岡田裕介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/24 09:50 UTC 版)
おかだ ゆうすけ 岡田 裕介 | |||||||||||
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「美しい国づくり」企画会議委員 就任に際して公表された肖像写真 | |||||||||||
本名 | 岡田 剛(おかだ つよし)[1][2] | ||||||||||
生年月日 | 1949年5月27日 | ||||||||||
没年月日 | 2020年11月18日(71歳没) | ||||||||||
出生地 | 京都府京都市[3] | ||||||||||
死没地 | 東京都 | ||||||||||
ジャンル | 俳優 | ||||||||||
活動期間 | 1969年 - 1986年 | ||||||||||
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備考 | |||||||||||
東映代表取締役グループ会長[1] ティ・ジョイ代表取締役社長 テレビ朝日ホールディングス社外取締役[3] |
人物
京都市出身[3][6]。父は岡田茂(東映社長・会長を経て最晩年は名誉会長)。妹は高木美也子(コメンテーター、日本大学総合科学研究所教授)。声優・ナレーターの政宗一成ははとこ[7]。
子供の頃の遊び場は東映京都撮影所(以下、東映京都)で[6]、東映京都は子煩悩な役者が多く、片岡千恵蔵や萬屋錦之介、大友柳太郎、伏見扇太郎らによく可愛がってもらった[6]。役者のお供でロケに行くことも多かったという[6]。1961年9月、父の東映東京撮影所所長による転勤で、京都の小学校の卒業間際に東京へ家族で引っ越す[6]。1964年2月、父がまた東映京都所長に転任したが[6]、京都に行くことを拒否し、以降は東京で育つ[6]。千代田区立番町小学校を卒業。東京都立日比谷高等学校卒業後、浪人生活を経て、慶應義塾大学商学部商学科入学。大学1年の夏休みに[6]、遊びに行っていた京都のクラブで飲んでいた際、プロデューサーの逸見稔に横顔のよく似た石坂浩二と間違われてスカウトを受けた[6]。逸見と父親の岡田茂とはそれ以前から仕事上の付き合いがあり、父親の了解を得て俳優デビューした[6][8]。
俳優としては主に東宝の青春映画で注目を浴びたが、東宝が自社製作を大幅縮小した頃よりプロデューサーに転向した。東映作品との関りは1970年の東映制作のテレビドラマ『江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎』(東京12チャンネル)に 小林少年役で出演したのが最初だが[6]、東宝の『赤頭巾ちゃん気をつけて』で主演が決まり、「『江戸川乱歩シリーズ 明智小五郎』を降ろして下さい」と頼んだら、泊懋テレビ部プロデューサーに「そんな馬鹿な話があるか!」と怒鳴られ、出演は続けた[6]。『赤頭巾ちゃん気をつけて』では、実際の一つ下の日比谷高生を演じた[6]。1978年の『宇宙からのメッセージ』から東映にプロデューサーとして関わり始め、『ガラスの中の少女』をプロデュースした後、東映に入社した[6]。
父親が東映社長であったこともあるが、東宝俳優出身で東映トップにのぼりつめた珍しい経歴の主であり、プロデューサーとしても旧知の東宝監督を東映作品に招聘するなどしている。 2002年に非創業家出身者としては珍しく父親の後を継いで東映社長に就任した。
黒澤明、デビッド・リーン、テオ・アンゲロプロスを「20世紀を代表する三大映画監督」に挙げ尊敬していた。アンゲロプロスの遺作となった『エレニの帰郷』は死後もしばらく日本公開の目途がついていなかったが、それを知った岡田は公開されることを強く希望し、2014年に自ら東映で配給している[9]。
来歴
- 1949年5月27日
- 京都市に生まれる[3]。
- 1968年
- 東京都立日比谷高等学校卒業。
- 1969年
- スカウトされ、テレビドラマ『レモンスカッシュ4対4』(NET)でデビュー。
- 1970年
- 『赤頭巾ちゃん気をつけて』(監督森谷司郎、東宝)で、「日比谷高生の庄司薫クン」役を演じるが、岡田も上記の様に同高校を卒業しており、役は一つ下の学年に当たる[10]。
- 以後も、エリート高級官僚の息子役を演じた『初めての旅』(東京映画)まで、森谷司郎監督作品に主に出演。
- 1973年
- 慶應義塾大学商学部卒業。前年から同年にかけて岡本喜八監督の二部作『にっぽん三銃士 おさらば東京の巻』『にっぽん三銃士 博多帯しめ一本どっこの巻』で主演トリオの一人を務める。
- 1974年
- 岡本喜八の自主製作作品『吶喊』で、演出に専心したい岡本から指名を受けて主演兼任でプロデューサーを任される。喜八プロとATGの超低予算による戦争時代劇という困難な仕事をやりおおせた。この作品を機に徐々に俳優の仕事を減らし、以降は、主にプロデューサー業に転じた。
- 1988年11月
- 東映に入社。
- 1990年
- 東京撮影所長(のちに取締役、常務取締役)。
- 2001年
- シネコンを運営するティ・ジョイ社長に就任。
- 2002年6月
- 東映社長に就任。
- 2007年
- 内閣官房「美しい国づくり」企画会議委員を務めた[11](同年9月21日解散)。
他に、テレビ朝日ホールディングス[3]、北海道テレビ放送、東映アニメーション、東映ラボ・テックなどの取締役、シーズ・シネマズの代表取締役会長を務める。また、秋田経済法科大学(現ノースアジア大学)総合研究センター客員教授、政府の海外交流審議会委員等も務めている。
- 2014年4月
- 東映グループ会長に就任。
- 2020年11月18日
- 22時58分、急性大動脈解離の為東京都内の病院で死去。71歳没。死去は東映が11月20日に公表した[1][2]。死去当日も通常通り午前中は出社。午後に自宅にて自ら発案し、2021年5月21日に公開で吉永小百合が主演を務める[12]映画『いのちの停車場』の打合せ中に急に倒れ、病院に運ばれたがそのまま帰らぬ人となった[3][13]。生涯独身であった[14]。
- ^ a b c d e f g “東映会長の岡田裕介さん71歳で死去 俳優から転身”. nikkansports.com. 日刊スポーツ新聞社. (2020年11月20日) 2020年11月20日閲覧。
- ^ a b c d 代表取締役会長の逝去および異動に関するお知らせ (PDF) - 東映株式会社、2020年11月20日、同日閲覧
- ^ a b c d e f g “東映グループ会長、岡田裕介氏が急死 71歳、自宅で突然倒れ…吉永小百合絶句「信じられない」”. Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. (2020年11月21日) 2020年11月21日閲覧。
- ^ 第44回 日本アカデミー賞 優秀賞決定!、日本アカデミー賞公式サイト、2021年2月16日閲覧。
- ^ “決定! 2021年 第45回エランドール賞”. 日本映画テレビプロデューサー協会 (2021年2月4日). 2021年2月4日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 「トップインタビュー/岡田裕介 東映(株)代表取締役社長 /東映60年史」『月刊文化通信ジャーナル』2011年3月号、文化通信社、24–33頁。
- ^ “政宗一成 現59歳の生い立ち”. 夢吽空. 2009年1月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年10月29日閲覧。
- ^ 逸見稔『黄門様はテレビ好き』、近代映画社、1993年、p96、97
- ^ 20世紀最高の映像監督 テオ・アンゲロプロス遺作『エレニの帰郷』、2014年1月公開決定!
- ^ 高校同期に宮澤喜一長男の宮澤裕夫(建築家)等がいる( 『文藝春秋』〈2010年10月号〉)。
- ^ 「美しい国づくり」企画会議サイトの 岡田裕介プロフィール を参照。
- ^ “吉永小百合主演「いのちの停車場」ポスターは鉛筆画!公開日5・21に決定”. サンケイスポーツ. 産経デジタル. (2020年12月14日) 2020年12月14日閲覧。
- ^ “東映グループ岡田裕介会長が急逝 「いのちの停車場」打ち合わせ中に倒れる”. サンケイスポーツ. 産経デジタル: p. 1. (2020年11月21日) 2020年11月21日閲覧。
- ^ 吉永小百合と東映トップの”深い仲”(日刊サイゾー)
- ^ 岡田祐輔 名義。
- 1 岡田裕介とは
- 2 岡田裕介の概要
- 3 俳優として
- 4 映画プロデュース
- 5 脚注
固有名詞の分類
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