富山市 歴史

富山市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/29 14:42 UTC 版)

歴史

黎明の時期

富山市街地に相当する神通川下流域は、複合扇状地の恩恵により、大化の改新よりも前から、北陸道における農作地として存在していた。

神通川西岸には、古代氏族である射水臣氏が有力氏族としており、この射水臣氏は、伊彌頭国造である大河音足尼の後裔であり、利波臣などの有力氏族を分出した。呉羽山にある古墳群は、この射水臣氏の血統の祖であると考える説がある。天平期においては、現在の富山市東部(上飯野から天正寺を経て西福沢の丸山に向かう一帯を基線とする)は東大寺の階墾田「大藪庄」と呼ばれていた。また、さらに東部において、現在の滑川市を中心とした地域は「堀江荘」と呼ばれた。

平安期に入ると、新たに伊勢神宮領弘田御厨(富山市広田地区)、長講堂領新保御厨(富山市新保)、新熊野社領立山外宮(富山市太田もしくは吉岡)などの荘園が立荘された。

また北陸道における駅として、磐瀬(富山市岩瀬)、水橋(富山市水橋)が配置されていた。そのうち水橋は、「枕草子」において「わたりは、しかすがのわたり、こりずまのわたり、水橋のわたり」として記されている。

荘園の拡大と御家人

律令制度において、貴族社会を根底から支える貴族私有地制度「荘園」は拡大し、白河鳥羽後白河の三代院政期において、さらに増加した。当時、実質院分国であった越中国において、藤原顕隆の勧修寺一族の遠戚である宮道氏が留守役として下向していた。

白河法皇が死去すると、在地において知行国として荘園を管理する体制が現れた。堀江荘は藤原顕隆一門(勧修寺氏)が、般若野荘・宮川荘を藤原公能一門(徳大寺氏)が、高野荘を藤原実行一門(三条氏)が支配した。勧修寺氏の留守役である宮道氏は堀江荘や太田保(富山市太田)を私領支配し、その分家筋である太田氏や蜷川氏の祖となった。その他の荘園も、同様に在地の私領支配へと移っていった。

源頼朝の知行である鎌倉時代になると、南部に広がる太田保が北陸道大将軍に任ぜられた幕府の御家人北条朝時(名越)所領となった。これは、平氏の知行もなかなか受け入れず、木曾義仲に与し、源義経の逃亡路となったという、幕府にとって都合の悪い越中国の国人達を牽制したものである。その一方で堀江荘における宮道氏は荘園を安堵され、太田氏も太田保を除く開発領を安堵されており、在地の者に対する御家人への道を残している。

このころ、名越朝時被官として後の新川郡守護代家である千葉一族椎名氏が入部し、在地に土着した。

鎌倉幕府の滅亡と守護大名の台頭

越中国守護北条朝時(名越)は、執権北条氏における有力庶流の血統であったため、北条氏嫡流の弾圧を受け続けた。そして名越時有の代になると、六波羅探題が壊滅、在地武士の離反にあって最後は一族79人が放生津城にて割腹し、最期を遂げた。時近くして、鎌倉において北条高時が自害、鎌倉幕府は滅亡した。

南北朝時代に入り、観応の擾乱で活躍した越中守護桃井直常は、太田保布市の興国寺周辺を拠点として反幕府運動を展開した。直常は一時幕府に帰順したこともあるが、斯波氏との対立により再び越中に下向して反抗した。桃井氏は長沢(富山市長沢)などで抗戦を繰り返したが、1371年応安4年)に砺波郡五位荘の合戦後、直常は消息不明となり、斯波氏による越中掌握が進んだ。一方、神通川と常願寺川に挟まれた地域に広く拡大した太田保は、室町幕府管領細川家領となり、太田保北部に柳町(富山市柳町)などの町が誕生する。斯波氏と細川氏は幕府内で対立関係にあり、斯波氏が越中守護として桃井氏を没落させた後も細川氏は太田保を所領し続けたため、桃井氏の残党や国人は太田保に逃げ込み、細川氏の庇護を受けた。このころ、太田保領内に富山郷が現れる。

1377年永和3年)、越中国人の謀反が起き、守護斯波氏と合戦になった。その破れた越中国人を管領細川頼之は太田保で保護し、そこに斯波氏が攻め込むと言う事態に至った。激怒した細川頼之は代官篠本氏を派遣し斯波氏と対峙させ、事態は一触即発の状況となった。この状況が続き、やがて京における細川追い落としの動きが強まり、細川頼之は管領を罷免され、斯波義将が管領となった(康暦の政変)。ところが細川氏は太田保を手放さずにいたため、ついに越中国守護は斯波氏から畠山基国に譲られる。以降160年にわたり、越中国の守護は最後の畠山稙長に至るまで畠山氏の世襲となる。

分郡守護代の台頭

当時の越中は、新川郡を椎名氏が、射水郡・婦負郡を神保氏が、砺波郡を遊佐氏が「守護役」から発展した分郡守護代として被官していた。守護代の下には「又守護代」や「郡使」などと呼ばれた国人たちがいた。

越中守護畠山持国の跡目争いから生じた応仁の乱の際には、これら分郡守護代達は畠山政長の臣下として従軍した。なかでも神保長誠は政長自決ののち、政長の立てた将軍足利義材を越中放生津に迎え、将軍公権を二分する幕府政権(越中公方)を構えるに至った。この際も、越中新川郡の椎名氏などを含む諸国の畠山守護代たちは足利義材の受け入れに協力し、義材が越中を離れるまで分郡守護代達の足並みは揃っていた。しかし、要であった政長を失った畠山氏は各地の国人たちを束ねることができず、求心力を失った。越中においても各分郡守護代が力を増し、細川氏の庇護を受けた本願寺による一向一揆も力をつけるなど、歴史の幕は次なる権力闘争へと移っていった。

城下町の形成

佐々成政
富山城

戦国時代以降、婦負郡・射水郡分郡守護代であった神保長職によって太田保北端を流れる神通川の自然堤防上に富山城が築城され、城下町としての富山町が発展した。この頃の越中国は越後上杉氏や織田氏の侵攻を受けていた。一時、越後上杉氏の侵攻を受けた後、織田信長により越中平定を命ぜられた佐々成政が入城し、一向一揆や越後上杉氏との戦いの拠点となった。

当時、佐々成政によってなされた治水事業は河川の氾濫を制えて、以降の下流域全体の発展に至った。

豊臣時代には、越中国前田氏の領地の一部となり、前田氏の管轄地となった。

江戸時代

江戸時代に入ると、南部に土方氏の布市藩が成立した。その後、布市藩は能登に移封され、加賀藩初代藩主前田利長が富山城を隠居地とした。1609年慶長14年)に富山城が焼失したため、利長は高岡へ移った(慶長富山火災)。なお、この火災で城下町のほとんどが焼失したとする説があるが、これは元禄年間に記された『三壺聞書』に由来する説であり、当時の史料によれば城は全焼したものの城下町は比較的軽微な被害であったとみられている[7]

その後、利長の養嗣子となった二代藩主前田利常が隠居する際、その子前田利次に越中54万石のうち婦負郡一円の地と富山を含む新川郡の一部10万石を分封し、富山藩が成立した。

この分封により、富山城下は富山町として現在の富山市中心市街区が整備され発展した。また、富山藩二代藩主前田正甫(利次の子)が製薬を推進したため、の製造と販売を一括して行ったうえにそれを顧客の自宅に配置するという特殊な業態を創造し、それを中心とした産業が発展した。

中世以来三津七湊のひとつとして栄えた岩瀬地区では、北前船などの日本海航路の拠点として発展した。

明治時代

1871年明治4年)8月29日旧暦7月14日)の廃藩置県により、富山藩領は富山県(旧県)となり、加賀藩領は金沢県(第一次)となった。同年12月31日(旧暦11月20日)に富山県は金沢県礪波郡・新川郡の編入と同時に新川県へ改名した。1873年(明治6年)9月6日には新川県庁が魚津から富山城址に移転した。1876年(明治9年)4月18日に新川県は石川県に編入されたが、分県運動の末、1883年(明治16年)5月9日には石川県から旧・新川県(越中国)全域が富山県として分離され、現行の富山県が発足。以来、富山は富山県の県庁所在地となっている。

1889年(明治22年)4月1日市制施行ののち、臨海部を中心として機械工業や化学工業による工業化が進んでいた。1899年(明治32年)に官営鉄道北陸線(現・あいの風とやま鉄道線)が開通し、江戸時代から続く日本海航路の拠点である岩瀬港や、甲信越地方東海地方とを結ぶ交通の要衝として発展していた。

岩瀬港周辺では廻船問屋が栄華を極め、特に大きな廻船問屋は馬場家、米田家、森家、畠山家、宮城家の5つの問屋であった。中でも馬場家はその八代目の妻である馬場はるが旧制富山高等学校の設立に尽力し、現在の金額で総額160億円もの寄付を行い、富山市女性初の名誉市民となっている[8]

また、売薬業においても江戸時代から着々と積み重ね、大きく成長した薬問屋が隆盛していた。中でも荻原氏、中田氏、金岡氏、密田氏、松井氏などが特に大きな富山市在地の問屋として知られていた。彼らの中から、北陸銀行初代頭取である中田清兵衛や、北陸電力の前身となる富山電灯の創業者である金岡又左衞門が生まれている。

昭和(第二次大戦まで)

1928年昭和3年)に、県施工の「富山都市計画事業」(運河・街路・土地区画整理事業の3本柱)が採用された。富山駅の北側と神通川河口の東岩瀬港とを直結する富岩運河により工業地帯を形成、116万立方メートルの運河開削土砂を得て、約117ヘクタールの旧河道(神通廃川地)を埋め立て、新市街地を造ろうという一挙両得の計画であった。

1936年(昭和11年)には神通廃川地の埋立地で、日満産業大博覧会が開かれ、この時期に、富山県庁舎富山電気ビルデイングなどの近代建築が建ち並び、富山市の都心部となるに至った[9]。現在、屋形舟や桜並木で市民の愛着を得ている松川や、宮本輝の小説『蛍川』や同名映画で有名ないたち川は、神通川の旧河道の痕跡である。

この開削埋め立て計画は 或る都市計画エンジニアの人生について にあるとおり、富山県の都市計画富山地方委員会技師、赤司貫一によるもので、白井芳樹(元富山県土木部長)が著した『都市 富山の礎を築く 〜河川・橋梁・都市計画にかけた土木技術者の足跡〜』(2009年技報堂出版)や『昭和初期の富山都市圏における土木事業と三人の土木技師』(都市計画 55(4), 94, 2006年8月25日号)などに詳しく記されている。なお、都市計画地方委員会は道府県ごとに設置され、赤司貫一は内務省から送りこまれた都市計画担当の技師である。赤司は10年間富山に勤め、立案から事業の概成まで、一貫してたずさわった。

1940年代に戦時色が強くなると富山城址が国威発揚の場の中心となり、1940年(昭和15年)8月10日には5000人を集めた討英市民大会、1941年(昭和16年)7月7日には1万人以上を集めた国威宣揚富山市民大会、1942年(昭和17年)2月18日には非常に多数の市民を集めたシンガポール陥落戦勝祝賀式など、第二次世界大戦の序盤までは多数のイベントが開催された[10]。しかし一方で大戦末期、1945年(昭和20年)8月2日富山大空襲では富山城址(東南角)がアメリカ軍の爆撃目標となり、死者2,275人、市街地の99.5%が焼失する壊滅的な被害を受け、城下町としての入り組んだ町並みや面影は破壊された。

昭和(第二次大戦後)

1950年(昭和25年)、戦後の焼け野原になった富山市において都市計画が策定された。富山駅を中心とした放射状道路と碁盤目の直交した道路によって構成された近代都市計画が推し進められた。戦前から存在した港湾設備や重化学工業や機械工業の復興が行われ、高岡市新湊市(現・射水市)などの臨海部を占める地区と一体となった工業地帯を形成した。さらに工業の発展とともに需要の高まりを見せた電力供給のため、河口域には大規模な火力発電所が整備された。そうして富山市は高度経済成長期を駈け抜けた。

1952年(昭和27年)に「富山市民の歌」を制定(新設合併のため2005年に失効)。1954年(昭和29年)には空襲からの復興記念事業として、富山産業大博覧会が開催された。

戦前から患者がいたが、1955年(昭和30年)ごろから1970年代にかけて健康に影響する奇病のイタイイタイ病の公害問題が深刻になり民事訴訟などで問題化した。これは四大公害病のひとつで、岐阜県三井金属鉱業神岡事業所(神岡鉱山)による鉱山製錬に伴う未処理廃水が神通川に流入、下流域である熊野、神明(旧富山市)、婦中(旧婦中町)で発症する人が現れた。

1963年(昭和38年)8月、公共用飛行場として富山空港が開港する。東京便(フレンドシップ機)が就航した。

1972年(昭和47年)、週末ごとに繁華街を中心に若者が集結し始め、通りをマイカーで暴走するようになった。事態を重く見た富山県警察は中部管区警察局の支援を得て、同年6月24日に機動隊など1200人を投入。市内の主要道路を夜間通行止めとし、映画館などの深夜営業を中止とさせた上で、集まった約1000人の群衆を解散させた[11]

1979年(昭和54年)11月21日、富山市内の人口が30万人を超えた[12]

平成(旧・富山市)

とやまし
富山市
富山市章
1897年11月20日制定
廃止日 2005年4月1日
廃止理由 新設合併
富山市(旧)、大山町大沢野町婦中町八尾町山田村細入村→富山市(新)
現在の自治体 富山市(新)
廃止時点のデータ
日本
地方 中部地方北陸地方
都道府県 富山県
市町村コード 16201-9
面積 208.81km2
総人口 322,192
(2004年9月30日)
隣接自治体 新湊市下村小杉町婦中町大沢野町大山町立山町舟橋村上市町滑川市
市の木 ケヤキ
市の花 アザミ
市の花木 ツバキ
富山市役所
所在地 930-8510
富山県富山市新桜町7番38号
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平成初頭に整備が進んだ富山駅北地区のランドマーク「タワー111

1993年平成5年)3月、富山空港に第1期国際線ビルが完成する。同年4月韓国ソウル便が、1994年(平成6年)7月ロシアウラジオストク便が就航する。

1994年(平成6年)7月31日から8月24日にかけて、全国高等学校総合体育大会が開催された。

1995年(平成7年)、富山市民芸術創造センターが完成した。これは、音楽・演劇・舞踊・美術などの創作・練習を行うことができる施設である。本番のステージと同様の環境で練習が行える舞台稽古場やリハーサル室、個人やグループの日頃の練習が行える練習室がある。

1996年(平成8年)4月1日、富山市(旧市)が中核市の指定を受ける。事務権限が強化され、飲食店営業などの許可、保育所の設置の認可・監督などの事務を行うことができるようになった。

1996年(平成8年)9月富山市芸術文化ホール(オーバード・ホール)のこけら落としがなされた。4層5階、総客席数2,200席を有しており、コンサートや演劇、学会などに幅広く利用されている。3面半舞台と呼ばれる舞台であり、大きな舞台セットを転換することができる。

1996年(平成8年)9月28日から10月7日にかけて、国民文化祭とやま’96が開催された。

1997年(平成9年)、富岩運河環水公園が開園する。とやま都市MIRAI計画のシンボルゾーンとして整備された、富岩運河の周りに造られた広さ9.7ヘクタールの公園である。園内には、一対の展望塔や展望塔間を結ぶ赤い糸電話を備えた天門橋がある。環水公園と岩瀬とを結ぶ、富岩水上ラインの乗降場がある。

1998年(平成10年)、富山空港に中国大連便が就航する。

1999年(平成11年)、富山市総合体育館が完成する。

1999年(平成11年)、富山国際会議場が完成する。

2000年(平成12年)4月1日第55回国民体育大会「2000年とやま国体」が、冬季、夏季、秋季大会と、年間を通じて開催される。

2000年(平成12年)、第36回全国身体障害者スポーツ大会(きらりんぴっく富山)が開催される。

平成(現・富山市)

2005年(平成17年)4月1日、富山市(旧市)、上新川郡大沢野町大山町婦負郡八尾町婦中町山田村細入村の7市町村が新設合併して、現在の富山市が発足した(平成の大合併)。新設合併のため、改めて中核市の指定を受ける。

2006年(平成18年)、西日本旅客鉄道(JR西日本)からの移管を受ける形でLRT路線の富山ライトレール富山港線が開業する。

2007年(平成19年)2月8日、富山市の中心市街地活性化基本計画が第1号として認定される。436ヘクタールが対象で、病院や介護施設、商店を中心部に集約し、高齢者らが次世代型路面電車などを核に、車に頼らず暮らせる環境づくりを進める計画。バス路線の支援事業やJR高山本線の増便事業、富山ライトレールなどの公共交通機関支援事業を実行している。

2007年(平成19年)3月25日午前9時42分ごろの、能登半島地震により市内では新桜町・婦中町笹倉地区で震度5弱、石坂・八尾町福島・今泉・上二杉・花崎・山田湯・楡原地区で震度4を観測した。

2007年(平成19年)、八尾地域に「坂のまち大橋」が開通する。

2008年(平成20年)7月22日、政府から環境モデル都市に選定される[13]

2008年(平成20年)、JR高山本線に婦中鵜坂駅が開業する。

2009年(平成21年)、路面電車の富山都心線開通による環状運転および新型車両のセントラムが運転開始。

2010年(平成22年)、国道41号猪谷楡原道路(庵谷~楡原間)が開通する。

2011年(平成23年)、アイザックスポーツドームが完成する。

2012年(平成24年)、常西公園小水力発電所、東町・東新町公民館小水力発電所が完成する。

2013年(平成25年)、山田地域ライトアップ事業、虹のかけはしが開催される。

2014年(平成26年)12月、米国・ロックフェラー財団が主導する「100のレジリエント・シティ」(100RC)プログラムにおいて、都市が直面する課題に対し、先進的な取り組みを行う世界の100の都市のひとつとして選定された。

2015年の富山駅

2015年(平成27年)3月14日北陸新幹線長野 - 金沢間が開業し、東京を始めとする首都圏関東地方とのアクセスが飛躍的に向上した。また、同時に富山駅現駅舎の部分開業および路面電車の富山軌道線の富山駅高架下乗り入れが開始。

2015年(平成27年)、富山市ガラス美術館・富山市立図書館本館などの複合施設TOYAMAキラリが完成する。

2016年(平成28年)5月15日16日第42回先進国首脳会議伊勢志摩サミット」のG7富山環境大臣会合が富山市で開催された。G7およびEUの環境担当大臣や関係国際機関の大臣等が国際社会が直面する主要な環境問題に関する意見交換をするなど、「富山物質循環フレームワーク」が採択された。しかし、8月から9月にかけて市議会自民党議員が偽造領収書を用いて政務活動費を不正に受領していたことが発覚した。民進党系議員の中からも不正行為者が判明し、9月20日現在で10人が議員辞職を表明している。

2017年(平成29年)3月、富山市レジリエンス戦略を策定し、自然災害などに対応する都市レジリエンスの向上に資するさまざまな取り組みを推進する。

2018年(平成30年)6月15日、経済・社会・環境の分野をめぐる広範な課題に統合的に取り組む地方自治体として、国(内閣府)のSDGs未来都市に選定された[14]。8月には、富山市SDGs未来都市計画を策定した。

2018年(平成30年)、ねんりんピック富山2018が開催される。

2019年(平成31年)3月 に、富山市環境モデル都市行動計画コンパクトシティ戦略によるCO2削減計画~(第3次:2019年2023年)を策定した。

令和(現・富山市)

2020年令和2年)3月21日、富山市の南北を走る路面電車の直通運転が始まった[15]。これに先立ち同年2月22日に富山市南部を走る路面電車を運行する富山地方鉄道と富山市北部を走る路面電車を運行する富山ライトレールが合併した。

2021年(令和3年)1月1日、富山県は暴力団排除条例を改正して、桜木町一帯、富山駅前周辺の繁華街を暴力団排除特別強化地域に指定。暴力団員等による みかじめ料の要求も飲食業者などからの支払い等も禁止し、違反した場合には双方に罰則を科すこととした[16]




注釈

  1. ^ 2015年(平成27年)10月1日時点、1位は静岡市
  2. ^ 富山県を陸路で東西に移動する場合、必ず富山市を経由することになった
  3. ^ 富山市郷土博物館所蔵、富山市指定文化財。
  4. ^ 藤居山富山寺 富山市古鍛冶町4-17

出典

  1. ^ a b 富山県 富山市農林水産省「市町村の姿」)
  2. ^ とやま都市MIRAI計画|富山県 2021年1月18日閲覧
  3. ^ 令和3年3月7日から11日にかけての大雪に関する富山県気象速報 - 富山地方気象台 2021年1月15日
  4. ^ 平年値ダウンロード”. 気象庁. 2021年6月閲覧。
  5. ^ 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値)”. 気象庁. 2021年6月閲覧。
  6. ^ 平年値(年・月ごとの値)”. 気象庁. 2021年2月23日閲覧。
  7. ^ 荻原大輔「〈慶長富山火災〉をめぐる言説と実相」(初出:『富山史壇』第174号(2014年)/所収:大西泰正 編『シリーズ・織豊大名の研究 第三巻 前田利家・利長』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-207-0))
  8. ^ 富山市名誉市民 (PDF)”. 富山市. 2022年8月2日閲覧。
  9. ^ 富山市郷土博物館だより第5号
  10. ^ 富山市史編纂委員会編『富山市史 第二編』(p934、p1044)1960年4月 富山市史編纂委員会
  11. ^ 「暴走族ついに殺人 富山」『朝日新聞』昭和47年(1972年)6月25日朝刊、13版、3面
  12. ^ 『富山市史 編年史<上巻>』(2015年3月20日、富山市発行)9頁。
  13. ^ “環境モデル都市に横浜など6自治体 先進性を評価”. asahi.com (朝日新聞社). (2008年7月22日). http://www.asahi.com/eco/TKY200807220127.html 2019年9月2日閲覧。 
  14. ^ “SDGs未来都市に富山市など 政府、29自治体選定”. asahi.com (朝日新聞社). (2018年6月16日). https://www.asahi.com/articles/ASL6G6VJBL6GUBQU013.html 2020年3月21日閲覧。 
  15. ^ “富山)路面電車の南北接続完了 特別列車が出発”. asahi.com (朝日新聞社). (2020年3月21日). https://www.asahi.com/articles/ASN3N745BN3MPUZB00F.html 2020年3月21日閲覧。 
  16. ^ 富山県暴力団排除条例の一部改正~令和3年1月1日施行~”. 富山県警察 (2022年2月1日). 2022年8月20日閲覧。
  17. ^ 人事行政の運営等の状況」『広報とやま』No.66、2007年12月20日。
  18. ^ 10年で職員500人削減 富山市行革計画」 北日本新聞、2006年2月23日。
  19. ^ 289. 歴代市長」『第37回富山市統計書(平成16年度版)』
  20. ^ 304. 歴代市長」『第3回富山市統計書(平成19年度版)』
  21. ^ 会派別議員名簿
  22. ^ 富山市国際交流センター - 富山市
  23. ^ “富山ライトレール、2月22日に富山地鉄が吸収合併”. 日本経済新聞. (2020年2月21日). https://www.nikkei.com/article/DGXMZO55944650R20C20A2LB0000/ 2020年2月23日閲覧。 
  24. ^ 「日本の道100選」研究会 2002, p. 9.
  25. ^ a b c d 「日本の道100選」研究会 2002, pp. 96–97.
  26. ^ ステーションリスト”. シクロシティ. 2022年2月17日閲覧。
  27. ^ 野原未蘭|女流棋士データベース”. 日本将棋連盟. 2020年12月3日閲覧。
  28. ^ 北日本新聞 2017年4月6日付16面『富山市出身の声優 上田麗奈さん 「頼られる存在」目指す』より。
  29. ^ 北日本新聞 2017年12月1日付






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