も自ら手本を選手に見せる指導を行うと話した[141]

大久保博元は「何でボクを獲ったのかというところから始まった広岡野球が、指導者になった今になって、なるほどと思えることばかり」と話している[142]。伸び悩んでいた時期に「下手投げ理論」を基に再生させた松沼博久は、当時誕生した長男に「達」の一文字を付け、感謝の気持ちを表した[89]。また、秋山幸二は、米教育リーグと広岡野球を心酔して招聘された長池徳士コーチによって育てられたもの[143]田尾安志は「広岡達朗監督が実力至上主義を徹底していたから。だからこそ、他チームの追随を許さない黄金時代を築くことができた」[144]「広岡さんは選手を歯車の一つとしか思っていなかった。ベンチからバントのサインが出ると打球を転がす位置も決める。考えさせる隙を作らせなかった。広岡さんは二軍監督の方が適任だと思った。なぜなら野球が学べるから。当時の西武の選手は若手が多かったから広岡さんが標榜した管理野球は合ってました」[145]と述べている。

ロッテコーチ時代に毎日のように広岡に怒られ指導者としての心構えをたたき込まれたという尾花高夫も、最も影響を受けた指導者として広岡を挙げており、2010年から2011年まで横浜ベイスターズで指揮を執った際、広岡と野村克也を手本にした野球をやりたいと話していた[146]。2010年シーズン途中からヤクルト監督に就任した小川淳司も“広岡+野村”の考えをエッセンスに含めた小川流管理野球をやると語った[147][148]

チャーリー・マニエルはかつて広岡と激しく対立し、いざこざが絶えなかったが[149]、現役引退後、アメリカ球界で監督と指導者としてキャリアを重ねていくうちに、「ようやくヒロオカの言っていたことが理解できた」「今監督をしてチームを率いてやってみて、ヒロオカの言ったことは正しかったことがわかる。説得力があり、自分でお手本を示すことができ、選手の心理をつかんでやる気を出させる、そんな彼が示したボスの条件は、おれもまったく同意しているんだ。ニシモト(西本幸雄)には悪いが、監督としておれが目指すのはヒロオカ式鉄の統制だ」[149]などと発言、指導者としての自分があるのは日本での経験のおかげであると述べている[150]

一方、西武監督時代の選手だった江夏豊は広岡について「広岡さんの野球に対する考え方は素晴らしい。管理野球、管理社会の時代には最高の指導者といえるが、長期的にみた場合、広岡さんのやり方では一人一人の選手の個性を伸ばせない」[151]と批判している。また「広岡さんは素晴らしい技術を持った野球人だが、言っていることとやっていることが違うのが大いに疑問だった」と記している。西武時代に「アイツは関西で投げると、どうも変なピッチングをする」という際どい発言をされた[89]東尾修は「百パーセント、選手を統括しておかないと気が済まぬ人[152]」「すべて自分の考え方に全選手をあてはめ、従わせようとする人」と評している。ただし、東尾は「広岡監督に選手が反発とか、対抗しながら優勝していった。マスコミもそれにうまく乗っけてくれた。そこら辺から少しずつパ・リーグの記事も増えたから、本当の野球とは違った意味での魅力なのかね」[153]などと話している。1982年の日本シリーズで広岡西武に敗れた中日ドラゴンズ近藤貞雄監督は「広岡は鵜匠。対する私は鷹匠です。鷹は鵜と違ってヒモがない。どこかへ飛んで帰ってこないのがいる」と皮肉った[154]

森祇晶とはヤクルト、西武監督時代から盟友と呼べる関係であったが、森が西武を退団後は袂を分かっている。清原和博覚醒剤で逮捕された事件で、広岡は「清原がこうなったのは、プロ野球で上に立つ人が『これはやっていい』『これはやってはいけない』と教えてこなかった結果なんですよ。縁あって入った球団の指導者は何をしていいかいけないかを選手に教えるべき。この事件は球界に対する警告だと思うね。コーチを責めるよりも、やっぱり監督だね。清原は高校を卒業してドラフト1位で西武に入った。当時の森監督は野球は教えたけど、社会人としての常識を教えなかった。親ができなかったことを、球団が教えないといけなかった。森監督がしっかりしていれば、清原はタイトルを取ってますよ。清原は『無冠の帝王』だもん。清原はまれにみる才能を持った男だったんですよ。僕が西武の監督だったころに入団していたらよかったが」と批判している。広岡によると、清原の扱いにてこずり将来を心配したコーチたちが森に「一度、社会常識など厳しく教え込むべきではないか」と進言したが、森はこれを無視して放任したという[155]。また著書の中で「かつて私のあとに西武の監督を務めた森のように、打線に力があるのにバントばかりしては野球が面白くなくなる」と批判している[156]

広岡自身は自著『意識革命のすすめ』他で、歴代プロ野球で最も評価する監督として西本幸雄を挙げている[106]。日本シリーズでは一度も勝利を得ることがなかった西本であるが、広岡は選手を一から育成し弱小球団だった阪急や近鉄をリーグ優勝にまで導いた西本の手腕を絶賛している。この西本への評価から、広岡の理想の指導者像が「勝つ」能力ではなく「育てる」能力をもった指導者であることがわかる。清武英利がゼネラルマネージャーの頃に育成重視の方針を採るも、その時代を除きFA制度その他で完成した選手しか集めなくなった現在の巨人に対しては厳しい批判を向けている[157]。同じ広島出身で巨人の遊撃手としても後輩である二岡智宏は高く評価していたが、現在の遊撃手である坂本勇人は評価しておらず、しばしば著書などでその守備やプレースタイルに厳しい批評を行っている。


注釈

  1. ^ 週刊ベースボールに連載されているコラム『「やれ」と言える信念』や「日本の野球殿堂の表記においては、旧字体を用いた「廣岡 達朗」の名義としている[1]
  2. ^ 『巨人軍5000勝の記憶』では、「1年目のまま打てばいいものを、理論派であるだけに考えすぎたのが、3割に復帰できない理由だと言われた。しかし意外性のある打者ではあった」という評価が記されている。
  3. ^ 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(30)、2010年8月31日分より。なお、広岡の挙式には監督である水原茂も出席していたが、当日に別室で水原から厚い信頼を得ていたコーチ2名と選手1名が解雇を言い渡されている。
  4. ^ 「管理野球」という名称は、広岡がヤクルト監督時代の『'79年度版 プロ野球選手名鑑』(恒文社)の記事に見られる(『'79年度版 プロ野球選手名鑑』恒文社、1979年、43頁)。
  5. ^ 医学博士、お茶の水クリニック院長。「森下自然医学療法」を提唱する。

出典

  1. ^ 廣岡 達朗 野球殿堂博物館
  2. ^ a b 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(2)、2010年8月2日
  3. ^ #レジェンド【ありがとう八十年(47)】広岡達朗、キャンプに参加…わいた東京六大学への興味【ありがとう八十年(47)】広岡達朗、キャンプに参加…わいた東京六大学への興味
  4. ^ 巨人OB広岡達朗氏「個人的には広島が勝てばいいと思います」
  5. ^ 巨人OB・広岡達朗氏 高橋由伸監督擁立に「軽率で言語道断」
  6. ^ a b c d e #レジェンド【ありがとう八十年(45)】広岡達朗、生まれ育った海軍の街で培った“軍律”【ありがとう八十年(45)】広岡達朗、生まれ育った海軍の街で培った“軍律”
  7. ^ #生きて<2>
  8. ^ #生きて<3>
  9. ^ 広岡達朗「一塁送球を捕ってくれない川上さんから学んだこと」サンケイスポーツ編『レジェンドが語るあの日、あのとき』産経新聞出版、2015年、p105
  10. ^ 日本経済新聞2010年8月3日36面「私の履歴書 広岡達朗③ 悪送球で甲子園を逃す 3年になりやっと本格練習」日本経済新聞縮刷版2010年8月p120
  11. ^ #生きて<5>
  12. ^ 日本経済新聞2010年8月4日36面「私の履歴書 広岡達朗④ 2年春に優勝決定打 連帯責任から支え合い学ぶ」日本経済新聞縮刷版2010年8月p172
  13. ^ 日本経済新聞2010年8月5日40面「私の履歴書 広岡達朗⑤ プロの技術に面食らう 平井先輩の教え受け新人王」日本経済新聞縮刷版2010年8月p230
  14. ^ #レジェンド【ありがとう八十年(51)】広岡達朗、川上さんに反逆「あんな下手なファーストじゃ…」【ありがとう八十年(51)】広岡達朗、川上さんに反逆「あんな下手なファーストじゃ…」
  15. ^ a b c その30 巨人・広岡と阪神・吉田のグラブ - 野球体育博物館
  16. ^ 【8月15日】1954年(昭29) 黄金ルーキー広岡、Wヘッダーで先頭打者本塁打”. スポーツニッポン (2007年8月1日). 2008年1月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2008年1月19日閲覧。
  17. ^ a b #ウォッチング60-61頁
  18. ^ 【川上哲治と落合博満の超打撃論その1】「ボールが止まって見えた」の真実(横尾弘一)”. Yahoo!ニュース (2020年7月1日). 2021年1月28日閲覧。
  19. ^ #レジェンド【ありがとう八十年(52)】広岡達朗、軽口からできた川上さんとの溝【ありがとう八十年(52)】広岡達朗、軽口からできた川上さんとの溝
  20. ^ 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(6)、2010年8月6日
  21. ^ 読売新聞1960年11月19日7面「巨人新監督に川上」読売新聞1960年11月p391
  22. ^ a b 「私だけが知る『巨人V9の真実』第7回 荒川博」週刊ポスト、2014年10月3日号、138頁
  23. ^ 広岡達朗『意識革命のすすめ』講談社文庫、1986年、p144
  24. ^ 広岡、1986年、p145
  25. ^ 広岡、1986年、p147
  26. ^ 広岡、1986年、p148
  27. ^ 川上貴光『父の背番号は16だった』朝日文庫、1995年、p394
  28. ^ 広岡、1986年、p150
  29. ^ 広岡、1986年、p151
  30. ^ 広岡、1986年、p152
  31. ^ 広岡、1986年、p164
  32. ^ 広岡、1986年、p166
  33. ^ 広岡、1986年、p170
  34. ^ 広岡、1986年、p170
  35. ^ 広岡、1986年、p172
  36. ^ 広岡達朗『監督論 人は「育つ」ことを選手に教えられた』集英社インターナショナル、2004年、p197
  37. ^ a b #レジェンド【ありがとう八十年(57)】広岡達朗、35歳“新人記者”をしごいてくれた鬼デスク
  38. ^ a b c d e f g 広岡達朗が語る、強者を作る指揮官の理論強いチームの監督に必要な素養 週刊ベースボールONLINE
  39. ^ a b c 中国新聞 | 生きて | <12> カープコーチ 指導者として実績積む
  40. ^ 日めくりプロ野球09年1月
    コイのぼれ
    山本浩二 | 名球会コラム | 日本プロ野球名球会
    衣笠 祥雄|プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2
  41. ^ a b 「上田阪急vs広岡西武 熱パの盟主を賭けた『よさこい戦争』多角的分析」週刊サンケイ、1982年3月4日号、23-26頁
  42. ^ 「上田・広岡にみるリーダーの条件 『広島学校』で培われた部下掌握術」サンデー毎日、1980年11月2日号、17-21頁
  43. ^ a b c d e 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(14)、2010年8月15日
  44. ^ #レジェンド【ありがとう八十年(54)】広岡達朗、外野手・苑田を内野手に育てる【ありがとう八十年(54)】広岡達朗、外野手・苑田を内野手に育てる
  45. ^ #生きて<1>
  46. ^ 広岡、1986年、p195-p196
  47. ^ a b #レジェンド【ありがとう八十年(55)】広岡達朗「選手を一人前に育てる責任がある」
  48. ^ a b 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(16)、2010年8月17日
  49. ^ a b 【8月17日】1979年(昭54) 日本一監督・広岡達朗 10カ月で解任のワケ (archive)
  50. ^ #ウォッチング63頁
  51. ^ 小野俊哉『プロ野球 最強の監督』、中央公論新社、2012年、198頁
  52. ^ a b c 広岡達朗氏「プロ野球監督は勉強不足すぎる ... - 東洋経済オンライン
  53. ^ #生きて<13>
  54. ^ a b c d 辺見庸『新・屈せざる者たち』朝日新聞社、1988年、195頁
  55. ^ スポーツニッポン、2013年2月18日20面、池井優『ハロー、マニエル、元気かい プロ野球外人選手列伝②』創隆社、1985年、34頁
  56. ^ a b サンデー毎日、1981年11月1日号、26-29頁
  57. ^ スワローズ全史(ベースボールマガジン社、2020年6月17日発行)p.34-35「時代の証言者 広岡達朗」
  58. ^ a b プロ野球レジェンドが語るあの日、あのとき、産経新聞出版、P127、2015年
  59. ^ a b c 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(17)、2010年8月18日
  60. ^ #レジェンド【ありがとう八十年(56)】広岡達朗、水谷を日本一の遊撃手に…「素質ない」も諦めず指導【ありがとう八十年(56)】広岡達朗、水谷を日本一の遊撃手に…「素質ない」も諦めず指導
  61. ^ a b c d e 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(18)、2010年8月19日
  62. ^ ヤクルト海外初キャンプ 笑いと驚きの珍道中 - ZAKZAK
  63. ^ a b c 週刊朝日朝日新聞社、1978年12月1日号、29-31頁
  64. ^ a b c d e 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(19)、2010年8月20日
  65. ^ 週刊新潮、1982年1月28日号、47頁
  66. ^ 『Sports graphic Numberベスト・セレクションII』Sports Graphic Number文藝春秋、1988年、56-63頁
  67. ^ 『巨人軍5000勝の記憶』p.37ほか
  68. ^ a b c 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(20)、2010年8月21日
  69. ^ 週刊朝日、1979年8月31日号、24-26頁
  70. ^ スポーツニッポン連載「我が道 近藤昭仁118」2011年12月19日付け
  71. ^ a b c d e f g 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(21)、2010年8月22日
  72. ^ 週刊新潮、1981年11月12日号、148頁
  73. ^ 海老沢泰久『みんなジャイアンツを愛していた』新潮文庫、1987年、p119-p120
  74. ^ a b #レジェンド【ありがとう八十年(61)】広岡達朗、「管理野球」でいきなり連続日本一【ありがとう八十年(61)】広岡達朗、「管理野球」でいきなり連続日本一
  75. ^ #レジェンド【ありがとう八十年(60)】広岡達朗、82年就任「教育と優勝」二つの命題に挑む【ありがとう八十年(60)】広岡達朗、82年就任「教育と優勝」二つの命題に挑む
  76. ^ a b c 「虎四ミーティング~限界への挑戦記~」 田淵幸一さん(野球解説者)
  77. ^ a b 大沢啓二『球道無頼』集英社、1996年、180-181頁
  78. ^ a b 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(24)、2010年8月25日
  79. ^ 大沢啓二『球道無頼』、187、200-201頁
  80. ^ a b c #生きて<15>
  81. ^ a b c d e 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(25)、2010年8月26日
  82. ^ a b c d e f スポーツニッポン 2018年4月13日 11版 伊東勤の我が道
  83. ^ 阿部牧郎『われらのプロ野球』1996年、中央公論社、19-36頁
  84. ^ 【9月10日】1984年(昭59) 「もう疲れた」江夏豊“最後の登板”は1安打投球も寂しく…
  85. ^ 永谷脩の仕事 プロ野球ベストセレクション 珠玉の53篇 (Sports Graphic Number PLUS(スポーツ・グラフィック ナンバー プラス)) 文藝春秋、2016年、P24-P26
  86. ^ 浜田昭八・田坂貢二(2001)『球界地図を変えた男・根本陸夫』日経ビジネス人文庫、2001年、p155
  87. ^ a b c d よみがえる1980年代のプロ野球 Part.1 [1985年編] (週刊ベースボール別冊空風号) (週刊ベースボール別冊立春号)ベースボール・マガジン社、2020年、72頁
  88. ^ 巨人ご意見番・広岡氏“激怒”…高橋由に“引退勧告” - スポーツ:ZAKZAK
  89. ^ a b c 週刊ベースボールベースボール・マガジン社、2013年9月30日号、22、23頁
  90. ^ a b 週刊文春、2010年4月15日号、115頁
  91. ^ a b c 『昭和40年男』2013年10月号、クレタパブリッシング、106-109頁
  92. ^ 8/6 広岡達朗元監督が来場 | 埼玉西武ライオンズ オフィシャルニュース
  93. ^ スポーツニッポン、2011年11月14日付
  94. ^ 『元・阪神』竹書房、2002年、179、180頁
  95. ^ a b c 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(27)、2010年8月28日
  96. ^ a b c #生きて<16>
  97. ^ a b 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(28)、2010年8月29日
  98. ^ 優勝請負人・広岡達朗の挑戦 - NHK クローズアップ現代
  99. ^ ここがヘンだよプロ野球 中途半端な権限のGM制度(2/2) - OCNスポーツ 【球談徒然】広岡GMエリート入団させメジャー野手への「羨望」払拭
  100. ^ a b c 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(29)、2010年8月30日
  101. ^ 広岡著、巨人への遺言プロ野球 生き残りの道 幻冬舎、2016年、P75
  102. ^ 広岡GMエリート入団させメジャー野手への「羨望」払拭 - ZAKZAK
  103. ^ a b 東京スポーツ連載「標なき道 石毛宏典⑬」2012年5月29日
  104. ^ 二宮清純「広岡流から学ぶこと」 | SEIJUNプレミアム | 現代ビジネス+【あの人あの話題】今、広岡達朗氏がモテモテ〜!そのワケは - ZAKZAK南球団社長、広岡氏の指導継続を希望 、サンケイスポーツ、2012年1月24日付
  105. ^ 広岡氏 中日コーチ陣を指導「中日に守備のうまい選手はいない」
  106. ^ a b 夕刊フジ、2007年10月4日44面
  107. ^ 週刊ベースボール2020年6月28日増刊号、66頁ほか。
  108. ^ 『海を渡った牛若丸』、36、37頁
  109. ^ 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(7)、2010年8月7日
  110. ^ #レジェンド【ありがとう八十年(53)】広岡達朗、捕球&送球の基本練習【ありがとう八十年(53)】広岡達朗、捕球&送球の基本練習
  111. ^ 『巨人軍の男たち』174頁
  112. ^ 『日本プロ野球 歴代名選手名鑑』213頁
  113. ^ 関根潤三『一勝二敗の勝者論』佼成出版社、1990年、104頁
  114. ^ スポーツニッポン連載「我が道 近藤昭仁18〜20」2011年12月19日 - 21日
  115. ^ テリー伊藤著、お笑いプロ野球殿堂 ダメ監督列伝、P253,光文社,2004年
  116. ^ 福岡ソフトバンク・工藤公康監督 あえて選手を怒らせ力を引き出す手腕
  117. ^ 田淵幸一『新猛虎伝説』、光文社、2003年、81、82頁
  118. ^ インタビュー 田淵幸一氏 デッドボールと腎臓炎 選手生命の危機で
  119. ^ a b 「ライオンズ60年史」 74-77頁
  120. ^ asahi.com:石毛氏が誕生秘話出版-マイタウン愛媛
  121. ^ 東京スポーツ連載「標なき道 石毛宏典⑫」2012年5月25日
  122. ^ a b c 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(22)、2010年8月23日
  123. ^ a b 東京スポーツ連載「標なき道 石毛宏典⑭⑮」2012年5月30、31日
  124. ^ a b “中村GM「広岡式」で虎復活へ”. 東京スポーツ. (2012年9月7日). https://www.tokyo-sports.co.jp/sports/36977/ 2021年7月10日閲覧。 阪神の藤浪育成法は「広岡流」 | 東スポWeb – 東京スポーツ新聞社
  125. ^ 東京スポーツ、2012年9月7日付
  126. ^ 週刊朝日朝日新聞出版、2009年4月10日号、35頁、週刊ポスト、2009年2月6日号、68、69頁
  127. ^ SPORTS COMMUNICATIONS - 西武、4年ぶりリーグ制覇!
  128. ^ 【11月12日】1982年(昭57) 工藤公康“プロ初先発”はメロメロ 追試もボロボロ Archived 2015年9月24日, at the Wayback Machine.、ゲンダイネットSPORTS COMMUNICATIONS - 工藤公康の投球論<後編>もりやまタイムス平成24年3月号【5月23日】2007年(平19) 工藤公康、セ最年長記録「一番長くて忘れられない1勝」 Archived 2016年7月11日, at the Wayback Machine.
  129. ^ 『粗食は最強の体をつくる!』三笠書房、2006年他
  130. ^ 日本経済新聞2012年3月6日37面
  131. ^ <朝日新聞×マイナビ転職>Heroes File〜挑戦者たち〜 工藤公康さんvol.1
  132. ^ 人の自立を促すのが真のリーダー 野球評論家 工藤公康
  133. ^ 工藤公康さん(3/3) - インタビュー - ひと - [どらく
  134. ^ 週刊文春株式会社文藝春秋、2012年5月3、10日号、198頁
  135. ^ #ウォッチング80頁
  136. ^ スコラマガジン刊 スコラムック「僕たちが愛したプロ野球80年代パ・リーグ」2014年3月29日、30-31頁
  137. ^ 伊東勤 TSUTOMU ITOH Official Website: Q&A(archive)、西武黄金時代OBの著書が面白い。辻&伊東が語る清原、広岡、玄米。
  138. ^ 辻発彦「西武は最強の“アマチュア野球”」 SPORTS COMMUNICATIONS
  139. ^ 西武・辻新監督 常勝復活へ鬼になる!原点は広岡監督の教え
  140. ^ プロ野球西武の監督に就任した辻発彦さん =ひと 人= 佐賀新聞
  141. ^ 西武・辻新監督が歩む広岡氏の道 自ら手本「守備は今でも誰にも負けない」
  142. ^ 【球界風雲児デーブ】広岡監督が掲げる「玄米食」で下痢に ... - ZAKZAK
  143. ^ 永谷脩『タフに生きる』世界文化社、1991年、138頁
  144. ^ 球場が呼んでいる(田尾安志)首脳陣・フロントが押さえたい大物新人のトリセツ - 日本経済新聞、2019年2月24日
  145. ^ 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 Part.2 [1986年編] (週刊ベースボール別冊冬桜号)ベースボール・マガジン社、2019年、16頁
  146. ^ 週刊文春、2009年11月26日号、115頁
    週刊ベースボールベースボール・マガジン社、2009年11月15日号、105頁
    vol.6 尾花高夫 - ライフ - ORICON STYLE
    横浜ベイスターズ監督 尾花 高夫 氏|インタビュー|社団法人横浜中法人会
    尾花 高夫さん | 南区 | タウンニュース
  147. ^ 燕・小川流“広岡+野村”で黄金期再び! (1/2ページ) SANSPO.COM
  148. ^ スポーツニッポン2010年10月21日4面
  149. ^ a b 中島国章『プロ野球通訳奮闘記 涙と笑いの異文化交流』日本放送出版協会、1994年、46、77頁
  150. ^ 【8月4日】1979年(昭54) “赤鬼”マニエル、“アメフット”スタイルで復活スポーツニッポン2008年11月17日5面、週刊現代、2011年12月24、31日号、182頁
  151. ^ 板東英二・江夏豊『オレたちだから言えるんだ』山手書房、1985年、122頁
  152. ^ 我が道 | 野球人 東尾修のスポニチ連載コラム
  153. ^ テレビ朝日出版部『オレにも言わせろ!日本人とプロ野球』、1989年、213、214頁
  154. ^ #堀84-85頁
  155. ^ 巨人への遺言プロ野球 生き残りの道、P24
  156. ^ 巨人への遺言プロ野球 生き残りの道、P127
  157. ^ 広岡達朗氏 長嶋茂雄が巨人の理念を変えてしまったと語る(NEWSポストセブン)
  158. ^ a b 「ライオンズ60年史」 1950▷▷▷▷2010、ベースボール・マガジン社、2010年、、58、59、62、63、74-77、106、107頁、広岡達朗「僕は管理をしたんじゃない。ルールを教えたんです」 週刊ベースボールONLINEプロ野球「西武ライオンズ」が誕生した。 : あの日 この1枚No.18 - 我が道 | 野球人 東尾修のスポニチ連載コラム【球界風雲児デーブ】広岡監督、なんでボクをとったんですか ... - ZAKZAK
  159. ^ a b 広岡達朗監督「ケガを誘発するから、豆乳を飲め」
  160. ^ a b 『われらのプロ野球』、19頁
  161. ^ #生きて<14>
  162. ^ a b 関根潤三『一勝二敗の勝者論』、106頁
  163. ^ 若松 勉|プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2
  164. ^ 広岡達朗『意識革命のすすめ』講談社文庫、1984年、p211-212
  165. ^ 世界が認めた和食の知恵 - 新潮社
  166. ^ 広岡 達朗さん 野球評論家 | 「介護110番」総合案内
  167. ^ a b c d e f g 週刊文春、1982年2月4日号、176-179頁
  168. ^ a b c 教育学、111-116頁
  169. ^ 森繁和×二宮清純<後編>「バッターは飛ばないボールで工夫せよ!」 p2
  170. ^ 週刊新潮、1982年9月9日号、140頁、9月30日号、19頁
  171. ^ 二宮清純『スポーツ人健康管理学』ライト出版、1986年、103-106頁
  172. ^ サンデー毎日、1982年3月7日号、186頁
  173. ^ 『プロ野球 最強の監督』、188頁
  174. ^ 意識革命、111-116頁
  175. ^ 方程式、28-35頁
  176. ^ 渡辺久信『寛容力』講談社 ISBN 9784062150002、p.p.175-176
  177. ^ 森『覇道―心に刃をのせて』 p.35
  178. ^ 【私の養生訓 】脳卒中で二度も倒れた経験のある、広岡達朗氏(元プロ野球監督)ダイジェスト版”. BBMスポーツ. 2021年9月16日閲覧。
  179. ^ a b c d e 尾張久次『「尾張メモ」の全貌』講談社、1998年。ISBN 4-06-132119-6
  180. ^ 松井浩 『打撃の神髄-榎本喜八伝』、229頁
    ボビー・バレンタイン 『1000本ノックを超えて』、永岡書店、1996年
  181. ^ a b c 「私の履歴書」日本経済新聞社連載(9)、2010年8月10日
  182. ^ 『巨人軍の男たち』174頁
  183. ^ 歴代授賞者”. 日本プロスポーツ大賞. 公益財団法人日本プロスポーツ協会. 2017年11月25日閲覧。
  184. ^ 東京都文化賞・都民文化栄誉章”. 文化振興. 東京都生活文化局. 2017年12月4日閲覧。
  185. ^ 巨人への遺言”. 幻冬舎. 2016年3月21日閲覧。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「広岡達朗」の関連用語

広岡達朗のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



広岡達朗のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの広岡達朗 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2021 GRAS Group, Inc.RSS