山崎の戦い 山崎の戦いの概要

山崎の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 01:01 UTC 版)

天王山の戦い

山崎合戦の地 石碑(京都府大山崎町)
戦争安土桃山時代
年月日天正10年6月13日1582年7月2日
場所:山崎(摂津国山城国の境)から勝龍寺城一帯
結果:羽柴軍の勝利
交戦勢力
羽柴軍 明智軍
指導者・指揮官
羽柴秀吉
羽柴秀長
黒田孝高
織田信孝
池田恒興
丹羽長秀
高山右近
中川清秀
明智光秀  
斎藤利三 
伊勢貞興 
松田政近 
並河易家
阿閉貞征 
阿閉貞大 
溝尾茂朝
小川祐忠
諏訪盛直
御牧兼顕
戦力
20,000 - 40,000 10,000 - 16,000
損害
3,300 3,000
豊臣秀吉の戦闘

古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、山崎合戦とも呼ばれる。


注釈

  1. ^ 原平内なる者が秀吉の軍の中に毛利軍と間違え飛び込んできた際、彼が体に隠していた手紙から信長の死の情報を入手した[1]
  2. ^ 光秀の本陣は従来大山崎町下植野の境野古墳群にあったと考えられており、現地には大山崎町の設置した「光秀本陣跡」の説明板もある。しかし、2011年に大山崎町に隣接する長岡京市の大阪成蹊大学構内の発掘で大規模な堀跡が見つかり、同市埋蔵文化財センターは、光秀の本陣跡であることがほぼ確実になったとしている[2]
  3. ^ 柴田勝定は柴田勝家の重臣[4]

出典

  1. ^ 『織田信長 天下一統の謎』学研〈歴史群像シリーズ〉、1989年、134頁。 
  2. ^ “「光秀本陣跡」決定的に 秀吉軍防御?の堀跡発見”. 朝日新聞. (2011年8月4日). http://www.asahi.com/culture/update/0804/OSK201108040109.html 2011年9月16日閲覧。 
  3. ^ 松永 1989, p. 123.
  4. ^ 藤田 2003, p. 170.
  5. ^ a b 高柳 1958, p. 247.
  6. ^ a b 高柳 1958, p. 248.
  7. ^ 高柳 1958, p. 249.
  8. ^ a b 高柳 1958, p. 250.


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