山﨑武司 人物

山﨑武司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 14:05 UTC 版)

人物

小学校時代からプロまで主将を務め、常にチーム全体や他の選手を気にかけていた。楽天では2008年から2010年まで主将とチームリーダーを務めるなど、首脳陣からもその素質を認められ、球団も指導者としての期待をかけていた。

中日時代は1年後輩の立浪和義の存在が自分以上にあったため「あの時代には僕よりも期待されていた立浪和義さんがいた。僕はどうしても立浪さんの壁を超えることができなかったのだ」(原文ママ)と振り返っているが、設立間もない楽天移籍後は「自然にトップとなり、かかる期待も大きくなり、期待が大きければ大きいほどやりがいも生まれてきた」と述懐している[98]。なお、落合博満は2012年1月13日に紀伊國屋ホールで開かれた著書『采配』(ダイヤモンド社)刊行記念の講演で「山﨑と立浪は後ろ盾がしっかりしていてそれぞれ強力な派閥を持っており、仲が悪い」と発言したが[99]、山﨑自身は山本昌との対談で「(立浪とは)別に仲が悪いわけではないが、中日の野手ナンバーワンの座には常に立浪がいたから自分はナンバー2, 3に甘んじていた[100]。自分の中では『立浪には絶対に負けたくない』と張り合っていた」と発言している[101]

自身でも生意気な性格と自負しておりロサンゼルス留学の際にはアイク生原に「何故アマチュアの人にプロ野球選手が指導されなければいけないのか」と言い放った。またこのような性格から、死球(寸前含む)で投手や捕手に詰め寄ったり、審判の判定に納得がいかないと激昂する場面も多く見られ、現役時代6度の退場処分を受けている。

このことを受けてアイク生原は山崎の実家に手紙を送り付け、その手紙を読んだ母親から山崎は叱責を受ける。 帰国後も山崎とアイク生原は交流があったものの同じく留学生であった山本昌が大活躍した為、関係は薄かった。 ある時、アイク生原の妻に挨拶をした山崎は「あなた未だ野球を続けていたのね」と言われたという。

中学校時代は野球部だけでなく、相撲部でも活躍した。野球では地方大会止まりだったが、3年の時の大会終了後、数日の練習で相撲の愛知大会で優勝、全国大会にも出場して藤島部屋などの多くの部屋からスカウトされた。元前頭筆頭・朝乃若(現:若松親方)は愛知工業大学名電高等学校の1年後輩。元十両2枚目・須佐の湖は小学校と中学校の4年後輩で幼なじみでもある。

2017年6月18日放送の『たけい荘Z〜壮だったのか!スポーツの極意〜』で「テレビ初!ガチンコ相撲対決」という企画に挑み、大相撲の幕内・石浦と簡易土俵で勝負した際には、頭をつけてハズ押し、右上手を引いて投げを打ち、踏ん張った石浦は土俵際で左下手で投げ返し、山﨑を転がした。「強い。まさか頭をつけてくるとは」と石浦は驚き、御嶽海は「どっちが関取かわからない」と称賛。山﨑は「めちゃくちゃうれしい」と関取に投げられて感激していた[102]

1998年の正月番組『プロ野球オールスタースポーツフェスティバル』の相撲競技で優勝。1999年にも出場して2年連続優勝するが、対戦相手の片岡篤史が右肩脱臼の重傷を負い、これ以降、プロ野球選手の相撲競技は行われなくなった。

愛称は「ジャイアン[98]、「キン肉マン」、「タケシ」、「ヤマ」など。風貌と性格、「たけし」という名前から、漫画『ドラえもん』のキャラクターである「ジャイアン」にあやかり、「ジャイアン」とあだ名された[98]。山﨑の氏名は「山﨑武司」、ジャイアンの氏名は「剛田武」である。これは中日と楽天でチームメイトであった中村武志と区別する意味もある。中村は中日時代から監督やファンに「タケシ」と呼ばれていて、山﨑は普通に「山﨑」と呼ばれていた。2011年に山﨑が出した著書にも「リアルジャイアン」の言葉が使われている[98]。楽天時代でその他のコーチたちからも「タケシ」と呼ばれていた。自身曰く、ジャイアン同様音痴でもあると言う[98]

趣味はミニカー収集で、2011年現在では自宅に約5000台のミニカーがある。ミニカーメーカーの京商と専門誌がタイアップしたドイツツアーにミニカーのコレクターとして特別ゲストとして参加した。自宅のコレクションとインタビューは季刊専門誌『ミニカーファン』に掲載された。ラジコンカーも収集しており、2005年まで山本昌とラジコンカーレース大会『山山杯』を毎年開催していた。自宅にはセグウェイがある。また、趣味のミニカーとラジコンカーは飾ってあるが、野球関係のものは飾らずに箱に入れたままになっている。2008年末に『SPORTS STADIUM』で自宅が紹介された際、その年のオールスターMVPのトロフィーや、2007年二冠王のトロフィーなどを「もらって以来初めて箱から出した。」と語っていた。

愛車はフェラーリメルセデス・ベンツ。2011年にはランボルギーニ・アヴェンタドールを「日本輸入第1号車」という条件付で契約し、結果としては第2号車になった。また、「引退したらランボルギーニ・カウンタックを『観賞用』として購入する。」とも公言していた。前述の通りプロ野球引退後はアマチュアのレーシングドライバーとしても活動している。少なくとも、プロ入りしてから30台は車の乗り継ぎをしてきたとのこと[103][104]

少年時代から車好きで、プロ入りしてすぐにトヨタ・ソアラを購入。毎年のように車を買い替え、20歳にしてBMWを所持していた。この当時山﨑は二軍暮らしの寮住まいであり、「寮生は車を所持してはいけない」という決まりがあったが、山﨑は実家に車を置いて、たびたび兄に寮まで持って来てもらってはこっそり乗り回していた(その際、チームメイトには兄の車だと偽っていた)。その後、メルセデス・ベンツ・500SLを購入、一度だけ球場まで乗り込んだが、当時メルセデス・ベンツ・560SELを愛用していた小松辰雄に見つかり叱られた。

好物はエビフライ。山﨑がプロデュースして2006年8月5日に発売された「どえりゃー山﨑弁当」には、山﨑の「とにかく大きなエビフライが目立つ豪快な弁当にしたい。」という強い希望に応えて、大きなエビを頭から丸ごと使ったエビフライが入っていた。「間違いなく売り上げは日本一です。」という。2007年8月27日には約18cmの巨大エビフライ入りの「山﨑でらうまカレー」、2008年4月19日には地元の愛知県の名産の手羽先をおつまみとした「テバサキタケシ」をプロデュースし、販売初日には30分で完売した。

酒が全く飲めないが[46]、周囲からは勝手に酒豪扱いされることも多い[105]。楽天時代は仙台・国分町にある知人の店でよく食事をしていたが、そのせいで「国分町のドンペリを全部集めて飲んでた」と噂を立てられたこともあった[105]。食事が楽しみであるが、その反面体調管理にも気を配っている[106]。若い頃は、食事に関しても適当だと認めており、睡眠も雑だったが楽天時代に改めた[93]

中日時代に児童施設を慰問したことがきっかけで、ボランティア活動を行うようになり、現役時代には毎年シーズンオフになればサンタクロースの扮装で施設慰問をするのが恒例になっている。

中日時代の応援歌はナゴヤ球場時代のもの(『名古屋はええよ!やっとかめ』の替え歌)とナゴヤドーム移転後のものが存在する。ナゴヤドーム時代のものは楽天時代にも使われ、ナゴヤ球場時代のものは中日復帰後に使われている。また、楽天時代の2008年にはチームの応援歌「越えろ!楽天イーグルス(歌:℃-ute)」のプロモーション・ビデオに出演した。

野球では右投げ右打ちであったが、食事の際にはスプーンを左手で持つ[62][107]。ペンは右手[108]

1999年5月21日からは登録名を戸籍上の表記の「山崎」から「山﨑[注 1]へ変更した。但し「﨑」は常用外漢字の為、使用に制限がある一部メディアでは常用漢字の「」で表記される。

中日では2001年から2003年にかけて、山﨑賢太(姓の読み方は「やまざき」)がいたため、表記名はそれぞれ「山﨑武」「山﨑賢」となっていた。また、楽天では2006年から2009年にかけて、山崎隆広(姓の読み方は「やまざき」)がいたため、表記名はそれぞれ「山﨑武」、「山崎隆」となっていた。

日本プロ野球において、先発投手が9イニング完全試合状態を継続しながらも、9回終了時に0-0だったためその時点で記録が成立せず延長戦となり、延長10回に登板して安打を許し記録達成を逃した事例は僅か2回だけであるが、山﨑は最初の2005年8月27日、インボイスSEIBUドームにおける西武西口文也の事例においては対戦相手の4番打者として、2例目となった2022年5月6日、バンテリンドームナゴヤにおける中日大野雄大の事例においてはサンテレビジョンの生中継解説者として、いずれも現場に立ち合うという稀有な経験をしている。なお山﨑以外には、2005年の試合において西武の監督だった伊東勤も、2022年の試合においてNHK BS1の解説者として、両現場に立ち合っていた。


注釈

  1. ^ a b c 「﨑」の字は機種依存文字CJK互換漢字)(Unicodeでは、U+FA11)[1]
  2. ^ 中学の先輩には伊藤敦規(元阪神ほか)が[7]、後輩には2012年 - 2013年にチームメイトだった浅尾拓也(山﨑より16歳年下)[8]小山雄輝(元巨人)がいる[7]。山﨑は浅尾の義兄と八幡中時代に野球部でチームメイトだったほか、浅尾を野球教室で指導したこともあった[9]
  3. ^ しかしこの時、自身は乗り気でなかったことから「人をまとめる役目はやりたくない。自分の野球ができなくなる」と中村監督に告げたところ、「体罰が当たり前の時代」でありながら滅多に選手を殴らなかった中村から平手打ちを受けた[11]。山﨑はこのことについて「中村監督は『山﨑は型にはめると伸びないタイプだが、組織としての規律を知ってもらいたい』という親心から自分を主将に任命したのだろう。自分も『これはやらないとまずい』と考えて主将を引き受けた」と述べている[12]
  4. ^ 巨人のスカウトから「絶対うちが獲るから他の球団とは接触しないでくれ」「うちの1位指名は阿波野秀幸だが、外れ1位か2位で間違いなく君を指名する」と伝えられていたが、巨人は3球団競合の阿波野を抽選で外すと外れ1位で木田優夫、2位で水沢薫を指名し、チーム事情から結局2位までに山﨑を指名することはなかった。[要出典]
  5. ^ 山﨑本人は「中日から指名を受けた直後はがっかりしたが、自分の目標はプロ野球選手になることだったし、『最悪でもセ・リーグなら』と考えていたので、やむなく中日入団を決意した。同時に指名する約束を反故にした巨人への闘志が沸き上がり、『巨人相手に活躍して自分の名前を全国に知らしめてやりたい』と決意した」と述べている[15]
  6. ^ 山﨑自身は「目上の人間にも媚びない自分を認めてくれたのか、最終的には可愛がってくれる先輩が多かった」と述べている[18]
  7. ^ 山﨑は小松について「公私ともに背中を追い続け『いつかこんな選手になりたい』と尊敬の念を強めていた。いつか必ず恩返ししたい」と述べている[19]
  8. ^ 指導者としての落合については「監督は選手の個性をうまく引き出せなければいけないが、落合さんにはそのような能力があるとは思えない」と述べている[18]
  9. ^ 救出された子供のうち1人は声も出さずにいたが、山﨑が頬を叩くと意識を取り戻した[27]。山﨑はこの件に関して『中日新聞』(中日新聞社)記者の取材に対し「精肉店一家の女性の『子供が中にいる。助けて!』という叫び声を聞き、夢中で裏の戸口を開けて入った。煙がひどく、いったん外に出て深呼吸してから子供を助けた」と振り返っている[27]
  10. ^ 山﨑と同期のチームメイトである近藤真一が享栄高等学校時代に薬師寺と同期で、その縁で交友があった。
  11. ^ 山﨑本人は「同年に初の二けた本塁打を記録したことで『プロでやっていける』と手応えを掴んだ」と述べている[29]
  12. ^ 同年8月22日時点で山﨑は33本塁打、大豊と松井はそれぞれ32本塁打、江藤は30本塁打[31]。ただし、江藤は8月29日(当時は打率.314・32本塁打)の対巨人戦(広島市民球場)で打球処理の際にバウンドした球を顔面にぶつけて[32]骨折し、戦線離脱[33]。これにより本塁打王争いからも脱落した。
  13. ^ 山﨑は「それまでは手で相手を殴ることは『人としてやってはいけない行為』と感じていたから、詰め寄った段階でもガルベスが頭を下げれば何もしないつもりだったが、逆にガルベスがグラブを外して先に左手で自分に殴り掛かってきたことで頭に血が上り応戦した。今でも自分の行為を間違っていたとは思わない」と述べている[35]
  14. ^ 巨人の首脳陣はガルベスへの退場処分を不服として選手たちをロッカーに引き上げさせ、審判団に抗議した[36]。巨人の長嶋茂雄監督は放棄試合寸前まで態度を硬化させたが、最終的にはセ・リーグ連盟への提訴を条件に試合再開に応じた[34]
  15. ^ 同試合にて中日は8回裏終了時点まで2対1とリードしていたが、9回表に抑え・宣銅烈が阪神のマーク・ジョンソンから20号逆転3点本塁打を被弾し、2点ビハインドの2対4で9回裏の攻撃を迎えていた[41]
  16. ^ 結局、中日は日本シリーズでダイエーに1勝4敗で敗退したが、シリーズで活躍したダイエーのエース・工藤公康(愛工大名電高校の先輩)は「山﨑がいない打線だから楽だった」と発言したほか、メディアも中日の敗因として「山﨑不在」を挙げた[45]
  17. ^ 山﨑本人は「この時は悲しさよりむしろ『俺を出した中日を見返してやる』という意気込みの方が強かった」と述べている[53]
  18. ^ 当初オリックス時代の同僚で、分配ドラフトで加入した辻竜太郎が7に内定していたが、山崎自ら辻を説得した結果、最終的にはオリックス時代と同じ48となった[60][61]
  19. ^ 次点は礒部公一(8票)、3位は岩隈久志と田尾監督(いずれも6票)[64]

出典

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  99. ^ 落合「中日のタブー暴露」講演会を実況中継(3)立浪派と山崎派が対立している」『アサヒ芸能』徳間書店、2012年2月2日。2017年6月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月17日閲覧
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  104. ^ 現役レーサーで元ホームラン王の山崎武司が語る「僕が車を好きなワケ」:旬ネタ」『日刊カーセンサー』2015年7月10日。2024年3月12日閲覧
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  107. ^ 「東海ラジオの前野アナウンサーにかき氷食べました?と聞かれてからかき氷が頭から離れず北谷の美味しいかき氷食べに来ちゃいました!!! ドラゴンズも打線が元気を出してきて、明るい兆しが見えてきました! 頑張れ、ドラゴンズ!!! https://t.co/FMbZx59G8o」 / Twitter
  108. ^ 【龍の背に乗って】8月13日は「左利きの日」 プロの「左」の使い方
  109. ^ 2007ガリバーオールスターゲーム 「ガリバー賞」 楽天山﨑武司選手に、お好きな車1台を贈呈」ガリバーインターナショナル、2007年10月4日。2017年9月11日閲覧
  110. ^ 他の出場者は現役の格闘家の「那須川天心」と元サッカー選手「本並健治」。
  111. ^ 山崎武司:「ハチナイ」に本人役で出演 気迫のスイング披露 演技は「ヘタクソだと思われるかも」」MANTANWEB(まんたんウェブ)、2021年7月8日。2021年7月15日閲覧
  112. ^ 今井美樹ベスト盤CMに元アスリート再登場」ORICON、2015年9月18日。2015年9月18日閲覧





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