平清盛 平清盛の概要

平清盛

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平清盛
天子摂関御影』の清盛肖像(南北朝時代
時代 平安時代末期
生誕 永久6年1月18日ユリウス暦1118年2月10日先発グレゴリオ暦1118年2月17日
死没 治承5年閏2月4日(ユリウス暦1181年3月20日、先発グレゴリオ暦1181年3月27日)
別名 平大相国、六波羅殿、福原殿、清盛入道
戒名 浄海(じょうかい)
墓所 能福寺神戸市切戸町、
六波羅蜜寺祇王寺彦島
官位 従一位太政大臣
主君 崇徳天皇鳥羽院)→近衛天皇(鳥羽院)→後白河天皇二条天皇(後白河院)→六条天皇(後白河院)→高倉天皇(後白河院)→安徳天皇(後白河院・高倉院)
氏族 桓武平氏維衡坂東平氏伊勢平氏
父母 父:平忠盛白河院?)
母:白河院女房祇園女御の妹?)
継母:池禅尼
兄弟 清盛家盛経盛教盛頼盛忠度、他
正室高階基章の娘
継室平時子(二位尼)
側室:厳島内侍常盤御前?
重盛基盛宗盛知盛徳子盛子
重衡、維俊、知度清房完子御子姫君
坊門信隆室、花山院兼雅室、冷泉隆房室、
廊御方?
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伊勢平氏棟梁平忠盛嫡男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任じられる。日宋貿易によって財政基盤の開拓を行い、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた(平氏政権)。

平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏独裁公家寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した。

生涯

伊勢平氏の嫡男

永久6年1月18日[注 1]1118年2月10日)、伊勢平氏の棟梁である忠盛の嫡男として生まれる。出身地は山城国京(現在の京都市)という説が有力である。生母は不明だが、もと白河法皇に仕えた女房で、忠盛の妻となった女性(『中右記』によると保安元年(1120年)没)である可能性が高い。『平家物語』の語り本系の諸本は白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御が忠盛に下賜されて清盛が生まれたとしている(いわゆる白河院落胤説)が、読み本系の延慶本は清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いている[注 2]。また、近江国胡宮神社文書(『仏舎利相承系図』[2])は清盛生母を祇園女御の妹とし、祇園女御が清盛を猶子としたと記している[注 3]。清盛が忠盛の正室の子でない(あるいは生母が始め正室であったかもしれないがその死後である)にもかかわらず嫡男となった背景には、後見役である祇園女御の権勢があったとも考えられる。

大治4年(1129年)正月、12歳で従五位下左兵衛佐に叙任。これについて中御門宗忠は驚愕している[注 4][注 5]。清盛は同年3月に石清水臨時祭の舞人に選ばれるが[注 6]、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・源有仁の随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと推定されている。祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は白河法皇であるとの噂も当時からある。落胤説の事実性は乏しいものの、清盛が公卿を輩出したことのない院近臣伊勢平氏の出身にもかかわらず[注 7]、令制最高職の太政大臣にまで昇進したことは、王家との身内関係が当時信じられていたゆえといわれる[5]

若い頃は、鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成の邸に出入りしていた。家成は、清盛の継母・池禅尼の従兄弟であった。高階基章の娘との間に重盛基盛が生まれるが、死別したと推測される。

保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後に任じられる。

久安3年(1147年)、継室に迎えた平時子との間に宗盛が生まれる。時子の父・平時信は鳥羽法皇の判官代として、葉室顕頼信西とともに院庁の実務を担当していた。

この年6月15日、清盛は祇園社に赴くが、郎等の武具を咎めた神人と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した(祇園闘乱事件)。祇園社を末社とする延暦寺は忠盛・清盛の配流を要求して強訴するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を贖銅三十という罰金刑にとどめた。その後、清盛に代わり正室腹の異母弟の平家盛が常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現す。既に母を亡くし問題を起こした清盛に替わって、母方の後見の確かな家盛が家督を継ぐ可能性もあった。

しかし、久安5年(1149年)に家盛は急死したため、清盛の嫡流としての地位は磐石となる。家盛の同母弟・頼盛は15歳の年齢差もあって統制下に入り清盛も兄弟間の第二の者として遇するが、経盛教盛に比べてその関係は微妙なものであり続けた。安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国へと勢力を拡大した。またその頃より宮島の厳島神社を信仰するようになり、仁平3年(1153年)、忠盛の死後に平氏一門の棟梁となる。

保元の乱、平治の乱

保元元年(1156年)の保元の乱では義母・池禅尼が崇徳上皇の子・重仁親王の乳母であったため清盛の立場は難しいものであったが、一門の結束につとめ後白河天皇側について勝利をもたらし播磨守大宰大弐となる。

信西と藤原信頼・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、平治元年(1159年)の平治の乱で政権を握った藤原信頼・大炊御門経宗葉室惟方などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。この過程で源義朝源重成源季実源光保といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握し、武家政権樹立の礎を築く。

平家納経』のうち「観普賢経」の見返し部分
平家一門の繁栄を願って発願された『平家納経』は、長寛2年(1164年)、厳島神社に奉納された。平家納経の見返しは豪華さで知られる。『観普賢経』は『法華経』の結経。
芳年武者旡類よしとしむしゃぶるい 平相国清盛たいらしょうこくきよもり
月岡芳年が手掛けた縦大判東錦絵揃物『芳年武者旡類』の一図。1883年(明治16年)刊行の武者絵
権勢を誇り、沈む日輪までも意のままにせんとする清盛。描かれているのは、音戸の瀬戸(1165年)の日招き伝説

全盛期

継室の時子が二条天皇の乳母であったことから、清盛は天皇の乳父として後見役となり検非違使別当中納言になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。

久寿2年(1155年)、時子との間に徳子(後の建礼門院)が生まれ、後の承安元年(1171年)には後白河法皇の猶子として入内することになる。

応保元年(1161年)9月、後白河上皇と清盛の妻の妹である平滋子(建春門院)の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれると、平時忠平教盛が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・藤原成親坊門信隆を解官して平忠盛を出雲へ左遷、後白河院政を停止した。清盛は天皇の御所に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。翌年3月には平治の乱で配流されていた二条親政派の大炊御門経宗が帰京を許され、6月には平時忠・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛した罪で配流された。清盛は二条天皇の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。さらに関白・近衛基実に娘・盛子を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。

院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、長寛2年(1164年)に蓮華王院(三十三間堂)を後白河上皇のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。二条天皇は後白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年(1165年)に重盛を参議に任じて平家への依存を深めるが、7月28日崩御した。

後継者の六条天皇は幼少であり、近衛基実が摂政として政治を主導して、清盛は大納言に昇進して基実を補佐した。9月、平時忠が帰京を許され、12月25日に憲仁親王が親王宣下を受けると、清盛は勅別当になった。

永万2年(1166年)7月26日、摂政・藤氏長者の近衛基実が急死して後白河院政が復活すると、基実の子・基通が幼少であることから弟・松殿基房が摂政となる。基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば、平氏にとって大打撃となる。清盛は藤原邦綱の助言により、殿下渡領勧学院領・御堂流寺院領を除いた私的家領を後家の盛子に相続させることで、摂関家領の管轄に成功した。10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には内大臣となった。

仁安2年(1167年)2月、清盛は太政大臣になるが[注 8]、太政大臣は福原開拓のために、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から表向きは引退し、嫡子・重盛は同年5月、宣旨により東海東山山陽南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。

厳島神社 客神社祓殿
仁安3年(1168年)、清盛の援助によって今日のような海上社殿が造られた。

仁安3年(1168年)、清盛は病に倒れ、出家する。原因は「寸白(すばく。※条虫回虫など人に付く寄生虫とそれによる病気)」で、清盛に付いたのは本人の証言に基づけば絛虫(さなだむしであった。清盛の病状が政情不安をもたらすことを危惧した後白河上皇は、当初の予定を早めて六条天皇から憲仁親王に譲位させることで体制の安定を図った。病から回復した清盛は福原に別荘・雪見御所を造営して、かねてからの念願であった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。

嘉応元年(1169年)、後白河上皇は出家して法皇となるが、清盛は後白河法皇とともに東大寺で受戒して協調につとめた。これは、鳥羽法皇と藤原忠実が同日に受戒した例に倣ったものであった。この頃は、後白河法皇が福原を訪れ宋人に面会、清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内、福原で後白河法皇と清盛が千僧供養を行うなど両者の関係は友好的に推移していた。この間、平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易によって莫大な財貨を手にし、平時忠をして「平家にあらざれば人にあらず」といわしめた。

平氏に対する不満

ところが、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇をはじめとする院政勢力は次第に不快感を持つようになり、建春門院の死を契機に、清盛と対立を深めていく。

治承元年(1177年)6月、鹿ケ谷の陰謀が起こる。これは多田行綱の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。西光は処刑とし、藤原成親は重盛の悲願によって死罪は免れ備前国へ流罪[注 9]俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処したが、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。ただし、実際に平氏打倒の陰謀があったかは不明であり、直前に後白河法皇から延暦寺攻撃を命じられた清盛が、延暦寺との衝突を回避するために行ったとする見方もある[注 10]

治承3年(1179年)6月、娘の盛子が死亡。すると法皇は直ちに盛子の荘園を清盛に無断で没収した。(近衛基実の正室は盛子であったため、基実の死後領地を所有していた。)さらに7月、重盛が42歳で病死。するとまた、後白河法皇は重盛の知行国であった越前国を没収した。さらに、法皇は20歳の近衛基通(室は清盛女・完子)をさしおいて、8歳の松殿師家を権中納言に任じた。この人事によって摂関家嫡流の地位を松殿家が継承することが明白となり、近衛家を支援していた清盛は憤慨する。

11月14日、清盛は福原から軍勢を率いて上洛し、クーデターを決行した。いわゆる治承三年の政変であるが、清盛は松殿基房・師家父子を手始めに、藤原師長など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官する。後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後白河院政は完全に停止された。清盛は、後の処置を宗盛に委ね福原に引き上げた。しかし、院政停止後の政権構想は拙いものであった。高倉天皇・近衛基通・平宗盛の三人はいずれも政治的経験が未熟であり、結局は清盛が表に出てこざるを得なかった。清盛は、解官していた平頼盛花山院兼雅の処分を解除するなど一門の結束につとめ、基通の補佐のため藤原氏の有力者である左大臣・藤原経宗、右大臣・九条兼実の懐柔を図った。実際の政務に関しては、平時忠・四条隆季土御門通親などの能吏が清盛の代弁者となった。

治承4年(1180年)2月、高倉天皇が譲位、言仁親王が践祚した(安徳天皇)。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である。名目上は高倉上皇の院政であったが、平氏の傀儡政権であることは誰の目にも明らかであった。さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことになった。

反乱の狼煙

平氏の独裁に対して反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第3皇子・以仁王の挙兵であった。以仁王は優秀であったが、平氏方である建春門院の圧力で親王宣下も受けられず、八条院の猶子となって即位の機会を伺っていたものの、今回のクーデターでその望みは絶望的なものとなっていた。以仁王には、八条院直属の武力ともいえる源頼政下河辺行義足利義清源仲家などが付き従い、平氏に反発する興福寺園城寺もこの動きに同調した。この計画は未然に発覚し、清盛の手早い対策により、検非違使で平氏家人の藤原景高・伊藤忠綱が300騎の兵で追撃して、以仁王と源頼政らを討ち取った。

しかし、寺社勢力、特に園城寺と同じ天台宗で親平氏の延暦寺でも反平氏勢力の動きがあり、清盛は有力寺社に囲まれて平氏にとって地勢的に不利な京都を放棄し、6月に一門の反対を押し切り、平氏の拠点である国際貿易港の大輪田泊(現在の兵庫県神戸市和田岬付近)を臨む地への遷都を目指して、福原行幸を強行する。

しかし、以仁王の令旨が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流されていた源頼朝武田信義を棟梁とする甲斐源氏、9月には信濃国において木曾義仲が挙兵する。これに対して、清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため、平維盛を総大将とした大軍を関東に派遣したが、富士川の戦いでは交戦をせずに撤退してしまった。

この敗戦を契機として寺社勢力、特に以仁王の反乱に協力的であった園城寺・興福寺が不穏な動きを見せ始める。さらに、近江源氏が蜂起し園城寺・延暦寺の反平氏分子と提携して、物流の要所・琵琶湖を占拠し、反乱勢力は旧都を攻め落とす勢いにまで成長した。また、九州でも反乱が勃発、高倉帝や公家衆、さらに平氏一門や延暦寺からも遷都を望まない声が高まり、11月23日、清盛は平安京に還都する。

12月になると、清盛は平知盛・平資盛・藤原清綱らが率いる軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏の山本義経柏木義兼を打ち破って、近江の平定に成功する(近江攻防)。次に清盛が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺であった。清盛は背後の脅威を一掃することを決め、重衡を総大将とした大軍を南都に派遣、12月28日、興福寺・東大寺など南都の諸寺を焼き払った。確かにこれにより都周辺の反平氏勢力の動きは鎮静化したが、この南都焼討では数千もの市民を犠牲とし、同地方にある大仏の殆どを焼失させる惨事となり、清盛自身も「仏敵」の汚名を着ることとなった。

最期

月岡芳年平清盛炎焼病之図たいらのきよもりひのやまいのず[注 11][注 12]
縦大判三枚続揃[7]東錦絵1883年(明治16年)刊行の武者絵
治承5年(1181年)、原因不明の熱病に臥せった清盛は三日三晩に亘ってうなされ悶え苦しんだ末に死んだという。◇ここからは絵師の創作であるが、重ねてきた悪行のために成仏できそうにない己の顛末を想って清盛の心は責め苛まれた。閻魔大王が司命・司録と閻魔卒[注 13] を引き連れて清盛の病褥に顕現し、生涯の善行と悪行を一つとて漏らさず記録してきた倶生神(※中央奥にいる閻魔の向かって右にいる女神と左奥にいる赤ら顔の男神)の報告を受けている。司命は審理の書を、司録は板塔婆を、すでに手にしている。家族の祈りはいくばくかの助けになるであろうか。右端で看取るのは三男・宗盛

治承4年(1180年)末までには、平氏の勢力基盤である西国においても伊予国河野通清通信父子、翌治承5年(1181年)には豊後国緒方惟栄・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、伊勢志摩においても反乱の動きがあった。東国においても平氏方であった佐竹秀義などが頼朝によって討伐される。

このようななかで、清盛は京都を中心に新体制を築こうと、畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じた。これは天平3年(731年)に京・畿内を対象に兵馬の権を与えられた新田部親王の例に倣ったものであり、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。また、丹波国に諸荘園総下司職を設けて、平盛俊を任じた。さらに、越後国城資永陸奥国藤原秀衡に源頼朝・武田信義追討の宣旨を与えている。2月26日には平重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に向かうことが決められていたが、清盛は27日に謎の熱病に罹って倒れた[注 14]。死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、閏2月4日、鴨川東岸にある平盛国の屋敷(※後述)で死亡した。享年64。『平家物語』では清盛が死に臨んで「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したとしている。死亡した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れたが、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べてこれを拒否し、頼朝への激しい憎悪を示した[注 15]

死後

清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の基盛も早世していたため、平氏の棟梁の座は三男の宗盛が継いだが、全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、後白河法皇の奇謀に翻弄された上、院政方も勢力を盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていった。しかも、折からの飢饉養和の大飢饉)という悪条件なども重なって、寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅した後、義仲軍の攻勢の前に成す術無く都落ちする。そして元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いに敗れて平氏は滅亡した。


注釈

  1. ^ 九条道家の日記『玉蘂』建暦元年3月14日条に「正月十八日」と誕生日が書かれている。
  2. ^ 佐々木八郎は、初めの頃はその中﨟女房の腹であったとして語られたのが、語られてゆくうちに祇園女御の腹であるというように変化していったのであろうと推断している[1]
  3. ^ 高橋昌明は『仏舎利相承系図』の記述を後世の加筆として、清盛の母を祇園女御の妹とする説を否定している[3]
  4. ^ 「人耳目を驚かすか、言ふに足らず」『中右記』大治4年正月24日条。
  5. ^ 通常、武士の任官は三等官の尉から始まり、二等官の佐に任じられるのは極めて異例であった。
  6. ^ 『中右記』3月16日条。
  7. ^ 院近臣の昇進限界は大納言までとされていた[4]
  8. ^ これにより後世において「平大相国(へいだいしょうこく)」と尊称される。
  9. ^ 7月9日に食物を与えられず殺害される。
  10. ^ 河内祥輔は治承元年事件(鹿ケ谷の陰謀)は具体的な陰謀があったものではなく、平清盛からみて後白河法皇の延暦寺攻撃命令そのものが平家と延暦寺と争わせるだけでなく、平家を「仏敵」にして延暦寺攻撃の仏罰によって滅亡に追い込むための陰謀と解されたとする[6]
  11. ^ 平清盛炎焼病之図』 - 国立国会図書館デジタルコレクション。※良質な画像もあり。
  12. ^ 月岡芳年の三枚続絵『平清盛炎焼病之図』”. みんなの知識 ちょっと便利帳. 2020年5月18日閲覧。※良質な画像もあり。
  13. ^ 司命(しみょう)と司録(しろく)は、閻魔庁(えんまのちょう)の書記官。閻魔卒(えんまそつ)は、閻魔に仕えて罪人を責める獄卒。つまりは、閻魔付きの
  14. ^ 病状の記録から、大陸から伝来して流行していたマラリアに罹ったとされる。また、江戸時代の『誹風柳多留』初編に「清盛の医者ははだかで脈を取り」とある。
  15. ^ 玉葉』による。
  16. ^ 高橋昌明は『仏舎利相承系図』の記述を後世の加筆として、清盛の母を祇園女御の妹とする説を否定している[15]

出典

  1. ^ 能福寺 平相國廟(地図 - Google マップ)※該当施設は赤色でスポット表示される。
  2. ^ 切戸町 清盛塚(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  3. ^ 六波羅蜜寺 平清盛公之塚(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  4. ^ 嵯峨鳥居本小坂町 祇王寺(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  5. ^ 彦島 清盛塚(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  6. ^ 西八条第跡(地図 - Google マップ)※上に同じ。
  7. ^ 若一神社(地図 - Google マップ)※該当施設は赤色でスポット表示される。拡大すると「平清盛公、御手植えの楠」もスポット表示される。
  8. ^ 六波羅蜜寺(地図 - Google マップ)※該当施設は赤色でスポット表示される。
  1. ^ 佐々木 1948 [要ページ番号]
  2. ^ 仏舎利相承図テクスト
  3. ^ 高橋 2011 [要ページ番号]
  4. ^ 美川 (2018), p. 150.
  5. ^ 元木 (2011), No.1037/3507.
  6. ^ 河内 (2007), pp. 124–144.
  7. ^ 月岡芳年/ 『平清盛炎焼病之図』 月岡芳年”. ネット美術館「アートまとめん」. 2020年5月18日閲覧。
  8. ^ 上横手 (1989).
  9. ^ a b 高橋 (2005).
  10. ^ a b c 文化財”. 公式ウェブサイト. 能福寺. 2020年5月18日閲覧。
  11. ^ a b 神戸市 文化スポーツ局中央図書館 総務課 (2019年11月1日更新). “清盛塚石造十三重塔”. 公式ウェブサイト. KOBE. 神戸市. 2020年5月18日閲覧。
  12. ^ a b c 神戸市 文化スポーツ局中央図書館 総務課 (2020年4月25日更新). “平清盛と神戸 平清盛のお墓”. 公式ウェブサイト. KOBE. 神戸市. 2020年5月18日閲覧。
  13. ^ a b 彦島・清盛塚”. ニッポン旅マガジン. 一般社団法人プレスマンユニオン. 2020年5月18日閲覧。
  14. ^ 清盛塚<山口県下関市>”. 非公式ウェブサイト. 源平史蹟の手引き. 2020年5月18日閲覧。※案内看板の画像など、現地情報あり。
  15. ^ 高橋 2011 [要ページ番号]
  16. ^ a b 六波羅蜜寺の仏像”. 公式ウェブサイト. 東京国立博物館 (2008年). 2020年5月18日閲覧。
  17. ^ 重要文化財一覧”. 公式ウェブサイト. 六波羅蜜寺. 2020年5月18日閲覧。■良質な画像あり。
  18. ^ 第3回 歴史を今に伝える、六波羅蜜寺の宝物たち - 京都宝物館探訪”. 京都で遊ぼう. 京都で遊ぼうART. 京都文化推進委員会、株式会社エクザム. 2020年5月18日閲覧。


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