山本権兵衛とは? わかりやすく解説

山本権兵衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/24 01:39 UTC 版)

山本 権兵衛(やまもと ごんべえ[1][2][3] / やまもと ごんのひょうえ[4][5][6]旧字体: 山本 權兵衞1852年11月26日嘉永5年10月15日〉- 1933年昭和8年〉12月8日)は、日本海軍軍人政治家[7]階級海軍大将栄典従一位大勲位功一級伯爵


注釈

  1. ^ 年齢資格未満であったが、身体壮健であり年齢を偽って志願した
  2. ^ 西郷従道や東郷平八郎は同じ町内の出身であり、深いつながりがある。
  3. ^ 後の東京大学の前身であり、江藤淳によれば、東京大学の同窓生名簿にも明記されている。
  4. ^ 1870年(明治3年)に海軍兵学寮と改称。
  5. ^ 鎌田芳朗著『海軍兵学校物語』(原書房・P160)。なお中澤佑刊行会編『海軍中将 中澤佑』(原書房・P230)では38名中15番となっている。山本が在籍していたころの兵学寮は、2度に渡り多数の退寮者が出た。合計260名である。最初に137名が退寮したときの残生徒は44名である。内訳は幼年生徒15名、壮年生徒29名。この中から少尉補になったものは1期生2名、2期生3名。山本は唯一人の幼年生徒出身である。なお兵学校には品行方正なものに章(賞)を与える制度があったが、山本はその第一号である。アジア歴史資料センターレファレンスコード(C09112216000)で少尉補時代の山本の成績を一部参照することができる。
  6. ^ 後に榎本武揚が海軍卿を更迭された事もあり、山本は約5ヶ月間の非職から復帰した。
  7. ^ 江藤淳によれば大山巌は、島国の陸軍である以上、まず海軍がよろしいと言うまで、陸軍を大陸に送る作戦は行わないと後々まで発言した。
  8. ^ 司馬遼太郎は、「日本海軍のオーナー」という言葉で評している。
  9. ^ 日露戦争中、陸軍では弾丸が足りなくなるということもあったが、海軍では十分に用意されており、二百三高地では海軍砲を弾丸をつけて陸軍へ貸与することもあった。
  10. ^ 値段はそれ以外の石炭の数倍するが、燃費が良く、煙突から出る煙が白く、対してロシア艦艇は安物の石炭で燃費が悪く、速度が遅くなり、また煙突から黒い煙が出るので、砲撃の目標になり易かった。
  11. ^ このことは後々まで陸軍の反発をまねき、山縣有朋は山本の元老への話が出ても何も言及しなかった。
  12. ^ 開戦派の批判に耐え切れず勝てる見込みもないのに開戦に同意した後の大東亜戦争の海軍首脳と比較して、後に賞賛されることになった
  13. ^ 西郷従道は総理への就任を早くから辞退し、海軍出身の総理はいなかった
  14. ^ これを改悪して、陸軍の横暴を再び発生させたのが広田弘毅であり、後にA級戦犯として処刑された唯一の文官となる要因でないかと、渡部昇一は推測している。もっとも、山本の後継内閣に指名された清浦奎吾は現役武官の海軍大臣が得られず、軍部大臣現役武官制廃止に反対していたこともありに組閣出来ずに大命を拝辞している。詳しくは清浦奎吾鰻香内閣を参照。
  15. ^ 『官報』第534号、大正3年5月12日。伊藤正徳は「大海軍を想う」において、「山本が予備役にならなければ間違いなく元帥になっていたろうし、そうなれば艦隊派条約派の対立も雲行きが変わっていただろう。いかにも惜しかった」と述べている。

出典

  1. ^ 秦 2005, p. 263, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-山本権兵衛
  2. ^ 半藤 2013, 位置No. 400 - 477, 山本権兵衛 - 権兵衛なくして日本海軍なし
  3. ^ 季武嘉也(創価大学教授). “NHK高校講座 | 日本史 | 第33回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展 大正デモクラシー”. 日本放送協会. 2020年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月20日閲覧。
  4. ^ 新村出 編「やまもと - ごんのひょうえ【山本權兵衛】」『辞苑博文館、1935年、2086頁。 
  5. ^ 村上貞一『偉人権兵衛』実業之日本社、1935年、12頁。 
  6. ^ 山本英輔(山本権兵衛の甥、海軍大将)『山本権兵衛』時事通信社、1958年、12頁。 
  7. ^ a b c d 日本大百科全書(ニッポニカ)「山本権兵衛」
  8. ^ 島田謹二 (1988). “秋山真之に関する二つの研究”. 白山英米文学 (東洋大学文学部英米文学科) (13): 10. 
  9. ^ 山本少尉結婚の件東海鎮守府届」 アジア歴史資料センター Ref.C09113152400 
  10. ^ 池田 1993a, pp. 39–40
  11. ^ 大正2年勅令第173号改正。
  12. ^ 永井和 1997, p. 117.
  13. ^ 永井和 1997, p. 117-118.
  14. ^ a b 永井和 1997, p. 120.
  15. ^ 永井和 1997, p. 122.
  16. ^ 永井和 1997, p. 124.
  17. ^ a b 永井和 1997, p. 126.
  18. ^ 永井和 1997, p. 139.
  19. ^ 文学散歩 小説の中の高輪地区 - みなとっぷ
  20. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)337頁
  21. ^ 池田 1987b, pp. 39–40
  22. ^ 『官報』第775号「叙任及辞令」1886年2月4日。
  23. ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
  24. ^ 『官報』第3582号「叙任及辞令」1895年6月10日。
  25. ^ 『官報』第4483号「叙任及辞令」1898年6月11日。
  26. ^ 『官報』第4636号「叙任及辞令」1898年12月12日。
  27. ^ 『官報』第6148号「叙任及辞令」1903年12月28日。
  28. ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。
  29. ^ a b 『官報』第2085号「叙任及辞令」1933年12月12日。
  30. ^ 『官報』第1325号「叙任及辞令」1887年11月28日。
  31. ^ 『官報』第1936号「叙任及辞令」1889年12月10日。
  32. ^ 『官報』第2680号「叙任及辞令」1892年6月6日。
  33. ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
  34. ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
  35. ^ 『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年7月2日。
  36. ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
  37. ^ 『官報』第5593号「叙任及辞令」1902年2月28日。
  38. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
  39. ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
  40. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  41. ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
  42. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  43. ^ 『官報』第5005号「叙任及辞令」1900年3月12日。
  44. ^ 『官報』第5328号「叙任及辞令」1901年4月11日。
  45. ^ a b c 『官報』第7284号「叙任及辞令」1907年10月8日。
  46. ^ 『明治美人伝』長谷川時雨
  47. ^ 秦 2005, p. 226, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-財部彪
  48. ^ 山本英輔『山本権兵衛』(時事通信社「三代宰相列伝」、1958年/新装版「日本宰相列伝6」、1985年)がある。


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