富山県 歴史

富山県

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/31 08:21 UTC 版)

歴史

先史

  • 富山県では旧石器時代遺跡は140以上も確認されている。それらの大半は3万年前までの後期旧石器時代のものである。そして、約2万2000年前頃までの前半期には東日本に分布する立つ野ヶ原型ナイフ形石器と呼ばれる石器群が、後半期には国府型ナイフ形石器と呼ばれる瀬戸内系石器群が出土している。本県では、東西の石器文化の影響を受けたことが分かる。また、これらの石器の材料は本県の西部の頁岩系石材とともに、瀬戸内系安山岩であり、当時の人々の広範囲な活動や交流が認められる。
  • 縄文時代 - 氷見市大境洞窟で新石器時代の遺物が発見される。

上代

  • 崇神天皇10年7月 - 四道将軍大彦命高志道を綏撫したといわれる[9]
  • 垂仁天皇23年 - 山辺之大鶙が垂仁天皇の命ずるところにより、鵠を追うて高志国に至ったといわれる[10][11][12]
  • 景行天皇25年7月3日 - 武内宿禰が北陸巡察を行う[13]
  • 成務天皇年間 - 伊弥頭国造として大河音足尼を任ずる[14]
  • 仲哀天皇元年閏11月4日 - 越国より仲哀天皇へ白鳥を貢ずる[15]。この時、蒲見別王がこれを越国人より奪ったので、仲哀天皇は兵を遣わし、これを誅殺した[15]
  • 573年敏達天皇2年)5月3日 - 高麗の使人が越海に漂着し、船破れて溺死者が多かったといわれる[16]
  • 574年(敏達天皇3年)5月5日 - 再び高麗の使人が越海に泊り、7月20日上京したといわれる[17]
  • 588年崇峻天皇2年)7月1日 - 阿部臣が越国国境を視察する[18]
  • 642年皇極天皇元年)9月21日 - 越国蝦夷が帰順したといわれる[19]
  • 白雉年間 - この頃、鵜坂神社創建という[20]
  • 658年斉明天皇4年)4月 - 越国守阿倍比羅夫粛慎の征討を開始し[21]、660年(斉明天皇6年)2月には二百艘の船を率いて陸奥渡島まで遠征したという[22]
  • 698年文武天皇2年) - 伝承によればこの年、各願寺(旧婦負郡婦中町)が創建されたという[23]。『肯構泉達録』曰く、「婦負郡長澤山各願寺の草創は文武帝御宇なり越中は天武帝第九皇子経宮の御領地にて経宮又越の宮とも称せり皇子浮屠に帰依まし〳〵て祝髪し給ひ女犯肉食を断ち自仏の像を刻み朝昏供養し給ふ御年三十にして越へ下らせ三川島といふ所に宮を造り暫く爰に在し文武帝即位の年長澤山に伽藍を建立し給ふ是れ各願寺開山自信院一品親王仏性聖人なり」[24]
  • 大宝年間 - この頃までに越国を分かって越前越中越後とする[25]。越国の分立国は『日本書紀』持統天皇6年9月癸丑条に「越前国司献白蛾」とあるのを初見としていることから、692年(持統天皇6年)以前に越中国も成立した可能性が高いとされている[23]。また、婦負郡、新川郡射水郡礪波郡もこの頃までには成立していたといわれ、703年(大宝2年)以前には頸城郡古志郡蒲原郡魚沼郡も越中の版図に含まれていた[23]
  • 701年(大宝元年) - この頃、越中国の国司である佐伯有頼またはその父・佐伯有若によって立山が開山し、雄山神社が開かれたと伝えられる[23]。開山縁起についての最古の文書である『類聚既験抄』には「文武天皇御宇大宝元年始所建立也。相伝云、於立山狩人有之。熊射矢ヲ射立追入出処。其熊乍立矢死了。見之皆金色阿弥陀如来也。仍此山云立山権現也。顕現地獄云々」とあるのみで、誰が開山したかということは記されていない[26]。『伊呂波字類抄』では単に狩人ではなくて熊を射った人物を越中守佐伯有若とし、阿弥陀如来を射てしまったことを契機に出家し、諸寺を建立したということになっているが[27]、佐伯有頼を開山の祖とする文献も多く、『和漢三才図会』では佐伯有頼が白鷹を追って奥山に入った際、襲いかかってきた熊を弓で射たところ逃げていったので、これを追っていったところ血を流している阿弥陀如来に出逢い、如来より有頼へ立山を開くようにお告げのあったのが立山開山の謂れであるとしており[28][29]、『立山大縁起』はこの佐伯有頼の出来事を大宝2年のこととしている[30]。また『神道集』は立山開山は大宝3年に教導聖人によって行われたとしている[31]。かくの如く立山開山譚は一様ではないが、佐伯有頼を開山の祖とする縁起が多い[23][32]
  • 703年(大宝2年)
    • 3月甲申 - 越中国に属していた四郡(頸城郡、古志郡、蒲原郡、魚沼郡)を越後国に所属させる[33]
    • この年、婦負郡常楽寺に文武天皇の勅願によって常楽寺が創建されたという[23]本尊行基の作と伝え、『越中旧事記』に「縁起云、文武天皇御勅願、大宝壬寅二年御建立也。本尊十一面観音行基師の作、御堂十一間四面観音を安置す」という[34]
  • 706年慶雲3年)2月26日 - 越中国の神社が祈年幣帛の例に入る[35]
  • 709年和銅2年)3月5日 - 越中等諸国より兵を徴発して越後の蝦夷征討を行う[36]
  • 718年養老2年) - 伝承によればこの年、天竺より僧善無畏三蔵が来朝し、礪波郡安居寺を創建したという[23]。『越中旧事記』に「縁起に云、この寺は善無畏三蔵、此所に紫雲立をみて、この寺を発起すとなり。善無畏三蔵は、北天竺の甘露飯王の後胤なり」という[34]
  • 719年(養老3年)
  • 725年神亀2年) - 寺伝によると、北陸巡錫中の僧侶行基によって国内最大の石仏である不動明王像が彫られ真言密宗大岩山日石寺が開かれたという[23][39]。『越中旧事記』曰く、「伝云、昔行基法師諸国に遊行して、仏像を造り給ふ、然るに越中白石と云處にて、東方を臨み見るに、東山の麓に火上石見ゆ、行基直に行て此不動尊を彫刻すといへり」[34]
  • 732年天平4年)9月5日 - 越中守として田口年足を任ずる(文献上初の越中国国司)[40]
  • 741年(天平13年)
  • 744年(天平16年)9月15日 - 初めて巡察使畿内七道に派し、従五位下石川東人を北陸道使となす[44]
  • 746年(天平18年)
    • 4月5日 - 初めて鎮撫使を置き、北陸山陰両道に巨勢奈氐麻呂を任ずる[45]
    • 6月21日 - 越中国の国司として歌人でもある大伴家持が任ぜられる[46]。後に大伴家持が中心となり編纂した『万葉集』には富山県の風景や伝説を詠んだ歌が全4536首のうち337首収められている[47]
    • 8月7日 - 家持邸にて歌会を開き、史生土師宿祢道良が「ぬばたまの夜はふけぬらし玉くしげ二上山に月傾きぬ」(巻十七)と作歌する[48]
    • 8月15日 - 家持、宇佐八幡宮の神霊を勧請し奈呉八幡宮と称して、この日放生会を行う[23]。これが放生津八幡宮の創始であると言われる[23]。『越中国神社由来』曰く、「同郡放生津八幡宮、往古大社ニ而北条時政再興之由申伝候得共、寄進状等無御座候、古来ゟ奈古浦与申祭礼、八月十五日幸放生会ニ付、嘉暦三年ゟ放生津与改申由」云々[49]
    • 9月25日 - 家持が、弟の卒去したのを聞き、これを悲しんで「かからむとかねて知りせば越の海の荒磯の波も見せましものを」(巻十七)と作歌する[48]
  • 747年(天平19年)2月20日 - 家持が病臥して、国守の館にて「山川のそきへを遠みはしきよし妹を相見ずかくや嘆かむ」(巻十七〉と作歌する[48]
  • 748年(天平20年)
    • 1月29日 - 家持、「あゆの風いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ」と作歌する[48]。この「あゆの風」というのは鹿持雅澄が『万葉集古義』に「安由能加是は、下の自註に、越俗語、東風之安由之可是也とあり、今も安以乃可是と云由、契沖云り」というように[50]、元来は越中において東風を意味する語であって、あいの風とやま鉄道株式会社の社名はこれに由来している[51]
    • 春 - 出挙のため家持が諸郡を巡行し、「立山の雪し消らしも延槻の川の渡り瀬鐙漬かすも」や「雄神川紅にほふ娘子らし葦付取ると瀬に立たすらし」(巻十七)などの歌を作る[52][48]
    • 3月23日 - 左大臣橘家より使者あり、大伴家持を訪う[48]。家持饗応して作歌あり、「奈呉の海に船しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む」(巻十八)[48]
  • 749年天平感宝元年・天平勝宝元年)5月5日 - 大伴家持が東大寺占墾地視察のため、東大寺占墾地使僧平栄を饗し、「焼き太刀を礪波の関に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ」(巻十八)の歌をなす[48]
  • 751年(天平勝宝3年)7月17日 - 大伴家持が少納言に任ぜられ、越中より離れる[48]。悲別の歌を作って曰く、「しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき夕かも」(巻十九)[48]
  • 757年天平宝字元年)5月8日 - 越中国より能登国を分離する[53]
  • 758年(天平宝字2年)9月28日 - 初めて越中国に駅鈴を頒つ[54]
  • 759年(天平宝宇3年)11月14日 - 往時の越中における東大寺の荘園園の規模等を示す「東大寺越中国諸郡荘園惣券」が成る[55]
  • 775年宝亀6年)3月2日 - 初めて越中に大少のを置く[56]
  • 780年(宝亀10年)12月14日 - 射水郡二上神社及び礪波郡高瀬神社を従五位下に叙する[57]
  • 784年延暦3年)3月3日 - 気多神社を正三位に叙する[58]
  • 795年(延暦14年)8月18日 - 高瀬神社、雄神神社、二上神社を従五位上に叙する[59]
  • 804年(延暦23年)6月10日 - 越中国を上国とする[60]

中古

  • 806年大同元年)5月24日 - 初めて観察使を置き、秋篠安人が北陸道観察使に任ぜられる[61][62]
  • 810年弘仁元年)5月27日 - 越中国に滞在した渤海国使首領である高多仏により、習語生等に対する渤海語の修習が行われる[63]
  • 815年(弘仁6年)2月9日 - 越中国介大伴黒成、越中国多治比清雄、越中国少目和邇真嗣等を官物を横領した罪により免官する[64]。なお、当時越中国司であった藤原鷹養及び越中国大目上村主加豆良は既に卒去していたため罪を問われなかった[64]
  • 840年承和7年)9月29日 - 高瀬神社及び二上神社を従四位上に叙する[65]
  • 845年(承和12年)9月1日 - 婦負郡鵜坂神社及び新川郡日置神社を従五位下に叙する[66]
  • 854年斉衡元年)
    • 3月7日 - 高瀬神社及び二上神社を従三位に叙する[67]
    • 12月27日 - 高瀬神社及び二上神社の禰宜及びに笏を把るを勅許する[68]
  • 859年貞観元年)1月27日 - 高瀬神社及び二上神社を正三位に叙する[69]
  • 860年(貞観2年)5月29日 - 鵜坂神社を従四位下、日置神社を正五位上に叙する[70]
  • 862年(貞観4年)10月9日 - 鵜坂神社を従四位上に叙する[71]
  • 863年(貞観5年)
    • 6月17日 - 越中、越後で大地震が発生し、圧死者多数[72]
    • 8月15日 - 鵜坂姉比咩神社を正六位に、鵜坂妻比咩神社及び杉原神社を従五位下に叙する[73]
    • 9月25日 - 雄山神社を正五位下に叙する[74]
  • 864年(貞観6年)3月23日 - 楯桙神社を従五位下に叙する[75]
  • 867年(貞観9年)
    • 2月27日 - 鵜坂神社を従三位に、日置神社を従四位上に、新川神社を従四位下に叙する[76]
    • 10月5日 - 御田神社を従五位上に叙する[77]
  • 873年(貞観15年)12月15日 - 賀積(加積)神社を従五位下に叙する[78]
  • 876年(貞観18年)7月11日 - 新川神社を従四位上、櫛田神社を従五位下に叙する[79]
  • 878年元慶2年)5月8日 - 手向神社を従五位下に叙する[80]
  • 879年(元慶3年)
    • 2月8日 - 御田神社を正五位下に叙する[81]
    • 10月29日 - 雄神神社を従四位上、石武雄神社を従五位下に叙する[82]
  • 883年(元慶7年)1月26日 - 新治神社を従五位下に叙する[83]
  • 886年仁和2年)12月18日 - 新川郡擬大領伊禰頭真益が私物を以て官用を助けた功により従五位下に叙せらる[84]
  • 889年寛平元年)8月22日 - 雄山神社を従四位下、熊野神社及び脇子八幡宮を従五位下に叙する[85]
  • 894年(寛平6年)7月16日 - 越中等諸国において諸院宮の使等、及び往還の人馬舟車を無理やり雇うことを禁ずる[86]
  • 897年(寛平9年)12月 - 射水神社(二上神社)を従二位に、鵜坂神社を正三位に陞叙する[87]
  • 延喜年間 - この頃『延喜式』成り、越中国の税率及びその期限(巻24主計寮上及び巻26主税寮上)、健児の人員及び武器、また各駅の地所とその伝馬数(巻28兵部省)等を定める[88]。また『延喜式神名帳』には越中国における34社の掲載がある(越中国の式内社一覧[89]
  • 908年延喜8年)8月16日 - 気多神社官幣に預る[58]
  • 970年天禄元年) - 『今昔物語集』巻十四所載の越中国僧海蓮が寂滅する[90]
  • 1017年寛仁元年)8月5日 - 越中の百姓が国司の善状(重任要望)を提出する[91]
  • 1038年長暦2年)8月25日 - 伊勢斎王の大神宮参入に伴い、北陸道諸国司に太政官符を宛て大中臣為輔を派す[25]
  • 1064年康平7年) - 源義家征夷の功により越中守に任ぜられることを請う[92]
  • 1065年治暦元年)9月1日 - 太政官符を越中国司に下し、新たに荘園を立てることを停める旨令する[25]
  • 1067年(治暦3年)10月7日 - 越中国司豊原奉季が橋を造った功績によりその任期を延長される[93]
  • 1080年承暦4年)
    • 6月10日 - 白河天皇不予あり、卜奏によって諸国社司に中祓を科し、越中においては鵜坂、気多、白鳥、三宅の諸社が指定される[94]
  • 1081年(承暦5年)2月 - 二上神社(射水神社)を正二位に、高瀬神社及び鵜坂神社を従二位に陞叙する[87]
  • 1090年寛治4年)7月13日 - 賀茂別雷神社(上賀茂神社)及び賀茂御祖神社(下鴨神社)に各600余町ずつ旧射水郡下村を中心とする不輸田寄進される(倉垣荘[23]
  • 1103年康和5年)6月10日 - 堀河天皇不例あり、卜奏によって諸国社司に中祓を科し、越中においては高瀬、鵜坂、白鳥、速川の諸社が指定される[94]
  • 1139年保延5年)8月4日 - 『朝野群載』や『懐中暦』を著した越中国射水郡出身の算博士三善為康が卒去する[95][12]
  • 1141年(保延7年・永治元年)7月 - 二上神社(射水神社)及び高瀬神社を従一位に、鵜坂神社を正二位に陞叙する[87]
  • 1154年久寿元年)8月10日 - 新川郡新治村、津波によって水没する[12]。『大日本史』曰く「久寿中海溢れて全村海に没す。纔かに社址(引用者註:新治神社)見ゆ。後世退潮し、乃ち更に荒蕪を治め、生地村と名づく」と[96]
  • 1180年治承4年)12月 - 二上神社(射水神社)、及び高瀬神社を正一位に、鵜坂神社を従一位に陞叙する[87]

近古

鎌倉時代

  • 1183年寿永2年)
    • 5月9日 - 越中国礪波郡般若野において、今井兼平が6千騎を以て平家と戦い、これを破る(治承・寿永の乱における般若野の戦い[12]
    • 5月11日 - 源義仲が越中国豪族石黒太郎光弘らを従えて越中国礪波山の倶利伽羅峠平維盛を破る(倶利伽羅峠の戦い[12][97][98]。『平家物語』には「源氏はか様にして日をくらし、平家の大勢を倶利伽羅が谷へ追ひおとさうどたばかりけるを、すこしもさとらずして、共にあひしらひ日をくらすこそはかなけれ。次第にくらうなりければ、北南よりまはツつる搦手の勢一万余騎、倶利伽羅の堂の辺にまはりあひ、箙の方立打ちたゝき、時をどツとぞつくりける。平家うしろをかへり見ければ、白旗雲のごとくさしあげたり(中略)平家、したいにくらうはなる。前後より敵はせめ来る。「きたなしや、かへせ〳〵」といふやからおほかりけれども、大勢の傾きたちぬるは、左右なうとツてかへす事かたければ、倶利伽羅が谷へわれ先にとぞおとしける。まツさきにすすんだる者が見えねば、此谷の底に道のあるにこそとて、親おとせば子もおとし、兄おとせば弟もつづく」と、平家の軍勢が谷底へ落ちていった描写はあるものの有名なる火牛の計の話はみえない[99]。火牛の話がみえるのは『源平盛衰記』であり、「四五百余頭ノ牛ノ角ニ松明ヲ燃シテ、平家ノ陣ヘ追入、胡頽子木原柳原上野辺ニ扣ヘタル軍兵三万余騎、鬨ヲ合喚叫、黒坂表ヘ押寄ル。前後四万騎ガ鬨山モ崩岩モ摧ラント夥シ。(中略)我先我先ト諍ヘ共、西ハ搦手也。東ハ追手也。北ハ岩石高シテ上ルヘキ様ナシ。南ハ深キ谷也、下スヘキ便ナシ。闇サハクラシ案内ハ知ラス、如何カスヘキト方角ヲ失ヘリ(中略)爰ニ不思議ソ有ケル。白装束シタル人三十騎ハカリ南黒坂ノ谷ヘ向テ落セ殿原、アヤマチスナ〳〵トテ深谷ヘコソ打入ケレ、平家是ヲ見テ五百余騎連テ落シタリケレハ、後陣ノ大勢是ヲ見テ、落足カヨケレハコソ先陣モ引カヘサザルラメトテ劣シ劣シト父落セハ子モ落ス云々」とある[12]。巷説に旧東礪波郡五箇山地方はこの戦いに敗れた平家が陰遁した地と言い[23][100]、当地の民謡たる麦屋節及びこきりこ節には「波の屋島をとくのがれ来て薪伐るてふ深山辺に烏帽子狩衣脱ぎ打棄てゝいまは越路の杣刀」という歌詞が残っている[101]
    • 5月12日 - 義仲、2万の軍勢を以て氷見湊を渡り、志保山に平家を追撃する(志保山の戦い[99]
    • 8月18日 - 義仲、越中国宮崎に居た北陸宮を皇儲につけようと謀るも失敗する[102][98][103]。この宮は往時、越中国新川郡宮崎にあったといい、『越中旧事記』には「宮崎南山上、後白河院第二の御子以仁親王の御子をは、治承の乱の時、以仁親王の御めのと讃岐前司重秀が北国へぐしまいらせたりけるを、木曽義仲もてなし奉りて、越中の国宮崎といふ所に御所をつくりてすへまいらせ、御元服ありけれは、木曽か宮とも申」と伝える[34]
  • 1185年元暦2年・文治元年/寿永4年)3月 - 鵜坂神社を正一位に陞叙する[87]
  • 1186年(文治2年)
    • 6月21日 - 源頼朝源義経及び源行家捜索のための越中含む諸国における武士の濫行を禁ずる旨訓令する[104]
    • 11月26日 - 義経を捕縛する旨、令下る[105]。『義経記』によれば義経一行は倶利伽羅峠を越えて越中に入ったが、如意の渡しにおいてその渡の守に一行が義経を引連れているのではないかと嫌疑をかけられた[106]。そこで武蔵坊弁慶は「あれは白山より連れたる御坊なり。年若きにより人怪しめ申す無念さよ。これより白山に戻り候へ」と言って、義経を船から引き摺り下ろし、扇を以て散々に打ちのめした[106]。渡の頭はこれを見て「判官殿にてましまさずは、さにてこそあるべきよ。か程いたはしげもなく、散々に当たり申されし事、併ら私が打ち申したるなり。御いたはしくこそ候へ」と言ってあわれがり、一行は無事渡海して彼岸の六渡寺に着くことができたが、そこで弁慶は「何時まで君を庇ひ申さんとて、現在の御主を打ち奉りつるぞ。天の恐れも恐ろしや。八幡大菩薩も許し御納受し給へ」といって号泣したと言われている[106]。その後、義経等は「いかせ(岩瀬)の渡り、宮崎の岩戸の崎」を経て越後に入ったという[106]
  • 1187年(文治3年)3月2日 - 頼朝が吉田経房より院旨を伝える書状のあったのを以て、越中国吉岡庄の地頭を交替するよう令する[107][108]
  • 1200年正治2年) - 院宣を以て越中国堀江荘を不輸の地とし神事に勤行させる[109]
  • 1205年元久2年)9月16日 - 太政官符を以て祇園社領であった越中国黒川郷堀江保の国役等を免ずる[110]
  • 1207年建永2年・承元元年)2月28日 - 『高田開山親鸞聖人正統伝』によると、この日親鸞に越後へ流罪の宣旨下り、同年3月28日に到着したという(承元の法難[111]。この途上、越中を経由したと伝えられ、『遺徳法輪集』には射水郡光久寺、極性寺、新川郡三日市村徳法寺及びその三本柿に関する縁起を載せており[112]、また浜黒崎の松並木の内には「親鸞上人腰掛け」と伝える松が残る[23]
  • 1221年(承久3年)
    • 5月30日 - 承久の変による戦乱で京方の市河六郎刑部の軍勢を越後国蒲原において鎌倉方が撃破し、越中国宮崎を攻略したという[113]
    • 6月8日 - 同日般若野荘、のち礪波山において官軍賊軍相戦う[25][113]。『吾妻鏡』によると鎌倉方は北条朝時を北陸道大将軍として4万余騎を率いたといい[114]、京方は宮崎定範等北陸の国人が参加していたという[115]。『承久記』曰く、「越中ト加賀ノ堺ニ砥並山ト云所有。黒坂・志保トテ二ノ道アリ。トナミ山ヘハ仁科次郎・宮崎左衛門向ケリ。志保ヘハ糟屋有名左衛門・伊王左衛門向ケリ。加賀国住人林・富樫・井上・津旗、越中国住人野尻・河上・石黒ノ者共、少々都ノ御方人申テ相戦フ。志保ノ軍破ケレバ、京方皆落行ケリ」と[116]
  • 1299年正安元年) - 慈雲妙意によって臨済宗国泰寺派摩頂山国泰寺が開かれる[117]。初め1296年(永仁4年)慈雲妙意が射水郡二上山に菴居していたところへ孤峯覚明の来り、相伴って紀伊国興国寺に参禅したのを契機に開山されたという[117]
  • 1316年正和5年) - この年、日印越中に巡錫あり、僧日順を帰依せしめ、婦負郡に本法寺を創建する[23]。当寺の「絹本著色法華経曼荼羅」(国の重要文化財)は、『越中旧事記』によれば「伝て云、此絵図は後醍醐天皇の嘉暦元年の春、越中放生津の浦に夜々光暉あり、是によつて、漁人網をおろして、彼波の下を探りもとむるに、浮木のことくなるものを得たり。破りて是をみるに、二十二の巻軸有、則越中富崎の城主神保八郎左衛門尉に是を献す。時の人何の図会と知ものなし、爰に本法寺の日順法印一々是を演説す。是に依て本法寺に寄附して、永く宝物となれり」という縁起が伝えられている[23][34]
  • 1333年元弘3年/正慶2年)
    • 2月19日 - 北条高時恒性皇子を越中国に配流し、また同地において守護名越によって弑される[12][118]
    • 5月17日 - 二塚に官軍を邀撃しようと企図した越中国守護名越時有が、大軍来襲の報に接した郎党の落伍によりこれを断念し、放生津城に自刃する[119]。『太平記』曰く、「去程ニ、敵ノ早寄来ルヤラン、馬煙ノ東西ニ揚テ候ト騒ゲバ、女房・少キ人々ハ、泣々皆舟ニ取乗テ、遥ノ澳ニ漕出ヌ。ウラメシノ追風ヤ、シバシモヤマデ、行人ヲ波路遙ニ吹送ル。情ナノ引塩ヤ、立モ帰ラデ、漕舟ヲ浦ヨリ外ニ誘ラン。彼松浦佐用姫ガ、玉嶋山ニヒレフリテ、澳行舟ヲ招シモ、今ノ哀ニ被知タリ。水手櫓ヲカイテ、船ヲ浪間ニ差留メタレバ、一人ノ女房ハ二人ノ子ヲ左右ノ脇ニ抱キ、二人ノ女房ハ手ニ手ヲ取組デ、同身ヲゾ投タリケル。紅ノ衣絳袴ノ暫浪ニ漂シハ、吉野・立田ノ河水ニ、落花紅葉ノ散乱タル如ニ見ヘケルガ、寄来ル浪ニ紛レテ、次第ニ沈ムヲ見ハテヽ後、城ニ残留タル人々上下七十九人、同時ニ腹ヲ掻切テ、兵火ノ底ニゾ焼死ケル」と[119]

南北朝時代

  • 1334年建武元年)4月12日 - 建武の新政により旧規に従って諸国にを課し、為に蔵人所よりその旨書状いたる[12]
  • 1335年(建武2年)
    • 8月18日 - 越中国国司たる源定清が北条時行に呼応して挙兵した名越時兼を加賀に討つ(中先代の乱[12][120]。この時、時兼が新川郡針原郷大野に鎮座していた日枝神社に放火したため、神主たる平尾氏はこれを逃れて隠土山に逃れたという[23]
    • 12月12日 - 越中国守護普門利清が足利高氏(足利尊氏の叛乱に呼応して越中国国司源定清(中院定清)を石動山に攻殺する(延元の乱[120]。『太平記』曰く「越中守護普門蔵人利清、并井上、野尻、長澤、波多野ノ者共、将軍ノ御教書ヲ以テ両国ノ勢ヲ集、叛逆ヲ企ル間、国司中院少将定清、要害ニ就テ、当山ニ楯籠ラルヽニ、今月十二日彼逆徒等雲霞ノ勢ヲ以テ押寄ル間、衆徒等義卒ニ与シテ、身命ヲ軽ストイヘトモ、一陣全キ事ヲ得スシテ遂ニ定清戦場ニ於テ命ヲ隕サル」[120]
    • この年、魚津に松倉城魚津城の築城ありと伝え、『三州志』松倉城條に「元弘中椎名孫八入道居タリ(一作孫六太平記)、建武二年乙亥名越時兼越中ニ起ル時野尻尻玄畜允ヲ嘱ミ兵子ヲ募キ杉本城(此城地新川郡杉本カ然レトモ今無遺蹟)ニ據テ椎名孫八ノ魚津城ヲ攻ムトアリ魚津城ハ松倉城ト云説アリ」といい、また魚津城條に「建武二年名越兼時起ル時椎名孫八入道一城ヲ築キ南朝方ニテ保ム」とある[121][100]
  • 1341年興国2年/暦応4年)8月12日 - 護国興化寺の開基僧運良寂す[122]
  • 1342年(興国3年/暦応5年・康永元年)春 - 宗良親王越中国名子に駐留され、同地における作歌たる「かへる雁こしぢの嶺のへだてをも我こえてこそ思しりぬれ」、「今は又とひくる人もなこの浦にしほたれて住あまとしら南」などの歌が『李花集』に収められている[123]
  • 1344年(興国5年/康永3年)10月25日 - 室町幕府が越中国にあった南朝軍の攻撃を吉見頼隆に命ずる[124]
  • 1345年(興国6年/貞和元年)
    • 3月10日 - 吉見頼隆、越中国に発向する[124]
    • 6月3日 - 国泰寺開基僧妙意寂す[125]
    • 7月11日 - 南朝軍井上俊清、越中国滑川において吉見頼隆と戦い敗れる[125]
  • 1346年正平元年/貞和2年)3月6日 - 越中国の南朝軍井上俊清、新田貞員、粟澤政景等が能登国に入り木尾嶽城に據る[125]。幕軍吉見氏頼これを攻め、同年3月16日より相戦い、同年5月4日落城する[125]
  • 1350年(正平5年/観応元年)
    • 10月23日 - 足利直義方の桃井直常、越中国氷見湊を攻略し、能登に進撃する(観応の擾乱[126]
    • 11月3日 - 桃井直常に和した井上布袋丸、富来彦十郎等が能登国花見槻に戦って敗れ、越中に遁走する[126]
  • 1351年(正平6年/観応2年)1月15日 - 桃井直常、越中国人等を率いて上洛し、四条河原に足利尊氏及び足利義詮と戦ってこれを破る[127]
  • 1352年(正平7年/観応3年・文和元年)6月6日 - 足利尊氏方の吉見氏頼、能登国より越中国に攻入るを、桃井直常・直信が邀撃するも敗れる[128]
  • 1362年(正平17年/康安2年・貞治元年)
    • 1月23日 - 桃井直和が越中に所在の北朝(幕府)軍を攻撃する[129]
    • 5月22日 - 桃井直常等石動山に北朝軍と戦う[129]。激戦による損耗のため、北朝軍は義詮が援軍を派遣してこれを督励し、7月に至って桃井直広その軍門に降る[129]
  • 1368年(正平23年/応安元年)2月24日 - 桃井直常、再び越中に帰る[130]
  • 1369年(正平24年/応安2年)4月12日 - 桃井直常が挙兵して能登に進み、吉見氏頼配下の頼顕伊予入道及び富樫昌家の軍と戦って越中に敗走する[130]
  • 1370年(正平25年・建徳元年/応安3年)
    • 3月16日 - 桃井直和、越中国婦負郡長沢に布陣して越中国守護斯波義将及び富樫昌家と戦い敗死する[131]
    • この年、大徹宗令によって眼目山立山寺が開山されたという[23]。『越中旧事記』には「大徹和尚は、能登の総持寺の開山瑩山和尚の第五弟子の其一人なり。此寺の材木は、悉立山権現の寄進し給ふといへり」という[34]
  • 1371年(建徳2年/応安4年)7月18日 - 桃井直常及び飛彈国司藤原家綱の軍、越中国礪波郡後位荘において斯波義将と戦い敗れる[132]
  • 1390年元中7年/康応2年・明応元年) - 本願寺5代目法主僧綽如によって瑞泉寺が創建される[133]。『和漢三才図会』曰く、「綽如本寺ヲ巧如ニ譲リ当国礪波郡杉谷ニ幽居ス。時ニ異国ノ書簡京師ニ来リテ文義暁(サトシ)難キ者有リ。博識ヲ以テ綽如ヲ勅シテ召シ之ヲ読マシム。文文句句水ノ流レルカ如シ。叡感最モ甚シ。嘗テ一宇ヲ越中ニ建テント欲シテ之ヲ奏シ勅許アリテ下向ス。此所ニ乗馬俄ニ嘶キ留リ行カズ、其地清泉湧出ヅル。此ニ於テ寺ヲ建テ勅ヲ賜ヒテ瑞泉寺周円上人ト号シ、又礪波ヲ改メテ井波ト為ス」[134]

室町時代

  • 1397年応永4年)5月2日 - 幕府、越中国守護畠山基国山城国東岩蔵寺領であった越中国太田保内富山郷に諸公事守護役の催促を停止させる[135]。坂井誠一によるとこれが「富山」という地名の初見であるという[136]
  • 1430年永享2年)6月9日 - 足利義教(室町幕府第6代将軍)、正室の正親町三条尹子に越中国富山柳町を与える[25]
  • 1440年(永享12年) - この年、礪波郡福岡に巌照寺が創建されたという[23]。『三州地理誌稿』曰く、「巌照寺 在福岡村。永享十二年本願寺綽如子僧周覚創建」と[87]
  • 1441年嘉吉元年)1月29日 - 嘉吉の乱によって、義教の寵愛を受けていた畠山持永畠山持国より逃れて越中国に没落する[12][137]。同年8月に至り持国越中に派兵して持永これに敗れ、僧となって河内国に逃れるも同地において土民に討たれる[12]
  • 1443年(嘉吉3年)10月28日 - 正親町三条尹子、越中国富山柳町を二尊院に寄附し、亡き義教等の冥福を祈る[138]
  • 1450年宝徳2年)7月16日 - 越中国に大嵐来り、婦負郡牛岳に怪光あり[12]。『康富記』に「大風大雨雲中牛嶽ト云所ヨリ光物出(其体雲中鬼形有之)、指艮飛行、其間十里許也(山河草木悉損失云々)」という[139]

戦国時代

  • 1468年応仁2年) - この年、飛彈国より聞名寺が婦負郡土村に遷る[23]
  • 1471年文明3年)
    • 3月 - 蓮如来って土山坊を礪波郡土山に開創する[136]。のち1517年(永正14年)7月2日、これを勝興寺と改む[140][141]。『勝興寺文書』曰く、「其御坊御寺号之儀祖師北地御在居之時分於佐渡国順徳院御帰依御建立之寺号断絶有之儀ニ候之間此度為相続其御坊被勝興寺与候様ニ被仰候此段難有可思召旨御申入可之候恐々謹言」と[140]
    • この年、礪波郡福光に僧道乗によって光徳寺が創建されたという[23]。『三州地理誌稿』曰く、「光徳寺 在法林寺村、文明三年僧光乗創建」[87]
  • 1475年(文明7年)7月16日 - 礪波郡瑞泉寺蓮如の巡錫あり、越中における浄土真宗伝播の一契機となる[25]。『賢心物語』曰く、「蓮如上人当寺(瑞泉寺)ヘ文明七年七月十六日御下向ノ時、蓮乗時ノ御住持ナリ、河上ノ衆ヲ始トシテ、当国ノ御門徒衆ウチヨリマカナイ申サレ候、順如ハハジメ申御兄弟衆男女トモニミナ々々御下向候ツルヨシ、了如御物語アリケリ」[25]。またこの年、 富樫政親と争う加賀国一向一揆衆が敗れて井波瑞泉寺に遁走する[142]
  • 1481年(文明13年)春 - 瑞泉寺に據る一向一揆衆、福光城主石黒光義と礪波郡田屋河原に戦って勝し、石黒光義は戦死する(越中一向一揆[32][142]。東大寺文書中に「高瀬地頭方去年御年貢事、連〻地下人一向衆以同心之儀、年〻過分無沙汰候、殊去年中未進分、春中可致沙汰之由、地下人申候間、其趣内〻申処、去三月郡内土一揆不思議企候、地頭方百姓為本人、造意事候間、去年未進之儀一向不及沙汰候、余不可然存条、其後度〻指下人、堅申付半候、未一途候、猶〻無疎略之儀可申下候、委細安楽坊申入候、此才趣可得尊意候」とあり[143]、この頃当該地域において一向一揆のあったことが窺える[32]
  • 文明年間 - この頃、加賀国河北郡に北陸巡錫中の蓮如が坊舎を建て、後代の実円に至ってこれを礪波郡城端に遷し、善徳寺と号したという[23]。『三州地理誌稿』は1446年(文安3年)に僧実圓が礪波郡城端に善徳寺を創建したという説を載せている[87]
  • 1488年長享2年)6月9日 - 石川郡高尾城に據る富樫政親を加越能の百姓攻めて政親が城内において自害する(加賀一向一揆[12]。『後法興院記』曰く「伝聞、去八日於加州冨樫介生涯云々、加賀国一揆衆、其外能登越中之一揆衆相加間及数万人云々」[144]。『朝倉始末記(賀越闘諍記)』曰く「長享二年ニ、賀州ハ申ニ不及、能登越中諸国ノ類葉ニ籌策ヲ廻(メグラシ)、一揆悉ク打莅(ウチノゾン)デ、富樫ガ城ノ四面ヲ取巻キ、昼夜数日火水ニナレト攻ケル程ニ、富樫既ニ負テ、城中ニ於テ、九月九日ニ腹ヲゾキラレケル」[145]
  • 1493年(明応2年)6月28日 - 明応の政変に伴い室町幕府10代将軍足利義材が下向し、放生津城主神保長誠の支援を受け5年間滞在する[25][146]。『後法興院記』(明応二年七月十六日条)曰く、「伝聞、今出川殿下向越中云々、神保致警固間近国少々申御体云々、高運之至也、天下安危在此時乎」[147]。『親長卿記』(明応二年七月一日条)曰く、「陰晴、今日或仁云、去夜将軍(義材、当時人々号正覚寺御所)俄御逐電、不知其行方、去四月自河州陣御上洛之後、奉押籠上原左衛門大夫許了、後聞、落留越中給云々」[148]。これより1498年(明応7年)まで義材を中心として越中国射水郡放生津正光寺にあった政権を越中公方と称し[32]、往時小幕府の体をなしたりといわれる[23]
  • 1494年(明応3年) - この年、「貞享二年寺社由緒書上」によると礪波郡に万福寺が創建されたという[23][149]
  • 1498年(明応7年)9月2日 - 足利義材が上洛を図って越中国より越前国朝倉氏邸に至る[25]。『後法興院記』(明応七年九月五日条)曰く、「伝聞、越中大樹近日可有上洛云々、去二日越前朝倉館ニテ被越云々、和睦之儀云々」[147]
  • 1502年文亀2年) - 旧東礪波郡平村上梨に鎮座する白山宮本殿が創建される[23]。建築年次の明らかなる現存建築物としては県内最古のものであるという[23][150]
  • 1506年永正3年)
    • 7月15日 - 加越能の一向宗門徒、一統に蜂起して越前に来襲する[25]。『朝倉始末記(賀越闘諍記)』曰く、「去程ニ「悪将ハ悪鬼ヲ請ジ、悪鬼ハ災異ヲ生(シヤウズ)」ト云ヘバ、時日ヲ不レ移、類葉馳集ル。然則、去永正三年七月十五日ニ、越前国中ノ一揆、越中・能登一統ニ蜂起シテ、川ヨリ北ニ打入、在々処々ヲ放火シテ兵庫・長崎、村々里々ニ陣ヲ取ル」[145]
    • 9月19日 - 越中一向一揆勢が越後の上杉房能配下なる長尾能景の軍を破り、能景は同地において敗死する(栴檀野の戦い[25]
  • 1509年(永正6年)7月28日 - 上杉顕定上杉憲房の軍、坂東の兵を率いて越後の長尾為景を攻め、為影は越中に逃れて幕府及び陸奥伊達尚宗に援軍を請う[151]
  • 1516年(永正13年)9月9日 - 越後国守護代長尾為景、越中国において神保慶宗と相戦う[152]
  • 1519年(永正16年)10月6日 - 再び越後国守護代長尾為景、加賀の畠山勝王と提携し越中国新川郡境川において神保慶宗と戦って勝ち、進んで婦負郡二上城に至る[153]
  • 1520年(永正17年)
    • 4月24日 - 長尾為景、畠山尚順に越中の情況を報じ、尚順は能登の畠山義総と共に為景を越中国平定に努めさせる[154]
    • 8月3日 - 再び長尾為景、越中境川城に神保慶宗と戦いこれを陥落させる[154]。ついで為景は同年12月21日に新川郡新庄城に進撃しこれを落城せしめ、遂に神保慶宗を討つ(永正の乱[154]。畠山尚順、その功を賞す[154]
  • 1536年天文5年)12月24日 - 越中国礪波郡栴檀野において長尾為影死す[155]
  • 1543年(天文12年) - この頃神保長職、水越勝重に命じて富山城を築かせる[23]。『三州志』曰く、「富山城ハ新川郡ニ在テ平城也西ハ神通川ヲ帯フ其城築ハ水越越前守勝重経始シ(中略)戦史ニ富山ノ字顕ルヽハ天文十四年長尾為景礪波郡栴檀野ニテ戦死後神保氏富山城ニ徒リ婦負新川二郡ニ威ヲ振フ是最モ始也」[156]
  • 1545年(天文14年)4月9日 - 正二位権大納言・右大将徳大寺実通、下向先の越中において害せらる[157]。『言継卿記』(天文十四年四月十六日条)曰く、「従広橋使有之、徳大寺(実通卿)雑談有之、如何之由被申候、不知之由申之、重使者有之尋遣之処、去七日に下国之処、八日暁天押寄、右大将、物加波蔵人(懐世)以下十三人悉生害、云々、人数一人逃上洛、云々、越中国於知行分之事也、先代未聞之儀、言語道断之儀、不能分別題目也」[158]
  • 1556年弘治2年)8月23日 - 大熊朝秀長尾景虎に叛いて武田晴信に内通し越中に奔る[159]
  • 1560年永禄3年)
    • 4月28日 - .長尾景虎、椎名康胤を援けて神保長職を富山城に攻めこれを破り、長職は新川郡増山城に逃れる[23]。景虎、再び増山城に兵を差し向け、同年3月30日、長職その城を拋棄して再び逃れる[25]
    • 10月17日 - 武田晴信、書を一向一揆の徒に致し、長尾景虎の背後を窺わせる[12]
    • この年、椎名・井口・轡田氏及び一向一揆衆間においても婦負新川に争闘あり[12]。『三州志』曰く、「三年庚申椎名井口(中略)轡田(中略)婦負新川ノ地ヲ角ソヒ礪波郡ニ於テ石黒左近勝興寺(中略)瑞泉寺(中略)善徳寺(中略)等ト交刃ス」[160]
  • 1565年(永禄8年)6月 - 武田晴信属将山縣昌景、兵を率いて越中に入る[12]。『甲陽軍鑑』(巻十下品第卅三永禄八年八月条)曰く、「山縣三郎兵衛御先を仕り、越中へ御馬を出され、飛驒国侍大将江間常陸守才覚仕、越中の一郡あまり持候、椎名と云ふ侍大将人数三千五百余持候者降参仕り、二番目の子幼少成を人質として御目にかけ、信玄公を主君とあふぎ奉るなり、彼人質勝頼公は御預け被成、伊奈にさしをかるゝなり」[161]
  • 1566年(永禄9年)5月 - 上杉輝虎、自ら率兵して越中に入り、諸所の城邑を攻略する[12]。『北越軍記』(巻之四、永禄九年五月条)曰く、「謙信越後ヲ打立越中ヘ被攻入、神保越中守長氏ガ籠候増山ノ城ヲ被攻、上杉弥五郎義春ヲ遣小出城揖美庄助五郎ヲ攻落サレ候。国中方々働キ、取出共仕置有テ、七月ニ謙信越後ヘ帰陣」[162]
  • 1567年(永禄10年)5月18日 - 武田晴信、越中国境附近に出張、椎名・江間と会談する[12]。『甲陽軍鑑』(巻十下品第卅三永禄九年五月十八日条)曰く、「信玄公甲府を御立あり。越中へ御馬を向けられ、飛驒の江間、越中椎名此両人に彼筋御仕置様子被仰付[161]
  • 1568年(永禄11年)
    • 3月16日 - 射水郡放生津に陣を構えていた上杉輝虎(謙信)、本庄繁長叛乱の報に接し、即ち越後へ軍を帰す(本庄繁長の乱[12]
    • 8月18日 - 越中国松倉城主椎名康胤、輝虎に背いて本願寺顕如、本庄繁長と共に武田晴信に通ずる[163]
  • 1569年(永禄12年)10月27日 - 上杉輝虎、越中国へ進んで椎名康胤の征討を開始し、新庄城・金山城を陥落させ、松倉城を攻撃する(松倉城の戦い[164]
  • 1571年元亀2年)
    • 2月28日 - 上杉謙信、再び越中に入って椎名康胤を攻め、富山城・魚津城その他十数ヶ城を陥落させ、同年4月1日、越後へ凱旋する。[165][166]
    • 4月22日 - 三木自綱の属将塩屋秋貞が越中猿倉城へ入るを長尾景直怪しみ、謙信に秋貞を召喚することを請う[166]
  • 1572年(元亀3年)
    • 6月15日 - 本願寺顕如麾下の越中国一向一揆衆、射水郡日宮城を攻めてこれを危殆に陥らしむるを聞き、上杉謙信属将新庄城城主鰺坂長実山本寺定長等これが救援のため呉福山に布陣し、同日一向一揆衆に敗戦する[167]。この戦いにおいて山本寺定長は戦死し、日宮城の守備に当っていた神保覚広等は石動方面へ撤退した[167]
    • 8月18日 - 上杉謙信、越中国一向一揆衆平定のため、自ら率兵して越中国新庄城に至り、諸所に一向一揆衆を追散して富山城を攻めこれを落す(尻垂坂の戦い[168]
  • 1574年天正2年)7月28日 - 謙信、また西征して神保長純據る越中木舟城を陥落させる[169]
  • 1576年(天正4年)3月17日 - 謙信、この日より再び越中に入り椎名康胤の籠城する蓮沼城を陥落せしめ、康胤は同城において自害する[12]。また神保氏張據る富山城を抛棄せしめ、進んで守山城を囲み、射水にその郎党を討つ[12]。『北越軍記』(天正四年謙信四十七歳三月条)曰く、「謙信越府ヲ立テ、越中ヘ発向。椎名泰種カ籠ル所蓮沼城ヲ攻落。泰種自害。ソレヨリ謙信ハ飛驒国ヘ打入ル」[162]。『三州志』曰く、「今年三月謙信越中ニ出陣蓮沼ヲ攻ム。城主椎名肥前守泰種自害シテ城陥ル(中略)頃年越中瑞泉寺勝興寺善徳寺得成寺等礪波郡ニ在テ兇威ヲ振フ。射水郡土旧ノ民モ之ニ随ヒ謙信ニ内応シテ信長公ニ敵セントス。因テ今年七月甲兵二万ヲ提テ越中ニ来リ魚津ニ陣シ河田豊前守有坂備中長澤筑前平子和泉ヲシテ婦負郡加賀澤ヨリ飛州ヘ襲入リ姉小路(按スルニ是頼綱カ)等ヲ降シ夫ヨリ又越中ニ来リテ富山城ヲ攻ム。城主神保安芸守氏春其男清十郎同姓越中守正武富山城ヲ棄テ守山城ニ保ミ城辺ニ湖水ヲ激入シテ固守ス。石黒左近ハ木舟城ニ在テ之カ援勢ヲナス。神保兵庫氏信増山城ヲ守ル。因テ謙信小笠原右馬助上杉民部ヲシテ富山ヲ守ラシメ神通川ヲ渉リテ射水郡ヘ乱入ス。神保ノ党久世但馬益木中務回游佐信濃小島倉光鞍智寺崎唐人等関野ニ出張シテ之ヲ拒ム。謙信夜之ヲ撃テ追払ヒ賀州ヘ向フ」[160]

近世

織豊時代

  • 1578年(天正6年)
    • 4月7日 - 織田信長、配下の佐々長龝に命じて神保長住を打具し越中に入らせる[12]。『信長公記』(巻十一、天正六年戊寅四月七日条)曰く、「越中神保殿二条御新造へ被召寄、此比御対面無御座、子細二位法印佐々権左衛門を以て被仰出、黄金百枚並志々良百端被参、輝虎被相果付て飛驒国司へ被仰出、佐々権左衛門相添、越中へ入国候也」[170]
    • 10月4日 - 同年9月24日より信長の命によって越中征討を行い、津毛城を落した齋藤利治が、越中月岡野において上杉の手勢を破る(月岡野の戦い[12]。『信長公記』(巻十一)曰く、「九月二十四日、齋藤新五、越中へ被仰付出陣國中、大田保之内つけの城、御敵椎名小四郎、河田豊前守人数入置候。尾張両国之御人数打向之由承及聞落に致退散則つけの城へ神保越中人入置齋藤新五三里程打出陣取候て在々所々へ相働」、また曰く、「十月四日、齋藤新五、越中国中太田保之内本郷に陣取御敵、河田豊前守、椎名小四郎、今和泉に楯籠候。城下迄放火候て未明より被罷退之処に人数を付候。齋藤新五、節所へ引かけ月岡野と云所にて人数立合、既及一戦追崩頸かす三百六十討取り、此競を不休懸まはり所々人質執固神保越中所へ相渡し帰陣候也」[170]
  • 1579年(天正7年)閏3月 - 織田信長により佐々成政が越中に封ぜられ富山城に入る[171]。『三州志』曰く、「七年己卯佐佐内蔵助成政越中一国ヲ賜リ富山城ヘ徒ル」[172]
  • 1580年(天正8年)
    • 4月15日 - 本願寺顕如、勝興寺及びその門徒に信長と和睦した旨を通達する[25]
    • 秋 - この頃大雨あり[171]。国内の河川洪水して、神通川は旧来の呉福山麓の河流を改め富山城東を流れるようになり、常願寺川は大いに出水して富山城下を浸し家屋流出数知れず[171]。佐々成政、これを憂いて治水に尽力し築堤、また洪水によって新たに生れた支川を鼬川と名付け、周辺を開墾して禾穀を植えて田地となす[171]。この時、築かれた堤を「佐々堤」と称し、常西用水川底にのぞく天端部にその痕跡を見ることができるという[173]
    • 11月 - 佐々成政、神通川渡船場の制度を定め、過当なる運賃を禁じ、また過載を戒む[171]
  • 1581年(天正9年)
    • 3月24日 - 越中松倉城に據る河田長親が小井手城を囲み、信長方の佐々成政及び神保長住等はこれが救援のため出兵したので、上杉景勝はその兵を撤せしめる[174]。『信長公記』(巻十四)曰く、「三月六日、神保越中佐々内蔵助幷国衆上国候、加賀越前越中三ヶ国之大名衆今度之御馬揃に各在京也。今之透に人数を可出之行に而名誉之ごうの刀作たる松倉と云所に楯籠御敵、河田豊前守以調略。越後より長尾喜平次を呼越、大将として催一揆。佐々内蔵助成政人数入置候小井手之城、三月九日に取詰候」[175]。また曰く、「三月廿四日佐々内蔵佐神通川六渡寺川打越、中郡之内中田と云所へ被懸付候処上方之御人数参陣之由承及。三月廿四日卯尅、御敵長尾喜平次、河田豊前致陣払、小井手表引払火之手を間三里程に見懸。常願寺川、小井手川打越人数被付候へども、早諸手引取候間、不及是非併籠城運を開」[175]
    • 4月 - 『雲龍山勝興寺系譜』によると、この頃、勝興寺、顕幸留守中を期した石黒成綱の夜討ちに遭い焼亡したという[176]
    • 5月24日 - 『信長公記』によると松倉城に據る河田長親が病死したといわれる[174]。曰く、「五月廿四日、越中国松倉と申所に楯籠候、御敵河田豊前守病死仕候」[175]
  • 1582年(天正10年)
    • 2月9日 - この日より信長の軍兵越中に入り、上杉景勝方の須賀盛能・秋山定綱はこれを警戒して報告せしにより、景勝は援軍を送りこれを援助させる[176]
    • 3月11日 - 信長方であった小島職鎮唐人親広が景勝に内通し、協働して富山城を占拠するが、柴田勝家、佐々成政、前田利家の兵によってこれを奪還される[176]。また信長方は進んで魚津、松倉の両城を囲む(魚津城の戦い[176]。『信長公記』曰く、「去程越中国富山之城に、神保越中守居城候然而、今度信長御父子信州表に至而御動座候之処、武田四郎節所を拘、遂一戦悉討果候之間、此競に越中国も一揆令蜂起其国存分に申付候へと有〳〵と越中へ偽申遣候事実に心得、小野六郎左衛門、加老戸式部両人一揆大将に罷成、神保越中を城内へ押籠、三月十一日、富山之城居取に仕近辺に挙煙候不移時、柴田修理亮、佐々内蔵介、前田又左衛門、佐久間玄番頭、此等之衆として富山之一揆城取巻候間落去不可有幾程之旨注進被申上候」[175]
    • 5月23日 - 景勝、魚津・松倉両城の危殆を聞き、これが救援のため天神山城に布陣し、信長方と黒部に戦う[177]。時に滝川一益上野国から、森長可が信濃国から越後へ侵入するあり、よって同年同月27日、景勝越後へ撤退する[177]。『三州志』曰く、「二十三日瀧川一益三国嶺ニ到リ森長一大田切ヨリ芋川城ヲ陥シ越後二本木ニ入リ春日山ヲ襲ハント各甲兵ヲ進ムル注進アリ景勝越中ニ在リ之ヲ聞テ驚キ二十七日越後ヘ却ソク」[177]
    • 6月2日 - 景勝の撤退に乗じて、柴田勝家、佐々成政、前田利家等が攻城を開始し、この日遂に魚津落城する[177]。『三州志』曰く、「勝家等此機ニ乗シテ火急ニ松倉ヲ攻ム魚津城ハ河田豊前吉江織部ハ固ク之ヲ守リ容易ニ抜クヘカラサルヲ知リテ詭計ヲ以テ柴田専齋佐佐新右衛門二人ヲ質トシ城ヲ挙ケテ開領セハ講和ヲ為ント城将ヘ言送ル河田等吾ヲ欺ムカストオモヒ即チ諾シ成政ヲ内城ニ延キ河田吉江ハ外羅城ニ出ツ即城ノ内外ヨリ河田芳江ヲ挟撃ス二将曁ヒ中條越前寺島六蔵寺血戦苦撃力ヲ窮テ斃レ城遂ニ陥ツ実ニ六月二日ノ平旦也(中略)松倉ノ守兵城上ニ旌槍ヲ羅列シ守禦ノ形勢ヲ伴リナシテ夜越後ヘ走ル織田方ノ諸将之ヲ知ラス妄リニ近ツカズト云フ我公然ラストシ単騎ニテ城下ニ到テ見量ヒ給フニ果シテ空城也因テ斯城弓箭ノ費ナクシテ城ヲ得タリ」[177]。但し、『北越太平記』はこの誘殺のことを載せず、矢尽き糧なくして城中に皆自害したといい、「諸大将いつれも評定し、寄手へ降参を乞、城を渡し、引除ん事、永き弓箭の瑕なり。たとへ主君の命なりとも難受所なりと、衆議一同に決しけり。城内掃除以下二三の内に沙汰し六月二日に隙明しかは中城越前の守景資、川田豊前の守長親、石口采女の正實秀、山本寺庄蔵孝長、吉江喜四郎俊長、安部右衛門の尉仲盛、竹の股参河の守朝綱大将物頭十三人広間に居並候て、切腹の用意にて候(中略)寄手の輩、城落て乗入十三人の自害の有様を見て、柴田勝家、佐々成政、前田利家以下舌を振誉ぬ者もなし。皆感涙を流す。是即六月二日の未明なり。此日京都本能寺にて信長公御生害なり。五六日こらへ候はゞ、運を可開者と皆残念に思ける」と伝える[178].
    • 6月8日 - 柴田勝家等再び兵を率いて越中を進撃するも、本能寺の変の報至って軍を返す[179]。景勝、これを受けて属将色部長実に越中への出馬を命ずる[179]
    • 6月24日 - 須田満親、松倉城に入って景勝の出兵を請う[179]
    • 6月27日 - 有沢図書助、弓庄城に據る土肥政繁に説諭してこれを景勝方に属せしめる[179]
  • 1583年(天正11年)
    • 2月8日 - 土肥政繁、成政の属城安城下を放火し、また太田新城を攻撃する[180]
    • 4月5日 - この日より土肥政繁、弓庄城において佐々成政の手勢に包囲される[180]。政繁は奮戦よくこれを守るも、同年4月28日、羽柴秀吉が成政に景勝と和すべきの由を通達し、よって成政景勝は媾和の運びとなる[181]。故に政繁は妻子郎党を率いて越後に移り、景勝の庇護の下に入る[177]
  • 1584年(天正12年)
    • 8月28日 - この日より徳川家康織田信雄が秀吉に対抗した小牧・長久手の戦いに呼応して佐々成政が挙兵し、先ず前田利家支配下の加賀朝日山を襲撃する[182]。されども同年9月11日、末森城の戦いに敗北して、倶利伽羅方面に退却し兵を越中に収める[182]
    • 9月18日 - 上杉景勝が、秀吉方の前田利家に提携し、須田満親に命じて宮崎城を攻めさせ、激戦六日に渉った後に開城させる[183]
    • 11月8日 - 阿尾城の菊池武勝、前田利家に降伏し、開城する[184]
    • 11月25日 - 徳川家康・織田信雄、羽柴秀吉に和せるを愁い、佐々成政越中を出発して遠江浜松城の家康を訪わんがため、厳寒の立山連峰を越える[184]。いわゆる「さらさら越え」というは、このことである[185]。『太閤記』(巻八)曰く、「天正十二年霜月下旬、深雪をもいとはす、さら〳〵こえとて嶮難無雙之山路に行迷ひぬ、是ハ何の地をさして思召立給ふそやと、従ひし士共問いしかは、遠州へこえ行、家康へ相看申(中略〉雪になつまぬわかきはらを百人はかりめしつれ、大山之嶺わきに攀上り、南をみれハ山下に里有とおほしくて、柴折くぶる煙たへ〳〵也、いさ煙を心あてに下りみむと、かんじきと云ものに乗ておとしけれハ、真忠の心さしを天感し給ふにや、思ひの外やす〳〵と麓の里に着にけり民のかまどに立入ん事のうれしさに、あんなひをもせす入しかハ、老たる樵夫膽を消し、是ハ変化の物そかし、今此雪中に人間のわさにハあらしと不審しあへりぬ(中略)雪中之労苦を忘れつゝ、十二月四日遠州浜松之城に至り、家康卿へ対面し、羽柴筑前守秀吉を討亡し、信雄卿被達ニ御本意一候様に相議し、翌朝打立清洲之城に至て御礼申上、これかれ評議を尽し、則令ニ請暇一又深雪に山路をたどり〳〵、越中に立帰りにけり」[186]
  • 1585年(天正13年)
    • 4月8日 - 成政、加賀国鳥越城を攻撃するも反撃に遭って撤退する[187]
    • 5月 - 成政の手勢なる佐々平左衛門今石動城を襲撃するも前田秀継等によって撃退される[188]
    • 8月8日 - 秀吉、佐々成政征討のため京師を発する[189]
    • 8月26日 - 秀吉、越中に至り富山城に逼迫するに及び、成政衆寡敵せずとて剃髪し、織田信雄を仲介して秀吉に降を請う(富山の役[189]。一連の越中平定の功により、秀吉は礪波郡、射水郡、婦負郡の三郡を前田利家に与え、成政の所領は越中においては新川郡のみとなり、また妻子共々大坂蟄居を命ぜらる[189][190]。また富山城が破却される[189]。射水郡に太閤山の地名残るは、この時、秀吉の一夜宿陣した故事によるという[191]。ここにおいて成政、〽何事もかはり果たる世の中に知らでや雪の白く降るらんと歌を詠じたと伝えられる[171]
    • 11月29日 - 天正地震起って越中国内においても被害あり[192]。この地震によって礪波郡木舟城が崩壊し、前田秀継及びその妻が圧死する[192]
  • 1587年(天正15年)5月30日 - 秀吉、佐々成政をして肥後国へ封ぜしめ、爾後隈本城に據ってその地を治める[193]。よって当面、新川郡は前田利家の領分となる[190]
  • 1595年文禄4年)
    • 秋 - 利家、秀吉の召喚によって登城し、割腹せし豊臣秀次の館と新川郡を賜り、また豊臣秀頼の守護を依頼される[190]。『三州志』曰く、「今秋越中新川一郡曁ヒ秀次君ノ遺館ヲ豊主ヨリ国祖ヘ賜ハリ秀頼君ノ守護ヲ頼マセラル」[194]
    • この年越中国においても太閤検地あり、38万3百石であったという[193]
  • 1597年慶長2年)10月 - 前田利長、居城たる越中守山城が風威猛烈であるため富山城へ遷る[190]
  • 1598年(慶長3年)4月20日 - 前田利家、致仕を利長に告げて家督を譲り、氷見一帯をその養老領とする[193][190]
  • 1600年(慶長5年) - 前田利長より土方雄久へ新川郡布市以南1万石を分与する(布市藩[190]

江戸時代

  • 1601年(慶長6年) - この年、主要なる街道に松並木を植えさせたが、富山県天然紀念物たる浜黒崎の松並木はこの時植樹されたものであるといわれる[195][190]
  • 1604年(慶長9年) - 江戸幕府が北陸等の諸街道に一里塚の築造を命ずる[196]。またこの年、前田利長、初めて十村の制度を定める[196]
  • 1605年(慶長10年)6月28日 - 前田利長、隠居により富山城を修理してこれに遷り、新川郡20万石を以て自らの養老領となし、家督を前田利常に委譲する[197]
  • 1606年(慶長11年) - この年、土方雄久治下の布市藩を加賀藩治下となし、代って能登国羽咋郡鹿島郡鳳至郡珠洲郡に散在する地を与える[198]
  • 1607年(慶長12年)3月2日 - 越中五箇山より税として塩硝を徴収する[198]
  • 1608年(慶長13年) - 礪波郡に初めて製造の業を興す[193]。これは2009年(平成21年)3月11日指定の重要無形民俗文化財である「越中福岡の菅笠製作技術」の濫觴である[199]
  • 1609年(慶長14年)3月18日 - 前田利長の居所としていた富山城に失火あり、城のみならず侍屋敷までも全く焼失するに至る[200]。ここにおいて利長、一時魚津城に遷り、これを期に礪波郡関野にその居所を遷さんと欲し、将軍徳川秀忠の許可を受ける[200]。同年8月16日、新城全く成ったのを以て、魚津より遷り、関野の名を高岡と改める[200]。これが即ち高岡城の濫觴である[201]
  • 1610年(慶長15年)
    • 3月15日 - 利長、高岡城内に稲荷神社を勧請する[193][202]
    • 3月17日 - 高岡城内に関野神社の神輿渡御し、氏子の山車またこれに追随する[193]。これすなわち高岡御車山祭の濫觴であるといわれる[193]
  • 1612年(慶長17年)5月8日 - 新川郡亀ヶ谷鉱山より産出せる銀を、徳川秀忠に献上する[203]。『駿府記』(慶長十七年五月八日条)曰く、「羽柴筑前守以使者銀子千枚(彼領内土産銀也)染絹百匹白絹百匹[204]
  • 1613年(慶長18年) - この年、広山恕陽を高岡に招聘して当地に法圓寺を創建する[198]。翌年、前田利長卒去するを以て、瑞龍寺と寺号を改めたという[198]
  • 1614年(慶長19年)5月20日 - 高岡城に前田利長卒す[198]
  • 慶長年間 - 越中越後国界に境関所を設置する[193]。『三州地理志稿』曰く、「在三位郷堺駅、郡山南峙、巨海北逼、堺一水前奔、地勢最為険要、距境川百七十間、設編石於左右為固、関門南有関府及邏所(曰小人番所)、北設塕城尋築編於直西、中間附子門通海浜、又海浜樹柵中間設子門、置邏所」[205]
  • 1616年元和2年) - この年、新川郡小川温泉を発見する[193]
  • 1630年寛永7年)5月20日 - 高岡瑞龍寺に前田利長の十七回忌法会を催行する[198]
  • 1633年(寛永10年) - この年、新川郡黒薙温泉を発見する[193]。またこの年、1624年(寛永元年)に開鑿の出願あって以来、工事の行われていた用水路が完成する(牛ヶ首用水)[206]
  • 1634年(寛永11年)8月4日 - 前田利常徳川家光より加賀越中能登三ヶ国総計119万2千7百石の所領を安堵される[198]
  • 1638年(寛永15年) - この年、一国一城令によって金沢城小松城、富山城以外の前田家城郭を破却する[193]。『三州志』曰く、「今年日本中一国一城タルヘキノ旨諸侯ヘ官命アリ(中略)故ニ三州ノ諸旧城ヲ廃シ是ヨリ金沢小松富山ノ三城ノミ封内ニ存ス」[207]
  • 1639年(寛永16年)6月20日 - 前田利常致仕により小松22万石を領してその養老領とし、前田光高に80万石(いわゆる加賀藩)を与えてこれを継承せしめ、また前田利次に10万石(いわゆる富山藩)を、前田利治に大聖寺7万石(いわゆる大聖寺藩)を与えてその支藩となす[198][193]。いわゆる富山藩の領地は越中国婦負郡のうち6万石、越中国新川郡浦山一帯の1万6千8百石、越中国新川郡富山町周辺の3千2百石、加賀国能美郡のうち2万石であったが、浦山周辺を除く新川郡一帯は前田利常領であり、礪波郡及び射水郡は前田光高の領であった[23]
  • 1640年(寛永17年)10月 - 前田利次、初めて富山城に入る[198]
  • 1641年(寛永18年) - この年、前田利常が立山の本社を再興する[198]
  • 1642年(寛永19年)夏 - 越中に飢饉あり[193]、『三州志』曰く「今夏米価騰踊道路饑荸多シ」[207]
  • 1645年正保元年) - この年、高岡瑞龍寺に前田利長の墓を築く(前田利長墓所[208]
  • 1718年享保3年)- 将軍徳川吉宗に、の鮨と鱒の鮨(鱒寿司)を献上する。
  • 1816年文化13年)- 富山藩が売薬業統轄の役所として「反魂丹役所」を設置する。
  • 1858年4月9日安政5年2月26日)- 安政飛越地震が立山地域で発生する。

明治時代(置県以前)

明治時代(置県以後)

大正 - 第二次世界大戦中

1945年8月1日に日本全国の都市に投下されたアメリカ軍による空襲予告の伝単。左下3番目に「富山」の文字が書かれている。

第二次世界大戦後

1963年に完成した黒部ダム

平成

1990年代初頭に整備が進んだ富山駅北地区のランドマーク「タワー111



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  235. ^ 富山県0.59世帯、全国平均2.14世帯、大阪府4.35世帯(2005年)社会福祉行政業務報告の引用 100世帯あたりの生活保護世帯数
  236. ^ 富山県56.57%、全国平均44.43%、奈良県36.30%(2005年)統計局国勢調査の引用福井山形に次ぐ全国3位
  237. ^ 統計局家計調査
  238. ^ 統計局家計調査
  239. ^ 中川正「関東における北陸人集落の繁栄」『とやま経済月報』平成14年3月号
  240. ^ 明治25年至同29年府県別北海道移住者人員 道庁殖民部拓殖課『明治29年来住戸口表』富山県出身者が全体の1割以上を占めていたことが分かる
  241. ^ a b c d e f 伝統的工芸品指定品目一覧・業種別 (PDF)”. 伝統的工芸品産業振興協会. 2018年3月12日閲覧。
  242. ^ a b c d e 富山県商工労働部経営支援課地域産業係 (2016年7月5日). “とやまの伝統工芸品”. 富山県. 2018年3月12日閲覧。
  243. ^ 「奥会津昭和からむし織」、「千葉工匠具」、「東京無地染」、「越中福岡の菅笠」及び「三州鬼瓦工芸品」を伝統的工芸品として指定しました”. 経済産業省 (2017年11月30日). 2018年3月12日閲覧。





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