尾張藩 藩校

尾張藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 02:12 UTC 版)

藩校

支藩・御連枝

支藩としては陸奥梁川藩美濃高須藩がある。

梁川松平家(大窪松平家)

親藩御連枝 3万石

  1. 義昌(よしまさ)〔従四位下、出雲守・少将〕 尾張藩主・徳川光友の子
  2. 義方(よしかた)〔従四位下、出雲守・少将・侍従〕
  3. 義真(よしざね)〔従四位下、式部大輔・侍従〕
  4. 通春(みちはる)〔従五位下、主計頭・侍従〕 尾張藩主徳川綱誠の子 後、尾張藩主・徳川宗春となる

江戸上屋敷を四谷大窪に置いた。

高須松平家(四谷松平家)

  1. 義行(よしゆき)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕 尾張藩主・徳川光友の子・母は3代将軍徳川家光の長女千代姫
  2. 義孝(よしたか)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕 尾張藩主・徳川綱誠の子。叔父義行の養子となる
  3. 義淳(よしあつ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕→尾張藩主・徳川宗勝となる。 川田窪松平友著の嫡男。義孝の養子となり、後に尾張藩8代藩主となる。
  4. 義敏(よしとし)〔従四位下、左近衛権少将兼中務大輔〕
  5. 義柄((よしとも)〔従四位下、侍従兼摂津守〕→ 尾張藩主・徳川宗睦の養子となり徳川治行となる。
  6. 義裕(よしひろ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕
  7. 勝当(かつまさ)〔従四位上、左近衛権少将兼弾正大弼〕
  8. 義居(よしすえ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕 一橋家・徳川治済の子。
  9. 義和(よしより)〔従四位下、左近衛権少将兼中務大輔〕 水戸藩主徳川治保の子。
  10. 義建(よしたつ)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕
  11. 義比(よしちか)〔従四位下、左近衛権少将兼摂津守〕→尾張藩主・徳川茂徳となる。
  12. 義端(よしまさ)〔早世のため無位無官〕
  13. 義勇(よしたけ)〔従五位〕
  14. 義生(よしなり)〔従五位〕

川田窪松平家

  • 徳川光友の十一男・松平友著が元禄6年(1693年)、5000石を内分される。翌元禄7年(1694年)にはさらに1万石を内分され、正徳元年(1711年)に分家独立する。市ヶ谷川田窪に江戸屋敷を構えた。定府。享保17年(1732年)、子の松平友淳が高須松平家を継ぎ断絶。
  1. 松平友著(ともあき)〔従五位下、但馬守〕 尾張藩主・徳川光友の庶子
  2. 松平友淳(ともあつ)〔従五位下、但馬守〕→高須藩主・松平義淳→尾張藩主・徳川宗勝となる。

家臣団

江戸下屋敷 尾張藩の家臣団は、幕府より附属された者、甚太郎衆や新参衆などの松平忠吉の遺臣、甲斐時代に義直に仕えた者、尾張藩成立後に取り立てられた者、平岩親吉の遺臣らで構成された。幕下御附属衆の6氏(成瀬、竹腰、渡辺、石河、山村、千村)は将軍徳川家康または将軍徳川秀忠の命によって尾張藩に附属され、代々将軍に拝謁する資格を所持した家柄だった。御附属列衆も幕臣から尾張藩に附属された者であるが、こちらは将軍への拝謁資格はなかった。

幕下御附属衆

このうち成瀬・竹腰の2家が狭義の御附家老で、「両家年寄」と称する。

重臣

  • 志水家(尾張大高1万石・家老・藩主外戚)
    石清水八幡宮社人・紀姓田中氏の分家。初代宗清は徳川義直の外祖父(生母・お亀の方の父)。
    志水宗清 - 忠宗 - 忠政 - 忠継 - 宗秀 - 忠休 = 忠梁 - 忠如 - 忠珍 - 忠喬 - 忠受 - 忠勤 = 忠厚 = 忠受(再襲) - 忠賢 - 忠平

上記の成瀬・竹腰・渡辺(半蔵)・石河の4家に、志水を加えた5家を「万石以上」の格式とし、渡辺(半蔵)・石河・志水の3家が年寄(家老)に就任した場合は、「万石以上年寄」と称する。

  • 滝川家(藩内6000石・家老、御附属列衆)
    旧姓木全氏、元滝川一益重臣。一益の改易後、秀吉・家康・秀忠に仕え、元和2年(1616年)、家康の遺命により徳川義直に附属した。
    滝川忠征 - 時成 - 征成 - 時令 - 善成 - 忠栄 - 忠厚 - 忠暁 - 忠攄 - 忠雄 - 忠学
  • 山澄家(藩内5000石・城代家老、瑞公御部屋新参衆)
    伊勢国司北畠支流・川方氏の末裔
    山澄英龍 - 英重 = 英貞 = 龍豊 - 龍明 - 豊尚 = 龍騰
  • 毛利家(毛利源内、美濃八神2000石、美濃中島郡預地支配、尾張衆)
    源義家六男、源義隆の末裔。「家柄に付代々無役」とされ、原則として藩の役職には就かなかった。尾張藩主から所領安堵の黒印状を与えられたことはなく、寛延3年(1750年)以降に[14]幕府から預地の支配も任されていることから、尾張藩士と同時に幕臣でもあったとされる。[15]1.美濃国中島郡を本領とし、2.土岐氏斎藤氏・信長・秀吉・家康に仕えた後に、家康の命で徳川義直に附属した、3.松平忠吉の家臣であったことはない源姓毛利氏が尾張衆に分類されていることについては、疑問視する見解もある。[16]
    毛利広盛 - 広義 - 広豊 - 広尚 - 広説 - 頼容 - 広直 - 広吉 - 広居 - 広賢 - 広貫
  • 生駒家(尾張小折4000石・家老、尾張衆)
    織田信長側室織田信忠生母生駒夫人の実家
    生駒利豊 - 利勝 - 宗勝 - 致長 - 致稠 - 周房 - 周邑 - 周詢 - 周武 - 周晃 - 周行 - 以後存続
  • 横井家(尾張赤目4000石、尾張衆)
    鎌倉幕府執権北条氏北条高時の遺児北条時行の末裔
    横井時泰 - 時安 - 時峰 - 時盛 - 時真 - 時尹 - 有時-時宣 - 時保
  • 澤井家(2500石、尾張衆)
    澤井元慶 - 元重 - 元智 - 元旭 - 元倚 - 元照 - 元矩 - 元算 - 元寛 - 元俊 - 繁蔵 - 馬次郎
  • 阿部家(4000石、元松平忠吉家老、甚太郎衆)
    阿部正興(阿部正勝三男) - 正致 - 正治 - 正寛 - 正恭 - 正茂 - 正嘉 - 正長 - 正信 - 正直 - 正傷
  • 肥田家(藩内2000石、城代家老、駿河新参衆)
    肥田孫左衛門-土岐肥田氏の分流
  • 間宮家(3000石、駿河新参衆)
    初代正等は旗本間宮之等の子。
    間宮正等 - 之政 - 之峯 - 之惟 - 正業 - 正統 - 正萬
  • 水野家(尾張河和1460石、駿河新参衆)
    河和城主戸田守光の子・光康が、紆余曲折の後、母が水野信元の娘であった縁で水野姓を称し、慶長6年(1601年)、河和に復帰した。
    戸田守光 - 水野光康 - 政康 - 伊頼 - 康寛=康村(康寛の甥) - 康友 - 康般 - 康民 - 康功 - 康年
  • 千賀家(尾張師崎1400石、船奉行、篠島日間賀島代官、清洲新参衆)
    佐治氏重臣。慶長11年(1606年)、家康直轄領であった知多郡が松平忠吉に加増されたときに、転封をよしとせず、忠吉に附属替えとなった。
    千賀信親 - 貞信 - 信直 - 信賢 - 著信 - 方信 - 武信 - 補信 - 信立
  • 大道寺家(藩内4000石・城代家老。当初2000石→大坂の陣後に2500石)
    大道寺直重(元・松平忠吉付属。小田原北条氏家臣大道寺政繁次男) - 直時-直治 - 直秀 - 直澄 - 直長 - 直長 - 直方 - 直寅 - 直良 - 直近 - 直之
  • 織田家(藩内4000石・国家老 慶安以後新参衆)
    織田貞幹織田信長の曾孫) - 長恒 - 貞辰 - 信傅 - 信庸 - 信建 - 信重
  • 荒川家(1200石、忍新参衆)
    荒川義広 - 家義 - 弘秋 = 吉政 - 義任 - 頼廉 - 頼資 - 頼標 - 頼忠 - 頼敏 - 頼重 - 蔵主 - 鑯弥

注釈

  1. ^ 水戸藩と分家の額田藩でない県南と鹿行も含めると常陸で59件(木村由美子『茨城の百姓一揆と義民伝承』(筑波書林)
  2. ^ うち2件は紀伊徳川以前の浅野幸長・長晟の北山一揆・紀州一揆(日高一揆)
  3. ^ 『百姓一揆の発生地と件数』出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
  4. ^ 尾張藩『角川日本地名大辞典(旧地名編)』
  5. ^ 大規模な死者がでた例としては、寛文年間以降に、決起したキリシタンが数百人単位で名古屋の千本松原などに埋められた「濃尾崩れ」、明治維新後に、3万人以上が参加し百姓側に多くの死傷者が出た「稲葉騒動」が起きている。
  6. ^ a b 『圓覺院様御伝二十五箇条』近松茂矩記
  7. ^ 吉宗から三か条の詰問を受けたにもかかわらず、宗春は無視して政策を推し進めたとする説もあるが、吉宗から咎めを受けたという公式記録は存在していない。
  8. ^ 『徳川実紀』
  9. ^ 徳川義直『軍書合鑑』
  10. ^ 『一条兼香公記』には、紀州藩を批判し、尾張藩を持ち上げる記述が散見される。
  11. ^ 第4代藩主吉通の長女信受院千姫は、五摂家の九条家に嫁ぎ、その血筋は多くの家に繋がっていき、現在の皇室とも繋がっている。また、御附家老竹腰家にも第2代藩主光友の血筋は伝わっている
  12. ^ 公文書において官が低く位が高いときは、位・官の間に「」の字を入れる。大納言は正三位に相当。
  13. ^ [1]
  14. ^ 梶川勇作「尾張藩における「給人領」とその給人(後編)」(『金沢大学文学部論集 史学・考古学・地理学篇』18号、1998年)P.44
  15. ^ 梶川勇作「尾張藩における「給人領」とその給人(前編)」(『金沢大学文学部論集 史学科篇』10号、1990年)P.44
  16. ^ 梶川勇作「近世の尾張藩における尾張衆とその知行地(後編)」(『金沢大学文学部 地理学報告』8号、1997年)P.40、P.50
  17. ^ (濃飛通史・濃陽徇行記)
  18. ^ (林菫一著・尾張藩の給知制)
  19. ^ 使用が許可された材木を割って半製品にした材料
  20. ^ 近世林業史の研究・岐阜県史
  21. ^ 伐採を禁じた山林
  1. ^ 八代吉宗、十四代家茂が紀州からであり、十五代慶喜は、水戸家出身で後に御三卿一橋家の養子になり、その後将軍になっている。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「尾張藩」の関連用語

尾張藩のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



尾張藩のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの尾張藩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS