寺田寅彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/02 17:18 UTC 版)
関連人物
後に友人の大河内正敏に請われて入所した理化学研究所や他の研究所などでは、寅彦を慕って「門下生」となった人物が多く、その中には中谷宇吉郎(物理学者、随筆家)[6] や坪井忠二(地球物理学者、随筆家)、平田森三(物理学者)などがいる。
なお作家・安岡章太郎は寅彦の長姉・駒の義弟の孫で[7][8]、劇作家・別役実は駒の曾孫にあたる[7][8]。また古代史研究者の伊野部重一郎は寅彦の次姉・幸の孫で[8]、評論家・青地晨は寅彦の娘婿にあたる[8]。
父親である寺田利正は土佐の郷士宇賀喜久馬の実兄で[8]、井口村刃傷事件で弟の切腹の際、介錯を務めたとされている[8]。 実の弟の首をわが手で刎ねたことがトラウマとなり、利正はしばらく精神を病み、土佐藩下士による討幕には参加せず、学問により社会を変えようと考えるようになり、そのことが寅彦が軍人より学者になることを選んだ伏線となっていると言われている。
家族
- 五世祖:寺田左七
- 高祖父:寺田常八(養子、実は寺田新右衛門倅)
- 高祖母:寺田左七の娘
- 曾祖父:寺田正重(喜内)
- 曾祖母:竹内新右衛門の娘・逸
顕彰
寺田の業績を記念し、高知県文教協会が「寺田寅彦記念賞」を設立している[10]。寺田に関する作品、および、自然科学を対象とした研究や随筆に対して授与されている[11]。
- ^ T. Terada (1913). “X-Rays and Crystals”. Nature 91 (2270): 213. doi:10.1038/091213b0 .
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)214頁
- ^ 久保亮五「ある感想」(PDF)『廣報(広報)』第11巻6号(昭和55年3月号)、東京大学大学院理学系研究科・理学部、1980年3月、2-3頁、2023年3月3日閲覧。
- ^ 『天災と国防』(初出は1934年11月、『経済往来』)にあるのは、次の言葉である。
経緯は中谷宇吉郎の随筆「天災は忘れた頃来る」に詳しい。文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顚覆を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。 — 寺田寅彦、『天災と国防』:新字新仮名 - 青空文庫 l. 15 - ^ 熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982年、418頁
- ^ 新版で、中谷宇吉郎『寺田寅彦 わが師の追想』講談社学術文庫、2014年
- ^ a b 山田一郎『寺田寅彦覚書』岩波書店、33頁。
- ^ a b c d e f 『日本の有名一族』、108-112頁。
- ^ 俳句から小説へ――小説家漱石の弟子としての寅彦熊本県立大学図書館
- ^ 「寺田寅彦記念賞のあゆみ」『寺田寅彦記念賞 - 高知県文教協会』高知県文教協会。
- ^ 「寺田寅彦記念賞」『寺田寅彦記念賞 - 高知県文教協会』高知県文教協会。
- ^ 回想記に『漱石・寅彦・三重吉』岩波書店、初版1942年、復刊1983年
- ^ 評伝に、池内了『寺田寅彦と現代 等身大の科学をもとめて』みすず書房、2005年。
責任編集『寺田寅彦 いまを照らす科学者のことば』河出書房新社「KAWADE道の手帖」、2011年
寺田寅彦と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 寺田寅彦のページへのリンク