岩倉具視
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脚注
参考文献
- 多田好問『岩倉公実記』、1906年 - ウィキソース
- 佐々木克 『岩倉具視 幕末維新の個性5』 吉川弘文館 ISBN 4-642-06285-8 2006年
- 大久保利謙 『岩倉具視』 中公新書、増補版1990年、初版1973年
- 毛利敏彦 『岩倉具視 幕末・維新の群像2』 PHP研究所、1989年
- 岩倉具忠 『岩倉具視―「国家」と「家族」、米欧巡回中の「メモ帳」とその後の家族の歴史』 高等研選書21・国際高等研究所 2006年-著者は岩倉家当主。
- 池辺三山 『明治維新三大政治家―大久保・岩倉・伊藤論』 中公文庫、改版2005年、 初版1977年、滝田樗陰編・司馬遼太郎解説-序文は夏目漱石
- 永井路子 『岩倉具視―言葉の皮を剥きながら』 文藝春秋、2008年/ 文春文庫 2011年2月
関連項目
- 岩倉具視幽棲旧宅
- 岩倉高等学校 - 東京都台東区上野、鉄道界の恩人と賞された岩倉の遺徳にちなんで命名
- 村上源氏 - 岩倉家の本姓
- 岩倉使節団
- 五百円紙幣 - 歴代2種類はいずれも岩倉具視の肖像を使用している。
注釈
- ^ ただし石高では岩倉家と同程度の家が大多数であり、それ以下の石高の家もたくさんあった。
- ^ 岩倉家の始祖岩倉具堯の子・一絲文守開基による寺。
- ^ うち南側(表側)の1棟は移住後の1864年に、増加する来客に対応するため増築した。
- ^ 具視死去後の1902年に、移住当初から建っていた北側の棟の屋根の一部が茅葺きから瓦葺きに改築されたがほぼ当時のまま残され、その後1932年に国の史跡に指定された。
- ^ 「財団法人岩倉公旧跡保存会」の手で管理・保存され有料で公開されていたが、2013年1月に同会が役員の高齢化等を理由に解散したため公開を一時中止し、その後、建物は京都市に寄贈され同年5月31日より再び公開された。
- ^ この時期、岩倉の朝廷及び公家社会の現状に対する不満が強かった。この頃書かれた「極密語」と銘打った文章において、天下混乱の最大の原因は孝明天皇にあるとして、天皇は天下へ謝罪した上で自ら政治の刷新をすべきと論じている[2]。また、「続叢裡鳴虫」の中で公卿たちは武威に押されて定見が無く、他人の説を鵜呑みに付和雷同して互いを誹謗するのみの軽薄な存在であるとし、安政5年(1858年)以後で真に国事に尽くした公卿は自分以外には中山忠能・正親町三条実愛・大原重徳だけだと断言している[3]。
- ^ ただし協力していた藩士が少なからずいたというだけで、薩摩藩そのものが協力していたかどうかは不明。
- ^ 原口清の『孝明天皇は毒殺されたのか』によると孝明天皇の死因が天然痘であることは病理学的にも明白で毒殺はあり得ないとしており、この著作の登場以降、多くの歴史学者がこれを支持するようになり、現在では否定説が通説である。
- ^ 慶長の禁教令から続くキリスト教の禁教及びそれに伴う浦上四番崩れに代表される凄惨かつ非人道的な宗教的迫害が行われていた事が欧米諸国に知れ渡っていた事が要因である。
出典
- ^ a b c d 岩倉公実記
- ^ 『岩倉具視文書』巻一P264
- ^ 『岩倉具視文書』巻一P179・180
- ^ 『岩倉公実記』、1906年(明治39年)。国立国会図書館 NDLJP:781064/251
- ^ Nikkei Style『靖国神社は昔、競馬場!』、2011年(平成23年)12月16日。アーカイブ
- ^ 岩倉右大臣を喰違外に刺す - 新聞集成明治編年史第二卷、林泉社、1936 - 1940
- ^ 『官報』第20号、「賞勲敍任」1883年(明治16年)7月24日。p.3
- ^ a b 『岩倉具視公』
- ^ 沿革・校歌 岩倉高等学校
- ^ 【公式】大河ドラマ「青天を衝け」 Twitter 2021年11月28日
- ^ 「海舟全集 第十巻」
- ^ a b c 「伊藤侯、井上伯、山県侯元勲談」
- ^ 「維新風雲回顧録」
- ^ “大河ドラマ「青天を衝け」に磯村勇斗、深川麻衣、中島歩、板垣李光人ら17名出演”. 映画ナタリー (ナターシャ). (2021年1月26日) 2021年1月26日閲覧。
固有名詞の分類
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