山岡鉄舟 山岡鉄舟の概要

山岡鉄舟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/08 06:14 UTC 版)

 
山岡 鐵舟/山岡 高步
時代 江戸時代後期 - 明治時代中期
生誕 天保7年6月10日1836年7月23日
死没 明治21年(1888年7月19日
別名 鉄太郎(通称)、一楽斎(
戒名 全生庵殿鉄舟高歩大居士
墓所 東京都台東区 全生庵
官位 静岡県権大参事、茨城県参事、伊万里県権令侍従宮内大丞、宮内少輔子爵従三位勲二等
幕府 江戸幕府浪士組取締役、精鋭隊歩兵頭格、若年寄格幹事
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
駿河国静岡藩
氏族 小野氏→山岡氏
父母 父:小野高福 母:塚原磯
山岡英子
山岡直記、鈴子(松平定教室)
テンプレートを表示

鉄舟は居士号、他に一楽斎通称鉄太郎(てつたろう、旧字体 鐵太郞)。高歩(たかゆき、旧字体高步)。一刀正伝無刀流(無刀流)の開祖。「幕末の三舟」のひとり。栄典従三位勲二等子爵。愛刀は粟田口国吉や無名一文字。


注釈

  1. ^ 自得院流(忍心流)槍術の勘違いと思われる。泉秀樹『幕末維新なるほど人物事典: 100人のエピソードで激動の時代がよくわかる』(PHP文庫 2003年 ISBN 978-4-569-66020-2)63頁 に見られるが、この書籍は全体に典拠を示さない読み物なので信頼性は低い。
  2. ^ きろこむら、現埼玉県比企郡小川町木呂子。
  3. ^ 小野高福(たかよし 1821 - 1852年)通称朝右衛門(ちょうえもん)は、飛騨郡代(21代 1845 - 1852年[2])、禄六百石の旗本だった。
  4. ^ Web 検索すると五男説が散見されるが、勝部真長『山岡鉄舟の武士道』 p.20、 角川ソフィア文庫 1999年(初出は1971年『武士道―文武両道の思想』角川選書、未確認) に五男とあるのが誤転載の源流と思われる。
  5. ^ 久須美閑適斎は、順三郎祐義といい旗本の次男で、生涯本所大川端の生家に居住し仕官しなかったという。
  6. ^ 山岡静山 やまおかせいざん 1829 - 1855年、名は正視 まさみ、字は子厳、通称は紀一郎。幕臣、高橋泥舟の兄。槍術家として著名。
  7. ^ 「精鋭隊」は徳川慶喜大阪城から逃げ帰った後、その身辺警護のために勝海舟らが旗本の子弟から手練れの剣士70余人を抜擢・組織した護衛隊である。
  8. ^ 後日、鉄舟は大総督府の参謀から呼び出された。鉄舟が出頭すると、村田新八が出てきて言った。「先日、官軍の陣営を、あなたは勝手に通って行った。その旨を先鋒隊から知らせてきたので、私と中村半次郎(桐野利秋)とで、あなたを後から追いかけ、斬り殺そうとした。しかしあなたが早くも西郷のところに到着して面会してしまったので、斬りそこねた。あまりにくやしいので、呼び出して、このことを伝えたかっただけだ。他に御用のおもむきはない」。鉄舟は「それはそうだろう。わたしは江戸っ子だ。足は当然速い。貴君らは田舎者でのろま男だから、わたしの足の速さにはとても及ぶまい」と言い、ともに大笑いして別かれた、という[5]
  9. ^ 宮内省辞職後、鉄舟の住居(旧四谷区仲町三丁目三一番地、現在の新宿区若葉一丁目・学習院初等科付近)の裏手の道場に「春風館」と命名し開いた。
  10. ^ 釈宗活(しゃくそうかつ、1871 - 1954年)は臨済宗の僧侶。俗姓は入沢。別号に輟翁、両忘庵。
  11. ^ 立田英山(たつたえいざん、1893 - 1979年)、耕雲庵を号す。1949年、宗教法人「両忘禅協会」を改組し宗教法人「人間禅教団」設立、初代総裁に就任。
  12. ^ 鉄舟は亡くなる前年の明治20年から健康がすぐれず、勧告に従い「絶筆」と称して揮毫を断るようになったが、ただ全生庵を通して申し込まれる分については例外として引き受けた[10]。しかし、その「例外」分の揮毫だけでも8ヶ月間に10万1380枚という厖大な数にのぼった(受取書が残っている)。またその翌年の2月から7月まで、すなわち亡くなる直前まで、布団の上で剣術道場の建設のために扇子4万本の揮毫をした。鉄舟は、人が揮毫の謝礼を差し出すと「ありがとう」と言って快く受け取り、それをそのまま本箱に突っ込んでおいた。そして貧乏で困窮した者が助けを求めてくると、本箱から惜しげもなくお金を取り出して与えた。しばしばそういう場面を目撃した千葉立造が「先生は御揮毫の謝礼は全部人におやりになるのですか」と訊くと、鉄舟は「わたしはそもそも字を書いて礼をもらうつもりはないが、困った者にやりたく思って、くれればもらっているだけさ」と答えた。こんな具合だったので、鉄舟はずっと貧乏であった。なお千葉立造(ちばりつぞう、1844 - 1926年)は、鉄舟の侍医。立造は通称で名は顕親、愛石(あいせき)と号した。自伝として、千葉立造が口述し三男千葉真一が編纂・出版した『愛石小傳』 1917年 がある。
  13. ^ 圓山牧田 まるやまぼくでん 全生庵三世住職。
  14. ^ 本名 渡辺伊三郎 1865 - 1944年、新潟県の生まれ。
  15. ^ 鉄舟晩年の高弟である小倉鉄樹の口述を石津寛・牛山栄治が筆記・編纂したもの。この書籍の評価は、Anshin Anatoliy 『牛山英治が編纂した山岡鉄舟の伝記について』(千葉大学日本文化論叢 2007年7月1日 no.8 page.1-11)) が参考になる。
  16. ^ 平井正修 ひらいしょうしゅう 1967年生まれ。2002年から臨済宗国泰寺派全生庵第七世住職。

出典

  1. ^ 第2版,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),朝日日本歴史人物事典,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典. “山岡鉄舟とは”. コトバンク. 2021年9月22日閲覧。
  2. ^ 『真宗山元派本山證誠寺史』p.81
  3. ^ 孫三, 佐倉『山岡鉄舟伝』普及舎、1893年5月16日、1頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/782099 
  4. ^ a b 岩下哲典『江戸無血開城―本当の功労者は誰か?』(吉川弘文館「歴史文化ライブラリー」、2018年)
  5. ^ 鉄舟自身が書いた記録「慶應戊辰三月駿府大総督府ニ於イテ西郷隆盛氏ト談判筆記」
  6. ^ a b 水野靖夫『勝海舟の罠―氷川清話の呪縛、西郷会談の真実』(毎日ワンズ、2018年)
  7. ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日
  8. ^ 『官報』第1561号、明治21年9月10日
  9. ^ 官報 明治21年7月20日付「叙任及辞令」 国立国会図書館デジタル官報
  10. ^ 『最後のサムライ 山岡鐵舟』pp189-191
  11. ^ 栗原俊雄『勲章 知られざる素顔』(岩波新書、2011年)、171頁。
  12. ^ 平沼騏一郎回顧録編纂委員会『平沼騏一郎回顧録』(学陽書房、1955年)、171-173頁。
  13. ^ 【ぐるっと首都圏 食べるつながる】埼玉・小川町/忠七めし「日本五大名飯」味わって『毎日新聞』2018年3月5日


「山岡鉄舟」の続きの解説一覧




山岡鉄舟と同じ種類の言葉


固有名詞の分類

江戸幕府旗本 宮原氏  川村修就  山岡鉄舟  宮原義路  依田政次
思想家 クセノクラテス  シャルル・ド・モンテスキュー  山岡鉄舟  ウィリアム・オッカム  円空
剣豪人物 堀部武庸  大坪慶秀  山岡鉄舟  下江秀太郎  吉村貫一郎
日本の能書家 巌谷一六  藤原敏行  山岡鉄舟  高大誦  巻菱湖
日本の子爵 伊東祐亨  片桐貞篤  山岡鉄舟  大関増勤  蒔田広孝
剣客 堀部武庸  浅利義信  山岡鉄舟  武市瑞山  下江秀太郎
幕末徳川側人物 春山弁蔵  松平乗全  山岡鉄舟  間部詮勝  古屋佐久左衛門
幕府陸軍の人物 武田斐三郎  田口卯吉  山岡鉄舟  古屋佐久左衛門  塚原昌義
江戸幕府大目付 大久保一翁  松波正春  山岡鉄舟  依田政次  塚原昌義
茨城県知事 柏田盛文  清棲家教  山岡鉄舟  人見勝太郎  江木千之

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山岡鉄舟」の関連用語

山岡鉄舟のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山岡鉄舟のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山岡鉄舟 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS