小錦八十吉 (6代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 11:16 UTC 版)
略歴
- 1982年7月場所 - 髙砂部屋入門、初土俵。
- 1983年11月場所 - 新十両。
- 1984年7月場所 - 新入幕。
- 1984年9月場所 - 初の金星(隆の里・千代の富士)、初の三賞(殊勲賞、敢闘賞)受賞。
- 1984年11月場所 - 新三役(小結を飛び越えて関脇に昇進)。
- 1987年7月場所 - 大関昇進。
- 1989年11月場所 - 初の幕内最高優勝(14勝1敗)。
- 1991年11月場所 - 2度目の幕内最高優勝(13勝2敗)。
- 1992年3月場所 - 4人による優勝争い、千秋楽に2敗同士の大関霧島との相星決戦を寄り倒しで下して3度目の幕内最高優勝(13勝2敗)。
- 1993年11月場所 - 大関陥落。
- 1997年11月場所 - 現役引退、年寄・佐ノ山を襲名。
- 1998年5月 - 小錦引退佐ノ山襲名大相撲(断髪式)。
- 1998年9月 - 日本相撲協会を退職、タレントへ転向。
大相撲時代の成績
通算成績
- 通算成績:733勝498敗95休 勝率.595
- 幕内成績:649勝476敗89休 勝率.577
- 大関成績:345勝197敗43休 勝率.637
- 幕内在位:81場所(当時歴代3位タイ、現在15位タイ)
- 大関在位:39場所(当時歴代3位、現在6位)
- 三役在位:11場所(関脇8場所、小結3場所)
- 連続6場所勝利:75(1991年5月場所~1992年3月場所)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:12場所(1986年9月場所~1988年7月場所)
- 幕内2桁連続勝利記録:6場所(1991年5月場所~1992年3月場所)
- 幕内12勝以上連続勝利記録:3場所(1991年11月場所~1992年3月場所)
- 連勝記録(通算):22(1982年7月場所4日目~1983年3月場所10日目・前相撲→三段目時代)
- 連勝記録(幕内):15(1992年1月場所8日目~1992年3月場所7日目)
各段優勝
- 幕内最高優勝:3回(1989年11月場所、1991年11月場所、1992年3月場所)
- 十両優勝:2回(1984年3月場所、1984年5月場所)
- 序二段優勝:1回(1982年11月場所)
- 序ノ口優勝:1回(1982年9月場所)
三賞・金星
- 三賞:10回
- 殊勲賞:4回(1984年9月場所、1986年9月場所、1986年11月場所、1987年1月場所)
- 敢闘賞:5回(1984年9月場所、1985年5月場所、1985年11月場所、1986年3月場所、1987年5月場所)
- 技能賞:1回(1986年3月場所)
- 金星:2個
場所別成績
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1982年 (昭和57年) |
x | x | x | (前相撲) | 東序ノ口32枚目 優勝 7–0 |
西序二段56枚目 優勝 7–0 |
1983年 (昭和58年) |
西三段目50枚目 6–1 |
西三段目2枚目 6–1 |
西幕下28枚目 6–1 |
西幕下8枚目 4–3 |
東幕下6枚目 6–1 |
西十両12枚目 11–4 |
1984年 (昭和59年) |
東十両3枚目 4–5–6[注 19] |
西十両10枚目 優勝 13–2 |
東十両2枚目 優勝 11–4 |
東前頭11枚目 8–7 |
西前頭6枚目 12–3 敢殊★★ |
西関脇 5–6–4[注 19] |
1985年 (昭和60年) |
西前頭筆頭 6–9 |
西前頭3枚目 8–7 |
西小結 12–3 敢 |
西関脇 9–6 |
東関脇 休場 0–0–15 |
西前頭9枚目 11–4 敢 |
1986年 (昭和61年) |
西小結 10–5 |
東小結 12–3 敢技 |
西関脇 3–6–6[注 19] |
東前頭4枚目 休場[注 20] 0–0–15 |
東前頭4枚目 12–3 殊 |
西関脇 10–5 殊 |
1987年 (昭和62年) |
東関脇 10–5 殊 |
東関脇 11–4 |
東関脇 12–3 敢 |
西大関 9–6 |
西大関 12–3 |
東大関 8–7 |
1988年 (昭和63年) |
東張出大関 13–2 |
西大関 8–7 |
西大関 8–7 |
西大関 8–7 |
東張出大関 3–12 |
西張出大関 10–5[注 21] |
1989年 (平成元年) |
東張出大関 3–9–3[注 19] |
西張出大関 10–5 |
西張出大関 9–6 |
西張出大関 8–7 |
西張出大関 5–10 |
西張出大関 14–1[注 21] |
1990年 (平成2年) |
東大関 10–5 |
東大関 13–2[注 22] |
東大関 12–3 |
西大関 10–5 |
東大関 9–6 |
西大関 10–5 |
1991年 (平成3年) |
西大関 0–1–14[注 23] |
西大関 9–6[注 21] |
東大関 14–1[注 24] |
東大関 12–3 |
東大関 11–4 |
西大関 13–2 |
1992年 (平成4年) |
東大関 12–3 |
東大関 13–2 |
東大関 9–6 |
西大関 10–5 |
西大関 9–6 |
東大関 0–2–13[注 19] |
1993年 (平成5年) |
西大関 10–5[注 21] |
西大関 9–6 |
西大関 7–8 |
西大関 9–6[注 21] |
東張出大関 0–2–13[注 19] |
東張出大関 6–9[注 21] |
1994年 (平成6年) |
西張出関脇 2–13[注 25] |
東前頭9枚目 8–7 |
東前頭5枚目 5–10 |
東前頭12枚目 8–7 |
東前頭10枚目 8–7 |
東前頭5枚目 6–9 |
1995年 (平成7年) |
西前頭8枚目 8–7 |
東前頭3枚目 5–10 |
西前頭7枚目 5–10 |
西前頭13枚目 9–6 |
東前頭5枚目 5–10 |
西前頭10枚目 8–7 |
1996年 (平成8年) |
東前頭8枚目 7–8 |
西前頭9枚目 6–9 |
東前頭14枚目 10–5 |
西前頭8枚目 8–7 |
東前頭4枚目 4–11 |
東前頭9枚目 6–9 |
1997年 (平成9年) |
東前頭13枚目 8–7 |
西前頭10枚目 6–7–2[注 26] |
東前頭14枚目 8–7 |
西前頭9枚目 8–7 |
西前頭2枚目 0–11–4[注 27] |
東前頭14枚目 引退 5–9–0 |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
主な力士との幕内対戦成績
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
蒼樹山 | 3 | 3 | 青葉城 | 1 | 0 | 安芸乃島 | 10 | 25 | 安芸ノ州 | 1 | 0 |
曙 | 8 | 9 | 朝乃翔 | 2 | 3 | 朝乃若 | 7 | 5 | 旭富士 | 14 | 21* |
旭豊 | 2 | 1 | 板井 | 8 | 2 | 恵那櫻 | 0 | 2 | 巨砲 | 8 | 3 |
大錦 | 3 | 2 | 大乃国 | 16 | 13 | 小城錦 | 2 | 6 | 小城ノ花 | 5 | 1 |
魁皇 | 1 | 2 | 魁輝 | 1 | 0 | 春日富士 | 6 | 1 | 巌雄 | 3 | 3 |
北勝鬨 | 7 | 4 | 北の湖 | 1 | 0 | 旭鷲山 | 0 | 3 | 旭道山 | 12 | 9(1) |
鬼雷砲 | 6 | 3 | 霧島 | 19 | 19* | 起利錦 | 4 | 0 | 麒麟児 | 8 | 2 |
久島海 | 11 | 4 | 蔵間 | 3 | 0 | 剣晃 | 3 | 3 | 高望山 | 7 | 0 |
港龍 | 1 | 0 | 五城楼 | 1 | 2 | 琴稲妻 | 6 | 8 | 琴ヶ梅 | 16 | 9 |
琴風 | 3 | 2 | 琴椿 | 1 | 0 | 琴錦 | 12 | 12 | 琴ノ若 | 6 | 7 |
琴富士 | 6 | 3(1) | 琴別府 | 10 | 6 | 琴龍 | 4 | 1 | 逆鉾 | 18 | 8 |
佐田の海 | 2 | 3 | 敷島 | 2 | 3 | 陣岳 | 13 | 5(1) | 大至 | 8(1) | 6 |
太寿山 | 15 | 2 | 大翔鳳 | 6 | 8 | 大翔山 | 6 | 1 | 大善 | 1 | 1 |
大徹 | 4 | 0 | 大飛翔 | 2 | 0 | 貴闘力 | 12 | 12 | 隆の里 | 2(1) | 1 |
貴ノ浪 | 5 | 10(1) | 貴乃花 | 7 | 15 | 孝乃富士 | 6 | 1 | 隆三杉 | 10 | 3 |
多賀竜 | 3 | 2 | 玉春日 | 3 | 0 | 玉龍 | 4 | 0 | 千代の富士 | 9 | 20(1) |
寺尾 | 26 | 10 | 出羽の花 | 8 | 4(1) | 闘竜 | 2 | 0 | 時津洋 | 4 | 3 |
土佐ノ海 | 1 | 2 | 栃東 | 0 | 3 | 栃司 | 6 | 3 | 栃剣 | 7 | 2 |
栃乃洋 | 2 | 0 | 栃乃和歌 | 21 | 14 | 巴富士 | 3 | 2 | 智乃花 | 0 | 2 |
豊ノ海 | 5 | 3 | 花乃湖 | 14 | 3 | 花ノ国 | 8 | 3 | 濱ノ嶋 | 9 | 4 |
肥後ノ海 | 7 | 2 | 飛騨乃花 | 1 | 0 | 藤ノ川 | 2 | 0 | 冨士乃真 | 1 | 1 |
双羽黒 | 7(1) | 9 | 鳳凰 | 1 | 0 | 北天佑 | 13 | 17 | 北勝海 | 16* | 16*(1) |
舞の海 | 5 | 7 | 前乃臻 | 1 | 1 | 舛田山 | 3 | 0 | 益荒雄 | 8 | 1 |
三杉里 | 19 | 8 | 湊富士 | 5 | 6 | 武蔵丸 | 7 | 8 | 武双山 | 1 | 3 |
大和 | 2 | 3 | 力櫻 | 2 | 2 | 両国 | 14 | 2 | 若嶋津 | 10 | 2 |
若翔洋 | 6(1) | 7 | 若瀬川 | 2 | 2 | 若乃花 | 8(1) | 12 | 和歌乃山 | 1 | 0 |
鷲羽山 | 0 | 1 |
(カッコ内は勝敗数の中に占める不戦勝・不戦敗の数)
主な合い口
- 第55代横綱北の湖は当時現役晩年もあって、1984年11月場所初日に1回のみ対戦。小錦が押し出して勝利、これが唯一の取組となった。
- 第58代横綱千代の富士は、初対戦の1984年9月場所14日目、一方的に押し出して完勝。その後は合口が悪かったが、1989年11月~1990年5月場所まで4連勝した事もあった。
- 第59代横綱隆の里も初対戦の1984年9月場所11日目、一気に押し出し初の横綱戦でいきなり大金星。通算でも1つの差で勝ち越した。
- 第60代横綱双羽黒は2つの差で負け越し。大関獲りの1986年5月場所8日目、取り直しの末鯖折りで右膝を大怪我、休場を余儀なくされた。
- 第61代横綱北勝海は1つの差で勝ち越し。尚1990年3月場所は霧島も含め優勝決定巴戦となったが、1対戦目は勝ったが4対戦目で敗れ、優勝はならなかった。
- 第62代横綱大乃国は3つの差で勝ち越し。当時は両力士共に「体重200kg以上の幕内史上最重量対決」としても、大きな話題となった。
- 第63代横綱旭富士は一時14連敗を喫するなど苦手とした。特に1991年5月場所は14連勝しながら本割で旭富士に敗れ、決定戦でも連敗し逆転優勝を許した。
- 第64代横綱曙、第65代横綱貴乃花、第66代横綱若乃花、第67代横綱武蔵丸は、4力士共に大関時代は合口が良かったが、関脇陥落以降は力関係が逆転して全員負け越している。
- 先輩大関琴風は、初対戦の1984年9月場所千秋楽に大相撲の末下手投げに敗れ、入幕2場所目の平幕優勝を惜しくも逃した。対戦成績では1つの差で勝ち越し。
- 先輩大関若嶋津は、共に優勝を争った初対戦の1984年9月場所12日目に寄り切りで勝利。その後も得意とし大きく勝ち越している。
- 先輩大関北天佑は合口悪く、4つの差で負け越し。但し1987年3月場所8日目、北天佑の左膝を怪我させて痛がるのを察した小錦は、取り直しで北天佑の膝を庇いながら寄り切った。
- 1984年7月場所の幕内同時昇進だったライバル・大関霧島とは、幕内対戦成績でも19勝19敗と全くの互角だった(他十両時代に1勝、優勝決定巴戦で1敗)。
- 後輩大関貴ノ浪は、大関時代だった初対戦の1992年3月場所2日目は勝利したものの、その後は苦手とし5つの差で負け越し。
- のちに後輩大関となる武双山、魁皇、栃東の3力士共、関脇陥落以降に対戦するも、揃って僅差で負け越している。
- 関脇以下では安芸乃島を大の苦手とし、1988年9月場所の初対戦からいきなり7連敗。自身幕内初優勝時の1989年11月場所で漸く初勝利するも、対戦成績は10勝25敗と大きく負け越し。
注釈
- ^ 大相撲時代にはハワイ人の新生児(男児)に四股名をそっくり命名したこともあるが、問題にはならなかった。
- ^ 後年ギネスブックの相撲の項目で「最も体重の重いプロスポーツ選手」と紹介された。
- ^ この場所で小錦に一方的に敗れたことに発奮した千代の富士は稽古に励んで低迷を脱しており、千代の富士が優勝31回の大横綱となる上で小錦が与えた衝撃は大きな役割を果たしている。その後の取り組みでは、千代の富士の躍動感ある相撲にまるでついていけていない場面が目立ち、最終的な対戦成績は小錦の9勝20敗と大きく負け越し、横綱との実力差を見せつけられた恰好となった。特に昭和60年の春場所では華麗な下手ひねりで敗れた際は、悔しさを露わにしていた。
- ^ 千秋楽で大関の琴風に敗れたため、13勝2敗の平幕・多賀竜が優勝した。
- ^ 最初の一番では北尾は立ち合い左に変わり、突っ張り合いから突き勝った小錦が右ハズで出てくると、土俵際、左上手投げを見せたものの、左足が大きく土俵を割った。軍配は小錦に上がったが「北尾の左足が出るのと小錦の左足が返って甲が付くのが同時」とみて取り直しとなった。勝負規則によれば正しい判定ではあるが、攻めているときに足の甲が付いている場合は見逃されるケースが非常に多く、小錦の勝ちと判定されても仕方がないケースであった。
- ^ もっとも、小錦の優勝と3月場所の総括を伝える朝日新聞1992年3月23日付朝刊スポーツ面では、場所後の小錦の横綱昇進の可能性について全く触れていない。
- ^ 場所前の横審稽古総見の様子を伝える朝日新聞1992年5月2日付朝刊スポーツ面では「一番とるごとに息が切れる状態」と評され、場所の展望を伝える朝日新聞1992年5月10日付朝刊スポーツ面では「(優勝争いは)うかうかできない状況」と評されている。
- ^ 現在大関角番数の最多記録は千代大海の通算14回であ。
- ^ 平成時代以降、第63代横綱・旭富士から第70代横綱・日馬富士まで8力士全員「大関で2場所連続優勝」で横綱に昇進した。それ以降はやや基準が緩く成った事も有り、第71代横綱・鶴竜は優勝同点(14勝1敗)・優勝(14勝1敗)と平成初の大関2連覇ならずで横綱となった。しかも鶴竜の場合、年6場所制定着以降唯一「直前3場所前が1ケタ白星でなおかつ連覇無し」でありながらも昇進している。その後第72代横綱・稀勢の里も優勝次点(12勝3敗)・優勝(14勝1敗)で昇進を果たした。
- ^ 現役時代の双羽黒は頻繁に高砂部屋で出稽古を行っており、さらに小錦と双羽黒は同じ「花のサンパチ組」で互いに稽古相手を務め合う仲であった。その双羽黒は廃業から10ヶ月後に死去した高砂の葬儀に「事件の際迷惑をかけ、責任を感じている」という理由で出席していた。
- ^ 後の2011年3月8日にその舞の海が関西プレスクラブの招きで大阪市内のホテルで講演した際にはこの場所の小錦との対戦を言及しており、怪我を乗り越えて復帰した祝儀として小錦から勝ちを譲られたのだろうと断定したという趣旨の発言があった。
- ^ 元小結・舞の海秀平はそれについて「千秋楽前に引退届を提出した」と真相を語っている。
- ^ 後年になって年寄名跡の取得に際して2億円もの資金提供を受けたことを本人が明かしており『解禁!暴露ナイト』2013年1月24日放送分でその詳細が語られた。
- ^ 大関として同会長をつとめた例は他に初代会長の玉錦三右エ門がいる。
- ^ 特典としてオリジナルテレホンカード5種類が作られ、1987年7月1日から8月31日まで抽選で毎週3000人にプレゼントされた。
- ^ ちなみにハワイでの葬儀の習慣は男性はアロハ、女性はムームーが一般的で、黒い喪服は皆無ではないがそれほど使われない。
- ^ メタボリックシンドロームの原因となる内臓脂肪の量は少なかったために、手術そのものは平均的な所要時間よりはるかに短く終わった。
- ^ NTVで2008年6月に放送した『Touch! eco 2008 明日のために…55の挑戦?スペシャル』内で、300kg台の時には腹部がじゃまになり自分で靴を履くことができず他の人に履かせてもらっていたが230kgになり自分で靴を履けるようになった様子が放送された。
- ^ a b c d e f 途中休場
- ^ 公傷・全休
- ^ a b c d e f 大関角番(全7回)
- ^ 北勝海・霧島と優勝決定戦
- ^ 初日不戦敗・休場
- ^ 旭富士と優勝決定戦
- ^ 関脇陥落
- ^ 初日より休場・3日目から途中出場
- ^ 4日目より途中休場・9日目から再出場
出典
- ^ “元大関小錦八十吉さんは「悲運」なんかじゃなかった「日本に本当に感謝」来日40年情熱衰えず”. 日刊スポーツ (2022年8月27日). 2022年8月28日閲覧。
- ^ 知ったら笑う関取の異名 マイナビニュース 2013/02/24
- ^ 角界「異名」列伝 ウルフの時代 時事ドットコム
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- ^ 小錦八十吉の『ドスコイ・ダンシング』2010年5月27日 KONISHIKI 公式ブログ
- ^ 皆さん、ありがとう・・・2010年5月29日 Konishikiオフィシャルサイト Konishiki日記
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- ^ a b c d e ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p28-29
- ^ a b KONISHIKIから見た武蔵丸 武蔵丸光洋公式ウェブサイト
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- ^ a b 朝日新聞1992年3月24日付朝刊スポーツ面
- ^ ベースボールマガジン社『大相撲戦後70年史』19ページ
- ^ 舞の道(元小結・舞の海と大相撲に関するサイト)-舞の部屋>> 対戦成績表 >> か行より
- ^ 舞の海秀平氏、都知事選に苦言「担ぐ方も担ぐ方だし、担がれる方も担がれる方」 ZAKZAK 2014.01.22
- ^ a b 1997年11月23日付日刊スポーツ紙面
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- ^ 『大相撲ジャーナル』2017年8月号p116-117
- ^ 『大相撲ジャーナル』2017年5月号93ページ
- ^ 小錦 千代の富士との最初の一番で「僕の相撲人生が変わった」スポニチ 2016年8月2日記事
- ^ 朝日新聞2017年2月10日「耕論」
- ^ 「基準は甘かったと思うけど、いいんだよ」元大関・小錦、稀勢の里の横綱昇進を歓迎 J-CASTニュース 2017年2月11日記事
- ^ 稀勢の里このまま引退?小錦も「横綱は特別だから・・・。苦しい立場になってる」 J-CASTニュース 2018年11月16日記事
- ^ 小錦、稀勢の問題はメンタル「師匠がどれぐらいアドバイスできるのか」/九州場所 サンスポ 2018年11月16日記事
- ^ KONISHIKI、稀勢の里の休場に「親方も番付的に全然下だったから、どれぐらいアドバイスできるのかなって…」 スポーツ報知 2018年11月16日記事
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