小林公太
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/15 13:04 UTC 版)
横浜ベイスターズでの現役時代 (2010年11月20日、横須賀スタジアムにて) | |
基本情報 | |
---|---|
国籍 | 日本 |
出身地 | 東京都世田谷区 |
生年月日 | 1991年9月1日(32歳) |
身長 体重 |
6' 1" =約185.4 cm 175 lb =約79.4 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2009年 育成選手ドラフト2巡目 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
| |
この表について
|
経歴
プロ入り前
小学生のときは世田谷ドラゴンズで主に捕手で活躍、中学時代は城南ドリームボーイズで主に内野を守った。一時は野球を諦め、騎手を目指し競馬学校へ願書を出したほどだったが、中3の夏に急に身長が伸びたため騎手の道は断念した[3]。
2007年、多摩大聖ヶ丘高に入学後、投手に専念。3年時の夏は、西東京予選1回戦の練馬工業高戦で7回参考記録ながら11奪三振でノーヒットノーランを達成するも、続く2回戦で敗退。
プロ入りとベイスターズ時代
2009年9月、横浜ベイスターズの入団テストを受験し、サイドスローからのストレートを武器に合格。10月29日のプロ野球ドラフト会議で、横浜ベイスターズの育成枠2巡目の指名を受け、支度金200万円、年俸240万円(金額は推定)で契約した。
インディアンス傘下時代
2012年11月30日にクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結んだことを発表した[5][6]。
2013年2月、プエルトリコの教育リーグに参加[7]。6月からはルーキー級アリゾナリーグ・インディアンスでプレーし、5試合の登板で1失点の投球を続けていたが、7月11日に解雇される。
独立リーグ時代
インディアンス退団後、独立リーグであるパシフィック・アソシエーションのハワイ・スターズに入団した。同年の内に退団し、そのまま、現役を引退した。
引退後
現役引退後、英語を磨くつもりでオーストラリアのシドニーに渡り、和食レストランで1年半勤務する。そこで料理の才能を認められたことからラーメン屋を志す[3]。その後、憧れだった王子神谷「富士丸」の元西新井店店長が経営しているボストンの「Yume Wo Katare Boston」でラーメン作りを修行し[3][8]、2016年11月に文京区で暖簾分けの形でラーメン店「Yume Wo Katare Tokyo」を開業した。
ラーメン屋としては、2019年よりお取り寄せラーメン販売サイト「宅麺.com」の「お取り寄せラーメン オブ・ザ・イヤー」を3連覇している[8]。
2020年に「俺の生きる道」と店名を変更したが、これは妻のつながりから萩本欽一に「自分のストーリーや人生の道が分かる店名がいいんじゃない」と言われたのが由来[8]。
選手としての特徴
変則サイドスローから繰り出す、140km/h台後半のストレートとスライダー武器だが制球力に難がある。インディアンスのスカウトからは「腕の角度がセルジオ・ロモに似ている」と評された[9]。
- ^ “欽ちゃん球団マドンナ”片岡安祐美 元DeNA育成選手と真剣交際 - スポーツニッポン 2017年1月8日(2017年12月2日閲覧)
- ^ a b 片岡安祐美が婚姻届提出 萩本欽一が証人、当日署名 - 日刊スポーツ 2017年12月2日
- ^ a b c 「遠山奬志さんのような存在でありたい」ラーメン店を経営する元ベイ育成右腕の小林公太さん/パンチ佐藤の漢の背中! - 週刊ベースボールONLINE・2021年4月3日
- ^ “来季の選手契約について”. 横浜DeNAベイスターズ (2012年10月2日). 2012年10月6日閲覧。
- ^ 本人のTwitter 2012年11月30日。
- ^ DeNA戦力外の小林がイ軍マイナー契約 日刊スポーツ、2012年12月1日。
- ^ “横浜解雇のマイナーリーガー小林、プエルトリコで躍動”. SPA! (2013年2月3日). 2013年2月5日閲覧。
- ^ a b c 【総合3連覇&殿堂入り】『俺の生きる道 白山店』小林店主「お取り寄せラーメン オブ・ザ・イヤー2021」SPインタビュー - 宅麺.com 2021年2月19日
- ^ 【異例】DeNA育成戦力外投手がメジャーに挑戦! 日刊SPA!、2012年12月1日
- ^ 東京中日スポーツ 2010年11月13日付 24面「とまり木」
固有名詞の分類
- 小林公太のページへのリンク