小宮山重四郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/28 13:12 UTC 版)
親族
重四郎一家は埼玉県川越市に在住していたが、小宮山家の元々の出自は山梨県甲府市である(甲州商人の項も参照)。
- 小宮山常吉(つねきち) 父。1882年10月18日山梨県生まれ。山梨県にて絹仲介業を営んでいたが、後に一家で上京、商店勤務、機械製造販売業を経て、1928年、長男の英蔵とともに屑鉄・スクラップ業「小宮山商店」を創業し成功を収める。更に足立鋼管、足立産業、昭和鋼管の社長を歴任した。1947年4月、英蔵の後援を得て第1回参議院議員通常選挙に山梨県地方区から無所属で立候補し当選。1期務める。院内会派「緑風会」に所属し、参議院大蔵委員会委員などを歴任した。議員引退後は再び英蔵の事業に参画し、武蔵野開発社長、武蔵野ゴルフクラブ社長。1974年4月24日没。
- 小宮山英蔵 長兄。1912年9月25日山梨県生まれ。尋常小学校卒業後、一家で上京。東京市役所第一助役室給仕を務めながら苦学の末、旧制日本大学工業学校(旧制日本大学が設置していた夜学の実業学校)卒業。1928年、父とともに屑鉄・スクラップ業「小宮山商店」を創業し、実業家として成功する。戦後はGHQ嘱託となり、日本清掃作業組合を設立。全国の旧軍需工場の解体とスクラップ鉄回収を一手に請け負う。この事業で得た資金を元手に、1947年に父を政界に進出させ、1949年には殖産会社東北林業を買収し、日本殖産株式会社に商号変更。更に同年、同社を金融業に業態変更し、平和貯蓄殖産無尽と改称、1951年、相互銀行法施行に伴いこれを相互銀行に移行させ、商号を平和相互銀行と改称し代表取締役社長、更に会長となる。太平洋クラブをはじめとする子会社を設立し、「小宮山コンツェルン」と称された企業グループを形成。太平洋クラブ取締役、クラウンライター会長など「小宮山コンツェルン」の総帥として財界に重きをなした。五島慶太・小佐野賢治・瀬島龍三らとともに「政商」の一人に数え上げられることも多く、竹下派ら政界関係者とも深くかかわりを持ち、重四郎の政界進出を後援した。1979年6月26日急死。英蔵の死後、平和相銀グループは後継を巡って遺族・経営陣による内紛が起き、「小宮山コンツェルン」の崩壊へとつながった。
- 小宮山美佐子 英蔵の妻。
- 小宮山精一 三兄。平和相互銀行代表取締役社長、のち会長。
- 小宮山勇 弟(常吉の五男)。中山カントリークラブ社長・東洋端子社長。
- 藤井丙午(元自民党参議院議員・新日本製鉄副社長・太平洋クラブ会長)とその三男藤井孝男(次世代の党前衆議院議員。元日本維新の会・元自民党衆議院議員・参議院議員)は遠縁の親族にあたる。
- 新珠三千代 義姉。妻の乃理子の実姉。元宝塚歌劇団(宝塚歌劇団33期生)、女優。妹の存在以外は私生活について生涯明かすことはなく、重四郎の選挙応援等も一切しなかった。
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