干支 干支による紀年

干支

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/21 02:42 UTC 版)

干支による紀年

紀年法とは、を記したり数えたりするための方法のことで、中国を中心とした漢字文化圏では年号紀元に基づく紀年法とともに、60年周期の干支による干支紀年法が併用されてきた。その起源は木星の観測と深い関わりがある。

歳星紀年法

歳星紀年法は、天球における木星の位置に基づく紀年法である。

中国の戦国時代に始まった。木星は約12年で天球上を一周し、十二次(天球を天の赤道帯に沿って西から東に12等分した12の区画)を1年に一次進む。そこで、木星は年を示す星であるとして「歳星」と呼び、木星十二次における位置でを記した。たとえば「歳在星紀(歳、星紀に在り)」は、木星天球上の「星紀」という場所に存在する年という意味である。

太歳紀年法

太歳と木星の移動

太歳紀年法は、木星の鏡像である太歳天球における位置に基づく紀年法である。

木星天球上を十二次に沿って西からに進むが、当時の人たちがよく使っていた十二辰(天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分した区画、十二支が配当された)に対しては、運行の方向と順序が逆であった。そこで、木星の円軌道に一本の直径を引き、その直径を軸に木星と線対称の位置に存在する太歳という仮想の星を設定し、その十二辰における位置で年を記すようにしたものである。

中国の戦国時代には、この直径はの起点との起点とを結んで引かれ、たとえば、「太歳在寅(太歳、寅に在り)」という記述があれば、その年は太歳の位置に存在する年、つまり木星の位置に存在する年のことである。その翌年は「太歳在卯」となり、太歳木星に位置する。

さらに、「太歳在寅」「太歳在卯」と記録する代わりに、太歳が位置する各「年」に名称を設けて使用することが行われた(『爾雅』「釈天」より)。

太歳の位置
歳名 困敦 赤奮若 摂提格 単閼 執徐 大荒落 敦牂 叶洽 涒灘 作噩 閹茂 大淵献
コントン セキフンジャク セッテイカク ゼンエン シュウジョ ダイコウラク トンショウ キョウコウ トンタン サクガク エンモ ダイエンケン

漢代に入ると、『淮南子』天文訓に「淮南元年冬、天一在丙子」と記述されるように、十干と組み合わせた干支太歳の位置が記述されるようになった。

この太歳の位置を示す十干にも歳名が付けられた。

太歳の位置
歳名 閼逢 旃蒙 柔兆 強圉 著雍 屠維 上章 重光 玄黓 昭陽
エンホウ センモウ ジュウチョウ キョウギョ チョヨウ トイ ジョウショウ チョウコウ ゲンヨク ショウヨウ

この十干(歳陽)と十二辰(歳陰)の歳名とを組み合わせ、例えば、ある年を閼逢摂提格とすると、その翌年は旃蒙単閼、第3年は柔兆執徐…となり、第60年の昭陽赤奮若に至ると、再び閼逢摂提格から始めるという60年周期の歳名とした。

ただし、木星の公転周期は正確には11.862年であるため、実際には1年に一次と少し進んでいることになり、約86年に一次(太歳は一辰)ずれることになる。これを「超辰」と呼ぶ。この超辰によるずれを解消するため、顓頊暦では、太歳を設定するための直径をの起点との起点に引き、秦の始皇帝元年(紀元前246年)を木星にあり、太歳にある年とする新しい基準を設けた。

前漢太初元年(紀元前104年[注釈 5]の改暦(太初暦)では、超辰を行い、丙子丁丑に改めた。後に三統暦の補正では超辰は114年に一次ずれると定義し、太初元年を再び丙子に戻し、太始2年(紀元前95年)を乙酉から丙戌へ超辰するとした。これによって三統暦による太歳紀年と後の干支紀年は太始2年から見かけ上、同じになる。

干支紀年法

後漢建武26年(西暦50年)は、当時使われていた劉歆三統暦の超辰法に従うならば、庚戌辛亥とすべき年であった。にもかかわらず、光武帝に随従していた学者たちは超辰を行わず、庚戌のまま紀年を続けた。さらに元和2年(西暦85年)の改暦では三統暦の超辰法自体が廃止された[注釈 6]。これ以後、木星を観測して、その位置でを記録することはなくなった。この時から、木星の運行とは関係なく、60年周期の干支を1年ごとに機械的に進めていく干支紀年法が用いられるようになり、絶えることなく現在まで続いている。これは、後代に干支が伝来した朝鮮や日本とも共通である。

民間では干支のうちの十二支の部分だけを用い、それに動物を配当した生肖紀年法が今も広く用いられている。なお、広開土王碑12世紀成立の高麗朝による正史三国史記』の干支に1年の違いがあるなど、時代や地域によっては必ずしも一定しないことも散見される。

生肖紀年法

十二支と十二獣[注釈 7]がいつから結びつけられたのかは不明であるが、代の墓から出土した睡虎地秦簡[注釈 8]に含まれる『日書』には既に現在のように動物[注釈 9]が配当されている様子が伺われる。

後漢の王充が著した『論衡』物勢篇では、十二支を動物名で説明しており、これによって干支の本来の意味が失われ、様々な俗信を生んだ。ただし、日、月、時刻方位などを干支で示す慣習が廃れた今日でもなお、干支紀年に限っては今なお民間で広く定着している要因ともなっている。日本の風習である年賀状[注釈 10]などにも動物の絵柄が好んで描かれているが、下表のとおり、配当される動物には国によって違いが見られる[注釈 11]

各国の十二獣
中国の十二獣 [注釈 12] [注釈 13] 猪([注釈 14]
日本の十二獣
韓国の十二獣
タイの十二獣 山羊
ベトナムの十二獣 水牛 山羊
モンゴルの十二獣 ・虎
インドの十二獣 ガルダ
アラビアの十二獣
ロシアの十二獣 兎・猫 羊・山羊
ベラルーシの十二獣 兎・猫

干支紀年と日本

干支紀年の日本への伝来時期はよくわかっていない。日本に中国の暦本百済を通じて渡来したのは欽明天皇15年(554年[6]とされるが、実際には、それ以前にさかのぼる可能性が高い。上述のように、日本で最初の暦がつくられたのは604年(推古12年)のことと伝わる[3]

埼玉県行田市埼玉の埼玉古墳群の一つ、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣には「辛亥年七月中記」の紀年があり、銘中「獲加多支鹵(わかたける)大王」を雄略天皇とする考えが主流であることから、「辛亥年」を471年とする説が有力である。ただし、これに対しては531年とする反論もある。

一方、和歌山県橋本市隅田の隅田八幡宮に所蔵されている人物画像鏡には、「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿…」という銘文が鋳されており、この「癸未年」は、「男弟(おとど)王」が継体天皇と考えられることから、503年とする見方が有力である[注釈 15]


注釈

  1. ^ 釈名』、『史記』暦書、『漢書』律暦志
  2. ^ 用兵など外事には十干の奇数日、祭祀など内事には十干の偶数日を用いるのが良い、という意味。
  3. ^ 一般に流布しているのは10巻本であるが、四庫全書には巻九、十を除いた8巻本が収録されている。
  4. ^ 甲骨を用いた占いには、の日以後10日間の吉凶を判断する定期的な卜旬と、開戦・豊作・異常気象の終わりを祈願する不定期的な占いがあった。
  5. ^ この年の紀年は、『呂氏春秋』、『前漢書』賈誼伝、『前漢書』翼奉伝、『史記』歴書では、それぞれ乙亥丙子丁丑甲寅となっており、それぞれ流派の異なる紀年が混在していた。前漢末に劉歆によって整備が始まり、これが最終的に整理されて完全に統一されるのは後漢初期の元和2年(西暦85年)の改暦であった。
  6. ^ この改暦は、中国における官暦の最初とされる。
  7. ^ 十二獣がなぜ十二支と結びつけられたかには、西方バビロニア天文学における黄道十二宮が各宮の多くを動物で表すことから、その影響を受けたのではないかとする見方がある。また、これが普及したのは農事暦を農民に教え、浸透させるための便法という説もある。
  8. ^ 湖北省雲夢県睡虎地で1975年に発見された秦代の竹簡。地方官吏を務めていたという人物の墓に収められていた。
  9. ^ ただし、シカが入りイヌがなく、配当も異なっているなど現代のものとは大きく異なる。
  10. ^ 中国や韓国にも似た風習がある。
  11. ^ (中国や韓国などにおける猪(ブタ))が日本ではイノシシ、丑がベトナムではスイギュウなどとなっている。日本で「猪」がイノシシを表すようになったのは、生肖紀年が伝来した当時の日本では、豚の飼育が必ずしも一般的でなかったからと考えられている。
  12. ^ ヤギを含む
  13. ^ 類人猿を除いたサルを意味する
  14. ^ 『猪』は中国語ではブタを意味する
  15. ^ 銘中の「斯麻」は百済武寧王と推測される。しかし、この「癸未年」に対しても443年との異論がある。
  16. ^ (うしとら、北東)を鬼門とする考えは、とくに日本で深められた。のような角をもち、皮のパンツをはいて具象されるのも、「うしとら」からの連想である。なお、鬼退治のための動物が、桃太郎の伝説ではイヌサルキジなのは、「うしとら」の反対方向が「ひつじさる」で、「ひつじ」の代わりに「とり」「いぬ」が入り、さらに「とり」が「きじ」に代わっていったのではないかという推測もある。
  17. ^ 喜撰法師の「わがいほは 都の辰巳(たつみ) しかぞすむ 世を宇治山と 人はいふなり」の「たつみ」とは南東方向を示している。
  18. ^ 庚申の日は60日ごとなので、1年に6回ある。
  19. ^ 実際は1668年生まれだった可能性が高い。
  20. ^ 1810年燕石雑志』に「丙午の女は必ず男を食えると世に伝えし」とある。
  21. ^ 雑節に基づく暦。雑節とは二十四節気以外に設けられた季節の区切りのこと。本来は、土用立春前、立夏前、立秋前、立冬前の年4回ある。
  22. ^ 納甲という名前だが、実際の占いでは十二支を使用することがほとんどである。
  23. ^ 荻原井泉水は生まれ年の納音「井泉水」を俳号としたものである。

出典

  1. ^ a b c d e f コトバンク「干支」
  2. ^ a b 十干十二支
  3. ^ a b 国立国会図書館「日本の暦」第一章:暦の歴史
  4. ^ 参考文献:『中国的実在観の研究』(著:木村英一)、『中国上代陰陽五行思想の研究』(著:小林信明)、『宋代易学の研究』(著:今井宇三郎)
  5. ^ 漢書』律暦志
  6. ^ 『日本書紀』巻第19。欽明天皇14年、暦博士を交代し暦本(こよみのためし)を送るようにとのを発し、翌年、固徳王保尊が暦博士として来日した記事が掲載される。巻第22には、推古天皇治下の602年に百済僧観勒が来日した記事もある。日本書紀には神武天皇以来の干支が記載されているが、『古事記』にはない。
  7. ^ 余春台『窮通宝鑑』
  8. ^ 『日本書紀』推古天皇12年条。
  9. ^ a b 飯倉(2003)。
  10. ^  范曄. 後漢書/卷71. - ウィキソース. 
  11. ^ 「ウ」のつく食べ物とは、丑(うし)からの連想と思われる。ウリ梅干しウナギなどであるが、ことにウナギは有名である。実際に牛を食べなかったのは、肉食が憚られる時代には無理だったこと、当時の牛は肉や乳を供するのではなく主として労働力に用いられていたからなどの説がある。





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