幕末 幕末の概要

幕末

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/22 01:38 UTC 版)

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概説

幕末の期間に関する厳密な定義はないが、1853年7月8日嘉永6年旧暦6月3日)の黒船、即ちマシュー・ペリーが率いるアメリカ海軍艦隊の来航をその始期とする見方が一般的であり、王政復古の大号令1868年)においても「抑癸丑(1853年)以来未曾有の国難」が体制変革の画期として指摘されている。

終期については、1867年11月9日慶応3年旧暦10月14日)に徳川慶喜大政奉還を行った時点、翌1868年5月3日旧暦4月11日)の江戸開城の時点など、様々な見方があり得る。旧幕府軍による抵抗が終わった箱館戦争の終結(1869年)、幕藩体制が完全に終結した廃藩置県を断行した1871年8月29日明治4年旧暦7月14日)、西欧式の太陽暦であるグレゴリオ暦元号に採用する前日の1872年12月31日明治5年旧暦12月2日)なども終期となりうる。

幕末は、「西洋の衝撃」を受けた国防意識の高まりとナショナリズムの勃興を背景に、水戸学のような日本型華夷思想を基盤として国体意識が高まり、徳川将軍が事実上の国家主権者として君臨する幕藩体制が解体され、国内の政治権力の再編が進む過程である。その中心を担ったのは薩摩藩長州藩土佐藩肥前藩などの、いわゆる西南雄藩であった。この時期には「鎖国」を放棄して開港した日本が、外国との自由貿易の開始によって世界的な資本主義市場経済植民地主義に組み込まれた。また一部での排外主義(尊王攘夷運動)の高まりにも関わらず、列強の圧倒的な存在感により社会自体が西洋文明の影響を受けて劇的に変化していった時期でもある。この幕末の過程は、たとえば島崎藤村の長編小説『夜明け前』など多くの文学作品にも描かれている。

政治的側面においては、幕末を、単なる過渡期とするか、あるいはそれ以前以後とは異なった独自の政治体制とするかの2つの見方に分かれる。一方で、国際関係史的には「近代」として扱われ、一連の条約の締結により日本が西洋近代システムへの参入を果たした幕末から、第二次世界大戦で敗れて天皇を主権者とする帝国主義国家が崩壊するまで、即ち開国1854年)から第二次世界大戦敗北1945年)までを「近代」とする見方も存在する。幕末とそれに続く明治時代は「幕末・明治」として一括されて呼ばれることも多い。

政治史

条約締結と将軍継嗣問題(1853年 - 1858年)

外国勢を迎え撃つために、品川台場に設置されていた80ポンド青銅製カノン砲(口径250mm、砲身長3830mm)

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、アメリカ合衆国が派遣したペリー提督率いる4隻の黒船浦賀沖に来航し[1]江戸幕府に開国を迫る大統領国書をもたらした。老中首座の阿部正弘備後福山藩主)は、海防参与徳川斉昭(前水戸藩主)らや、松平慶永(春嶽、越前藩主)・島津斉彬薩摩藩主)ら親藩外様大名をはじめ、庶民にいたるまで対応意見を求めた。こうした激動の中、将軍徳川家慶が死去し、世子の家定が13代将軍に就任する。

翌1854年2月13日(嘉永7年1月16日)に再来したペリーは、重ねて開国を要求する。全権の林復斎(大学頭)らとの交渉により、1854年3月31日(嘉永7年3月3日日米和親条約が締結され、いわゆる「鎖国」体制は終焉した。また、英国のスターリング水野忠徳の交渉で1854年10月14日(嘉永7年8月23日)に日英和親条約ロシア帝国プチャーチン川路聖謨らの交渉により1855年2月7日(改元して安政元年12月21日)に日露和親条約、やや遅れて1856年1月30日12月23日)には 日蘭和親条約調印が締結された。国交を樹立した幕府での体制再編のため阿部は幕府や外部からの人材登用、研究教育施設の創設、軍事体制の再編を行っている。開国以前より継続していた活動は安政の改革と呼ばれ、勝海舟もこの動きの中から注目される。

日米和親条約では、薪水の給与のための下田箱館開港と並んで、両国の必要に応じて総領事が置かれることとなり、1856年(安政3年)米国はハリスを下田に派遣する。ハリスは自由貿易と開港を目的とした通商条約の締結を幕府に迫る。阿部死後、老中首座となった堀田正睦は徳川斉昭の反対を承知しながらハリスを下田より上府させ、1857年12月7日(安政4年10月21日)には将軍徳川家定に拝謁させた。結果として斉昭は海防参与を辞す。ハリスは江戸で第二次アヘン戦争におけるの敗北などの世界情勢を堀田に伝え、英仏が日本に不利益な条約を強制する危険があると主張した。この事態を避けたければアメリカとの条約を先に締結するべきとするハリスの発言について、堀田は虚偽を含む主張と承知しながらも通商条約締結は不可避と判断し、交渉を進めた。合意した内容は、領事裁判権を認め、関税自主権を有さず、かつ片務的最恵国待遇を課した不平等条約であった(但し、領事裁判権はむしろ幕府が求めたものであり、関税に関してもこの時点では妥当なものであった。むしろ問題は金銀等価交換を認めたことであった→幕末の通貨問題)。

幕末の期間、帝位に在位していた孝明天皇

条約内容に合意した後、堀田は孝明天皇勅許を求めるべく、京都において関白九条尚忠を通じて工作をおこなわせた。しかし、孝明天皇は異国人撫恤のための薪水給与は認めていたが、開市(外国人の国内の居住)や開港には反対しており、また岩倉具視ら多くの公家が関白の幕府寄りの姿勢を批判したため(廷臣八十八卿列参事件)、勅許は得られなかった。一方、病弱であった将軍家定に子がなかったため、将軍の継嗣を誰にするかについても国内世論が二分した。紀州藩徳川慶福を推す南紀派と、一橋徳川家当主徳川慶喜を推す一橋派が激しく対立し、条約問題とともに江戸・京都での政治工作が熾烈化した(将軍継嗣問題)。一橋派では橋本左内(越前藩士)・西郷隆盛(薩摩藩士)、南紀派では長野義言彦根藩士)ら下級武士がこれら工作に活躍した。また島津斉彬はこれらの問題の解決を図るため、率兵上京を試みるが、決行の直前に病を得て急死した。

安政の大獄と桜田門外の変(1858年 - 1860年)

1858年6月4日(安政5年4月23日)に大老に就任した井伊直弼彦根藩主)は、将軍継嗣問題と条約問題とを強権的な手法で一気に解決をはかった。すなわち、将軍職については、大老就任直後の1858年6月11日(安政5年5月1日紀州慶福を後継に決定する。慶福は家茂と改名し、江戸城へ入った(将軍就任は安政5年10月25日)。直弼自身は勅許は必要と考えていたが、勅許不要とする松平忠固に押され、7月29日(安政5年6月19日)、勅許の降りないまま井上清直岩瀬忠震を全権として日米修好通商条約を調印した。同様な条約がイギリスフランスオランダ・ロシアとも結ばれた(安政の五ヶ国条約)。開市開港は段階的に行うとされたが、これについては井伊の後継である安藤信正が派遣した文久遣欧使節によりロンドン覚書が調印され時期をずらすことになる。

こうした直弼の強権的手法には反撥が相次ぎ、徳川斉昭・徳川慶勝尾張藩主)・松平慶永らは抗議のため登城するが、無断で登城したことを理由に逆に直弼によって謹慎処分を受けることとなった。孝明天皇を無視する形で条約調印が続くと幕府寄りだった関白・九条尚忠は天皇の信頼を失い孤立していくが、それでも「内覧」権を有する関白は依然として最重要人物であった。それが1858年9月14日(安政5年8月8日)に内覧を経ずに幕府と水戸藩戊午の密勅が出され、その後に九条関白が幕府のために情報を壟断していた事実が明らかとなり辞職を求める内勅が出されて内覧は停止された。権威の失墜、公武の離反に行き着いた原因を幕府は外部に求めた。世論や朝廷へ働きかける運動家、オピニオンリーダー、その保護者やシンパである封建諸侯、幕府内部の実務官僚が標的となった。橋本左内・梅田雲浜頼三樹三郎松下村塾を主催した吉田松陰が処刑された。この政治的弾圧を「安政の大獄」と呼ぶ。特に水戸藩への弾圧は苛烈を極めた。水戸藩内では戊午の密勅返還問題を巡りセクト主義に陥り、激派と鎮派(暫進的改革派)に分裂、彼等と対抗する門閥派の諸生党と混迷を極める結果になる。

安政の大獄は、旧一橋派や攘夷派の反撥を招く。度重なる弾圧に憤慨した水戸藩の激派や薩摩藩の浪士は、密かに暗殺計画を練り、1860年3月24日安政7年3月3日)、江戸城登城の途中の直弼を桜田門外にて襲撃して暗殺を決行した(桜田門外の変)。政権の最高実力者に対する暗殺という結果は、幕府の権威を大きく失墜させることとなった。

公武合体策と尊王攘夷派の擡頭(1860年 - 1863年)

「長崎海軍伝習所絵図」鍋島報效会蔵。オランダの軍人を教師に、幕府海軍の海軍士官を養成した。

井伊直弼の死から、幕閣は久世広周関宿藩主)と安藤信正磐城平藩主)が実質上の首班となって運営された。幕府は朝廷の権威により幕威を回復せんと公武合体を推進。万延元年4月12日(1860年6月1日)、皇女和宮の徳川家茂への降嫁を朝廷へ奏請したが、孝明天皇は有栖川宮熾仁親王との婚約を命じており拒絶をした。幕府は請願を繰り返しつづけ、孝明帝の侍従であった岩倉具視は公武合体を通じて穏やかに王政回復の機会を得るべきと進言した。幕府が「七八カ年乃至十カ年」という期限をつけて条約破棄か武力撃攘を約束したことで孝明天皇は降嫁を認め、和宮は文久元年11月15日(1861年12月16日)に江戸城に入った。孝明天皇は幕府の外交措置を信頼しようとするが廃帝を画策しているとの噂が立っており、勅使として岩倉と千草有文が関東へ下向。徳川家茂より自筆で忠誠を誓う誓書を書かせた。文久2年4月7日(1862年5月5日)、孝明天皇は幕府と決めた期限に必ず攘夷を為す意思を明らかとした。結果として幕府は自らの約束に縛られる結果となった。

安政6年6月2日(1859年7月1日)に横浜港が開港した。居留地が置かれ外人が住居往来したがキリスト教の日本への布教は認められていなかった。貿易は生糸、茶が輸出され、綿糸織物が輸入された。国内と国外の金貨銀貨はそれぞれ同一質量で交換されたが、日本の金銀比価の問題より短期間に大量の金、一説に10万両と云われる大量の金の海外流出を招いた[2]。万延元年4月10日(1860年5月30日)、幕府は万延小判を発行して混乱に対応した。しかし従来の天保小判に比して金の量を約1/3とした万延小判は既存の小判を含有金量に応じて増歩通用としたため混乱を招いた。横浜商人など利益を得た者がいたが、地廻り経済圏の在郷商人は生産地より江戸の問屋に物資を廻送せず品不足と物価高騰が発生した結果、都市の打ち壊しや地方の一揆が激増した。経済の混乱のため五品江戸廻送令が出されるがイギリスは生糸の輸出制限に不満を募らせた。今日から見ると珍しく輸出にも関税をかけていたが関税収入を幕府が独占したため西南雄藩は不満を持った。こうした問題は薩英戦争後に英国と薩摩藩が接近していく素地となり、横浜鎖港と兵庫開港にみられる貿易統制をめぐる幕府と雄藩との軋轢を生む要因となった。

幕府の公武合体が停滞する中で大名は中央政界に国論を引っ提げて乗り出した。長州藩長井雅楽を京都へおくり「航海遠略策」の建白書を朝廷へ上らせ、長井は文久元年6月2日(1861年7月9日)に御嘉納されたことを伝えられ御製の和歌を賜った。また同年8月3日(1861年9月7日)に安藤信正と面会し自論を述べる機会を得た。長州藩の公武周旋の動きは薩摩藩を刺激した。文久2年、京都所司代酒井忠義を無視するかのように続々と志士が入京した。彼らは和宮降嫁を主導した酒井や関白・内覧九条尚忠といった公武合体派を敵視していた。真木和泉久坂玄瑞を中核とする草の根のネットワークが形成されオルグ活動では清河八郎の九州遊説(1861年11月17日~1862年2月9日)が貢献した。関東の雄藩である水戸藩では井伊暗殺の実行者を追討する一方、激派の要人を参政に登用する形で安定を図った。しかし攘夷の意思が固い激派は長州藩の桂小五郎松島剛蔵と提携し実力行使による幕政改革を志向していたが、長州藩は航海遠略策が藩論となり動きがとれなくなった。激派は宇都宮藩大橋訥庵と提携し文久2年1月15日(1862年2月13日)、安藤信正を江戸城坂下門外で襲撃した。安藤は負傷し命は助かったものの後に失脚した(→坂下門外の変)。幕府から睨まれた宇都宮藩は天皇陵の修補という奇策を用いて公武の間に運動をしていく。

文久2年4月16日(1862年5月14日)、薩摩藩の最高実力者である島津久光は藩兵を率いて上京した。事前に大久保一蔵を使者にたて上京の勅許奏請を工作したが婉曲に断られた。天朝の危機に、勅命を奉じて幕政改革を実行させる意欲のもと独断で京都へのぼった。志士の動向に怯えていた朝廷は久光へ浪士鎮撫の勅命を与えた。ただ、気がかりは薩摩藩内の尊王攘夷派の暴発であり、有馬新七は薩摩藩を尊攘派に引きずりこむためにテロを計画し酒井所司代と九条関白を対象とした。監視をつけて説得にあたらせたが尊王攘夷派は上京して船宿に入ったため粛清をした(→寺田屋騒動)。

久光の朝廷工作により、幕府改革への勅使として大原重徳が遣わされるという事態となる。幕府側にはそれを拒否する力は無く、安政の大獄で失脚した徳川慶喜将軍後見職松平春嶽政事総裁職松平容保会津藩主)を京都守護職とするなどの人事を含む改革を余儀なくされた(→文久の改革)。いっぽう久光率いる薩摩藩兵は帰国途中の1862年9月14日(文久2年8月21日)生麦村で行列を横断しようとした英国人に斬りつける事件を起こす(→生麦事件)。京都へ凱旋した久光だが京都は尊王攘夷派に政局が占拠されていた。即ち桂や久坂、真木和泉のため長井は失脚させられ長州の藩論は尊王攘夷へ転換されていた。憤りが収まらない久光は鹿児島へ引き上げた。

久光の改革案には将軍の上洛が含まれていたが、三条実美姉小路公知ら尊王攘夷派の過激公卿を奉じた長州藩、土佐藩の尊王攘夷派が朝廷の圧力を利用して将軍上洛運動を強要した。1863年4月21日(文久3年3月4日)、家茂は将軍としては200年ぶり(3代家光以来)の上洛をするが、1863年6月25日(文久3年5月10日)をもっての攘夷決行を約束させられた。但し、幕府は攘夷を武力行使ではなく条約の撤回と解釈し、横浜からの一時退去を諸外国に申し入れたが、これを拒否されている。

他方、攘夷決行の日である6月25日、長州藩は久坂玄瑞らの指揮の下、関門海峡を通過する外国商船に砲撃を加える。しかし20日後にアメリカ合衆国、さらにその4日後にはフランスからの報復攻撃を受け砲台を占拠されるなど、攘夷の困難さを身をもって知ることとなる(→下関戦争)。また藩兵の軟弱さを嘆いた長州藩士高杉晋作は、新たに武士以外の身分を含む奇兵隊を結成、それに続いて諸隊が次々と結成され、後の長州藩の武力となっていく。また、生麦事件の賠償問題がこじれたことから1863年8月15日(文久3年7月2日)、薩摩藩と英国の間にも戦争が勃発(→薩英戦争)。薩英戦争では、イギリス艦隊による鹿児島城下砲撃と、それに反撃する薩摩藩砲兵との間で戦闘が発生した。鹿児島市街の一部が焼失し、薩摩藩もまた攘夷の不可能性を悟ることとなった。この交渉によりイギリスと薩摩は接近、イギリスは幕府が自由貿易の利益を独占している現状に外様大名は不満がある点を知る。

尊攘派の蹉跌(1863年 - 1864年)

禁門の変を嚆矢として、日本国内の争いは内戦へと発展していく。
攘夷と称して外国船に砲撃を繰り返した長州藩は、イギリスフランスオランダアメリカ列強四国によって砲撃を受けた。

この頃、京都へ尊王攘夷派の志士が集い、「天誅」と称して反対派を暗殺するなど、治安が極端に悪化。逆に尊攘派の代表と見られた姉小路公知が暗殺される事件(朔平門外の変)も起き、犯行に関与したとみられた薩摩藩など公武合体派の勢力が一時低下した。長州藩は8000名と言われる駐在兵を京都に置き、シンパを含めれば三万を動員できるとされた。尊攘派の擡頭により朝廷・幕府政治の混乱が起きていることを憂えた孝明天皇の意をくみ、中川宮朝彦親王は極秘に会津藩・薩摩藩に長州藩の追放を命ずる。1863年9月30日(文久3年8月18日)に、宮廷の御門を制圧した会津・薩摩は、長州藩兵および三条ら7人の公卿を長州への撤退させるクーデタを決行し(八月十八日の政変七卿落ち)、長州藩系の尊攘勢力の一掃に成功した。

いっぽう1864年2月7日(文久3年12月30日)には徳川慶喜・松平春嶽・松平容保・伊達宗城宇和島藩主)・島津久光による初の諸侯会議となる参預会議が開催され、神奈川鎖港談判、長州藩の処置、大坂港の防備強化などの議題が話し合われた。幕府を代表する慶喜は神奈川鎖港を主張。この時期に至って条約の破棄はできないとする春嶽・久光は帰国して翌年3月には崩壊。参預会議体制はわずか数ヶ月しか持たなかった。この後、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられた慶喜は、京都守護職松平容保(会津藩主)・京都所司代松平定敬桑名藩主)兄弟らとともに、江戸の幕閣から半ば独立した動きをみせることとなる(一会桑体制)。

この頃、各地で尊攘過激派による実力行使の動きが見られたが、いずれも失敗に終わっている。1863年9月29日(文久3年8月17日)、大和では公卿中山忠光吉村寅太郎池内蔵太土佐藩士)、松本奎堂(三河刈谷藩士)、藤本鉄石岡山藩士)、さらには河内大地主水郡善之祐らも加わった天誅組の変が勃発し、続いて但馬では澤宣嘉(前年京都から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的に発生した。また土佐藩では一藩勤皇を唱えた武市瑞山が率いる土佐勤王党(前年に藩執政吉田東洋を暗殺)が公武合体に戻った元藩主の山内豊信により弾圧され尊攘勢力は後退した。

さらに水戸藩では1864年5月2日元治元年3月27日)、藤田小四郎武田耕雲斎天狗党筑波山で挙兵。水戸藩の要請を受けた幕府軍の追撃により壊滅させられる事件も発生した(→天狗党の乱)。

このような状況下、前年の八月十八日の政変以降影響力を減退していた尊王攘夷派の中心・長州藩では、京都への進発論が沸騰。折から京都治安維持に当たっていた会津藩預かりの新撰組が、池田屋事件で長州藩など尊攘派の志士数人を殺害したため、火に油を注ぐこととなり、ついに長州藩兵は上京。1864年8月20日(元治元年7月19日)、京都守備に当たっていた幕府や会津・薩摩軍と激突し、御所周辺を巻き込んだ合戦が行われた(→禁門の変)。この戦で、一敗地にまみれた長州藩は逆賊となり京から追放され、幕府から征伐軍が派遣されることとなる。さらに9月5日(元治元年8月5日)には、前年の下関における外国船砲撃の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ4国の極東艦隊が連合して下関を攻撃。装備に劣る長州はここでも敗れ、長州藩は窮地に陥った(四国艦隊下関砲撃事件)。

薩長同盟と幕長戦争(1864年 - 1866年)

逆賊となった長州藩に長州への征伐が発令され、総大将に徳川慶勝尾張藩主)、参謀に西郷隆盛(薩摩藩士)が任命された。元治元年9月大坂での勝海舟との会談を経て長州藩への実力行使の不利を悟った西郷は開戦を回避し、長州藩からの謝罪を引き出す方針をとる。四国艦隊下関砲撃事件での敗戦以降、松下村塾系の下級藩士を中心とした攘夷派勢力が後退し、椋梨藤太ら譜代家臣を中心とする俗論派が擡頭していた。幕府への恭順路線を貫き、責任者の処刑など西郷が提示した降伏条件の受け入れを承認したため、第1次長州征伐は回避されることとなった。しかし長州藩内で旧攘夷派の粛清が続くなか同年末、高杉晋作らが諸隊を糾合し長府功山寺にて挙兵(功山寺挙兵)。翌年初頭、藩中枢部の籠もる萩城を攻撃し、俗論派を壊滅させて再び藩論を反幕派へ奪回した。藩論の再転換により、既定の降伏条件を履行しない長州藩へのいらだちは高まり、老中小笠原長行唐津藩世子)・勘定奉行小栗忠順ら強硬派による長州再征論が浮上し、将軍家茂は再度上洛する。

一方、安政条約に明記されながらいまだに朝廷の許可が無いため開港されていなかった兵庫神戸港)問題を巡って、英国公使パークスが主導する英仏蘭連合艦隊が1865年11月4日慶応元年9月16日)、兵庫沖に迫った(兵庫開港要求事件)。攘夷派への配慮からわざと幕府が外交を停滞させているとみたパークスらは薩長が攘夷策を放棄した時点で障害はのぞかれたはずであるとして、兵庫開港か条約勅許を求めて威圧を行ったものである。譲歩案として英国は下関戦争賠償金の引き下げに応じる姿勢も見せた。幕府主導の外交を狙う老中阿部正外松前崇広らはこの動きに対して幕府単独の開港方針を決めるが、朝廷との連携を重視する徳川慶喜は難色を示す。独断で兵庫開港を決めた阿部・松前に対して朝廷から老中罷免の令が出されるという異常事態となった朝廷による現実の幕政介入という事態に、慶喜に対する疑念が幕臣たちの間で深まり、家茂が将軍辞職を漏らすなどの混乱がおきた。慶喜は家茂を説得する一方で条約勅許、兵庫開港をめぐって在京の諸藩士を集めた上で、11月22日(慶応元年10月5日)朝廷に条約勅許を認めさせた(兵庫開港は延期)。また関税改正の合意を得るというイギリスの目的も達成されたことで四国艦隊は兵庫沖から去った。翌1866年6月25日慶応2年5月13日)に改税約書が調印され、輸入関税が大幅に引き下げられたことにより、日本の輸入は急増した。大量生産による安価な綿製品に太刀打ち出来ず、日本の手工業的綿織物は大打撃を受けた。

こうしたなか、薩摩藩は徐々に幕府に非協力的な態度を見せ始め、駐日公使ハリー・パークスアーネスト・サトウの助言のもと、長州藩との提携を模索する。薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士坂本龍馬や、同じく土佐浪士で下関に逼塞していた三条実美らに従っていた中岡慎太郎らが周旋する形で、薩摩長州両藩の接近が図られる。逆賊に指名され表向き武器の購入が不可能となっていた長州藩に変わって薩摩が武器を購入するなどの経済的な連携を経た後、1866年3月7日(慶応2年1月21日)、京都薩摩藩邸内で木戸孝允・西郷らが立ち会い、薩長同盟の密約が締結された。

偶然ではあるが、幕府は薩長同盟が締結された翌日に第二次長州征伐を発令した。7月18日(慶応2年6月7日)に開戦するが、薩摩との連携後軍備を整え、大村益次郎により西洋兵学の訓練を施された長州の諸隊が幕府軍を圧倒。各地で幕府軍の敗報が相次ぐなか、1866年8月29日(慶応2年7月20日)家茂が大坂城で病死。徳川宗家を相続した慶喜は親征の意志を自ら見せるものの、一転して和睦を模索し、広島で幕府の使者勝海舟と長州の使者広沢真臣井上馨らの間で停戦協定が結ばれ、第二次長州征伐は終焉を迎えた。

大政奉還と王政復古(1866年 - 1867年)

「大政奉還図」 邨田丹陵

家茂の死後、将軍後見職の徳川慶喜は徳川宗家を相続したが、幕府の自分に対する忠誠を疑ったため、征夷大将軍職への就任を拒んでいた。5か月後の1867年1月10日(慶応2年12月5日)ついに将軍宣下を受け将軍就任。しかし20日後の1月30日(慶応2年12月25日)には天然痘のため孝明天皇崩御した。2月13日(慶応3年1月9日)に睦仁親王が践祚した(明治天皇)。

薩摩藩の西郷・大久保利通らは政局の主導権を握るため雄藩連合を模索し、島津久光・松平春嶽・伊達宗徳・山内容堂(前土佐藩主)の上京を促し、6月6日(慶応3年5月4日)から 四侯会議を開催して兵庫開港および長州処分問題について徳川慶喜と協議させたが、慶喜の政治力が上回り、団結を欠いた四侯会議は無力化した。6月26日(慶応3年5月24日)には摂政二条斉敬以下多くの公卿を集めた徹夜の朝議により長年の懸案であった兵庫開港の勅許も得るなど、慶喜による主導権が確立されつつあった。

こうした状況下、薩摩・長州はもはや武力による倒幕しか事態を打開できないと悟り、土佐藩・藝州藩の取り込みを図る。土佐藩では後藤象二郎が坂本龍馬の影響もあり、武力倒幕路線を回避するために大政奉還を提議し、薩摩藩もこれに同意したため、7月23日(慶応3年6月22日)には薩土盟約が締結される。これは徳川慶喜に自発的に政権返上することを建白し、拒否された場合には武力による圧迫に切り替える策であった。しかし兵力の発動を渋る山内容堂に反対され、また薩摩藩も慶喜の拒否を大義名分として結局武力発動しかないと判断していたため、両藩の思惑のずれから10月4日(慶応3年9月7日)盟約は解消。結局土佐藩は10月29日(慶応3年10月3日)単独で山内容堂が老中に大政奉還の建白書を提出した。いっぽう、薩摩藩の大久保・西郷らは、長州藩・藝州藩との間に武力を背景にした政変計画を策定。さらに洛北に隠棲中だった岩倉具視と工作し、中山忠能(明治天皇の祖父)・中御門経之正親町三条実愛らによって、1867年11月9日(慶応3年10月14日)に討幕の密勅が下された。ところが、徳川慶喜は山内容堂の進言を採用し、同日に大政奉還を明治天皇に奏請しており(在京各藩士には前日に二条城にて諮問していた)、討幕派は大義名分を失った。大政奉還により江戸幕府による政権は形式上終了した。

慶喜は1867年11月19日(慶応3年10月24日)に将軍職辞職を申し出たが、幕府の職制も当面残されることとなり、実質上は幕府支配は変わらなかった。岩倉や大久保らはこの状況を覆すべくクーデターを計画する。1868年1月3日(慶応3年12月9日)に、王政復古の大号令が発せられ、慶喜の将軍職辞職を勅許、幕府・摂政・関白などが廃止され、天皇親政を基本とし、総裁・議定・参与などからなる新政府樹立が発表された。同日夜薩摩藩兵などの警護の中行われた小御所会議において、徳川慶喜への辞官および領地返上が議題となる。会議に参加した山内容堂は猛反対するが、岩倉らが押し切り、辞官納地が決定された。決定を受けて慶喜は大坂城へ退去したが、山内容堂・松平春嶽・徳川慶勝の仲介により辞官納地は次第に骨抜きとなってしまう。そのため、西郷らは相楽総三ら浪士を集めて江戸に騒擾を起こし、旧幕府側を挑発した。江戸市中の治安を担当した庄内藩や勘定奉行小栗忠順らは激昂し、薩摩藩邸を焼き討ちした。

なおこの頃、政情不安や物価の高騰による生活苦などから「世直し一揆」や打ちこわしが頻発し、また社会現象として「ええじゃないか」なる奇妙な流行が広範囲で見られた。

戊辰戦争(1868年 - 1869年)

外国の要人と会う明治天皇。1868年から1870年の間で、天皇の年齢は、当時10代と考えられている。
赤熊の被り物をして戦う土佐藩の迅衝隊(上野合戦

江戸での薩摩藩邸焼き討ちの報が大坂城へ伝わると、城内の旧幕兵も興奮し、「討薩表」を掲げ、京への進軍を開始した。1868年1月27日(慶応4年1月3日鳥羽街道伏見街道において薩摩軍との戦闘が開始された(鳥羽・伏見の戦い)。官軍を意味する錦の御旗が薩長軍に翻り、幕府軍が賊軍となるにおよび、淀藩安濃津藩などの寝返りなどが相次ぎ、2日後には幕府軍の敗北が決定的と なる。徳川慶喜は全軍を鼓舞した直後、軍艦開陽丸にて江戸へ脱走。旧幕軍は瓦解した。以後、翌年まで行われた一連の内戦を、慶応4年の干支戊辰)に因んで「戊辰戦争」という。なお戊辰戦争中の1868年10月23日旧暦9月8日)には慶応から明治に改元された。

東征大総督として有栖川宮熾仁親王が任命され、東海道中山道北陸道にそれぞれ東征軍(官軍とも呼ばれた)が派遣された。一方、新政府では、今後の施政の指標を定める必要から、福岡孝弟(土佐藩士)、由利公正(越前藩士)らが起草した原案を長州藩の木戸孝允が修正し、「五箇条の御誓文」として発布した。

江戸では小栗らによる徹底抗戦路線が退けられ、慶喜は恭順謹慎を表明。慶喜の意を受けて勝海舟が終戦処理にあたり、山岡鉄舟による周旋、天璋院や和宮の懇願、西郷・勝会談により決戦は回避されて、江戸城は無血開城され、徳川家は江戸から駿府70万石へ移封となった。

しかしこれを不満とする幕臣たちは脱走し、北関東北越南東北など各地で抵抗を続けた。一部は彰義隊を結成し上野寛永寺に立て籠もったが、7月4日(慶応4年5月15日)長州藩の大村益次郎率いる諸藩連合軍により、わずか1日で鎮圧される(→上野戦争)。

そして、旧幕府において京都と江戸の警備に当たっていた会津藩及び庄内藩は朝敵と見なされ、会津は天皇へは恭順を表明するものの新政府への武装敵対の意志を示し、新政府は周辺諸藩に会津への出兵を迫る事態に至った。新政府に劣位の立場で参加することを嫌った仙台藩・戦国時代の旧領回復を望んだ米沢藩などの主導により、陸奥、出羽及び越後の諸藩が奥羽越列藩同盟を結成し、盟主として上野戦争以降東北にいた輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が擁立された。長岡(→北越戦争)・会津(→会津戦争)・秋田(→秋田戦争)などで激しい戦闘がおこなわれたが、いずれも新政府軍の勝利に終わった。

幕府海軍副総裁の榎本武揚は幕府が保有していた軍艦を率い、各地で敗残した幕府側の勢力を集め、箱館五稜郭を占拠。旧幕府側の武士を中心として明治政府から独立した政権を模索するが(いわゆる「蝦夷共和国」)、箱館戦争の結果、翌1869年6月27日(明治2年5月18日)新政府軍に降伏し、戊辰戦争が終結した。

その間、薩摩・長州・土佐・肥前の建白により版籍奉還が企図され、同年9月諸藩の藩主(大名)は領地(版図)および人民(戸籍)を政府へ返還、大名知藩事となり、家臣とも分離された。1871年8月29日(明治4年7月14日)には、廃藩置県が断行され、名実共に幕藩体制は終焉した(→明治維新)。




  1. ^ 同日、久里浜浦賀奉行以下60人が大筒ボンベン・モルチール砲の砲撃訓練をしていた。訓練は三日目に入っていた。夕方、異国船4隻が沖合を通り過ぎ、浦賀沖に投錨した。そのうち2隻が蒸気軍艦であった。(井上勝生『幕末・維新』シリーズ日本近現代史① 岩波書店 〈岩波新書1042〉 2006年 2ページ)
  2. ^ 『もういちど読む山川日本近代史』鳥海靖
  3. ^ A .H.バウマン「19世紀における北海道植民地化計画-3人のドイツ人の試案に関する比較研究-」日本独学史学会論集「日独文化交流史研究(2004)
  4. ^ 維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認”. 朝日新聞. www.asahi.com (2011年2月7日). 2011年2月9日閲覧。


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