対抗宗教改革 対抗宗教改革の概要

対抗宗教改革

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/19 04:54 UTC 版)

プロテスタント宗教改革
95Thesen.jpg
迫害の歴史
宗教改革の始まり
宗教改革者
各国の宗教改革

意義

対抗宗教改革(カトリック改革)は従来、宗教改革とそれに伴って勃興したプロテスタントへの対抗という限定的な見方で捉えられて来たが、近年カトリック教会の改革は宗教改革以前、遅くとも15世紀初頭から推進されていたことが明らかになるにつれ[1]、単なる宗教改革への反動とみる「対抗宗教改革」という言葉の語弊を避け、「カトリック改革」と呼んで中世後期以来の脈々と続くカトリック教会刷新運動に位置づける言い方が主流となってきている[要出典]

宗教改革の幕開けとなった1517年マルティン・ルターによる『95ヶ条の論題』の提示のはるか以前からカトリック教会の自己改革はおこなわれていた。それはカトリック教会が伝統的に保持してきた教義および教会組織に対する攻撃という流れに抵抗するものであり、14世紀ヤン・フスジョン・ウィクリフが指摘した聖職者の堕落への反省によるものであった。

カトリック改革の中でいわゆる「対抗宗教改革」にあたる部分は教皇パウルス3世の時代に始められ、宗教改革者たちの批判を受けて改革を行ったが、それは宗教改革者に対してカトリック教会の伝統を擁護するという面だけでなく、プロテスタントの批判に耐えうるカトリック教会としての自己改革を目指すものであった。

トリエント公会議において頂点に達するカトリック改革は三段構造の教会の戦略という面をよく表している。それは頂点にたつものが個々の教会を通して信徒の一人一人と結びついているというものである。カトリック改革においてカトリック教会は自己の教義と中世的な教会構造を再確認し、時代に即して効果あるものとするよう改善したのである。

トリエント公会議

パウルス3世の治世の最大の出来事であるトリエント公会議では、教会の組織的な問題を解決すべく枢機卿委員会が任命されたが、そこでは教義的な改革や、金儲けに走る司教たちや世俗にどっぷりつかった司祭たちの問題、贖宥状の引き起こした混乱の解決、および財政的問題に関しては討議されなかった。その分を差し引いて考えても、1545年から1563年まで三会期にわたっておこなわれたトリエント公会議はカトリック改革の頂点といえる出来事である。

公会議ははっきりとプロテスタントの主張の一部を誤りであると定め、中世教会が保持していた基本構造ともいえる秘跡の思想、修道会と特定の教義の重要性を再確認した。教義においてはプロテスタントに対する一切の歩み寄りを示さず、従来の教義を再確認した。公会議の決定で重要なことは救いにおける信仰と協働の関係を示し、伝承の重要性を認めたことである。パンとワインの聖変化がシンボリックなものでなく、真にイエスの体と血に変化すると考える「実体変化」の思想が、秘跡とともに支持された。また、宗教改革者が批判したカトリックの伝統的な信心である贖宥、巡礼聖人や聖遺物への崇敬、聖母マリアへの信心などが霊的に意味のあるものとして再び認められ、この点でカトリック教会はプロテスタントにはっきりと一線を画すことになった。




  1. ^ 増田祐志編『カトリック神学への招き』上智大学出版、2009年4月10日。71-72頁。


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