市制 現代日本における市制施行の要件

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市制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/18 06:02 UTC 版)

現代日本における市制施行の要件

法定人口または推計人口で要件を満たす町村
町村 法定人口 推計人口 推計人口の
統計年月日
広島県安芸郡府中町 50,448 人 51,817 人 2023年10月1日
  • 農林水産業以外の産業に従事する人、その同一世帯に属する人の数の合計が町の全人口の6割以上である。
  • 建物の連なりで形成される町の中心市街地の戸数が、町の全戸数の6割以上である。
  • 都道府県で定める条例の要件に合致している。

「外地」にあった市(に相当する区画)と市制施行年月

外地には法律「市制」は適用されず別個の法律(「樺太市制」昭和12年法律第1号)、勅令(「関東州市制」大正13年勅令第130号)、律令(りつれい。「台湾市制」大正9年律令第5号)、制令(せいれい。(朝鮮)「府制」大正2年制令第7号)等によってが設置された。

朝鮮の地方制度においては「市」に相当する区画は「」と称しており、したがって日本統治下の朝鮮には存在しない。朝鮮の府は最初は朝鮮での伝統的な行政機関を大韓帝国の時により現代的な意味で再整備されたものを引きずったようなものであって、その長も伝来の名称のままで府尹(ふいん)と呼ばれた。大韓帝国では府の昇降が激しく、1906年から大韓帝国の末期までは主に開港場だけがそこを管轄する(ゆう)の名称のままで指定されていたのだが、韓国併合の直後に行われた臨時的な措置の一つである朝鮮總督府令第6號(1910年(明治43年)10月1日公布/施行)によって府の昇降と改名が行われた。この時までは府の区域はまだ伝来のものをほぼ保存しており、伝統の行政中心地と郊外の農村部を大きく含んでいた。

その後1913年(大正2年)10月30日公布の府制(制令第7号)が1914年(大正3年)4月1日に施行されたことにより、地方公共団体としての府が設立されて、1913年(大正2年)12月29日公布で1914年(大正3年)4月1日に施行の朝鮮総督府令第111号で全朝鮮の道府郡の境界がすべて現代化される際に府の領域も同時代の日本のように都市部だけを含むようになった。この時、府の領域から除外された部分はその旧来の行政中心地の名前や府の古い雅称を取った郡とされ、そのような郡の多くは郡庁(朝鮮での郡役所の名称)を府内に置いた。府は併合以前からの日本人居留民団の事務などを承継した。その後、都市化の進んだ地域に府制が施行されるようになり、最終的には22まで増加した。新しい府を指定する時にも農村部を以て違う名の郡を建てその郡庁を府内に置く原則は守られた。

  • 朝鮮日本統治時代の朝鮮の行政区画を参照)
    • 京城府 - 従来の府(1910年10月以前の旧称は漢城府で、他の府とは違う特殊な制度が適用されていた)。現在のソウル特別市に当たる。1914年4月、京城府の周辺の農村部は以前の所属郡を無視して全て高陽郡(郡庁は京城に置く)に含まれた。
    • 仁川府 - 従来の府(最初指定は1896年)。1914年4月に農村部を隣接の富川郡に移管。但し富川郡庁は最初は官庁里(現在の仁川広域市弥鄒忽区官校洞)の旧・仁川府庁舎に移り、またのちに仁川府内へ移転した。
    • 群山府 - 従来の府(旧称沃溝府。最初指定は1899年)。1914年4月に農村部は沃溝郡(郡庁は府内に置く)として独立。
    • 木浦府 - 従来の府(旧称務安府。最初指定は1897年)。1914年4月に農村部は務安郡(郡庁は府内に置く。この時は現在の新安郡に当たる島嶼部も含む)として独立。
    • 大邱府 - 1910年10月。1914年4月に農村部は達城郡大邱の雅名、郡庁は府内に置く)として独立。
    • 釜山府 - 従来の府(旧称東萊府。最初指定は1896年)。1914年4月に農村部は東萊郡(郡庁はのちに編入される旧邑に位置)として独立。
    • 馬山府 - 従来の府(旧称昌原府。最初指定は1899年)。1914年4月に農村部は昌原郡(郡庁は府内に置く)として独立。
    • 平壌府 - 1910年10月。1914年4月に農村部は大同郡平壌市内を貫通する大同江から。郡庁は府内に置く)として独立。
    • 鎮南浦府 - 従来の府(旧称三和府。最初指定は1897年)。現在の南浦市に当たる。1914年4月に農村部は龍岡郡(郡庁も龍岡の旧邑に残る)に移管された。
    • 新義州府 - 従来の府(旧称義州府。1906年指定)。1914年4月に農村部は義州郡(郡庁も義州邑に残る)に移管された。
    • 元山府 - 従来の府(旧称徳源府。最初指定は1896年)。1914年4月に農村部は徳源郡に移管。のちに徳源郡庁は元山府内に移転し、さらに後には文川郡に編入され廃止された。
    • 清津府 - 1910年10月(富寧郡から改称・昇格)。1914年4月に農村部を以て富寧郡(郡庁は富寧面)を復活。
    • 開城府 - 1930年10月(1896年から1906年まで府であった)。農村部は開豊郡(1914年4月の行政区画改編で編入された豊徳郡から一字貰う)として独立。
    • 咸興府 - 1930年10月。農村部は咸州郡(咸興の異称)として独立。
    • 大田府 - 1935年10月。農村部は大徳郡(1914年4月の行政区画改編で編入された懐徳郡から一字貰う)として独立。
    • 全州府 - 1935年10月。農村部は完州郡(全州の雅称)として独立。
    • 光州府 - 1935年10月。農村部は光山郡(光州の異称)として独立。
    • 羅津府 - 1936年10月。慶興郡(1896年 - 1903年、1906年 - 1910年まで府であった)から独立する形であった。
    • 海州府 - 1938年10月。農村部は碧城郡(海州の雅称)として独立。
    • 晋州府 - 1939年10月。農村部は晋陽郡(晋州の異称)として独立。
    • 城津府 - 1941年10月(1910年までは時々府であった)。現在の金策市に当たる。農村部は鶴城郡(当地域の雅称)として独立。
    • 興南府 - 1944年12月。咸州郡から独立する形であった。
  • 台湾台灣市制を参照)
  • 樺太
    • 豊原 - 1937年7月。1943年の内地編入にともない法律準拠に変更。なお1945年10月に恵須取も市制施行の予定であった。
  • 関東州

都道府県の最初の市制施行が都道府県庁所在地とそれ以外の複数になった例


  1. ^ 2015年(平成27年)4月1日現在において、荏原郡品川町、南足立郡千住町は現・特別区部、西成郡難波村・曾根崎村、東成郡天王寺村・東平野町は現・大阪市、紀伊郡伏見町は現・京都市、愛知郡熱田町は現・名古屋市、橘樹郡神奈川町、久良岐郡戸太村は現・横浜市、安芸郡仁保島村は現・広島市、谿山郡谷山村、鹿児島郡伊敷村・吉野村は現・鹿児島市、首里、小禄間切は現・那覇市、有渡郡長田村は現・静岡市、赤間関市は現・下関市、南秋田郡土崎港町は現・秋田市、度会郡宇治山田町は現・伊勢市、三浦郡浦賀町は現・横須賀市、北会津郡若松町は現・会津若松市、中頸城郡高田町は現・上越市、頴娃郡頴娃村、給黎郡知覧村、河辺郡川辺村は現・南九州市、川辺郡東南方村は現・枕崎市、板野郡撫養町は現・鳴門市、日置郡串木野村は現・いちき串木野市、海上郡本銚子町は現・銚子市、阿多郡伊作村、日置郡東市来村は現・日置市、砂川間切は現・宮古島市、川辺郡西加世田村・加世田村・東加世田村・西南方村は現・南さつま市、南大隅郡垂水村は現・垂水市、雑太郡相川町は現・佐渡市、賀茂郡広村、安芸郡倉橋島村・蒲刈島村・瀬戸島村は現・呉市、阿拝郡上野町は現・伊賀市、添下郡郡山町は現・大和郡山市、都濃郡徳山村は現・周南市、松前郡福山は現・松前郡松前町、上都賀郡足尾町は現・日光市、出水郡上出水村は現・出水市、香取郡佐原町は現・香取市、山本郡能代港町は現・能代市、具志川間切は現・うるま市、姶良郡加治木村は現・姶良市、美里間切は現・沖縄市、大島郡家室西方村は現・大島郡周防大島町、安蘇郡田沼町は現・佐野市、那珂郡湊町は現・ひたちなか市、大里間切は現・南城市、熊毛郡北種子村は現・西之表市、読谷山間切は現・読谷村、南高来郡西有家村は現・南島原市、東囎唹郡末吉村は現・曽於市、坂井郡三国町は現・坂井市、佐波郡三田尻村は現・防府市、高城郡水引村は現・薩摩川内市、南巨摩郡増穂村は現・南巨摩郡富士川町、北足立郡浦和町は現・さいたま市、高座郡大野村は現・相模原市の一部となっている。
  2. ^ a b c d e 香川県の市制・町村制施行は翌年の1890年(明治23年)2月15日であり、本表では高松の人口として香川郡高松塩屋町外十五箇町連合・高松内町外十二箇町連合・高松西通町外十八箇町丁連合・高松天神前外十箇町連合・藤塚町(藤塚町は山村と共に、中村に役場を置く戸長役場連合を成していたが、山村・中村の人口は含まれない)の4つの連合戸長役場管轄町村と1つの町を併せた区域の人口を、丸亀の人口として那珂郡丸亀通町外二十二箇町丁連合・丸亀営所(陸軍第五師団歩兵第十二連隊の軍用地として接収された丸亀一番丁~四番丁)・中府村・地方村(両村は山北村と共に、中府村に役場を置く戸長役場連合を成していたが、山北村の人口は含まれない)を合わせた区域の人口をそれぞれ掲載し、順位は振らない。なお豊田郡観音寺村(伊吹島と連合戸長役場を形成していたが、本表記載の現住人口は観音寺村単独のもの)と阿野郡坂出村は単独で現住人口1万人以上の村であり、順位を振る。
  3. ^ a b c d e f 北海道では郡区町村編制法により函館区(44町)と札幌区(169町)は区制が敷かれ、本表でもそれぞれ区全域の人口を掲載し、順位を振る。一方郡部に関しては、江差の人口として檜山郡郡役所直轄町村のうち五勝手村を除く江差市街二十六箇町の人口を、小樽の人口として小樽郡郡役所直轄町村のうち高島郡色内町外七町村と小樽郡奥沢村を除く小樽市街二十九箇町の人口を、福山の人口として松前郡郡役所直轄町村である福山市街三十四箇町の人口をそれぞれ掲載し、順位は振らない。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 沖縄県では郡区町村編制法が施行されず、琉球国時代の番所制が存続していた。本表では那覇の人口として、那覇東村外五箇村地・泊村・渡嘉敷村外三箇村(渡嘉敷間切)・座間味村外四箇村(座間味間切)・渡名喜島桃原村・伊平屋島伊是名村外七箇村・鳥島村粟国島浜村外二箇村を合わせた区域の人口を、首里の人口として首里当蔵村外十四箇村の人口を、他の沖縄県の諸間切の人口としてそれぞれの間切の人口を掲載するが、いずれも順位を振らない。なお当時宮古島番所は平良間切砂川間切下地間切多良間島の3間切1島38村(現住人口33,515人)、八重山島番所は大浜間切石垣間切宮良間切与那国島の3間切1島32村(現住人口14,746人)をそれぞれ管轄していたが、本表では那覇と首里を除き、間切・島ごとの人口を掲載する。


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