平塚らいてう 家族

平塚らいてう

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 22:07 UTC 版)

家族

  • 父・平塚定二郎 - 元紀州藩士で、東京外語学校に学び、参事院書記官となる。1886年に会計検査院に移り、翌年より1年半にわたり欧米視察。のちに第一高等学校ドイツ語講師を兼任[18]
  • 夫・奥村博史(1889-1964)- 洋画家。神奈川県藤沢生まれ。奥村家は加賀前田藩の藩士だったが、明治維新で開拓民として北海道余市に移り、呉服の行商などで財を成し、博史の父親が40歳にして隠棲の地として若い後妻の故郷である藤沢に転居した[18]。博史は18歳で上京し、木下藤次郎の日本水彩画会研究所(美術学校)に通っているときにらいてうと知り合う[9][18]新劇運動に参加し、1913年に上山草人率いる近代劇協会のファウスト公演で帝劇に出演し、以来しばしば舞台に立つ[18]二科展で「灰色の海」入選[19]。1914年にらいてうと結婚し、事実婚であったものの、息子が産まれた後は婚姻届を出して夫婦となった[9]。2児をもうけ、1925年に成城学園の美術講師となる(教え子に大岡昇平らがいる)[18]武者小路実篤新しき村の美術部にも所属[18]。指環の制作者としても知られ1933年に工芸部門で受賞し国画会会員となる[19]。結婚後まもなく結核を発病し南湖院に入院し、退院後本名の「博」から「博史」に改名。著書に自伝的小説『めぐりあい』(現代社、1956)など。らいてうの墓は博史の没後に建てられたものであり、彼女は彼と共に眠っている。
  • 長女・曙生(あけみ、1915-1993)- 妊娠中にらいてうは、森田草平との心中未遂事件を扱った連載「峠」を執筆していたが、つわりにより中断、奥村入院中に曙生が生まれた。私立滝野川幼稚園から那須郡佐久山町の佐久山尋常小学校に入学後、富士前小学校、成城小学校と転校[18]近江学園の職員で社会学者の築添正二と結婚。著書に『母子随筆』(平塚らいてう,曙生共著. 桃季書院, 1948)。再生不良性貧血から肺炎を併発し、同居していた娘の美可・美土に看取られ没す[20]
  • 長男・奥村敦史(あつふみ、1917-2015)- 早稲田大学理工学部機械工学科教授。『材料力学』、『メカニックス入門』、『わたくしは永遠に失望しない 写真集平塚らいてう-人と生涯』などの編著書がある。老衰により満97歳にて没[21]
  • 孫・奥村直史(1945年生)- 敦史の子で、らいてうの孫[22]。早稲田大学第1文学部哲学科心理学専修卒業後、病院の心理療法士として勤務ののち、東洋学園大学非常勤講師。1973年-2007年日本臨床心理学会運営委員。『平塚らいてうー孫が語る素顔』(平凡社新書 2011)[23]、『平塚らいてう その思想と孫から見た素顔』(平凡社ライブラリー 2021)を上梓。

注釈

  1. ^ 「自然主義の高潮 紳士淑女の情死未遂 情夫は文学士、小説家 情婦は女子大学卒業生」と、当時、新聞各紙がスキャンダラスに報道した[5]
  2. ^ 父の方針転換は鹿鳴館時代終焉の時期と符合する。
  3. ^ 後日、森田草平はこの事件を元に小説「煤煙」を書いたため「煤煙事件」の名がある。
  4. ^ 『青鞜』は18世紀イギリスの女性サロンブルー・ストッキングen:Blue Stockings Society (England)にちなんだ名前である。
  5. ^ 日本女子大学校時代に明とテニス部で一緒で、ダブルスを組んでいた。
  6. ^ 雷鳥は高山に棲む鳥で「孤独の鳥」「冬山の鳥」とも呼ばれていた。塩原事件の事を意識して付けた筆名だと言われている。
  7. ^ ただし、らいてうは、鴎外「先生について思い出すことはエレン・ケイの紹介です。(先生はおそらくケイを日本に紹介された最初の方でしょう)それは、ほんの短いケイとその著書の紹介でしたけれど、これがわたしのケイに親しむ最初のきっかけとなり、(下略)」と書いていた。ちなみに1912年(大正元年)12月、石坂養平がケイを紹介する「自由離婚説」を『帝国文学』に発表すると、早速ケイの著作『恋愛と結婚』を購入し、ケイに傾倒して行った[7]
  8. ^ 下略した文章は「詩の領分の作品は無いらしいが、らいてうの名で青鞜に書いてゐる批評を見るに、男の批評家にはあの位明快な筆で哲学上の事を書く人が一人も無い。立脚点の奈何は別として、書いてゐる事は八面玲瓏である。男の批評家は哲学上の問題となると、誰も誰も猫に小判だ。」
  9. ^ らいてうは、鴎外の回想をいくつか書き残した。「たとえば、「青鞜」―ブリュウ・ストッキングという名は非常によかったと褒めていられたということが、まず誰からか伝えられたのでした。後日、「青鞜」は鴎外のつけた名だなどもっぱら伝えられたのは、あるいはこれが転化したものかもしれません。奥様の森しげ女さんが「青鞜」の賛助員でしたから、雑誌が毎号お手許に届いているからでもありましょうけれど、(中略)とにかく「青鞜」とともに先生に見守られているのだというような気持ちをある期間もっていたものでした。そしてこれらのことは漱石の婦人に対する態度、その無関心さと、無理解さと比べて何という違い方でしょう。」[8]。なお後述のとおり、「新婦人協会」の設立に関しても、鴎外に言及した。
  10. ^ 前者は、当時未成年の尾竹紅吉(おたけ・べによし、のちの富本一枝)がバー「メイゾン鴻之巣」に行き「青鞜」への広告出稿を依頼したところ、五色のカクテルを供された事件。後者は、らいてう、尾竹紅吉、中野初子の3人が、紅吉の叔父で画家の尾竹竹坡(おたけ・ちくは)に連れられて吉原の遊郭で花魁見物をした事件。
  11. ^ 奥村は病弱で、その直後に結核を発症している。
  12. ^ 1941年。(昭和16年)に長男の兵役を前にして軍隊内で私生児として不利益を被らないようにという考えから奥村家の籍に入っている。
  13. ^ 当時の制度では、父が認知して父の戸籍に入れれば「嫡出子」に次ぐ「庶子」として認められたが、母の戸籍に入れた場合はそれも認められなかった。
  14. ^ 1962年、らいてうは森鴎外の回想文で次のように書いた。「「新婦人協会」という婦人の組織つくりをはじめたとき、「青鞜」の場合と違い、こんどは男の方々にも賛助員をお願いすることにしましたが、そのときもちろん鴎外先生をその中に加えるのを忘れませんでした。で、協会の趣意書、綱領、規約の草案と先生宛のわたくしの手紙をもって、市川房枝さんに先生の団子坂の御宅に行ってもらいました。(中略)当時の市川さんはまだ無名の若い婦人でしたが、すぐお会い下さって、賛助員になることを承諾され、はげましの言葉を下さった上に、ご自分で硯を持ってきて、朱墨をすり、趣意書から規約まで詳細にお目を通して、それにこまかく朱筆を加えて下さるのでした。これには市川さんも少し驚きもし、また大いに勇気づけられもしたようでした。なぜなら、同じことで市川さんが訪問した有名婦人の中には賛成はおろか、らいてうは不道徳な女で、社会的信用がゼロだから、そんな女が計画しても成功する筈がない。あなたもおやめなさいなど逆説法されたりして、わたくしをまだ深く知らなかった市川さんはいささか心の動揺をしていた時でしたから。」[11]
  15. ^ このページによると、イギリスの菜食主義の指導者。

出典

  1. ^ a b 女性・平和運動のパイオニア 平塚らいてう
  2. ^ 平塚の卒業100年を記念して創設された賞『平塚らいてう賞 - 学校法人 日本女子大学』参照
  3. ^ 「いま敗戦の苦汁とともに、わたくしたち女性の掌上に、参政権が突如として向こうから落ちてきた。まったく他力的に。連合国軍の占領政策の遂行、なんという運命の皮肉だろう。久しく求めてえられなかったものがあたえられたよろこびを、すなおに、朗らかによろこびきれないものが胸にいっぱいつかえていた。」
    岩波文庫 「平塚らいてう評論集」pp.259-276「わたくしの夢は実現したか」(『女性改造』1948年10月号より転載)のp.262より。
  4. ^ 「平塚明子(らいてう)」 長谷川時雨[1]
  5. ^ [2]
  6. ^ a b c d e f 元祖「#わきまえない女」、その意外な素顔とは 平塚らいてう没後半世紀、遺族が日記公開(47NEWS)” (日本語). Yahoo!ニュース. 2021年10月18日閲覧。
  7. ^ 金子(1992)、p.316。
  8. ^ 「鴎外先生について」『文学散歩』1962年10月。8月26日執筆と明記。
  9. ^ a b c 平塚らいてうとはどんな人?大正時代に事実婚を選択した、時代の先端を行く女性の人生を紹介 | 和樂web 日本文化の入り口マガジン” (日本語). 和樂web 日本文化の入り口マガジン. 2022年1月14日閲覧。
  10. ^ 『平塚らいてう著作集2 母性の主張について』大月書店、1983年8月
  11. ^ 金子(1992)、p.322。
  12. ^ 堀場清子『青鞜の時代』岩波書店、1988年
  13. ^ プロフィール | 日本婦人団体連合会(婦団連)
  14. ^ 奥村博史 :: 東文研アーカイブデータベース”. www.tobunken.go.jp. 2021年10月18日閲覧。
  15. ^ 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)p.195
  16. ^ 元祖「#わきまえない女」、その意外な素顔とは 平塚らいてう没後半世紀、遺族が日記公開(47NEWS)” (日本語). Yahoo!ニュース. 2021年10月18日閲覧。
  17. ^ 「わたくしたちの菜食主義」『平塚らいてう評論集』岩波文庫
  18. ^ a b c d e f g 影山昇「平塚らいてうと奥村博史 : 愛の共同生活と成城教育」(『成城文藝』174号、2001年3月) 104-59
  19. ^ a b 奥村博史 おくむら ひろしコトバンク
  20. ^ 母の死築添美可、平塚らいてうを記念する会ニュース、1993
  21. ^ 山川宏「奥村 敦史 名誉教授のご逝去を悼んで (PDF) 」 『WME ニュースレター』第43号、早稲田機友会編集事務局、2015年10月、 p.6、2019年7月11日閲覧。
  22. ^ 1/21 『平塚らいてう 孫が語る素顔』の著者 奥村直史さんを囲んで | 片山かおるといっしょにかえる小金井の会” (日本語). 2022年1月14日閲覧。
  23. ^ 『青踏』創刊100周年記念講演会 静岡女性史研究会創立35周年「平塚らいてう-孫が語る素顔」静岡県男女共同参画センター「あざれあ」、2012年3月24日






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