小泉純一郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 01:35 UTC 版)
政権運営
小泉純一郎の政治手法は、テレビやマスコミ報道を利用した「劇場型政治」や「ワンフレーズポリティクス」などとよく評された、小泉純一郎はいつも自分の言葉で語ることを大事にし、1日2回、首相官邸の中で総理大臣が記者団の前に立ち止まって記者団の質問に応じる「ぶら下がり」も小泉政権から始まった。このぶら下がりを利用した小泉純一郎の情報発信は毎回、テレビやニュースで伝えられ、その結果、国・政府と国民・有権者との間の距離が縮まり、自民党支持層をはじめ、都市部の無党派層や政治に関心がない層からも幅広い支持を集めるようになった[要出典]。
小泉は、自分の掲げる政策に反対する人たちを「抵抗勢力」と呼び、その勢力が自民党内にいたとしても選挙では抵抗勢力とした議員たちの選挙区に「刺客候補」を積極的に立てて対決した[要出典]。その刺客候補は自身の目指す政策と同じ考えの人が選ばれ、その中で代表的な人物としてライブドア社長の堀江貴文が挙げられる。
このような小泉の政治手法は、国民に政治をわかりやすくする効果をもたらし、選挙の時は、小泉旋風が巻き起こって自民党が勝利した。
この小泉旋風は具体的な政策論議よりも小泉自身のキャラクターや話題性に依存する面が大きく、世論からは、小泉の政治はポピュリズム政治であるとの評価もしばしばなされる。
また、小泉のめざす政府は、「小さな政府」であり、これは清和会出身者に多い政策である。具体的には、個人に対しては相続税の減税(最高税率70%→50%)や社会保障費の削減を、法人に対しては研究開発投資減税や公共事業費の削減を求めている。
ただ、この時代は住専問題や防衛庁疑惑を追及していた民主党石井紘基衆議院議員が刺殺されるなど、不透明な政府支出や事件も多数起きており、政府への信頼感が低下していた時代でもある。
内政
- 竹中平蔵を閣僚に起用し、「官から民へ」という理念に基づく改革の旗振り役を任せた。
- 「金融再生プログラム」を推進し、バブルの遺産と呼ばれていた不良債権を処理し日本の金融システムを正常化した。
- 「金融ビッグバン」を継承して、日本の金融制度を改正した。
- 「貯蓄から投資へ」のスローガンを掲げ、株式売却益などの税率を20%から10%に引き下げる証券優遇税制を実施した。
- 経済財政諮問会議を活用して、従来の党主導の政策決定過程を官邸主導に転換した。予算編成の基本方針(骨太の方針)を策定し、かつて財務省の専権とされた予算編成を政治主導で行った。
- 財政再建のため骨太の方針にもとづき、歳出削減を実行した。歳出削減は道路建設から防衛費、社会保障費にいたるまで広範に及んだ。
- 三位一体の改革として地方交付税の削減。
- 労働者派遣法を改正し、派遣社員の派遣期間を3年から無制限に延長した。
- 労働基準法の改正で、企業による解雇権濫用を無効とした。
- 生活保護費や児童扶養手当の削減。
- 介護保険では特別養護老人ホームなど施設入所者の居住費、食費を保険から外した。
- 「健康保険法等の一部を改正する法律」(2006年6月21日公布)を与党多数で採決し、後期高齢者医療制度を導入。
- 国民負担率の維持を試みたが、日本医師会の反対により医療費の伸び率管理を断念した。
- 財政再建のため、診療報酬の引き下げ(2002年に1.3%、2006年に1.36%)、サラリーマン本人の窓口負担の増加(2割→3割)、保険料の引き上げ(月収をベースとした算定→年収をベースとした「総報酬制」)の三方一両損を行った。
- 2006年には谷垣禎一財務相、中川昭一農水相の反対を押し切って、6.5兆円の不良債権(2007年3月期)を抱える政策金融機関の統合民営化(株式会社日本政策金融公庫)を推し進めた。
- 特別会計合理化法案(仮称)を閣議決定し、特別会計透明化の方向性をつけた。
- 日本道路公団総裁の藤井治芳を更迭した。
- 道路関係四公団の民営化法案成立。
- 産業再生機構法を成立させ、事業再生を支援する体制を整備した。これにより、ダイエー、りそなホールディングスへの出資金を回収しつつ、事業再生に成功した。
- 最低資本金制度の特例措置(後に会社法の制定)により1円から会社を立ち上げることを可能にした。
- 有事関連法案を成立させた。
- パソコンなどの製造業者にリサイクルを義務付ける資源有効利用促進法を成立させた。
- 構造改革特区により規制緩和を促進。
- 特殊法人(住宅金融公庫など)の独立行政法人化。
- 国家戦略本部を設置。
- らい予防法違憲国家賠償訴訟において、熊本地方裁判所での国敗訴の判決を受け入れ、日本政府の責任を認め、福岡高等裁判所への控訴を断念し、総理大臣談話を発表してらい予防法を謝罪、元ハンセン病患者、遺族側と和解した。
- 建築確認、検査の厳格化、建築士への罰則強化、住宅売主への瑕疵担保責任の履行などを行った。
- 郵政民営化などにおいて米国からの要望をまとめた「年次改革要望書」の内容を実行に移しただけという批判があるが、郵政民営化については1970年代から主張していた。
- 発明や著作物などの創作活動を奨励するため、知的財産戦略本部を立ち上げ、知的財産権の紛争処理を迅速に行うため、知的財産高等裁判所を設置した。
外交
- 従来の事務協議の積み重ねの延長である外交から、首相が自らの意見を積極的に主張し首脳間の信頼関係の下で国家間の合意を取り付ける首脳外交に転換した。
- 小泉外交は出身派閥である清和政策研究会の伝統的な親米路線に則っている。また、小泉首相自身がアジアやアフリカなどの国々にも積極的に訪問し、サミットをはじめ、ASEAN、APEC、ASEM、日・EU定期協議、アジア・アフリカ首脳会議などの多国間協議へも25回参加した。
- 在任中合計51回、実数では49ヶ国延べ数81ヶ国を訪問した。また訪問先の決定も外務省を始め、関係省庁が作ったシナリオに従うのではなく、官邸が積極的に関与した。さらに多数の電話での首脳会談も行い積極的な官邸外交、首脳外交を展開した。
- 2006年7月3日にドミニカ共和国のレオネル・フェルナンデス大統領と会談。その後、ドミニカ移民訴訟において政治判断により控訴をせず、謝罪や1人当り最高額を200万円とする補償金の支払いを行った。
- モンゴルのエンフバヤル大統領と2006年8月に会談。その後、モンゴルに対して多額のODAを行い、モンゴルは2008年の非常任理事国ポストを日本に譲っている。
- 外務省機密費流用事件などで問題となっていた外務省に対し、事務次官経験者である斎藤邦彦JICA総裁、林貞行駐英大使、柳井俊二駐米大使、川島裕外務省事務次官の4人および飯村豊官房長の更迭を行った (2001/8/2)。
- 国別では、米国8回、韓国7回、ロシア4回、インドネシア4回、中国3回、タイ、マレーシア、ベトナムにそれぞれ2回訪問した。またブルネイ、シンガポール、フィリピン、ラオス、カンボジア、モンゴルなどのアジアの国々や今まで首相がほとんど訪問していなかったウズベキスタンやカザフスタン、イスラエル、ヨルダン、パレスチナ、サウジアラビア、エジプト、トルコなどの中近東諸国にも訪問している。
- NHKのプロジェクトXで紹介された、イラン・イラク戦争の際邦人を救助したトルコ航空元機長のアリ・オズデミルと2006年1月12日に面会した。
- アジア太平洋経済協力会議首脳会議 (APEC) に5回、東南アジア諸国連合 (ASEAN) +日中韓首脳会議に5回、アジア欧州会議 (ASEM) 首脳会議に3回などのようにアジア地域の中心の多国間協議に総理として積極的に参加していた。
- また、多くの国を訪問し多くの国際会議の常連メンバーであったため、当時のアジア各国首脳、フィリピンのアロヨ大統領や、マレーシアのマハティール首相、シンガポールのゴー・チョク・トン首相などとも非常に親しかった。一方靖国神社参拝により中国首脳との関係は韓国首脳以上に悪く、2002年以降首脳の相互訪問を拒否され、2005年4月から2006年9月の退任まで第三国で中国との首脳会談は行わなわず、退任後も亀裂化したままである。
- サミットにも6回出席の常連メンバーであり、そのつど各国首脳と多国間・二国間の会談を重ねている。そのため、アメリカのブッシュ大統領だけではなく、フランスのシラク大統領、ドイツのシュレーダー首相、ロシアのプーチン大統領、イギリスのブレア首相とも「率直に話のできる顔見知りの仲」であり、重要な案件でも首脳同士が直接電話で話をして決めることもあった[35]。
- またウズベキスタンやカザフスタンなどに対し、資源の優先的供給を受けるための資源外交・経済外交の展開を始めた。
- 靖国神社参拝により、中国・韓国の態度を硬化させ、在任期間中は首脳会談はもとより、首相特使派遣すらできないほどまでに関係が悪化した。小泉は韓国と中国が日本との首脳会談に応じなかったことを批判し、「いつか後悔することになるだろう」と発言した[36]。中国は小泉政権での日本の常任理事国入りには強固に反対の姿勢を示すようになり、さらにアメリカがイラク戦争を反対したドイツの常任理事国入りに反対したことでG4改革に反対し、日本は常任理事国入りを断念せざるを得なくなった。それにより日本では「国連分担金を削減すべき」という世論が高まった。
- アメリカ同時多発テロ事件後にテロ対策特別措置法を制定し、アメリカのアフガニスタン侵攻では海上自衛隊をインド洋に派遣し、イラク戦争後は米国主導の「イラク復興事業」に支援活動として陸上・航空自衛隊の派遣を決定したが、派遣した国の首脳の中で唯一、現地慰問を行わなかった。
- 戦略的外交諮問機関 対外タスクフォース[37]を設立。
- 日本に観光客を呼び込むYOKOSO!JAPANキャンペーンを実行。その一環として、中国人や韓国人、台湾人などの観光客に対するビザ免除などを行った(日本国籍保持者は相互主義により相手国でビザ免除となる)。2003年の時点で524万人であった訪日外国人旅行者数は2007年には834万人となり過去最高を記録した。
- 北朝鮮に訪朝し金正日総書記と正式会談。北朝鮮政府は日本人拉致への直接関与を認めた。また、5人が生存して日本へ帰国(交渉継続中)。
靖国神社参拝をめぐる動き
2001年に就任以来、靖国参拝を堅持する小泉に対して[注釈 6]、江沢民国家主席または中国政府はすでに4年間にわたって日中間首脳の相互訪問を拒み続けてきた。最初の参拝の際には終戦の日には行かなかったために結局中国の圧力に屈したと漫画家の小林よしのりは非難している。2001年にAPECのために上海を訪問して、同年に首脳会談で北京を訪問した小泉は抗日戦争記念館に訪問して遺憾の意を表し[38]、そこで献花を行った(日本政府首脳が盧溝橋で献花するのは初)[39]。しかし小泉は靖国参拝を行っても同年10月26日には中国大使館にて「川劇」を参観しており、小泉は「川劇」を絶賛、出演者に敬意を示した。2002年には海南島の「ボアオ・アジア・フォーラム」第1回年次総会に出席し、同年の9月26日には中国の建国53周年と中日国交正常化30周年を祝う大型レセプションを開催したものの、日中国交正常化30年で式典で中国に訪中を拒否されており、2002年以降小泉は中国に訪問していない。
小泉の北朝鮮への電撃訪問の際に江沢民に直接電話をしたが、江沢民はこれを拒否をした。胡錦濤が国家主席になっても冷却した関係であり、そんな中、2004年マレーシアで開催された東アジアサミットの際は、共同宣言に署名する際に、自分のペンを使わず、日本との首脳会談を拒んでいた中国の温家宝首相からわざわざペンを借りて署名し、両国の関係改善を示唆するパフォーマンスに各国首脳から拍手が送られた。しかし同年のアジアカップではこれが影響で反日ブーイングが起きた。中国の胡錦涛国家主席との会談が決まらなかった。
2005年に反日デモが起こり、同年秋に小泉が5回目の靖国参拝を果たすと、中国政府はさらに、国際会議を利用して日中首脳会談・外相会談をすべて拒否するという強硬姿勢を示した。小泉は「靖国参拝するから首脳会談に応じないというのは、私はいいとは思っていない」と中国を批判した。第3国での会談も2005年4月のジャカルタで胡錦濤国家主席と実施したのが最後となっている。また2005年に呉儀副総理との会談も急遽キャンセルとなった。中国人タレントのaminは「愛・地球博」ファイナルテーマソングを小泉の前でも歌っていたものの、同年10月の「日中友好歌謡祭」の招待を小泉は取り消された。同年の11月中旬釜山でのAPEC首脳会議、12月中旬マレーシアでの東アジアサミットでも首脳会談は行われなかった。APECの閉幕後、イギリスのメディアの記者は、靖国神社の博物館では、アジアでの戦争は日本の防衛のためだったとか、南京大虐殺はなかったなどと主張しているが、これを支持しているかと質問した。小泉は「その見解は支持していない」と明言、「多くの戦没者に哀悼の誠を捧げるために参拝している。そして戦争の反省を踏まえ2度と戦争をしてはいけないということから参拝している」と述べ、参拝は戦争を正当化するものではないとの立場を示した。唐家璇は「日中関係の改善は小泉首相に期待しない」と述べ、安倍晋三官房長官は同発言について「指導者としては不適切な発言」と抗議した。
2006年には、閣僚や自民党首脳が中国を訪問しても事態は好転せず、日中関係は最悪の関係にあった。後の首相となる安倍と麻生は小泉同様に中国を批判し[注釈 7]、ロバート・ゼーリックは安倍・麻生との会談では「アメリカは日中関係を良くするために何かする必要があれば喜んでしたい」と仲介役を申し出た。しかし小泉は退任直前までに靖国参拝の姿勢を貫き、終戦記念日に念願の参拝を行った。
退任後も亀裂化しており、人民日報は訪中を決断した安倍を「智者」と持ち上げて絶賛する一方、靖国神社参拝問題などで日中関係を悪化させた小泉を「自己陶酔する独裁者」と非難した。東京・八王子市で演壇に立った小泉は「多くの戦没者の方々に敬意と哀悼の誠をささげるために私は靖国神社に参拝してきた。もし多くの国民が私の靖国参拝を批判するならば、そのような国民の総理大臣になっていたいと思わない。中国政府は将来『なんと大人げない恥ずかしいことをしたのか』と後悔する時がくる」と発言。中国の唐家璇国務委員が来日して友好ムードを盛り上げている最中に靖国参拝を理由に首脳会談を拒み続けた中国への怨嗟であり、親中路線にひた走る福田康夫への警鐘とも受け取れた。胡錦濤が来日を歓迎する朝食会・夕食会に小泉が参加せず、2008年に開催された北京オリンピックの開会式に歴代首相の福田康夫・森喜朗・安倍晋三や東京都知事の石原慎太郎を招待したのに対し[注釈 8]、小泉は招待されなかった。
2010年12月の講演会で開かれた国際安全保障学会年次大会で、小泉は日中関係については「日中関係は大事だ。私は日中友好論者だ。経済を考えれば、これから日中関係は極めて重要だ。だが、一国の関係は経済だけではない。日本の平和と独立を守るためにアメリカに代わる国はない。」と述べ、日中首脳会談については「胡錦涛国家主席との会談が決まらなかった。外務省の担当者が「中国が『来年靖国神社を参拝しなければ会談する』と言っている」と言う。「じゃあ、小泉は来年、必ず靖国神社に参拝すると言ってます。会談をしたくなかったら、しなくて結構です」と。すると中国は「会談前と会談後に『靖国神社参拝する』と言わなければ会談する」という。だから私は記者に聞かれて「適切に判断する」と言った。中国は拒否しないでokしてきた。私の方がびっくりした。本当に首脳会談をしないと言ってきたのは、2005年に首相退任を明言してからだ。」と述べた。
韓国の場合、金大中は対日穏健派であったために難無く日韓ワールドカップに出席しており、反日的な盧武鉉になると当初は良好であったが、後に小泉が国際連合安全保障理事会常任理事国入りを目指すと盧武鉉が反日路線に切り替え、靖国神社参拝を理由に2005年には日韓シャトル外交の中止を迫られ、他に竹島問題で反日感情が高まり、同年の6月には子供達が描いた反日ポスターが地下鉄駅に展示させられた際に「小泉首相を犬や猿に模して中傷する絵」があった。さらに大邱日報によると[40]、8月18日に親日派財産を取り戻すための汎政府機構である「親日反民族行為者財産調査委員会」が本格発足し、支持率回復もあって盧武鉉は同年の12月に親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法を制定した。しかし盧武鉉の死後、小泉は駐日韓国大使館1階に設けられた盧武鉉前大統領の焼香所を訪れ献花した。
靖国神社参拝に反発する中国・韓国との関係は悪化。反日感情が強い韓国と中国、反日感情が比較的穏やかな香港で起きた反日デモで自身の肖像が燃やされる事も度々あった。一方、台湾の歴代総統の李登輝、陳水扁からは支持を得ており、陳水扁は台湾新幹線開業式に招待をしたものの、台湾では外省人が多い国民党からは批判があり、退任後小泉は歴代首相と違い台湾の要人との会談や個人での台湾訪問を行っていない。
対外関係・外国からの評価
- アメリカのブッシュ大統領とは仲の良さをアピールし、日本の首相としては初めてエアフォースワンに搭乗しキャンプ・デービッドの別荘に招かれた。2003年にはブッシュ夫妻が所有するテキサス州のクロフォード農場にも招かれた[41][42]。
- 北朝鮮に対しては「対話と圧力」を掲げて、硬軟取り合わせた対応を行った。2006年のミサイル発射問題では関係国中最も強硬な国連外交を展開した。
- 2002年のカナナスキスサミットの際、2003年のエビアン・サミットの日程とロシアのサンクトペテルブルク建都300周年記念行事の日程が重なっていたため、各国首脳がその記念行事に参加できないという悩みをプーチン大統領が抱えていると知った小泉総理は、サミットの日程を2日ずらすことを進言し、シラク大統領も了解したことから、各国首脳はサンクトペテルブルクを訪問した後にエビアンに行くという日程になった。このことに対してプーチン大統領は「感謝に堪えない。公表できないがシベリアに金正日がくるので協力できることはないか」ということとなり、その後プーチン大統領は金正日に小泉のメッセージを伝えることを約束した。その後もプーチン大統領との友好関係は続き、2003年にロシアを訪問した際には晩餐会終了後に、プーチン大統領のクレムリンの個人住居に招かれ、通訳を交えただけの2人きりで約1時間半にわたって懇談した(なおロシアでは大統領が非公式に外国の首脳と懇談するのは異例のことである)。小泉は政界引退後も露日経済協議会理事長の職にあり、また北方領土問題解決に強い関心を持っているといわれる[43]。
- 2002年のカナナスキスサミット終了後、ドイツのシュレーダー首相が政府専用機のスケジュールの調整ができずに日韓ワールドカップの決勝戦(ドイツ対ブラジル)を見に行けないと悩んでいることを知り「だったら日本の政府専用機に乗っていったらいいじゃないか」という話になった。そしてシュレーダー首相は日本の政府専用機に乗り日本に向かいワールドカップ最終戦を観戦した。その際機内では首脳会談が持たれ、懇談の際にはサッカー談義にも花が咲いた。外国首脳が日本の政府専用機に搭乗したことはこれが初めてのことである[43]。
- 2002年のサミットにおいて、カナダの日刊紙『グローブ・アンド・メール』の「サミットのベストドレッサー」に選ばれた[43]。
- 2002年のサミットにおいて、シラク大統領が各国の首相の前で、日本のお辞儀は相手によって頭の下げ方が変わると主張した際、小泉首相は「君にはこうしなくちゃいけないだろうな」と言いブッシュ大統領の前で土下座をした。(共同通信配信2007/10/17)
- 2002年の国連総会において、演説終了後、演台裏手のロビーで小泉総理に挨拶を求める各国代表の列において国連職員が「こんなに長い列ができるのは珍しい」というほどの長蛇の列ができた[43]。
- 2003年の国連総会においては、演説終了後300人近くの各国代表者などが演台の後ろのロビーに並んで小泉の演説に対する賞賛の意を表した。讃辞の列は次の代表の演説も終えたころまで続き、多くの国連関係者を驚かせた[43]。
- 2002年にシンガポール訪問時に、シンガポールのナザン大統領を表敬訪問した際、ナザンから「自分の孫娘が小泉総理のファンなので一緒に写真を撮ってもらえないか」と頼まれ、快く応じた[43]。
- 2006年のアメリカ訪問時に「アメリカは一人で悪に立ち向かっているわけではありません。常に多くの同盟国、友好国とともにあります。そして日本はアメリカとともにあるのです」と演説をし、鳴り止まないほどのスタンディング・オベーションを浴びた[43]。
- 2010年暮れに出版された元イギリス首相トニー・ブレアの回顧録によると、イラクをめぐり米英と仏独の対立が高まっていた2005年に、ジャック・シラク仏大統領が「料理がまずい国の人間は信用できない」と英国を非難する放言騒ぎが発生した。英国でブレアが議長を務めた先進国首脳会議 (G8) の晩餐会がこの事件の数日後に開催され、小泉は供された食事を摂りながら、「英国料理はうまいよな?ジャック!(Excellent English food, isn't it, Jacques?)」と大声でシラクに向かって叫ぶことでたしなめ、フランスを牽制しつつホスト国である英国の面目を助けるアドリブを放った小泉は快活で、他の日本の政治家とは異なり、会議のムードメーカーだった、とブレアは述懐している[44]。
- 1991年、当時のアメリカ副大統領であったダン・クエールと談笑した際、クエールに在日米軍の駐留費を引き上げないと撤退させるぞと脅されたものの、その場に居合わせた小泉のみが明確にノーと発言した上で、撤退するなら日本には真の独立心が芽生えるだろうと言い残してクエールを黙らせている[45]。
注釈
- ^ 入れ墨を入れている者は軍人になることができなかった。又次郎が背中から二の腕、足首まで彫った入れ墨は、九門竜だったとも「水滸伝」の魯智深(ろちしん)、すなわち花和尚だったともいわれる(佐野眞一 2006, p. 147)。藤原肇によると「巷間(こうかん)いわれている“軍人になるのを諦めるために刺青を彫った”という話は作り話であり、やはりテキ屋の親分になるために彫ったという方が真相に近いと私は解釈している」という(藤原肇 2005, pp. 39–40)。彫り師凡天太郎によると「とくに港町ともなれば素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まった。そんな彼らの上に立つには、刺青を彫るような人物ではないと現場を仕切れなかったろう」という(岩崎大輔 2006, p. 58)
- ^ 慶應で同級だった学者の栗本慎一郎によれば「みんなから浮いているのではなくて、沈んでいるんです。友人から無視されるような存在でした。精神的な病気でおかしくなって、おそらく、高校時代も同じでしょう。その社会性の欠如とそこから来る孤独感が彼の奇矯な政治行動の原点だと思います。彼とは2年間、同じクラスでした。というのも、彼は単位が足りなくて3年に上がれず、精神がおかしくなり、事件を起こし逮捕歴があり、そのままロンドンにほとぼりが冷めるまで、遊びに留学したからです。もっとも、私らは誰も気づきませんでした。クラス委員の私にも届けがなかったし、彼は2年の後半は大学に来ていなかったので、誰もいなくなったことに気づかなかったくらいです。一人寂しくロンドンに旅立ったわけです。」という[2]
- ^ 小泉は平成初頭に行われたインタビューで「小選挙区制になるとね、組織から資金から人事からもう全て党の一部幹部に集中される訳ですよ。執行部の気に沿わないことが言えなくなる状況が生まれる恐れが出てくる。恐ろしいことですね」と反対理由を語っているが、皮肉なことに自らが政権をとったときには小選挙区制の後押しを受けて選挙で地滑り的勝利を収めて中央集権化を進めることとなる[8]。
- ^ 「自衛隊員に警護をさせるというのは、いままでの国会の議論と違う。させるべきではない。自衛隊であろうが、文民警察官であろうが、戦闘状態のところに行くという想定はしていない。戦闘状態に合わせて対策を取ったり、自衛隊になにかをさせようというのは間違っている。今後、そのような意見が表に出てくるようであれば、私も国会での議論を踏まえて発言していく」1993年5月14日の閣議後の記者会見
- ^ 紺谷典子は、「防衛庁長官だった純也氏の急死で、ロンドンから呼び戻され・・最初の衆院選に僅差で敗れた。・・特定局長たちが・・もう一人の自民党議員に鞍替えしたせいだと言われている。鞍替えの理由は、地元の横須賀では良く知られた話だそうで、私自身地元財界の人々から口々に聞かされた。小泉氏の人間性を強く疑わせる事件があったそうである」と述べている[31]。
- ^ 小林よしのりの『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』の11巻では「いろいろ意見を持っている方がいるから、造るんだったらいいものを造りたい、私も(国立墓地を)前から考えていた。」という小泉の戦没者を慰霊する国立墓地検討に対する批判があった。
- ^ 安倍長官は衆院予算委で「政治問題を達成するために『会わない』という外交手段をテコに使うのは明らかに間違っている」と批判。麻生外相も 「一つの問題だけでほかの問題もすべてダメで、話も面会もない形は少々異常だ。靖国の問題で会わないのは中国だけだ」と同調した。
- ^ 1992年に次いで2008年にも天皇・皇后も招待する予定だったが、その予定を断った。
- ^ 作家火野葦平著『青春の岐路』によると、「請負師も、小頭も、仲仕も、ほとんどが、酒とバクチと女と喧嘩とによって、仁義や任侠を売りものにする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」という。猪野健治著『侠客の条件 吉田磯吉伝』170-171頁によると「やくざ組織の構成層は、いつの時代においても社会から疎外された被差別階層であった。その構成層は、封建時代にあっては、下級武士、浪人、人足、農民、職人などであり、明治以降、昭和にかけては、没落士族、中小鉱山港湾土木建築関係者、土方、農漁民、職人などの一部であった。彼らこそ失うべき名誉も地位も財産もなにものももたない階級の所属者であった。彼らがときに発揮する反権力性は、実は彼らの階級性の気まぐれな表現であり、民衆が彼らに期待する任侠道とは、階級意識の原始的顕現に他ならない。」という
- ^ 猪野健治著『やくざと日本人』211頁によると、「博徒の伝統的な業態に“労働力供給業”がある。戦後でいう“手配師”がそれだが、戦前は単に労務者を労働現場へ送り込むだけでなく、自らも労働現場で“飯場”を経営した。大正、昭和の炭鉱、鉱山、工事現場、沖仲仕などの“タコ部屋”、“労働監獄”は、そのあくどさの典型であった。“労働力供給業”のすべてが、そうであったわけではないが、この業態そのものが労働者を不当に拘束し、虐待する性格をもっていることは否定しがたい。明治以後の“労働力供給業”は、日本の急テンポの近代化ともあいまって土木建築請負業に集中した。」という
出典
- ^ 岩崎大輔 2006, p. 83.
- ^ 【週刊現代 2005/12/24号 巻頭記事】 栗本慎一郎 : 「パンツをはいた純一郎」
- ^ 小泉純一郎「ワンフレーズ政治」の原点は“父親のグチ”だった?――池上彰が語る“小泉像”『文春オンライン』2019年3月24日
- ^ a b c 梅田功 2001, p. 125.
- ^ 梅田功 2001, pp. 125–126.
- ^ 岩崎大輔 2006, pp. 176–177.
- ^ 神一行 2002, p. 243.
- ^ 安井, 浩一郎 (2019年1月31日). “発掘された後藤田正晴の“遺言” 平成政治史の“劇薬”小選挙区制導入とは何だったのか?”. 文春オンライン. 2020年3月4日閲覧。
- ^ 『朝日新聞』1993年5月7日
- ^ 『朝日新聞』1993年5月14日夕刊
- ^ 『私の後藤田正晴』編纂委員会, ed (2007). 私の後藤田正晴. 講談社. p. 307
- ^ AERA 2001年5月14日号 朝日新聞出版
- ^ “幹事長打診でつまずいた「加藤の乱」 山崎拓氏が語る”. 日本経済新聞 電子版. 2020年10月12日閲覧。
- ^ 亀井静香『晋三よ! 国滅ぼしたもうことなかれ :(傘張り浪人決起する)』メディア・パル、2014年、149頁。ISBN 978-4896108422。
- ^ 文藝春秋2018年二月号、平成17年 郵政選挙は純ちゃんとのケンカだった、亀井静香、前衆議院議員、273-274頁
- ^ “「現代用語の基礎知識」選 ユーキャン 新語・流行語大賞”. 「現代用語の基礎知識」選 ユーキャン 新語・流行語大賞. 2023年7月1日閲覧。
- ^ [飯島勲氏、小泉純一郎前首相の秘書を辞職…福田支持に反発?(2007年9月14日 サンスポ)]
- ^ 空回り小泉チルドレン…小池擁立も失敗、福田支持へ(2007年9月14日 産経新聞)
- ^ 『週刊FLASH』2008年6月10日号
- ^ “因縁の20年経て…小泉純一郎氏と亀井静香氏が会食 仲介は山崎拓氏”. 朝日新聞デジタル. (2023年10月4日) 2023年10月8日閲覧。
- ^ 時事ドットコムニュース>特集>「原発「即ゼロ」を 小泉純一郎元首相」
- ^ 2011年7月26日に行われたシンポジウム「震災後の日本経済を展望する」における発言など
- ^ 産経ニュース 小泉純一郎元首相ら「原発ゼロ基本法案」発表 2018.1.10 18:20
- ^ 小泉元首相ら「原発ゼロ」法案「国民の賛同で必ず実現」
- ^ “内堀知事が元首相5人に申し入れ「科学的知見に基づく発信を”. NHK NEWS WEB (NHK). (2022年2月2日) 2022年2月2日閲覧。
- ^ “維新と国民民主、元首相のEU書簡を批判”. 産経新聞. (2022年2月4日) 2024年1月1日閲覧。
- ^ “小泉氏ら元首相5人へ自民が非難決議了承、近く岸田首相に申し入れ…甲状腺がん書簡巡り討”. 読売新聞 (読売新聞). (2022年2月8日). オリジナルの2022年2月8日時点におけるアーカイブ。 2022年2月8日閲覧。
- ^ “原発事故めぐる元首相5人の書簡 岸田首相 自民決議で対応検討”. NHK NEWS WEB (NHK). (2022年2月10日). オリジナルの2022年2月10日時点におけるアーカイブ。 2022年2月10日閲覧。
- ^ “元首相ら5人が大臣、知事に逆抗議「脱原発」市民団体が意見集約 福島原発事故EU書簡問題”. ZAKZAK (夕刊フジ). (2022年2月8日) 2022年2月8日閲覧。
- ^ a b 紺谷典子『平成経済20年史』 [要ページ番号]
- ^ 紺谷典子『平成経済20年史』 [要ページ番号]
- ^ 共同通信2001年8月17日、テレビ朝日清水建宇コラム10月17日
- ^ a b 飯島勲 2006, pp. 81–100.
- ^ 毎日放送2006年9月6日報道
- ^ 飯島勲 2006.
- ^ “小泉首相「韓、中首脳会談拒否、後悔するだろう」”. 中央日報. (2006年9月12日)
- ^ 対外タスクフォース
- ^ 『小泉総理大臣 中国人民抗日戦争記念館訪問後の小泉総理の発言』(プレスリリース)外務省、2001年10月8日 。
- ^ また小泉は盧溝橋記念館で「忠恕」と揮毫した。
- ^ [1]
- ^ ローラ・ブッシュ『ローラ・ブッシュ自伝』中央公論新社、2015年、p330
- ^ 小泉総理の動き 米国・中東訪問(第1日) 首相官邸ホームページ、2003年5月22日
- ^ a b c d e f g 飯島勲 2007.
- ^ 「日本経済新聞」朝刊 『私の履歴書 トニー・ブレア』2012年1月28日
- ^ 浅川 2001、80-81頁。
- ^ 文藝春秋2004年7月号「ポスト小泉の資格を語ろう」
- ^ 梅田功 2001, p. 38.
- ^ “女性チルドレンがチョコ 首相は受け取らず”. 共同通信社. 47NEWS. (2006年2月14日). オリジナルの2014年5月25日時点におけるアーカイブ。 2016年6月23日閲覧。
- ^ “小泉純一郎衆議院議員の経団連常任理事会における挨拶”. 内閣府. 2020年1月23日閲覧。
- ^ 参議院 イラク人道復興支援活動等及び武力攻撃事態等への対処に関する特別委員会. 第159回国会. Vol. 11. 27 May 2004.
- ^ 朝日新聞東京本社2005年8月29日朝刊38面
- ^ 岩崎大輔 2006, pp. 24–53.
- ^ 藤原肇 2005, pp. 193–194.
- ^ 佐野眞一 2004, p. 146.
- ^ “小泉純一郎が英紙に本音「安倍首相の再選は難しい」 | それから「私は変人ではありません、非凡なのです」” (日本語). クーリエ・ジャポン 2018年8月28日閲覧。
- ^ ローラ・ブッシュ『ローラ・ブッシュ自伝』中央公論新社、2015年、p422-423
- ^ “小泉孝太郎、父・純一郎氏の好きな女性芸能人を明かす スタジオは驚き「なんでその二人」”. 産経新聞社 (2021年6月25日). 2021年6月26日閲覧。
- ^ 連珠世界1973年12号
- ^ エスエンタープライズ
- ^ 『週刊朝日 2022年3月11日号』
- ^ 梅田功 2001, p. 28.
- ^ 梅田功 2001.
- ^ 藤原肇 2005, p. 29.
- ^ a b c d e f 宮崎学 2008, pp. 54–55
- ^ 佐野眞一 2006, p. 146.
- ^ a b c d e f g 大林高士. “未公開ノンフィクション 小泉首相の祖父刺青大臣又次郎”. News Land 編集室. 2012年1月1日閲覧。
- ^ a b 梅田功 2001, p. 84.
- ^ 佐野眞一 2006, p. 156.
- ^ a b 佐野眞一 2006.
- ^ 梅田功 2001, p. 87.
- ^ 佐野眞一 2006, pp. 155–156.
- ^ “小泉首相の父親、在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導”. 朝鮮日報. (2005年10月20日)
- ^ a b c 佐野眞一 2006, p. 148.
- ^ a b 佐野眞一 2006, p. 147.
- ^ 佐野眞一 2006, p. 150.
- ^ 佐野眞一 2006, pp. 191–192.
- ^ 小泉純一郎氏 絶縁状態だった三男の結婚式に出席、出席者涙
- ^ 佐野眞一 2006, p. 157.
- ^ 佐野眞一 2006, pp. 157–158.
- ^ 梅田功 2001, p. 17.
- ^ 神一行 2002, pp. 236–237.
- ^ 梅田功 2001, pp. 123–234.
- ^ 『小泉総理の演説・記者会見等 : 内閣総理大臣談話』(プレスリリース)外務省、2005年8月5日 。
- ^ “80歳・小泉純一郎、孝太郎とTV初共演で“舌好調”&島崎和歌子にデレデレ SNSでも反響「めちゃくちゃ貴重」”. ORICON NEWS. オリコン株式会社 (2022年9月28日). 2022年9月29日閲覧。
- ^ “TEAM(チーム)第1話 TEAM(チーム)「犯人の名は未成年」”. WEBザテレビジョン. KADOKAWA. 2023年9月3日閲覧。
- ^ “小泉純一郎元総理がウルトラマンキングでアフレコ初挑戦!きっかけは次男の進次郎!?”. シネマトゥデイ. シネマトゥデイ (2009年10月13日). 2023年9月3日閲覧。
- ^ “ヤフー、「マンガで読む小泉総裁&前原前代表誕生ストーリー」を連載”. RBB TODAY. 株式会社イード (2006年6月30日). 2022年9月29日閲覧。
- ^ 週刊コミックバンチ★コアミックス 最新号情報と予告(次号予告項) Wayback
固有名詞の分類
- 小泉純一郎のページへのリンク