山口百恵 山口百恵の概要

山口百恵

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やまぐち ももえ
山口 百恵
本名 三浦 百惠(みうら ももえ)
(旧姓:山口)
別名義 横須賀 恵(よこすか けい)
(作詞時のペンネーム)
生年月日 (1959-01-17) 1959年1月17日(62歳)
出生地 日本 東京都渋谷区恵比寿
出身地 日本 神奈川県横須賀市[1]
身長 158cm
血液型 A型
職業歌手、元女優
ジャンル テレビドラマ
映画
歌謡曲
活動期間 1973年 - 1980年
配偶者 三浦友和(1980年 - )
著名な家族 三浦祐太朗(長男)
三浦貴大(次男)
牧野由依(義娘)
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本名は三浦 百惠(みうら ももえ、旧姓:山口)で、芸能界引退後に三浦百恵名義で作詞を行っている。夫は俳優の三浦友和1980年11月19日結婚)。長男はシンガーソングライター・俳優の三浦祐太朗。次男は俳優の三浦貴大

以下、氏名の表記は特記を除き「百恵」で統一する。

略歴

生い立ち

東京都渋谷区に生まれる[2]横須賀市立鶴久保小学校卒業。横須賀市立不入斗中学校[3]時代に、スター誕生!に出場。日出女子学園高等学校卒業。

父親には別の家庭があり、子供もいた。戸籍には「認知」の2文字が置かれていた。百恵がこの事実を知ったのは、高校へ入学してすぐであった。既に芸能界入りしており、週刊誌が戸籍謄本を「出生の秘密」と題して掲載した。百恵は父について「私には、父はいない。一つの肉体としてのあの人が地球上に存在していたとしても、私はあの人の存在そのものを否定する。」(『蒼い時』)と記している。幼少時を神奈川県横浜市瀬谷区、4歳のときから中学生でデビューするまで横須賀市瀬谷で過ごした。世帯数4世帯の木造アパートの2階が住居で風呂は共同風呂であった。父が来るときは、常に大きな黒い鞄を持ってやってきて滞在した。父は異常なまでに百恵を可愛がり、欲しいものは何でも買い与え、どこへでも行きたい場所に連れて行った。しかし、金銭的にルーズで、母は何度も裏切られる場面を目にするようになり、母の内職により生活が支えるようになっていった。母は、高校の入学金の工面を父に相談したが、受け入れられなかったことで子供を差別したという理由で父との別離を決心した。中学校の入学直前の春には、父が目の前に立ちはだかり、「中学に入ったからといって、ボーイフレンドとか何とか言って、男と腕でも組んで歩いたりしたらぶっ殺すからな」と言われる。この時の、娘を娘としてでなく、自分の所有する女を見る動物的な不潔な視線が、百恵を父から隔絶した[4]

芸能界デビュー

1972年12月、オーディション番組『スター誕生!』で、牧葉ユミの「回転木馬」を歌い準優勝[4]20社から指名を受ける。百恵はこのとき「発表を聞く前に、私は歌手になれることをはっきり確信していた」という。同番組への応募のきっかけは、同い年の森昌子がテレビで活躍しているのを見て「自分も森昌子さんのようになりたい」と思ったことだった。この決戦大会出場時の映像は現存していない。なお、後に「花の中三トリオ」を組むことになる桜田淳子も、同年に同じ『スター誕生!』で牧葉ユミの曲「見知らぬ世界」を歌って合格していた。

1973年4月14日、映画『としごろ』に出演し、5月21日に同名の曲で歌手としてもデビュー。森昌子・桜田淳子と共に「花の中三トリオ」と呼ばれた。デビューのキャッチコピーは「大きなソニー、大きな新人」。1973年5月20日、デビュー曲の発売される前日にさいか屋横須賀店の屋上にあるステージで、地元でのお披露目として「としごろ」を歌う。デビュー曲の「としごろ」は、スタッフの期待以下のセールスに止まったため、第2弾の「青い果実」ではイメージチェンジを図り、大胆な歌詞を歌わせる路線を取った。それは1974年の「ひと夏の経験」の大ヒットで大きく花咲くこととなった。これは「青い性路線」(「性典ソング」)と呼ばれるようになり[4]、年端のいかない少女が性行為を連想させるような際どい内容を歌うという、この「青い性」路線で百恵は絶大な人気を獲得することになる。

「ひと夏の経験」を歌っていた時期のインタビューでは「女の子の一番大切なものって何だと思いますか」とたいてい質問されたが、百恵は全て「まごころ」で通していた[4]。歌詞の内容は際どかったが、辺見マリ夏木マリ、あるいは1970年代に復活した山本リンダなどのセクシー路線の歌手と違い、百恵は年齢が低くビジュアル面では純朴な少女というイメージだった。歌とビジュアルのギャップ、それに伴うある種の背徳感が、百恵の人気を独特なものにしていったと言われる。これは百恵の芸能人としての資質によるだけではなく、所属事務所やレコード会社による周到なイメージ戦略の賜物でもあった。CBSソニーのプロデューサー酒井政利は「青い果実」をリリースする際、作詞家の千家和也に対して「より過激な表現」を求めつつ、「中学生にこんな歌詞を歌わせていいのか」と自問したものの、「ストレートに表現することも一つの行き方だ」と思い直したという。その後、千家・都倉コンビが作った楽曲は45曲に及ぶ。

同曲が大ヒットした1974年には文芸作品の名作『伊豆の踊子』に主演し、演技でも評価を得る。この映画で共演した相手役の三浦友和とはグリコプリッツCMでこの年の夏に共演済であった。『伊豆の踊子』は一般公募で相手役を募集したが、このグリコCMを観た『伊豆の踊子』の監督・西河克己が最終選考の中に三浦の書類を入れたと言われている。三浦とはその後もテレビドラマやCMでも共演して共に絶大な人気を博し、2人は「ゴールデンコンビ」と呼ばれた。

百恵の映画初出演はレコードデビュー前にホリプロが制作した『としごろ』(和田アキ子、森昌子主演)で、新人の顔見せとしての出演だったが、『伊豆の踊子』以降、映画13作で主演。そのうち12作は三浦との共演である。「映画に関するかぎり製作者は彼女をリメイク女優以上に認識していなかった。にもかかわらず西河は『霧の旗』で、驚異的なまでのファム・ファタールぶりを彼女に演じさせた」[5]。しかし1978年にはファンからの声の大きかった初のオリジナル作品『ふりむけば愛』がコンビ出演のグリコCMを撮り続けていた大林宣彦監督の演出で製作され、翌年にもコンビ主演10作品記念としてオリジナル作品『ホワイト・ラブ』が小谷承靖監督で製作された。なお、これらの映画は東宝配給ながらすべて日活撮影所で製作され、監督やカメラマンも西河ら日活出身者が大部分を占めることもあり、往年の日活青春映画、文芸映画の後継的な意味合いも持っている。最後の引退記念作品『古都』もやはり日活製作であり、東宝からカメラマンの長谷川清ら数名のスタッフを連れて20年ぶりに日活撮影所に乗り込んだ市川崑監督は、馴染みの薄いスタッフを粘りに粘って叱咤し引退作を撮りあげた。市川は以前に何度か自分の作品に百恵の出演を依頼していたが、ホリプロサイドから断られており、この最後の作品で監督を務める喜びを制作記者会見で語っている。

テレビドラマでの初レギュラー出演は1973年10月スタート、大映テレビ制作TBS系の「顔で笑って」。この作品で宇津井健との親子役が始まり、以降宇津井健を公私共に「お父さん」と慕った。1974年10月からはTBSのテレビドラマ『赤いシリーズ』(いわゆる大映ドラマ)に主演し、『赤い疑惑』『赤い衝撃』では三浦友和と共演。高い人気を集め、シリーズは6年にも及び、百恵のレギュラー出演作品は『赤い絆』引退記念作品の『赤い死線』まで6作品にもなった人気ドラマとなる[1]

1976年リリースのシングル『横須賀ストーリー』から阿木燿子宇崎竜童夫妻の作品を歌って新境地を開いた。なお実際にはそれ以前にも、『横須賀ストーリー』の2か月前に発売されたオリジナル・アルバム『17才のテーマ』に収録の「木洩れ日」「碧色の瞳」「幸福の実感」の3曲で宇崎夫妻の提供曲を歌っている。その後、宇崎夫妻の提供曲はシングル、アルバムを合わせると69曲に及んだ。宇崎夫妻が手掛けた作品は大ヒットの連続で、百恵の世界を決定的に形作った。この2人を作家として指名したのは周囲のスタッフではなく百恵本人だった。

1977年日本武道館で行われた第6回東京音楽祭で外国人アーティストが多数出演・受賞する中、日本人歌手として楽曲「夢先案内人」で銅賞を受賞した。

1978年の『第29回NHK紅白歌合戦』で紅組トリを務める。白組の沢田研二と共にポップス歌手のトリは番組初のことで、10代の歌手が紅白のトリとなったのも百恵が初で、最年少記録は破られていない。ホリプロが東京都目黒区に建てた自社ビルは、百恵の成功によるところが大きいことから「百恵ビル」と呼ばれることもある。

1979年には、評論家の平岡正明が『山口百恵は菩薩である』を著すなど、多くの文化人に「現代を象徴するスター」として語られた。写真家の篠山紀信は百恵のデビュー当時から被写体として何万枚も撮り続けたが、たびたび印象的な写真を発表して注目を集めた。1970年代に篠山が最も多く撮影した女性は百恵であるが、篠山は「それは時代が山口百恵を必要としていたから」として、百恵を「時代と寝た女」と評した[1]

年代別プロマイド(ブロマイド)売上では、1974年 - 1980年のベスト10にランクインし、特に1976年は女性1位となった。

人気作詞家だった阿久悠は『スター誕生!』の審査委員長を務めていたが、同番組出身である百恵には作品を一切提供していなかった。その理由のひとつとして「当時は桜田淳子に(詞を)書いていたから、同系統の歌手には書かないことにしていた」と阿久自身は述べている[6]。2008年に日本テレビ系で放送されたドラマ『ヒットメーカー 阿久悠物語』では、『スター誕生!』のテレビ予選で百恵に対して阿久が「青春ドラマの妹役のようなものならいいけれど、歌は諦めた方がいいかもしれない」と評したことで[4]、「そのことに傷ついた百恵は作品の提供を阿久に求めなかった」という話に脚色されているが、あくまでもドラマ上での脚色で、阿久自身は著書『夢を食った男たち』で、前述のオーディションでのエピソードについて記した上で、自身も百恵のファンであることと、百恵の魅力についても倉本聰との対談を差し挟んで語っている。

婚約発表・芸能界引退

1979年10月20日大阪厚生年金会館のリサイタルで「私が好きな人は、三浦友和さんです」と、三浦との恋人宣言を突如発表する。その後三浦も記者会見で「結婚を前提にして付き合っています」と語った。

そして、翌1980年3月7日には三浦との婚約発表と同時に、「我儘な…生き方を私は選びました。(中略)お仕事は全面的に引退させて頂きます」と芸能界引退を公表する。その一方で、迫り来る引退を視野に入れた形でのレコードのリリースや公演の予定を発表。1975年ザ・ピーナッツで始まり、1978年に解散のキャンディーズで定着した引退記念興行が大々的に展開されることになった。

引退直前の同年9月に刊行された自叙伝『蒼い時』は、複雑な生い立ち、芸能人としての生活の裏面に加え、恋愛や三浦との初体験についても赤裸々につづられており、発売から1か月で100万部を超え、12月までに200万部を超える大ベストセラーになった。巻末のあとがきには百恵自身の万年筆による手書き原稿が印刷されている。また、同書の仕掛け人である出版プロデューサーの残間里江子にも注目が集まった。写真撮影は立木義浩。引退後の翌1981年に文庫化されている。

1980年10月5日に日本武道館で開催されたファイナルコンサートは、当日にTBSで生放送され、案内役は『ザ・ベストテン』の司会者である久米宏が担当した。会場に殺到したファンに対して「私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」とメッセージを言い残し、そして最後の歌唱曲となった「さよならの向う側」で堪えきれずに、涙の絶唱となり、涙がこぼれても拭わずにあごから涙をぽたぽた落としながら歌った。歌唱終了後、ファンに深々と一礼をした百恵は、マイクをステージの中央に置いたまま、静かに舞台裏へと歩んで立ち去った。この「最後にマイクを置く」という演出は振付担当の西条満の考案で、今では伝説的なアクションとして語り継がれ、さまざまな番組などで真似されている。

ファイナルコンサートの翌日である10月6日には、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)にて引退特集番組が放送された。司会者の芳村真理井上順のほか、百恵と同じホリプロ所属の先輩だった和田アキ子、中三トリオの桜田淳子と森昌子、女性歌手仲間として仲が良かったアン・ルイス岩崎宏美太田裕美小柳ルミ子高田みづえピンク・レディー、男性歌手では五木ひろし・沢田研二をはじめ「新御三家」の郷ひろみ西城秀樹野口五郎などが、百恵の最後の雄姿を見守った。そのほかにも、番組のフィナーレ前には五木ひろし研ナオコ沢田研二ら歌手仲間が登場、特にジュディ・オングから花束を受け取る際に百恵は感極まって涙を見せた。また、漫才コンビの青空球児・好児、プロデューサーの酒井政利やディレクターの川瀬泰雄ら仕事仲間の大勢も駆け付けた。この放送は後に『山口百恵 in 夜のヒットスタジオ』として2010年6月30日にDVDが発売されている。百恵と親しい間柄でもあった芳村はこの回の放送について、「いつもはスタッフ達の怒声も飛び交い、賑やかなスタジオであるはずが、この時はとても静かで、感動的だった」「番組の放送が終わった後も、皆去るのが辛く、VTRも回しっぱなしでお別れ会が続いた」と放送時のスタジオの様子を語っている。

現役歌手として最後のテレビ生番組出演は、10月13日放送の『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』である。日本テレビNTV紅白歌のベストテン』の特別番組として放映された。

正式な芸能活動の完全引退は、10月15日のホリプロ20周年記念式典で、その時に歌った曲は「いい日旅立ち」である。式典の後同ホテル内において午後8時半過ぎに引退記者会見が開かれたが、記者の多さから開始直後に、前列にいた100名近いスチール用カメラマンと後方のビデオカメラマンとの間で揉める場面もあり、中断しかねない状態となった。この会見はこの当日放送された『水曜スペシャル特番 山口百恵 今夜 旅立ち!』(テレビ朝日)で番組の終わりに一部生放送され、これが芸能人として事実上最後のテレビ生出演となった。

引退時は21歳(22歳の誕生日の約3か月前)で、芸能人としての活動はわずか7年半ほどだった。引退までにシングルは31作の累計で1,142万枚、1970年代に最もレコードを売り上げた歌手であった[7]

オリコンシングルチャートにおいて、1973年6月4日付でデビューシングルの「としごろ」が75位に初登場してから1981年3月2日付で32枚目のシングルの「一恵」が96位にランクインするまで、405週連続で100位以内にチャートインし続けた[8]。オリコンアルバムチャート(レコードのみ)において、引退後の1989年時点でアーティスト別セールス13位(251万枚)、TOP10総登場週数16位、TOP100総登場週数11位、と70年代アイドル歌手(男女共に)では最も上位にランキングされている[9]

現役時代にはホリプロとの確執があり、『蒼い時』でも意見の相違により社長の堀威夫と衝突があったと振り返っている。当時の制作部長であった小田信吾とともに独立するつもりであったが、ホリプロ側が小田を説得して独立を阻んだため引退を決意したとの見解もある。もし独立が成功していれば三浦との結婚がなかったかもしれず、女優としてその後も活躍していた可能性があったとの見方もある[10]

結婚

結婚式は1980年11月19日に、東京都港区赤坂の日本基督教団霊南坂教会にて飯清牧師を務め、披露宴は東京プリンスホテル・鳳凰の間で招待客1,800人が出席して行われた[11]。仲人は宇津井健夫妻で、友和側の主賓は東宝社長の松岡功(息子は松岡修造)、百恵側の主賓はCBSソニー会長の大賀典雄がそれぞれ務め、百恵の父親代わりはホリプロの堀社長が務めた。披露宴の司会はメインが岡田真澄、サブが徳光和夫(当時日本テレビアナウンサー)であった。

引退後

引退後も常にマスコミやファンからの注目を集めているが、一貫して芸能界とは距離を置いており、原則としてマスメディアへの出演はしない。ただし、長男出産後の記者会見に三浦と共に出席したことはあるほか、『3時のあなた』(フジテレビ)より取材を受け、その模様が同番組で放映されたことがある。また作詞家として作品を提供したことがあり、1982年にアン・ルイスに提供した「ラ・セゾン」がヒットしている。

引退直後の1980年の『第31回NHK紅白歌合戦』では「人気アンケート」で4位だったため番組側は出演交渉を行ったが、本人からは「既に引退しましたので辞退します」との回答があり出場はなかった[12]2000年の『第51回NHK紅白歌合戦』、2005年の『第56回NHK紅白歌合戦』でも番組側は出演交渉を行ったというが出演はなかった。

家庭に入ってからは2人の息子をもうけた。2人が小学校に在学中だった1994年、テレビドラマ『スウィート・ホーム』(TBS)について「内容が事実と異なり、保護者に対する誤解を与えるため、内容の訂正と『お受験』という言葉の使用中止を求める」という趣旨の嘆願書が、小学校受験を行った保護者たちからTBSに送られた際には署名者の1人となっている[13]。それまでほとんど使われなかった「お受験」の語は、このドラマがきっかけで流行語になった。(小学校受験#批判も参照)。

1987年頃から独学でキルト製作を始め、のちにキルト作家の鷲沢玲子に師事して作品を作り続けている[14]。作品が「東京国際キルトフェスティバル」等の展示会に出品されることもあり、2019年には日本ヴォーグ社から三浦百恵名義でキルト作品集『時間の花束』を出版し、39年ぶりの著書となった[15]

自宅に不審者が押し入る事件も発生したが、大事もなく解決している。夫の三浦によれば、プライバシーが脅かされる生活に対し、百恵は「私は、これ以上芸能界にいたことを後悔したくない」と漏らしたという。長男の通園に備えて自動車教習所に通い始めた頃には、教習所の周りを百恵を狙ったカメラマンが囲んだため苦悩したという。夫が人権擁護局に助けを求めた翌日には、同局の注意喚起によりカメラマンは一人も来なくなった。しかし長男の入園式の時に同局に対応を要請した際は担当者に断られ、結局マスコミが自宅や幼稚園を取り囲む取材攻勢の中を強行突破する形となり[16]、さらには車内の子供に対し強引にレンズを向けたため子供が怯える騒ぎとなった。あまりの横暴に百恵は激怒、車を降りてカメラマンに平手打ちまでしたという。この出来事は翌週の週刊誌各紙に掲載された。

節目ごとに多くのベスト・アルバムが発売されている。デビュー30周年にあたる2003年には未発表曲1曲を含む24枚組CD-BOXMOMOE PREMIUM』が発売され、このヒットによりブームが再燃した。

1980年のシングル『謝肉祭』は、歌詞の中で連呼する「ジプシー」という言葉が差別用語であるとして、1990年代後半以降はレコード会社が発売を自粛した。このためベスト盤CDやファイナルコンサートのDVD『伝説から神話へ -BUDOKAN…AT LAST-』も不完全な形で発売されるようになった。しかし2005年5月25日発売の『コンプリート百恵回帰』(全曲新アレンジで構成)に収録されたのをきっかけに、2006年1月18日発売のライブCD-BOX『MOMOE LIVE PREMIUM』に納められたファイナルコンサートのCD及びDVDには「謝肉祭」を含むノーカット版が収録された。そして当時のシングル・バージョンも2007年7月20日発売の廉価版CD『山口百恵ベスト・コレクション VOL.2』に収録され、9月30日に『MOMOE PREMIUM』の改訂盤として通信販売限定で発売された『Complete MOMOE PREMIUM』および『MOMOE PREMIUM update』にも収録され完全復活を果たした。

引退25年・ホリプロ創立45年にあたる2005年、百恵の楽曲を使用したトリビュートミュージカル『プレイバックPart2〜屋上の天使』が上演された。

2020年6月、『女子SPA!』は同ウェブサイト上で、「去り際(引退)がいさぎよかった女性5選」の1人として百恵を選出して掲載した[17]

ストリーミング配信

引退から40年を迎えた2020年5月29日、音楽サブスクリプションサービス上で、600曲以上の楽曲のストリーミング配信を開始した[18][19][20][21]

エピソード

  • 百恵はデビュー前から西城秀樹の大ファンであった。デビュー後も実家の部屋には自身と西城のポスターを貼っていた。映画『としごろ』で共演を果たす。
  • 郷ひろみは「アイドル時代にマネージャーや周囲の目を盗み、山口百恵に電話番号を渡したが相手にされなかった」と語っている。当時既に夫となる三浦と交際し、結婚を意識していた百恵にすれば眼中にもなかったと言われている。
  • 同じ横須賀市出身のシンガーソングライター渡辺真知子と親交があり、百恵の結婚式に渡辺真知子も出席している。
  • 新婚当時は友人をよく自宅に招いた[22]。招待されたのは桜田淳子岩崎宏美アン・ルイス桑名将大夫妻、江藤潤夫妻など[22]
  • お笑い番組が大好きで、新婚当時も『THE MANZAI』や『お笑いスター誕生!!』などをビデオで録画し、夫婦で何度も見ていた[23]。百恵の引退と漫才ブームの勃興は同時期に当たるが、漫才ブーム時はB&Bの大ファンで[22]、引退前はB&Bの名誉会員だった[22]。これを知ったB&Bの島田洋七が「百恵さんに歌ってもらいたい」と作詞をし、本人に歌唱を頼むつもりでいたが[22]百恵が引退してしまい、商魂逞しいトリオレコードがこれに目を付け[22]、作詞を洋七、作曲を森田公一に頼み、百恵に似た声を持つ歌手を探して歌入れし、1982年1月に歌・MOMOE名義で「恋愛専科」というレコードをリリースした[22]。レコードチラシには「数々のヒット曲を世に残して去って行ったモモエ、遂に彼女の未発表曲が発見された!!あの懐かしい歌声が再び甦る!」などと書かれた引っ掛け商法で[22]、声もそっくりで百恵と信じて買った人もいたといわれる[22]
  • 長男・祐太朗の妻である牧野由依とはLINE友達である。
  • 山田洋次監督は百恵を自分の映画に出演させたいとの希望があり、実際『幸福の黄色いハンカチ』や『男はつらいよ』のマドンナ役を事務所へオファーしたが、スケジュールなどの問題があり断られている。結局、引退まで山田洋次監督の作品に出演することはなかった。

注釈

  1. ^ a b 1978年に百恵自身の歌唱で発表しており、厳密には楽曲提供のみ行ったわけではない。
  2. ^ 多くのデータベースで「11月23日公開」と記されているが全くの誤りである。
  3. ^ 有楽座にて特別先行上映。全国公開は12月20日から。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j 『別冊宝島2551 日本の女優 100人』宝島社、2017年、98頁。ISBN 978-4-8002-6889-1
  2. ^ a b “山口百恵…70年代を代表するアイドル”. 日刊スポーツ. (2009年1月15日20時35分). https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20090115-450447.html 2020年10月4日閲覧。 
  3. ^ 大場弘行 (2014年12月31日). “『おんなの時代:山口百恵さんの「原点」横須賀を歩く”. 毎日新聞. https://mainichi.jp/articles/20141231/mog/00m/040/014000c 2020年10月4日閲覧。 
  4. ^ a b c d e 山口百恵『蒼い時』集英社1981年
  5. ^ 四方田犬彦『日本映画史110年』(集英社新書 2014年p.199)。
  6. ^ 「独占公開! 山口百恵 ピンク・レディーの真実“スター誕生”物語」日本テレビ『スーパーテレビ情報最前線』、2000年11月20日放送
  7. ^ 紙面復刻: 1995年7月13日 (この道 500人の証言185・山口百恵その1)、nikkansports.com、2010年3月30日6時54分
  8. ^ オリコン・ウィークリー編『小池聡行のオリコンデータ私書箱』オリジナルコンフィデンス、1991年、124-125頁。ISBN 4871310272
  9. ^ 『オリコン チャートブックLP編 昭和45年 - 平成1年』オリジナルコンフィデンス発行、1990年、356-360頁。ISBN 4871310256
  10. ^ a b 別冊宝島2551『日本の女優 100人』p.94.
  11. ^ 山口百恵と松田聖子の結婚で決定的に違ったものとは? アイドルと“結婚”というタブーの歴史”. 時事ドットコム (2020年11月19日). 2020年12月19日閲覧。
  12. ^ 合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』
  13. ^ 女性セブン』1994年3月1日号
  14. ^ 鷲沢玲子 三浦百惠さんにキルトを教えて32年。針と糸が縁をつないだ 婦人公論、2019年11月20日
  15. ^ 百恵さん、キルト作家として作品集 39年ぶりの著書” (日本語). 朝日新聞デジタル. 2019年6月7日閲覧。
  16. ^ 三浦友和『被写体』
  17. ^ 渡辺麻友の引退で振り返る「去り際がいさぎよかった女性」5選(2/2)「山口百恵 人気絶頂期に21歳で引退」”. 女子SPA! 編集部 (2020年6月7日). 2020年6月8日閲覧。
  18. ^ 引退から40年、山口百恵の600曲以上サブスク解禁”. 音楽ナタリー (2020年5月29日). 2020年5月29日閲覧。
  19. ^ 山口百恵ついにサブスク解禁 600曲以上が一斉に 人気絶頂期の引退から40年”. オリコンニュース (2020年5月29日). 2020年5月29日閲覧。
  20. ^ 引退から40年、伝説の歌姫・山口百恵の600曲以上におよぶ楽曲が遂にサブスク解禁!”. 時事通信 (2020年5月29日). 2020年5月29日閲覧。
  21. ^ 引退から40年、伝説の歌姫・山口百恵の600曲以上におよぶ楽曲が遂にサブスク解禁!”. ソニー・ミュージックダイレクト (2020年5月29日). 2020年5月29日閲覧。
  22. ^ a b c d e f g h i 「追跡 話題人間! 百恵さんもびっくり!? モモエが歌う幻の新曲騒動 声も歌い方もそっくり! 『本物だ』と信じて疑わない人もいて…」『週刊明星』1982年1月28日号、集英社、 34-35頁。
  23. ^ 「休日には夫婦でお菓子作り 新婚のあま~い味が最高! 三浦友和・百恵の新婚生活ご拝見!」『近代映画』1981年7月号、近代映画社、 140頁。
  24. ^ 山口百恵のDVD作品”. オリコン芸能人事典. オリコン. 2021年6月12日閲覧。


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