対馬 歴史

対馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/20 05:42 UTC 版)

歴史

先史

旧石器時代に人が、大陸から対馬の陸橋を通過した足跡は発見されていない。現在までに確認された最古の遺跡は、新石器時代に属する縄文文化のもので、この時代はすでに陸橋が切れ、対馬が、島として孤立している。大陸からのナウマンゾウ等の哺乳類の化石も見つかっていない。[* 5]

縄文時代の峰町佐賀貝塚や上県町志多留したる貝塚からは外洋性のの骨が出土し、峰町では多くの貝輪(腕に付ける装飾品)の材料が、沖縄の貝(イモガイ、ゴウボラ他)と北海道産の貝(ユキノカサ他)を使っていることが確認されている。また、石器の材料は、佐賀県伊万里市腰岳産の黒曜石である。さらに、峰町吉田貝塚からは縄文時代晩期の夜臼式土器、弥生時代前期の板付I式土器などが出土し、九州地方北部と同じ文化圏に属していたことが判明している。これらの石器・貝輪、土器は、峰町歴史民俗資料館豊玉町郷土館等で収蔵・展示されている。

北部九州ではこの頃から水稲耕作が始まり、平野が開発されてゆくが、対馬では河川や低平な沖積地に恵まれず、水田を拡大できなかったことから、弥生時代に入っても狩猟採集漁労などの生業が依然として大きな比重を占めたものと推定され、イネの収穫具であった石包丁はあまり出土していない。ただし、大陸系磨製石器青銅器鉄器などの金属器などは出土している。弥生時代前期の舶載品の有柄式石剣が多く見られる一方、北九州で製作された中広銅矛・広形銅矛も多く出土している[16]

古代

神話

国産み(「天瓊を以て滄海を探るの図」、小林永濯
淡路、四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州の順で国産みがなされた(大八洲

古事記』では最初に生まれた島々(「大八島国」)の1つとして「津島」と記されている[17]。『日本書紀』の国産み神話のなかには「対馬洲」「対馬島」の表記で登場する。

交通の要衝

古くから大陸との交流があり、歴史的には朝鮮半島倭国倭人ヤマトをむすぶ交通の要衝であった。

『魏志』倭人伝[* 6]では、「対馬国」はの一国として登場する。帯方郡から邪馬台国への経路の途上、「狗邪韓国」(韓国慶尚南道金海)の記述につづいて「一海を渡ること一千余里」の南に位置するとしており、邪馬台国に服属した30余国のなかの一国であった。そこには、対馬は、居る処は絶島で、土地は山が険しく、深林が多く、道は獣のみちのようであり、千余戸の家はあるものの、良田がないので海産物を採集して自活し、船による南北(九州や朝鮮半島の意)の交易によって生活していたと記されている。また、他の倭の諸国同様に、「卑狗」ヒコと呼ばれる大官と「卑奴母離」ヒナモリと呼ばれる副官による統治がなされていたとする。

古墳時代初期に築かれた出居塚古墳前方後円墳で、有茎柳葉式銅鏃、鉄剣(部分)、管玉等が出土している。前方後円墳は、3世紀代にヤマトで生まれた古墳形態であり、出土した有茎柳葉式銅鏃は古式畿内型古墳の典型的出土品であることから、この時代の対馬の首長はヤマト王権と深く結びつき、その強い影響下にあったことを示している。首長墓のうち比較的大規模なものは、対馬市美津島町高浜曽根の海岸に集中して分布している。えべすのくま古墳は前方後円墳とみられているが、前方後方墳の可能性もあり、墳丘の全長は約40メートルである。箱式棺で銅鏃12点、管玉1点、鉄剣を出土しており、銅鏃は京都府妙見山古墳福岡県石塚山古墳のものと類似し、古墳時代前期(4世紀ころ)の築造と推定される。美津島町の鶏知けちネソ1号墳は全長30メートルで箱式棺をともない管玉・鉄鏃・刀を出土している。鶏知ネソ2号墳は全長36メートルで、主室は箱式棺をともなって須恵器や鉄刀が出土しており、副室は箱式棺より土師器と鉄剣が出土している。ネソ1号墳、2号墳はともに積石塚である[16]

島の首長について、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では「津島県直」と伝える。古墳時代はヤマト王権がたびたび朝鮮半島に出兵し交戦を繰り返した時代であり、こうした状況は『日本書紀』、『広開土王碑文』、『宋書』倭国伝、『三国史記』の記載でも認められる。このなかで対馬の具体的な地名が登場するのは、『日本書紀』において、対馬北端の和珥津(わにのつ、現在の上対馬町鰐浦)から出航した神功皇后率いる大軍が新羅を攻め、服属させたうえ、屯倉を設置したという記述である。皇后が三韓征伐の帰途、旗八流を納めたとされるのが海神神社である。また、朝鮮側の記録としては、12世紀に編纂された朝鮮最古の歴史書『三国史記』に、第18代新羅王実聖尼師今の治世7年(408年)に、倭人が新羅を襲撃するため対馬島内に軍営を設置していたことが記されている。このように、対馬はヤマト王権による朝鮮半島出兵の中継地としての役割を担っていたことが知られる。

大化の改新ののち律令制が施行されると、対馬は西海道に属する令制国すなわち対馬国として現在の厳原いづはら国府が置かれ、大宰府の管轄下に入った。推古天皇における600年(推古8年)と607年(推古15年)の遣隋使も、また630年舒明2年)の犬上御田鍬よりはじまる初期の遣唐使もすべて航海は壱岐と対馬を航路の寄港地としている。

白村江の戦い

663年天智2年)の白村江の戦い以後、倭国は、新羅の侵攻に備え、664年には対馬には防人さきもりが置かれ、烽火とぶひが8か所に設置された。防人はおもに東国から徴発され、『万葉集』には数多くの防人歌がのこっている。667年(天智6年)には浅茅湾南岸に金田城を築いて国境要塞とし、674年天武3年、白鳳2年)には厳原が正式な国府の地に定まり、同年、対馬国司忍海造大国おしみのみやつこのおおくにが対馬で産出した朝廷に献上した。これが日本で初めての銀の産出となった。この対馬銀山は含銀方鉛鉱鉱床であり、鉱石を山上に運び数日間焼き続けることにより残った銀を採取したものであるという。この金属精錬法は灰吹法に類似している。

701年文武5年)、対馬で産出したと称するを朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって「大宝」の元号が建てられた。ただし、これは現在では偽鋳であるといわれている。

対馬国には伊奈、久須など5郷からなる上県郡と豆酘、鶏知など5郷からなる下県郡が置かれた。741年天平13年)、「鎮護国家」をめざした聖武天皇国分寺建立の詔により対馬にも厳原の地に国分寺が建立されている。

防人の制は、3年交代で東国から派遣された兵士2,000余人によって成り立っていたが、737年(天平9年)にはこれを止め、九州本土の筑紫国人を壱岐・対馬に派遣することに改めたが再び東国防人の制が復活し、757年天平宝字元年)にはそれも廃して西海道のうち7国(筑前国筑後国肥前国肥後国豊前国豊後国日向国)の兵1,000人をもってこれに代えることとした[18]

神護景雲2年(768年) 波自采女が続日本紀に「対馬島上県郡の人高橋連波自采女、夫を亡くして後誓って志を改めず。その父もまた死す。盧を墓の側に結んで、毎日斎食す。孝義の至り。路行く人を感ぜしむることあり。よってこれを其の門閭(里の入口)に表彰し、租(年貢)を免じて一生を終わらしむ。」と記されており、対馬市豊玉町に墓がある。

8世紀中葉の成立と思われる和歌集万葉集』には、

百船ももふなつる対馬の浅茅山 時雨(しぐれ)の雨にもみだひにけり

短歌が収載されているが、『万葉集』には、他にも「浅茅浦」「竹敷の浦」などの地名がみえ、また、「玉槻」という対馬在住とみられる女性[* 7]による、

竹敷の玉藻なびかしこぎ出なむ 君が御船をいつとか待たむ

の歌も収められている。

古代において、新羅から日本には540年欽明天皇元年)から929年延長7年)まで89回におよび入朝しており、日本から新羅へは571年(欽明天皇32年)から882年元慶6年)まで45回にわたり使節(遣新羅使)を派遣している。これらは、すべて対馬を経由した。

平安時代に入って桓武天皇の時代には防人制は広く廃止され、軍団制に改められたが、壱岐・対馬の両国に関しては例外として防人を残した[18]

4度にわたる新羅の入寇では、813年弘仁4年)の弘仁の韓寇は対馬を襲撃したものではなかったが、入寇ののち対馬には新羅語の通訳を置いた。

承和4年(837年)和多都美神社が神位を拝受した。

894年寛平6年)には新羅の賊船大小100隻、約2,500人が佐須浦(さすうら)に襲来したが撃退している。

刀伊の入寇

1019年寛仁3年)、正体不明とされた賊船50隻が対馬を襲撃した。記録されているだけで殺害された者365人、拉致された者1289人で、有名な対馬銀鉱も焼損した。これは、奴隷にすることを目的に日本人を略奪したものであり、被害は対馬のみならず壱岐・北九州におよんだ。現在では賊(日本側に捕らわれた捕虜3名はすべて高麗人)の主体は刀伊(一部は高麗に朝貢していたと言われる女真族)であったとされており、この事件は「刀伊の入寇」と呼ばれる。女真族は、このとき対馬の判官代長嶺諸近とその一族を捕虜にしており、諸近は一度は逃亡できたものの妻子をたずねて高麗にわたり、日本人捕虜の悲惨な境遇を見聞して帰国したという記録が残っている[19]

中世

治承・寿永の乱の際、当時の対馬国司藤原親光は源頼朝の外戚であったため、源氏軍に心を寄せて、1183年寿永2年)京都へ赴こうとしたが、平氏が九州全土を制圧していたため対馬を出発できなかった。平知盛は、大宰少弐原田種直を通して西海道の武士に屋島への参陣をうながしたが、親光が拒否したので平氏より3度追討をうけた。親光主従は高麗国に逃亡したのち、1185年文治元年)6月に対馬に戻った[20]

中世の対馬では、荘園制度の発展はみられなかった[21]が、鎌倉幕府は国ごとに守護を置き、対馬国守護職は少弐氏(武藤氏)にあたえられた。

12世紀には、のちの宗氏の始祖となる惟宗(これむね)氏が対馬に入部している。惟宗氏は、もと大宰府の官人であったが、筑前国宗像郡から対馬へ向かったとされる。史料で惟宗氏の名が対馬の在庁官人として確認される初見は、建久7年(1196年)である。惟宗氏(宗氏)は、少弐氏の守護代として次第に対馬で勢力をのばし、武士化していった。従来対馬で勢力を保っていた阿比留(あびる)氏は、当時国交を結んでいない高麗との交易をおこなっていた。大宰府はこれを詰問したが、阿比留氏が従わなかったため、1246年寛元4年)、大宰府の命により惟宗重尚(これむねしげひさ)が、鶏知を中心に強い勢力を持っていた阿比留在庁(平太郎)を征討して対馬の支配権を確立した。

なお、鎌倉時代では、1265年文永2年)成立の『続古今和歌集』に寄せられた大納言俊光の女の、

雨晴るる夕影山に鳴く蝉の 声よりおつる木々の下露

の歌が、上対馬の網代村の「夕影山の伝説」にちなみものだといわれている[22]

元寇

文永の役における鳥飼潟の戦い。元軍に突撃する竹崎季長と応戦、敗走する元兵。(『蒙古襲来絵詞』前巻・絵7・第23紙)

鎌倉時代の日本は、2度にわたるモンゴル帝国)とその属国高麗による侵略(元寇)を受けた。対馬はその最初の攻撃目標となり、史上最大の受難を迎えることとなった。1274年(文永11年)、蒙古・漢兵25,000人、高麗兵8,000人および水夫等6,700人は、高麗が建造した艦船900隻に分乗し、10月5日佐須浦・小茂田浜に殺到した。この大軍に対し宗助国は一族郎党80余騎を率い迎撃したが、圧倒的な兵力差により全滅した。この受難を小茂田浜神社で伝えられている。『日蓮聖人註画讃』によると、上陸した蒙古・高麗軍は、男を殺戮あるいは捕らえ、女は一ヶ所に集め、手に穴を開け、紐で連結し、船に結わえつけたという。これが対馬における文永の役である。

1281年弘安4年)に2度目の日本への侵略弘安の役が起こった。元・高麗軍の陣容は、合浦(現在の馬山市)より侵攻した蒙古・漢兵30,000人、高麗兵9,960人、水夫等17,029人より構成される東路軍と、寧波より侵攻した旧南宋・漢兵を主力とした100,000人の江南軍であった。弘安の役において『八幡愚童記』正応本には、

其中に高麗の兵船四五百艘、壱岐対馬より上りて。見かくる者を打ころしらうせきす、国民ささへかねて、妻子を引具し深山に逃かくれにけり、さるに赤子の泣こえを聞つけて、捜りもとめて捕けり。

と記されている。

康応の外寇

元寇終結後倭寇の活動が激しくなり、対馬は倭寇の根拠地の1つとなった。これは、ひとつには元寇に対する防衛や報復の意味があったといわれている[23]1366年正平21年、貞治5年)、高麗王朝が倭寇と海寇の取締を宗氏に要請すると宗経茂はこれに応え、高麗との通交が始まるが、1389年元中6年、康応元年)、慶尚道元帥朴葳に率いられた高麗軍が激化していた倭寇討伐のために対馬を襲撃した。朴は、倭寇船300余隻を撃破し、捕虜となっていた多数の高麗人を救出したといわれる(康応の外寇)。倭寇の活動は高麗王朝滅亡の一因ともいわれており、李氏朝鮮王朝の祖である李成桂も倭寇討伐で功名をなした人物であった。

応永の外寇

対馬では倭寇の禁止や遠征の進展に積極的であった宗貞茂が死去すると倭寇の活動が活発化し、朝鮮王朝第3代の太宗1419年応永26年)6月、倭寇討伐を大義名分とした掃討戦を決意した。朝鮮軍は、兵船227隻・軍兵1万7,285人で来襲し、尾崎浦(おさきうら)を焼き払い、つづいて小船越を襲撃し、さらには仁位浦に進んで如加岳(糠嶽、ぬかだけ)で対馬兵とのあいだで激しく戦った。朝鮮軍は、対馬の人びとの伏兵などによる反撃などにより損害が大きく、戦況が膠着状態に陥ったところ暴風雨も近づいたため、対馬側の和平提案を受け入れて、7月3日に巨済島へ全面撤退した。これが応永の外寇であり、朝鮮では乙亥東征と呼んでいる。

1433年永享5年)、宗氏の主君少弐嘉頼周防大内氏に敗れて対馬に逃れ、三根の中村に居を構えた。これにより少弐氏と宗氏はともに筑前国での勢力基盤を失った。

太宗の死後、第4代の世宗は日本との善隣政策をとり、3度にわたって通信使を送って通交の制度を整備した。1438年永享10年)ころには文引制を採用し、1443年嘉吉3年)には癸亥約定(嘉吉条約)を結んで、対馬から朝鮮への歳遣船は毎年50隻を上限とし、代わりに歳賜米200石を朝鮮から支給されることとした。日本から朝鮮へ渡航する者は宗氏の統制下に置かれることとなり、朝鮮南部海域の漁業特権も宗氏にあたえられた(このころの対馬島の状況は1471年刊行の「海東諸国紀(申叔舟 著)」に詳しく記されている[24])。こうして朝鮮との通交に関係のある諸権益は宗氏に集中したが、この過程は同時に対馬島内における宗氏の領国支配が確立していく過程でもあった[19]。島内の諸豪族も、経済的基盤は土地による収入よりも交易に依存する度合いが大きかったので、宗氏が朝鮮より優遇されることは、彼らにとっても好ましいことであった。宗氏の握る貿易権・漁業権は、みずからの家臣団編成などにおいて重要な役割をになったのである[19]

1510年永正7年)、朝鮮王朝の貿易抑制政策や恒居倭(朝鮮在留日本人)に対する締め付けに耐えかね、恒居倭と宗氏は富山浦乃而浦塩浦において兵乱を起こしたが、対馬島主の子息宗盛弘を大将とする4,000名から5,000名にのぼる軍勢は数に勝る朝鮮の官憲に大敗し、盛弘は熊川で戦死した。これが「三浦の乱」である。これ以後、中国人を主体とする後期倭寇東シナ海黄海の広い海域で活動し日朝貿易は衰えた。また、宗氏は戦国時代には壱岐に進出した松浦氏との対立がはじまった。

近世

対馬初代藩主宗義智
1838年に完成した『天保国絵図』「対馬国」

1587年天正15年)豊臣秀吉九州平定に際して、宗氏は事前に豊臣政権への臣従を決め、本領安堵された。1590年(天正18年)には、宗義智が従四位下侍従・対馬守に任ぜられ、以後、宗氏の当主にあたえられる官位の慣例となった。

秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では、出兵に先立つ1591年(天正19年)、厳原には古代の金石城の背後に清水山城が、上対馬の大浦には撃方山城が築かれて中継基地となった。対馬からは宗義智が5,000人を動員した。義智率いる対馬勢は一番隊から九番隊に編成された派遣軍のなかでも最先鋒部隊にあたる小西行長の一番隊に配属された。1592年(文禄元年)義智らは全ての日本軍の先陣となって渡海し、朝鮮軍や軍と戦い、釜山漢城(現韓国首都ソウル)、平壌(現北朝鮮首都)を次々と攻略した。義智は、戦闘だけでなく行長とともに日本側の外交を担当する役割も担っており、行長とともに常に講和を画策していた[19]。30万の軍隊がここを中継地として渡海したため、対馬ではたちまち食糧が底をつき、駐留する兵士が鶏・犬・猫などを住民から奪う禁令が出されたという[25]。なお、対馬には小西行長着用の兜が伝えられている。

義智は、1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍に加わって、みずからは伏見城攻撃に参加し、大津城攻めや関ヶ原本戦では家臣を派遣して参陣した。西軍敗北後は徳川家康から許され、以後代々徳川氏に臣属し、李氏朝鮮に対する外交窓口としての役割を担うこととなる。

こうして江戸時代を通じて宗氏が対馬府中藩(通称対馬藩)の藩主を務め、城下町は対馬府中(厳原)につくられた。1609年(慶長14年)には己酉約条(慶長条約)が締結され、釜山には倭館が再建された。倭館は、長崎出島の25倍におよぶ約10万坪の土地に設けられ、500人から1,000人におよぶ対馬藩士・対馬島民が居留して貿易が行われた。

2代藩主宗義成の代には、1615年元和元年)に大坂の陣に徳川方として参加した。その後、義成と対馬藩家老柳川調興とのあいだに柳川一件が起こっているが、1635年寛永12年)、3代将軍徳川家光によって裁可され、調興敗訴となった。1637年(寛永14年)から翌年にかけては島原の乱に幕府側として参加した。佐須鉱山を再掘したのも義成の時代であった。

対馬藩は、参勤交代制度に基づき、3年に1度、江戸征夷大将軍に出仕することとされ、江戸に藩邸を構え、厳原との間を藩主自らが大勢の家臣を率い、盛大な大名行列を仕立てて往来した。外交面では鎖国体制のなか、朝鮮通信使を迎えるなど日朝外交の仲介者としての役割を果たした。また、日朝それぞれの中央権力から釜山の倭館において出貿易を許されていた。現在の釜山市は対馬の人びとによってつくられた草梁の町から発展したものである。

柳川一件以来、日朝外交の体制が整備され、府中の以酊庵いていあん京都五山禅僧が輪番で赴任して外交文書を管掌する「以酊庵輪番制」が確立するなど幕府の統制も強化された。1663年(寛文3年)には、対馬藩により5基の船着き場が造成されており、現在「お船江跡」という遺構として当時のつくりのまま保存されている。 寛文元年 1661年 仁位郡検地が実施された。 対馬藩は10万の格付けであるが、山がちで平野の少ない対馬では米4,500石、麦15,000石程度の収穫であり、藩収入は朝鮮との交易によるものであった。作付面積のうち最も多いのは畑で、それに次ぐのは「木庭(こば)」とよばれる焼畑であり、検地では「木庭」も百姓持高に加えられた。また、石高制に代わって間高制という特別の生産単位が採用された[19]

17世紀後半は、日朝貿易と銀山の隆盛から対馬藩はおおいに栄え、雨森芳洲陶山鈍翁(訥庵)、松浦霞沼などの人材も輩出した。往時の宗氏の繁栄のようすは、菩提寺万松院のみならず、海神神社や和多都美神社の壮麗さが今日に伝えている[26]。1685年(貞享2年)には、藩主宗義真が府中に「小学校」と名づけた学校を建て、家臣の子弟の教育をおこなった。これが、日本で「小学校」の名のつく施設の最初であるという[27]

18世紀初めには陶山鈍翁の尽力で10年近い歳月をかけて「猪鹿追詰いじかおいつめ」がおこなわれた。それにより、当時は焼畑耕作の害獣であったイノシシは絶滅している[28]

以後、宗氏は改易もなく明治維新まで断絶することなく続き、明治維新後は伯爵となり華族に列した。14世紀後半から江戸時代にかけて、対馬の宗氏は一貫して日本の中央権力に服属してきたが、中世の一時期には朝鮮王朝から官職を与えられ、特殊な役割を果たしてきたことも事実である。高橋公明は、これを「対馬の境界性」と表現している[29]

幕末・明治初期

『旧厳原県歳入ニ関スル内願書』(1872年、厳原県士族寺崎正常・森川正邦)
『大日本海岸実測図』より「対馬国厳原及阿須港」(1874年測量、1875年発行)
兵部省海軍部水路局

江戸時代後期の1861年万延2年)にはロシアの軍艦ポサドニック号が浅茅湾に投錨し、対抗したイギリス軍艦も測量を名目に同じく吹崎沖に停泊して一時占拠するロシア軍艦対馬占領事件が起こった。ポサドニック号は芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留して藩主宗義和に土地の貸与を求めた。対馬藩は対応に苦慮したが、5月には幕府外国奉行小栗忠順が派遣され、7月にイギリス公使オールコックの干渉もあってロシア軍艦が退去した。芋崎には、現在もロシア人の掘った井戸がのこっている[25]

こののち対馬藩は1862年文久2年)、長州藩とのあいだに同盟が成立した。1863年(文久3年)には孝明天皇より対馬藩に対して攘夷勅許と御沙汰書が下っている。

1864年元治元年)、佐幕派で藩主宗義達の叔父にあたる勝井員周が藩内で主導権を握り、家老大浦教之助をはじめとする勤皇派100余名を粛清するという大事件が起こっている。勤皇派の平田大江は、これに対し、尽義隊を結成して抵抗運動を繰り広げた。藩主義達は翌1865年慶応元年)、まずは勝井五八郎を、続いて平田大江を殺害して、ようやく事件を終息させた。この一連のできごとを勝井騒動(甲子の変)といい、対馬全体では200名以上が犠牲になった。

義達は、1868年明治元年)には戊辰戦争に参加し、藩兵を率いて東上して大坂まで軍を進めた。1869年明治2年)、宗義達は版籍奉還をおこない、新藩制により厳原藩と改称されて、厳原藩知事となった。これとともに「対馬府中」の地名も「厳原」に改められた。1871年(明治4年)7月廃藩置県により厳原県となり、その後9月に伊万里県へ編入された。1872年(明治5年)、伊万里県は佐賀県に改められ、さらに1876年(明治9年)4月三潴県に合併され、8月には長崎県の管轄にうつされた。最後の藩主となった義達は、名を重正と改め、華族令の施行された1884年(明治17年)には伯爵を授けられた。

明治維新後も対馬は国防や交易の最前線として重視された。1874年(明治7年)には、兵部省海軍部水路局によって厳原港の測量がなされている。1883年(明治16年)12月、門司税関厳原出張所(現厳原税関支署)が開設され、翌年の2月には「朝鮮貿易港」に指定されている。

町村制の施行

長崎県管轄になったあとの対馬には厳原支庁が置かれたが、1886年(明治19年)には対馬島庁と改められた[30]1889年(明治22年)4月1日に長崎県内において市制町村制が施行されたが、対馬はこの対象から除外され[31]東京都伊豆諸島青ヶ島村を除く)、島根県隠岐諸島鹿児島県三島村トカラ列島及び奄美群島沖縄県と同様に島嶼町村制が適用された。対馬においては1908年(明治41年)4月1日に施行され、上県郡仁田佐須奈豊崎の5村、下県郡には厳原町のほか、与良佐須鶏知竹敷船越仁位奴加岳の1町7村が発足[32][33]1912年(明治45年)に厳原町の一部と与良村を久田豆酘の2村に分割[34]し、1919年大正8年)に普通町村制が施行された[35]。対馬島庁は、1926年(大正15年)には対馬支庁に改称されている[30]。なお、1905年(明治38年)には上下県郡総町村立の対馬中学校(現在の長崎県立対馬高等学校)が島内初の中学校として創立された。

対馬要塞の建設

対馬・基隆及澎湖島砲台増築等新計昼ニ係ル諸費概算一覧表(1898年、陸軍省
サンクトペテルブルクに建てられた「ツシマ・オベリスク」

ロシアやイギリスをはじめとする列強の対馬接近に脅威を感じた日本政府は、国境最前線であった対馬島の要塞化を図った。大日本帝国陸軍は、1878年(明治11年)には熊本鎮台から対馬分遣隊を対馬に派遣していたが、1886年には陸軍対馬警備隊が置かれた。対馬要塞の建設工事は、浅茅湾防備のため1887年(明治20年)より着工した。この工事は東京湾に次いで日本で2番目のものであった。1888年(明治21年)10月まで温江・大平・芋崎・大石浦の4砲台が完成し、日清戦争を迎えた。

大日本帝国海軍は、1896年(明治29年)、対馬周辺海域を防衛する要港部として浅茅湾に竹敷要港部を置いた。これは、日本海軍初の要港部であった。1898年(明治31年)以降1903年(明治36年)まで、四十八谷・大平高・姫神山・城山・折瀬ヶ鼻には砲台が、城山・根緒・上見坂には堡塁が築かれた。

日本海海戦

1904年(明治37年)には、日露戦争に備え対馬海峡の重要性から要港部司令官が親補職となり、幕僚として、参謀長、参謀、副官、機関長、軍医長、主計長が配置された。また、バルチック艦隊から浅茅湾を防衛するため、郷山・樫岳・多功崎・廻の各砲台の建設に着手した(廻砲台の工事はのちに中止となった)日露戦争における日本の勝利を決定的なものとしたことで知られる日本海海戦は、海外では"Battle of Tsushima"(対馬の戦い)の名称で知られている。実際にその名の通り竹敷港や尾崎港からは連合艦隊の水雷艇が出撃している。この海戦の砲声は対馬に届いたといわれ[25]、また、上対馬の殿崎・茂木・琴などの住民は、海岸に漂着した多くのロシア兵の救命救助をおこない、宿や食糧を与えている[23]

1920年(大正9年)には対馬警備隊司令部を改編し対馬要塞司令部を設置している。こうした対馬全島の要塞化により昭和前期には対馬海峡全体の防衛が可能なほどであった。特に豊砲台には、1922年(大正11年)のワシントン海軍軍縮条約により巡洋戦艦から航空母艦へ転用された「赤城」の40センチメートル連装砲塔が、竜ノ崎砲台には、戦艦「摂津」の30センチメートル連装砲塔が設置された。

太平洋戦争後期には豆酸にレーダー基地が設けられ九州と朝鮮半島の間を監視した。また、対馬と九州の呼子と平戸、対馬と沖島、対馬と本州浜田の間に電波警戒機甲がもうけられ、通過する飛行機の警戒にあたった。なお、豊砲台の跡地は今日でも見学することができる。

連合軍占領下

太平洋戦争後は連合国軍が進駐した。1945年(昭和20年)10月14日、戦争中の機雷による事故や銃爆撃を奇跡的に逃れていた九州郵船の旅客船「珠丸」が触雷の結果沈没し、545名を超える人命が失われる大事故があった(珠丸事件)。この日は、連合国軍総司令部による渡航差し止めが解除された日であり、珠丸は対馬経由で釜山港博多港のあいだを航行中、旧日本軍の敷設した機雷に触れたものである。1946年(昭和21年)、戦時中の言論統制により離島新聞は廃刊を余儀なくされていたが、斉藤隼人によってタブロイド版の「対馬新聞」が創刊された[36]

対馬は現在も長崎県に属しているが、経済的にはかねてより福岡県との交流が密であり、戦後すぐに転県運動が起こっている[36]。1946年には転県期成会が結成され、長崎県から福岡県への転県を国に働きかけた。福岡県議会では転県提案が可決されたものの、同年9月の長崎県議会では転県提案が否決された。それ以降も転県運動がつづいた。1949年(昭和24年)には、「対馬開発5ヵ年計画」が策定され、対馬町村会では、それを受けて対馬開発計画の実現のため転県運動中止を発表した[37]

1947年(昭和22年)9月には九州海運局厳原支局が、翌1948年(昭和23年)には厳原海上保安部が設置された。この年、済州島では韓国政府を承認しない島民が蜂起し、対馬では、それに対する韓国軍の鎮圧(済州島4・3事件)によって惨殺された済州島民の漂流遺体が多数収容された[38]

1950年(昭和25年)の朝鮮戦争1952年(昭和27年)の李承晩による一方的な海洋主権宣言(いわゆる「李承晩ラインの設定」)など、極東情勢の緊迫化は国境の島対馬に甚大な影響をあたえた。

宮本常一と離島振興法

軍事要塞であった対馬は長い間開発が抑制されたため、本土より数十年遅れているといわれていた。戦後、民俗学的調査のため対馬を踏査した宮本常一は、厖大な民俗記録を記すいっぽう、あまりの開発の遅れに胸を痛め、離島振興法を制定するために奔走した[23]1953年(昭和28年)、長崎県知事の呼びかけにより東京都新潟県島根県鹿児島県の知事が共同して「離島振興法制定に関する趣意書」を作成するなどの運動を展開し、同年7月、離島振興法が時限立法として成立した。

戦後の繁栄と衰退

現代の厳原の市街地

厳原港では、1952年ごろから「片道貿易」と呼ばれる日韓輸出入が始まり、小型船が連日港を賑わわせていた。『つしま百科』(長崎県対馬支庁発行)によれば、最盛期の1960年には輸出額約9億8,200万円、輸入額約2億2,500万円を記録、町には20軒を超える貿易商社が立ち並び[39]、遊興業も進出した。この日韓片道貿易は1961年(昭和36年)の朴正煕による5・16軍事クーデターによって終息した。

島内14町村は、1955年(昭和30年)から1956年にかけての昭和の大合併によって上県郡に上県上対馬、下県郡に厳原、美津島豊玉の6町村に再編された。

昭和20年代から30年代にかけては、対馬がもっとも賑わった時代であった。西日本屈指の漁場をかかえる対馬近海にはサバ漁イカ漁などのため遠方からも多くの漁船がおとずれ、各漁港や厳原の町も賑わった。さらに、山林にのこされた豊富な木材は製紙会社によってパルプ材として大量に買い上げられたため、林業収入も多かった[23]。人口も6万5,000人を越えていた[36]

しかし、片道貿易も終息し、食生活の洋風化や200海里問題などによる水産業の不振、森林資源の枯渇、交通における航空機時代の到来などによって、1960年代後半以降の経済は衰退し、人口流出が顕著となって過疎化に悩むこととなった。生活道路などの整備が充分になされないなか、公共事業も削減されて苦境に立たされている。2004年平成16年)3月1日には、対馬の6町すべてが合併して市制施行し、対馬市の1市体制となった。

2020年アメリカ合衆国Sucker Punch Productionsが開発した、元寇時の対馬を舞台としたPS4向けゲーム「Ghost of Tsushima」は世界的なヒット作品となった[40]対馬市も今までの韓国のみのインバウンドから脱却すべく、世界各国からのインバウンドを狙ってタイアップを行った[41][42][43]2021年3月26日には「Ghost of Tsushima」の映画化も発表された[44]


注釈

  1. ^ 平成28年三角点標高成果の改定に伴う標高変更で649mから648mと1m低くなった。[9]尚、山頂にある三等水準点の標高は648.40m[10]
  2. ^ 三等三角点 基準点名:真石、基準点コード: TR35129129001
  3. ^ 二等三角点 基準点名:男竜良、基準点コード:TR25129117701
  4. ^ 一等三角点 基準点名:有明山、基準点コード:TR15129224101
  5. ^ 峰町歴史民俗資料館の展示物
  6. ^ 正確には『三国志』魏書・東夷伝・倭人
  7. ^ 阿連(あれ。厳原町)の采女、玉調(たまつき。美津島町)の生まれ、遊女など、諸説あって定かでない。
  8. ^ 4月1日段階の推計。

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