将棋 沿革

将棋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/03 20:10 UTC 版)

沿革

古将棋

日本への伝来

将棋の起源は、古代インドチャトランガ(シャトランガ)であるという説がもっとも有力とされている[1]ユーラシア大陸の各地に広がってさまざまな類似の遊戯に発達したと考えられている。西洋にはチェス中国にはシャンチー(象棋)、タイにはマークルックがある。

将棋がいつごろ日本に伝わったのかは明らかになっていない。囲碁の碁盤が正倉院の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が奈良時代前後とほぼ確定づけられるのとは対照的である。伝説としては、将棋は武帝が作った[30]吉備真備に渡来したときに将棋を伝えた[31]などといわれているが、江戸時代初めに将棋の権威づけのために創作された説であると考えられている。

日本への伝来時期はいくつかの説があるが、早いもので6世紀ごろと考えられている[32]。最初伝来した将棋は、現在のような平型の駒形ではないという説もある。古代インドから直接日本へ伝来したとする説では、古代インドのチャトランガの流れを汲む立像型の駒であったとされている。一方、6世紀ごろインドから直接ではなく、中国を経由して伝来したという説では、駒の形状は中国のシャンチー中国象棋)と同様な平型の駒として伝来したという説もある。チェスでは古い駒ほど写実的であるとされるが、アラビアなど古い地域において平面の駒がみられる。また今までに立体の日本将棋駒は発見されていない。他説としては、平安時代に入ってからの伝来であったとする説がある。インドからアラビアを経て、中国のシャンチーが朝鮮半島から日本に伝わったというものである。しかし平安時代には既に日本に将棋があったという説が有力である。また、駒の形の違い(アラビア、中国などは丸型、チャトランガは立体像、日本は五角で方向が決まっている)やこれらの駒を線の交点に置くことなど将棋とどれも大きく異なる。これに対し、東南アジアのマークルックは銀と同じ動きの駒があるが、歩にあたるビアの動きがあまりに将棋とは違うことが指摘されている。また、将棋は相手側三列で駒が変化するがマークルックではクン、ルア、コーン、マー、メットとも「成る」ことはない。この点も大きく将棋とは異なる。近年はこの系統の盤戯が中国経由または直接ルートで日本に伝来したとする説がある[33]。また、中国を舞台とした日本と東南アジアの中継貿易は行われていたことから中国経由の伝来は十分に考えられるが、中国での現代のシャンチーの成立時期は平安時代より遅く、また現代のシャンチーはルールも異なる。このため現代中国シャンチーが伝播したものではないと考えられている[34]。いずれにしても日本での、古代の日本将棋に関する文献は皆無で、各説は想像の域を出ない。

平安将棋

将棋の存在を知る文献資料として最古のものに、南北朝時代に著された『麒麟抄』があり、この第7巻には駒の字の書き方が記されているが、この記述は後世に付け足されたものであるという考え方が主流である。藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著とされる『新猿楽記』(1058年 - 1064年)にも将棋に関する記述があり、こちらが最古の文献資料と見なされている。

考古資料として最古のものは、奈良県興福寺境内から発掘された駒16点[35]で、同時に天喜6年(1058年)と書かれた木簡が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の『新猿楽記』の記述と同時期のものであり、文献上でも裏づけが取られている。

三善為康によって作られたとされる『掌中歴』『懐中歴』をもとに、1210年 - 1221年に編纂されたと推定される習俗事典『二中歴』に、大小2種類の将棋が取り上げられている。後世の将棋類と混同しないよう、これらは現在では平安将棋(または平安小将棋)および平安大将棋と呼ばれている[36]。平安将棋は現在の将棋の原型となるものであるが、相手を玉将1枚にしても勝ちになると記述されており、この当時の将棋には持ち駒の概念がなかったことがうかがえる。

これらの将棋に使われていた駒は、平安将棋にある玉将金将銀将桂馬香車歩兵と平安大将棋のみにある銅将鉄将横行猛虎飛龍奔車注人である。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく保存しており、上に仏教の五宝と示しているといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説がある[37]。さらに、チャトランガはその成立から戦争を模したゲームで駒の取り捨てであるが、平安将棋は持ち駒使用になっていたとする木村義徳の説もある。

古将棋においては桂馬の動きは、チャトランガ(インド)、シャンチー(中国象棋)、チェスと同様に八方桂であったのではないかという説がある。持ち駒のルールが採用されたときに、ほかの駒とのバランスをとるために八方桂から二方桂に動きが制限されたといわれている。

将棋の発展

これは世界の将棋類で同様の傾向が見られるようだが、時代が進むにつれて必勝手順が見つかるようになり、駒の利きを増やしたり駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが行われるようになった。日本将棋も例外ではない。

13世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車角行醉象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案された。15世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案され、現在に至っている。16世紀ごろには小将棋から醉象が除かれて現在の本将棋になったと考えられる。元禄年間の1696年に出版された『諸象戯図式』によると、天文年中(1532年 - 1555年)に後奈良天皇日野晴光伊勢貞孝に命じて、小将棋から醉象の駒を除かせたとあるが、真偽のほどは定かではない[38]。室町末の厩図屏風には、将棋に興ずる人々が描かれている。

16世紀後半の戦国時代のものとされる一乗谷朝倉氏遺跡から、174枚もの駒が出土している。その大半は歩兵の駒であるが、1枚だけ醉象の駒が見られ、この時期は醉象(象)を含む将棋と含まない将棋とが混在していたと推定されている。1707年出版の赤県敦庵著作編集の将棋書「象戯網目」に「象(醉象)」の入った詰め将棋が掲載されている。ほかのルールは現在の将棋とまったく同一である。

将棋をする少年(18世紀)

江戸時代に入り、さらに駒数を増やした将棋類が考案されるようになった。天竺大将棋大大将棋摩訶大大将棋泰将棋(大将棋とも。混同を避けるために「泰」が用いられた)・大局将棋などである。ただし、これらの将棋はごく一部を除いて実際に遊ばれることはなかったと考えられている。江戸人の遊び心がこうした多様な将棋を考案した基盤には、江戸時代に将棋が庶民のゲームとして広く普及、愛好されていた事実がある。

将棋を素材とした川柳の多さなど多くの史料が物語っており、現在よりも日常への密着度は高かった。このことが明治以後の将棋の発展につながっていく。

持ち駒の使用

将棋の発展のうち特筆すべきものとして、「相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できるルール」、すなわち「持ち駒」の使用制度が考案されたことが挙げられる。もっとも、このルールがいつごろできたものかのかは分かっていない。現在、提唱されている説としては、おもに以下の3つがある。

  • 16世紀ごろとする説…駒の数が持ち駒ルールに関連すると考える説である。将棋の駒の数は上述したように徐々に減って現代の本将棋になった。この説では、駒の減少は互いに駒が足りなくなって相手玉を詰められなくなるなどのゲーム性の低下を伴うことから、これを補うために持ち駒制度が考案されたのだと説明する。これを前提に、駒の数が現代と同じになった16世紀頃が持ち駒制度の考案時期であるとする。
  • 13世紀以前とする説…1300年ごろに書かれた『普通唱導集』に、将棋指しへの追悼文として「桂馬を飛ばして銀に替ふ」との文句がある[39]ことを根拠とする説である。これは持ち駒ルールを前提にした駒の交換を言っているものであると理解し、この時期には持ち駒の概念があったものと考えるものである[40]
  • 11世紀以前とする説…銀の裏面の「全」に似た字や歩の裏面の「と」に似た字などは「金」の崩し字であると考えられているが、これらがそれぞれ異なる崩し字を使う理由を持ち駒制度と関連づける説である。これらが単に「金」ではなく、あえて区別できるように書かれている理由を、取って持ち駒とした場合に元の銀や歩に戻ることが分かるようにするためだと理解すれば、成駒が区別可能か否かで持ち駒ルールの有無が分かるということになる。そのうえで、上記奈良県で出土した最古の駒について、成駒の文字が区別可能であるからこの時期には持ち駒ルールがあったとする。

持ち駒ルールが生まれた理由もよく分かっていない。上述した駒の数の減少に伴うゲーム性低下を補うためという説明が一般的になされるが、日本将棋よりも駒の数が少ないチェスなどの他ゲームには持ち駒制度がないことから、このほかにもさまざまな説明が試みられている。そのひとつとして、将棋の駒である、金・銀・桂(馬)・香はいずれも資産または貿易品を表していることから、将棋は戦争という殺し合いをテーマにしたゲームではなく、資産を取り合う貿易や商売をテーマにしたゲームという側面があり、相手から奪った資産は消滅するのではなく自分のものになるのが自然であるため、持ち駒使用ルールが生まれたのだとする考察もある。

本将棋

御城将棋と家元

1612年(慶長17年)ごろ、幕府は将棋と囲碁の達人であった大橋宗桂(大橋姓は没後)・加納算砂(本因坊算砂)らに俸禄(宗桂は50石5人扶持を賜わっている)を支給することを決定し、将棋(なお、初期の将棋指したちは中将棋も得意としていた)は、囲碁とともに、江戸時代の公認となった。宗桂と算砂は将棋でも囲碁でも達人であったが、やがてそれぞれの得意分野(宗桂は将棋、算砂は囲碁)に特化していき、彼らの後継者は、それぞれ将棋所碁所を名乗るようになった[41]

宗桂の後継者である大橋家大橋分家伊藤家の3家は、将棋の家元となり、そのうち最強の者が名人を称した。現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。名人の地位は世襲のものであったが、その権威を保つためには高い棋力が求められた(たとえば、家元の地位に不満を持つ在野の強豪からの挑戦をたびたび受け、尽く退けている)ため、門下生の中で棋力の高い者を養子にして家を継がせ、名人にすることも多かった。

寛永年間(1630年ごろ)には家元3家の将棋指しが将軍御前で対局する「御城将棋」が行われるようになった。八代将軍徳川吉宗のころには、年に1度、11月17日に御城将棋を行うことを制度化し、現在ではこの日付(11月17日)が「将棋の日」となっている。

江戸時代中期までの将棋指しは、指し将棋だけでなく、詰将棋の能力も競い合った。特に伊藤家の伊藤看寿の作品である『将棋図巧』は現在でも最高峰の作品として知られている(なお、伊藤看寿は早逝したため存命中に名人とならなかったが、没後に名人位を贈られた)。名人襲位の際には、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのが慣例であった。

江戸時代後期には、近代将棋の父と呼ばれる大橋宗英が名人となり、現代につながるさまざまな戦法を開発した。さらに、大橋家の門下生であった天野宗歩は、当時並ぶ者のいない最強の棋士として知られ、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。名人位が期待されたものの素行不良のために大橋家の養子となれなかった宗歩は、家元3家とは独立して活動するようになり、関西で多数の弟子を育成した。

現在のプロ棋士はほぼ全員が江戸時代の将棋家元の弟子筋にあたり、将棋家元は現代将棋界の基礎となっている。なお、現在では伊藤家に連なる一門が多数であるが、関西を中心に天野宗歩の系譜に属する棋士も多い。江戸時代の棋譜は「日本将棋大系」にまとめられている。

新聞将棋・将棋連盟の結成

将棋を楽しむ職人たち(1915年頃)

江戸幕府が崩壊すると、将棋三家に俸禄が支給されなくなり、将棋の家元制も力を失っていった。将棋を専業とする者たち(なお、そのほとんどは関東では家元三家の門下、関西では天野宗歩の門下で修行した者たちである)は、家元に対して自由に活動するようになり、名人位は彼らの協議によって決定する推挙制に移行した。

アマチュアの将棋人気は明治に入っても継続しており、日本各地で将棋会などが催され、風呂屋や理髪店などの人の集まる場所での縁台将棋も盛んに行われていたが、19世紀末には一握りの高段者を除いて、専業プロとして将棋で生活していくことはできなかったといわれている。

1899年(明治32年)ごろから、萬朝報が新聞として初めて紙面に将棋欄を開設し、他社も追随したため[42][43]新聞に将棋の実戦棋譜が掲載されるようになり、高段者が新聞への掲載を目的に合同するようになった。1909年(明治42年)に将棋同盟社が結成される。

大正時代のころの将棋界は有力棋士たちがそれぞれ連盟(派閥)をつくり、特定の新聞社と契約をして一門の経済状況を安定させていた。例えば大崎熊雄が師の井上義雄死去後に主宰した東京将棋研究会は当時の有力誌である国民新聞地方紙と契約し隆盛していた。一方で土居市太郎は東京将棋同盟社、関根金次郎は東京将棋倶楽部を主宰していた。明治時代以降から棋士有力者が各派に分かれていくなかで、基本的に他流試合は行わないのがこのころの原則となっていた。しかし外部の有力者・支援者らはこれでは将棋界全体として発展しないと指摘、こうして大崎が中心となって各派の首領を説き伏せる形で、前述三派合同の棋戦が報知新聞社主催で行われた。

これを縁として、1924年(大正13年)には関根金次郎十三世名人のもとにこれらの将棋三派が合同して東京将棋連盟が結成された。これが現在の日本将棋連盟の前身で、連盟はこの年を創立の年としている。

将棋禁止の危機

第二次世界大戦後、日本将棋連盟に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)より呼び出しがかかった[44]。これは武道などを含めた封建的思想の強い競技や娯楽の排除を狙ったものだが、連盟は知識豊富で勝負勘に優れた関西本部長代理の升田幸三を派遣する[44]。その席でGHQは「将棋はチェスとは違い、敵から奪った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法違反である野蛮なゲームであるために禁止にすべきである」と述べた[44]。それに対して升田は「チェスは捕虜を殺害している。これこそが捕虜虐待である。将棋は適材適所の働き場所を与えている。常に駒が生きていて、それぞれの能力を尊重しようとする民主主義の正しい思想である」「男女同権といっているが、チェスではキングが危機に陥ったときにはクイーンを盾にしてまで逃げようとする」と反論[44]。この発言により将棋は禁止されることを回避することができた[44]

現代棋界の動向

連盟結成以降の詳細は各記事に譲るが、1935年の名人戦を皮切りに8つのタイトル戦を含む10以上の棋戦が開催されている(2018年現在)。また、女性のプロ(女流棋士)も誕生し、1974年には最初の女流棋戦である女流名人位戦(現・女流名人戦)が開始され、2018年現在、6つのタイトル戦と1つの公式棋戦が行われている。この期間に定跡が整備され、特にプロレベルの序盤は高度に精密化された。将棋自身も賭博の対象から純粋なマインドスポーツへと変化している。プロの発展とともに、将棋のアマチュア棋戦も整備され、日本全国からアマチュアの強豪選手が集まる大会が年間に数回開催されている。

また、コンピュータプログラムを利用した将棋の研究、特にコンピュータに着手を計算させる研究は、世界的に見るとチェスのそれの後を追うようにして、日本において1960年代にその萌芽があり[45]、21世紀にはプロとの現実的な対局が考慮されるに至った(詳細はコンピュータ将棋の記事を参照)。2008年5月には、この年に開催された第18回世界コンピュータ将棋選手権での優勝・準優勝将棋ソフトがそれぞれトップクラスのアマチュア棋士に完勝。更に、2013年以降は将棋電王戦においてプログラムが現役A級棋士を含む上位棋士を次々に破っており、現在のコンピュータ将棋の実力はプロでも上位に入るレベルに達しているとされている。公式棋戦においてアマチュアトップや奨励会員とプロの実力下位者の対局が年間複数回指され、前者が後者を破ることも珍しくないことから、奨励会員・アマチュアトップもすでにプロ下位者の実力に達しているともされる。

インターネット上で指せる将棋、いわゆるネット将棋も1990年代から発展してきており、将棋倶楽部2481Dojoや、Twitterと連動したshogitterなどがある。

また、2012年の主要タイトル戦の全勝負をインターネットでトッププロによる解説を交えて生配信するなど、幅広い層へのアピールやファンの獲得にも積極的に取り組んでいる。

将棋人口の概要

レジャー白書』(財団法人社会経済生産性本部)によると、1年に1回以上将棋を指すいわゆる「将棋人口」は、1985年度の1,680万人から、2005年度840万人、2013年670万人と変化していた[46]

上記の期間に、将棋が一般メディアに取り上げられたことは何度かある。代表的なものでは、羽生善治の七冠達成(1996年)、将棋を題材としたNHK朝の連続テレビ小説ふたりっ子』の放送(1996年)、中原誠林葉直子の不倫報道(1998年)、瀬川晶司のプロ編入試験(2005年)、名人戦の移管問題(2006年)、コンピューター将棋ソフトBonanzaの躍進(2006年)、羽生善治の最年少で1000勝(2007年)、将棋電王戦(2012年)、今泉健司のプロ編入試験(2014年)、将棋ソフト不正使用疑惑(2016年)などである。

また、1996年ごろからJava将棋やザ・グレート将棋など、盤駒を利用しなくともインターネットを通じて対局ができるインターネット将棋が普及。現在は、1998年に運営を開始しアカウント延べ数20万人の将棋倶楽部24や、将棋ウォーズ近代将棋道場、Yahoo!ゲームの将棋などインターネット対局が主流になり、将棋センターは次々閉鎖されてきた。2010年に英語が公用語の対局サイトである81Dojoが開設され、2012年7月時点で登録者数は8,000人を超えていた。

その後藤井聡太の史上最年少デビューと無敗のままでの歴代連勝記録更新(2016年 - 2017年)により、藤井の連勝継続中は毎日のように一般メディアが取り上げ、関連グッズが飛ぶように売れ、各地の将棋教室が活況となるなど、2017年度の将棋界は大いに湧いた。さらに羽生善治の永世七冠達成(2017年)と国民栄誉賞授与(2018年)と明るい話題が続いた。

「レジャー白書2020」の推計によると最新の将棋人口は620万人である。

日本国外への普及

将棋は日本で独自の発展を遂げた遊戯であり、駒の種類が漢字で書かれて区別されているなどの理由で、日本国外への普及の妨げになっていた。囲碁は国際的に(多少の差異はあるが)ルールが統一されていること、白黒の石でゲームを行うこと、他国の固有ゲームとは類似性が見られない(他国ではチェスなどの将棋系ゲームがすでに存在していることが多い)ゲームであるなどの理由で、世界的に普及が進んでいるのとは対照的である。

将棋の存在そのものは海外でも比較的早く知られていた。中国では早く代に倭寇対策として日本文化が研究され、1592年の侯継高『日本風土記』で将棋のルールがかなり詳細に記載されている。またアメリカ合衆国では1860年に万延元年遣米使節によって将棋のゲームが披露されている。1881年のリンデ(オランダ語版)『チェス史の典拠研究』では将棋と中将棋が紹介されている[47]。1966年トレバー・レゲット(英語版)は詳細な将棋の専門書『Shogi: Japan’s Game of Strategy』を出版した。1975年にイギリスのホッジス (George F. Hodges) は将棋協会 (The Shogi Association, TSA) というクラブを作り、将棋専門誌『Shogi』を発行した。また西洋式の将棋駒を販売したり、将棋セットを日本から輸入販売したりした。ホッジスはまた中将棋のマニュアルも書いた[48]。1985年にはヨーロッパ将棋協会連盟(FESA)が創立され、毎年ヨーロッパ将棋選手権および世界オープン将棋選手権を開催している[49]

2010年には英語が公用語の対局サイトである81Dojoが開設された。

非漢字圏への普及のためにいくつかの駒の形が考案された。ホッジスのもの(通常の形の将棋の駒に英語の頭文字と動きが記されている)、GNU Shogi のもの[50]、ChessVariants のもの[51]、Hidetchi国際駒[52][53]などがある。最後のものは81Dojoなどで駒のデザインの一つとして選ぶことができる。

海外向け(日本在住者を除く)のアマ免状では、名人の署名もなく簡素な日本語で表記されており、名前の間違いがないように本名は自分で記入ができる。

英語圏の棋譜表記

英語圏の棋譜表記は何種類かあるが、上記ホッジスによるものがもっとも標準的に使われており、公式戦の棋譜中継で用いられる Kifu for Flash でも言語を日本語以外にするとこの表記になる。この表記は日本での表記とチェスの表記を折衷したような形になっていて、駒の種類、動かし方、位置、成・不成を組み合わせる。あいまいな場合は、駒の種類の後に移動前の位置を記す。

駒の種類は K(King、玉)R(Rook、飛)B(Bishop、角)G(Gold、金)S(Silver、銀)N(Knight、桂)L(Lance、香)P(Pawn、歩)のいずれかである。成り駒は + を前置することで表し、英語名称はPromoted Rook(+R、竜)、Promoted Silver(+S、成銀)のように頭にPromotedを付けて表すのが一般的である。位置は横の筋を将棋と同様右から左に1…9で、縦の段を上から下にa…iで表す。したがって「7六歩」は「P-7f」、「5五馬」は「+B-5e」となる。動かし方は通常「-」であるが、駒を取るときは「x」、打つときは「*」と書く。「成」は「+」、「不成」は「=」と記す。先手・後手の区別が必要な場合、先手をb (black)、後手をw (white) とする[54]

駒の英語名称のうち、King・Rook・Bishop・Knight・Pawnは近い性能のチェスの駒の名称を借りたもの、Gold・Silverは金・銀の名称をそのまま訳したもの、香車のLanceは槍を意味する。

棋譜法にはいくつかの変種がある。イギリスの Shogi Foundation の出版物では、駒の位置を縦横とも数字で示している(「7六歩」は「P76」になる)[55]。また、成り駒について、竜をD(Dragon)、馬をH(Horse)、と金をT(Tokin)で表す流儀もある[56]




  1. ^ a b “将棋の起源”. 朝日現代用語 知恵蔵2006. 朝日新聞社. (2006年1月1日). pp. 999-1000. ISBN 4-02-390006-0. 
  2. ^ https://www.shogi.or.jp/faq/other/
  3. ^ 『日本将棋用語事典』 p.77 東京堂出版 2004年
  4. ^ 『日本将棋用語事典』 p.113 東京堂出版 2004年
  5. ^ 『日本将棋用語事典』 p.175-176 東京堂出版 2004年
  6. ^ 『日本将棋用語事典』 p.129 東京堂出版 2004年
  7. ^ 『日本将棋用語事典』 p.102 東京堂出版 2004年
  8. ^ a b 『日本将棋用語事典』 p.26-27 東京堂出版 2004年
  9. ^ a b c d 『日本将棋用語事典』 p.56 東京堂出版 2004年
  10. ^ しゃ【車】 の意味”. goo辞書デジタル大辞泉). 2017年1月25日閲覧。
  11. ^ 「歩成り」との区別から「ならず」と呼ばれることがほとんどである
  12. ^ 将棋の通常の対局ではまず発生しないが、自玉に王手がかかっていないが合法な指し手が存在しない(チェスでいうステイルメイト)場合については、合法手がないため負けが確定している。ただしその場合は詰みにならないため、実際に負けとなるのは、投了するか、持ち時間が切れるか、反則行為を行った時である。コンピュータ将棋などでは、ステイルメイトは詰みと同様とすることが多い。
  13. ^ 対局規定(抄録):日本将棋連盟
  14. ^ 毎日新聞・将棋「ツィート」『Twitter』、2018年10月20日。2018年10月21日閲覧。オリジナルの2018-10-21時点におけるアーカイブ。
  15. ^ 角・馬が移動できない位置に移動する、成れない状況で駒を成るなど。
  16. ^ 棋士女流棋士奨励会員
  17. ^ 石橋幸緒女流王位がタイトル戦で角による豪快な「反則手」で勝局がふいになる”. 田丸昇公式ブログ と金 横歩き (2009年10月19日). 2013年6月19日閲覧。
  18. ^ トップ棋士が「角のワープ」で反則負け 109手目の痛恨ミス(松本博文) - Yahoo!ニュース” (日本語). Yahoo!ニュース 個人. 2021年1月4日閲覧。
  19. ^ 伝説の事件 - 第25回朝日オープン将棋選手権本戦第5局”. asahi.com (2007年1月9日). 2013年8月13日閲覧。
  20. ^ 対局者の「着手が30秒を超えており、考慮時間が消費されるべきである」との抗議で考慮時間が1回分消費されたが、対局時には反則であるという指摘はされなかった。テレビ放送後の視聴者からの抗議を受けて理事会で協議を行い、反則であるとされ次年度の銀河戦への出場停止などの処分が決定した(参考:加藤一二三九段、第14期銀河戦出場停止に(日本将棋連盟からのお知らせ))。
  21. ^ 日本将棋連盟でも、よくあるご質問にて、同じ指摘を行っている。なお、将棋とは異なり、チェスでは王手(チェック)をかける場合、強制ではないが慣習的に「チェック」と口頭で告げるべきとされている(王手#チェスの「王手」参照)。
  22. ^ NHKEテレ将棋フォーカス』2017年10月22日・放送分でも解説されている。
  23. ^ ASCII.jpで公開されているPonanza電王戦バージョン(2016年)の駒の価値。
  24. ^ Bonanzaで公開されているBonanza 6.0(2011年)の駒の価値。
  25. ^ なお、コンピュータのつけた評価値は、内部の計算に用いるために大きな値(飛車1枚で1000点前後になるなど)となっているため、1%程度に縮小して棋士のつけた評価値とスケールを合わせている。
  26. ^ 羽生善治 『羽生善治の将棋入門』 河出書房新社、2015年。 
  27. ^ 谷川浩司 『谷川浩司の本筋を見極める』 NHK出版、2007年。 
  28. ^ 同じソフト・棋士でも、徐々に改良を重ねているため、本やバージョンによって数値は異なる。例えば、谷川浩司は過去の著書(谷川浩司 『将棋に勝つ考え方』 池田書店、1982年)では、歩兵=1点、香車=5点、桂馬=6点、銀将=8点、金将=9点、角行=13点、飛車=15点、と金=12点、成香=10点、成桂=10点、成銀=9点、龍馬=15点、龍王=17点としていたことがある。
  29. ^ 玉将(王将)については他のいかなる駒よりも常に価値が高いので、点数は「付けられない」あるいは「∞点」と表現される。ただコンピュータ将棋などでは便宜的に全40枚のうち玉将2枚を除いた38枚(金将以外全て成っている状態)の点数の総計より十分大きい有限の点数が設定されることがある。
  30. ^ 増川宏一『ものと人間の文化史 将棋』(法政大学出版局、ISBN 4-588-20231-6)では、明治時代初めに書かれた『将棋絹篩』([1])の序文などに見られるが、宋代の『太平御覧』にあるものをそのまま引き写したのだろうとしている(88ページ)。が、増川説に対しては、木村義徳「将棋の日本到着時期をめぐって:増川宏一説に対する批判」(『桃山学院大学総合研究所紀要』30-2)[2] (PDF) で、武帝説の起源は初唐の数種の史料に遡る点等を指摘し、批判している。
  31. ^ 増川の同書(88 - 89ページ)に、1690年の『人倫訓蒙図彙』、1746年の『本朝俗諺誌』、1755年の『象棋百番奇巧図式序』などに記述があると指摘している。
  32. ^ 木村義徳『持駒使用の謎』日本将棋連盟、2001年。ISBN 4-8197-0067-7
  33. ^ 将棋棋士の大内延介は、著書『将棋の来た道』(めこん(文庫本は小学館)、ISBN 978-4-8396-0032-7)でマークルックを指した経験から、将棋との類似を指摘し、将棋の源流ではないかと主張している。
  34. ^ 前述の増川宏一らが、東南アジア伝来説を主張している。
  35. ^ 増川宏一『将棋の駒はなぜ40枚か』(集英社、ISBN 4-08-720019-1)、12 - 15ページ。出土資料そのものについては『木簡研究』16号(1994年)、「奈良・興福寺旧境内」(26ページ)参照。
  36. ^ 「平安将棋」の呼び名は、関西将棋会館にあった将棋博物館でも採用している(将棋史年表。このページでは木村義徳の説に従っている)。
  37. ^ 『遊戯史研究』6号(1994年)、清水康二「将棋伝来についての一試論」(12ページ)。これを紹介したサイトが日本中将棋連盟の古典将棋コラム九 日本将棋と仏教観にある。
  38. ^ 大内延介の『将棋の来た道』(小学館文庫版、ISBN 4-09-416541-X)に、大橋家文書に含まれていた碑文から同様の記述が見つかり、記述の信憑性が高まったと指摘している(35ページ)。
  39. ^ 村山修一『普通唱導集―翻刻・解説』法藏館、2006年。ISBN 978-4-8318-7558-7。「桂馬を飛ばして銀に替ふ」
  40. ^ 佐伯真一「「普通唱導集」の将棋関係記事について」『遊戯史研究』第5号、1993年。
  41. ^ なお、近年の研究によると、将棋所や碁所という役職は幕府公認のものではなく自称である。
  42. ^ 「国民百科事典4」平凡社 p21 1961年11月15日初版発行
  43. ^ ただし越智信義著『将棋文化誌』 (Kindle) では、萬朝報の将棋欄創設は1908年(明治41年)に掲載開始した「高段名手勝継将棋」開始時点とされている。
  44. ^ a b c d e 升田幸三『名人に香車を引いた男』223ページ「GHQ高官の度肝を抜く」より
  45. ^ http://ameblo.jp/professionalhearts/entry-10001276891.html などを参照
  46. ^ 「レジャー白書に見るわが国の余暇の現状」
  47. ^ 増川宏一『チェス』法政大学出版局〈ものと人間の文化史 110〉、2003年、13-14頁。ISBN 4588211013
  48. ^ ホッジスをはじめとする西洋人の努力は増川宏一『将棋II』(法政大学出版局1985) pp.305-307 に簡単に紹介されている
  49. ^ Federation of European Shogi Associations, http://www.shogi.net/fesa/ 
  50. ^ Shogi (Japanese Chess), GNU Operating System, http://www.gnu.org/software/xboard/whats_new/rules/Shogi.html 
  51. ^ Motif Shogi Pieces, The Chess Variant Pages, http://www.chessvariants.com/graphics.dir/motifshogi/index.html 
  52. ^ Shogi News: Internationalized shogi pieces - YouTube HIDETCHI(英語) - 他のデザインの国際駒のアイデアも紹介されている。
  53. ^ 将棋駒 国際駒 - 銘駒図鑑
  54. ^ Shogi Game Notation, Online Shogi Resources, https://genedavissoftware.com/shogi-game-notation/ 
  55. ^ Roger Hare (2019). A Brief Introduction to Shogi. http://eric.macshogi.com/shogi/roger/Introduction%20to%20Shogi.pdf 
  56. ^ 81Dojoの棋譜など
  57. ^ a b c d e f Yen, Chen, Yang, Hsu (2004) "Computer Chinese Chess"
  58. ^ Combinatorics of Go”. tromp.github.io. John Tromp, Gunnar Farneback. 2018年12月22日閲覧。
  59. ^ a b c 美添一樹「モンテカルロ木探索-コンピュータ囲碁に革命を起こした新手法」『情報処理』第49巻第6号、2008年6月15日、 686–693。
  60. ^ Searching for Solutions in Games and Artificial Intelligence
  61. ^ a b 羽生「将棋の海外普及」(2011)
  62. ^ a b ガラパゴス的に進化した日本の将棋 羽生善治 将棋棋士|働き方・学び方|NIKKEI STYLE
  63. ^ 株式会社QBQ編 『ゲームボーイクソゲー番付』マイウェイ出版発行、2017年。ISBN 9784865117790 p16
  64. ^ 飛車角落ち とは”. コトバンク. 2013年5月1日閲覧。(原出典: 大辞林 (3rd ed.), 三省堂, (2006) 







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