宮澤喜一 来歴、人物

宮澤喜一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 02:15 UTC 版)

来歴、人物

出生から学生時代まで

宮澤裕・こと夫妻の長男として東京に生まれた。本籍地は広島県福山市[1]。母・ことは司法大臣鉄道大臣等を歴任した小川平吉の二女。関東大震災後、母方の祖父小川平吉の別荘である平塚の「花水庵」で過ごす。父のは当時山下汽船に勤務していたが、すでに政界を志し、広島県から国会へ進出しようとして着々と準備を進めていた[2]

東京高師附属小学校(現・筑波大学附属小学校)、旧制武蔵高等学校を経て東京帝国大学(現・東京大学法学部政治学科卒業。在学中の1939年昭和14年)、第6回日米学生会議に参加のため渡米した。日本からは、宮澤喜一、奈良靖彦苫米地俊博山室勇臣ら各大学から男女合わせて48名の大学生が参加、のちの夫人とも知り合ったきっかけとなり、日米首脳会談後のスピーチでも日米学生会議で妻と出会ったことを披露した[3]

宮澤三兄弟の幼少の頃を知る従姉妹の和田貞子によれば、「三人はいずれも二歳違いで、とても仲の良い兄弟でした。住まいは東京でしたが、夏になると伯父()の故郷であるこの福山に帰ってきて、海水浴などにでかけていました。お母さんのいうことをよく聞き、礼儀正しい子でしたね。とくに喜一先生は小学校高学年のころから議論好きで、何かというと議論していました。高校、東大に通われるころ、私は東京の家にお手伝いにいっていたのですが、そのころは勉強ばかりしていたのが印象的です」という[4]

学生時代のことを、宮澤は次のように語っている。「私達の学生時代はご承知のような時代だったから、あんまり思い出というほどのものもないが、よく能をみて歩いた。ただ、家があまり裕福でなかったのに能の切符はその頃一円ぐらいして非常に高かったので、それを買うのが大変だった。能が好きになったのは両親の影響もあったのだろう。母がをやっていて、私も中学から大学まで謡をならった。若いときにやったから一応はちゃんとうたえるようになった。能のほかには当時の学生と同じようによく映画をみ、レコードを買ってきいた。神田の神保町に中古のレコード屋があって、よく買いにいったものだ…」[5]

大蔵官僚として

1942年(昭和17年)1月、大蔵省に入省した(配属は大臣官房企画課〈為替局兼務〉)[6]。沼津税務署長などを経て、終戦時には本省で戦争保険を担当していた。1945年(昭和20年)8月、東久邇宮内閣が発足すると、大平正芳と共に津島壽一蔵相秘書官となる。1949年(昭和24年)には池田勇人蔵相秘書官として、講和条約の準備交渉に携わっていた。1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ講和会議では全権随員として参加した。

政界入り

1952年(昭和27年)に池田通産大臣がいわゆる「中小企業発言」で不信任されたのに殉じるように、宮澤も大蔵省を退官した。本人はすぐに政界にというつもりではなかったと語るが、池田の強い勧めで翌1953年(昭和28年)、第3回参議院議員通常選挙広島県選挙区から出馬し当選した。

参院議院運営委員長などを経て、1962年(昭和37年)の第2次池田改造内閣では経済企画庁長官として初入閣、池田首相のブレーンの一人として所得倍増政策の一翼を担う。テレビの政治討論会などに積極的に出演し、自民党のニュー・ライト(新保守)を代表する若手政治家として注目される。衆議院への鞍替えを要請され、参院議員の任期満了をもってしばらく非議員の立場になるが、第1次佐藤内閣 (第3次改造)で非議員のまま経済企画庁長官で入閣する。1967年(昭和42年)衆議院に鞍替え出馬して第31回衆議院議員総選挙に当選。以後通産相、外相、総務会長などの要職を歴任していった。

「ニューリーダー」

党内では池田派(宏池会)に所属し、1973年には派閥横断グループ「平河会」を結成し座長となる。早くから総裁候補と目され、ポスト田中角栄(1974年)で総裁に推す声が一部で上がった他、ソニー会長盛田昭夫らの周旋による政財界団体「自由社会研究会」の結成(1977年)が宮澤を総裁に推すためのものと取沙汰されたり[7]四十日抗争(1979年)収拾策の一つとして宮澤擁立が取沙汰されたりもする[8]。大平急死(1980年)後の後継では本命の一人だったが、当時まだ隠然たる影響力を持っていた田中との関係の悪さがマイナスとなり実現せず、同じ宏池会で田中と近かった鈴木善幸が総裁に就任。鈴木内閣(および同改造内閣)では内閣官房長官を務め、次代の中曽根内閣期まで、安倍晋太郎竹下登らと共に「ニュー・リーダー」と称されたグループの一人となり、この3人は安竹宮と呼ばれた。官房長官としては、鈴木首相の度々の失言の後始末をこなし、宮澤の実務能力が改めて政界内外に印象付けられた。退陣表明後の鈴木に、反主流派の中心人物である福田赳夫が宮澤への後継指名を提案したが、鈴木は断っている[9]

派内では、宮澤に対抗意識を燃やす田中六助と「一六戦争」と呼ばれる後継争いを繰り広げ、その過熱が懸念を呼んだことから平河会座長を退いている。田中が持病の糖尿病を悪化させ病没後の1986年(昭和61年)、宏池会会長となり派閥を継承、名実共に総裁候補となった。総務会長時代の1986年には、中曽根が提唱する衆参同日選挙に当初は反対したが、最終的に受け入れた。プラザ合意とその後の急激な円高を巡り、中曽根の経済運営を強く批判していた宮澤は、中曽根により大蔵大臣就任を要請され自ら円高是正に奔走することになる。大幅な介入やベーカー財務長官との頻繁な協議にもかかわらず有効な手を打てぬまま、円高は加速した。

1987年(昭和62年)秋には中曽根の後継者の座を安倍・竹下と争ったが、中曽根の裁定により竹下が総裁に就任する。宮澤は竹下内閣に副総理兼蔵相として入閣し、消費税導入に尽力するが、1988年(昭和63年)、リクルート事件が発覚すると、未公開株の譲渡について倫理的責任を問われ大臣を辞任した。

総理大臣就任

1991年(平成3年)、海部俊樹首相の退陣に伴う総裁選挙で勝利、72歳にして内閣総理大臣に就任した。参議院議員経験者としては初めての内閣総理大臣である。また現在、官僚出身の最後の総理である。

宮澤は冷戦の終結を「二、三百年に一度の歴史的変動」ととらえていた[10]。経済に関して「プラザ合意は高度成長の終焉であり、それに替わるものの出発」と受け止め、バブル景気の果実は国民の生活基盤を整える内需の振興に使うべきなのに、資金がどんどん流出している状況を問題視し、資産倍増論から発展した生活大国構想の実現を考えていた[11]。海部内閣からの懸案であえったPKO協力法の成立を成立させ、それに伴い自衛隊カンボジア派遣を行ったが、その過程で派遣された文民警察官国連ボランティアが殺害された際に撤退論が支配する世論に流されず自衛隊の引き揚げはしなかったが、「PKO要員の殺害は止むを得ない。」と発言し批判を浴びた。

1989年中華人民共和国で起きた中国共産党政府による天安門事件での民衆殺戮に対し西側先進国が行っていた多岐の経済制裁を覆すため、江沢民は宮澤に天皇の訪中を要請し、金丸信らの後押しもあって実現した。宮澤の前任である海部内閣の時に円借款の再開で日本からの制裁は真っ先に解除されていたが、天皇の訪中は日本に続いた欧米の制裁解除に大きく貢献したとされる[12]。首相退任直前に慰安婦問題についての河野談話を発表し謝罪の意向を表明したが、一部の保守派論壇から非難された。

1992年(平成4年)6月には、政府開発援助(ODA)に関する基本理念や重点事項などを集大成し、ODA大綱を閣議決定。またバブル景気崩壊後の金融不安を巡って、側近であった浜田卓二郎の進言を容れて、8月中旬に日銀総裁であった三重野康と歩調を合わせて東証閉鎖・日銀特融による公的資金投入というシナリオを密かに模索したが、大蔵省の反対により一旦断念、なおも30日の自民党の軽井沢セミナーで金融機関への公的援助発言をする。地価や株価等の資産価格の大幅な下落から、今までの景気後退とは質が違うとし、公的資金を投入しても不良債権を早期に処理する必要性があると発言したものであった。

しかし「金融機関への公的資金投入」構想は官庁、マスコミ、経済団体、そして当の金融機関自身からの強い反対に遭い、実行に至らなかった。その結果、宮澤はその決定を取り下げなければいけなくなり、これにより銀行への公的資金投入による不良債権処理はタブーとなり、その後は何年にもわたり日本の政治家は誰一人としてこのことを言えなくなった。宮澤がこの発言をした背景には、前述の通り側近の浜田らの政策集団「自由社会フォーラム」で同種の議論が進んでいたことがあるが、そのような危機意識を国内で共有していた有力者は、三重野など限られた人物以外に存在しなかったという。また宮澤は「海外からの情報で気が付いた。でも(自民党内の)皆ついてこないんだよね。」と漏らしていたことがあったという[13]後藤謙次は「公的資金を投入してでも金融機関の不良債権の処理をすべきと一番先に提唱したのも宮澤氏でした。仮に宮澤政権下で不良債権処理が進んでいれば平成9年の山一証券の破錠はなかったもしれません。」と述べている[13]

折からリクルート事件などを巡って高まっていた政治改革の機運の中で、宮澤は政治改革関連法案の成立を目指したが、自身は必ずしも小選挙区制導入をはじめとする政治改革に積極的ではなかった。竹下派から分かれた小沢・羽田グループ(改革フォーラム21)は宮澤のそのような姿勢に反発を強め、1993年(平成5年)6月に内閣不信任案が提出されると賛成にまわり、同案は可決された。自民党は大量の離党者を出したまま総選挙を行うことを余儀なくされる。なお、宮澤は日本にとって3度目の自国開催となった第19回先進国首脳会議を主催しているが、これは公示から3日目という慌ただしさの中で行われた。

選挙では、自民党は結果的にほぼ現有議席を維持したものの、新生党新党さきがけなど自民党から離れた議席を回復することができず過半数を大きく割り込み、日本新党を中心とした野党勢力が結集して細川護熙政権が誕生、宮澤は自民党長期支配38年、及び55年体制の最後の首相となった。宮澤は第15代自民党総裁だったために、同じく15代目で政権を明け渡した徳川慶喜になぞらえ「自民党の徳川慶喜」といわれた。

保守本流のエース、国際派の総理大臣として大きな期待がかかった宮沢だったが、竹下派の支配下にあって思い通りの政権運営はままならなかった。本人は必ずしも意欲的でなかった政治改革を巡って自民党が分裂し、退陣に追い込まれることになったのが象徴的と言える(後述:「やる」参照)。経済通とされながらも、不況が深刻化する中で有効な経済対策を打てず、生活大国構想は着手さえ出来なかった。得意の外交でも北方領土返還などに意欲を見せていたが、進展はなかった。在任中、ほぼ唯一の業績としてPKO協力法の成立と、それに伴う自衛隊カンボジア派遣があるが[14]、ハト派の宮沢が戦後初となる陸上自衛隊の海外派遣を成し遂げることになり[15]、皮肉な「実績」となった[16]

再び大蔵大臣に

その後は、村山内閣で外相在任中の河野洋平から駐米大使を打診されたが固辞、1996年(平成8年)初めて小選挙区比例代表並立制で実施された第41回衆議院議員総選挙では重複立候補していない新進党公認柳田稔との現職対決に圧勝で再選、1998年(平成10年)に小渕内閣が発足すると、未曾有の経済危機に対処するため小渕恵三首相は宮澤に大蔵大臣就任を要請した。宮澤は当初難色を示したものの、小渕の強い熱意の下就任を受諾した。戦前に活躍した高橋是清以来となる、異例の総理経験者の蔵相就任となったため、「平成の高橋是清」といわれた。総理経験者の閣僚就任は第1次吉田内閣幣原喜重郎国務大臣・復員庁総裁以来51年ぶりのことだった。

折からの金融危機に対処するため、金融再生関連法・金融健全化法を成立させ、またアジア通貨危機にあたっては「新宮澤構想」に基づき300億ドルに及ぶ経済支援を行った。続く森内閣でも蔵相に留任し、初代財務大臣となる。

小渕・森内閣両期を通じて、巨額の恒久的減税の一方で財源として一貫して大量の赤字国債を発行し続け、財政赤字は膨大なものとなった。こうした極端な積極財政を主導したことも、高橋是清になぞらえて呼ばれるようになった理由の一つである。金融危機を脱した後は経済はおおむね好調だったが、2000年に入るとITバブルの崩壊とともに不良債権問題が再燃した。森内閣の退陣とともに宮澤も退任した。

政界引退後

2003年総選挙の際、小泉純一郎自民党総裁は、衆院比例候補・定年73歳の徹底と「世代交代、若返り」という選挙運動方針を定め、それに則って中曽根、宮澤両元首相に対して、総選挙への立候補断念及び代議士引退を要請した(宮澤は2000年総選挙で自らの福山の地盤を甥の宮澤洋一に譲って比例単独候補に転身していた)。当初難色を示した宮澤は、「総理に恥をかかせちゃいかん」と発言し積極的に引退を受諾、最後まで抵抗した中曽根とは対照的な形となった。参院在職12年3ヶ月、衆院在職36年9ヶ月で国会議員在職合計は49年0ヶ月であった。

宮澤自身は政界引退後も元首相、戦後政治の証言者として経済や安全保障のご意見番となり、様々な形で活躍した。ハト派政治家である一方、自民党内タカ派とも以前に比べ関係が良く、人当たりも温和になっていた。

2005年(平成17年)夏に体調を崩し、入院をした。退院後は容貌が一変するほどに痩せ、周囲を心配させたが、その後も活発にテレビ出演などを続けた。2006年(平成18年)7月に自宅で転倒して足を骨折して以降、表立った活動を控えた。翌2007年(平成19年)2月の政界関係者の会合には車椅子姿で参加、スピーチも行うなど元気な姿を見せたが、これが公の場に姿を見せた最後となった。

2007年(平成19年)6月28日午後1時16分、老衰のため東京都渋谷区神宮前の私邸で死去した[17]。87歳。在任期間が1年を超える首相経験者は大勲位菊花大綬章を受勲することが慣例となっているが、遺族は本人の意向により勲章等は辞退した。8月28日に、安倍晋三首相を葬儀委員長として、内閣・自由民主党合同葬が日本武道館で行われた。




注釈

  1. ^ これらの体験の多くは、著書『東京―ワシントンの密談―シリーズ戦後史の証言・占領と講和〈1〉』(中公文庫)に収められている。
  2. ^ 佐瀬昌盛『集団的自衛権』(PHP新書)参照。また2001年に行われたサンフランシスコ講和会議50周年の式典では、会議出席者唯一の生存者としてスピーチを行い、「個別的自衛権の論理的延長として、集団的自衛権を位置づけることを提案する」と述べ、部分的な集団的自衛権の行使を容認すべきだと主張、それを日米関係の21世紀への遺言であるとした。
  3. ^ この時、誘致の「顔」を宮澤に譲るよう小沢に頭を下げに行ったのが、当時文教族の中堅だった麻生太郎だった(讀賣新聞、2009年2月22日、4頁)。
  4. ^ 浜田がテレビや雑誌のインタビュー、著作などでたびたび紹介しているエピソード。
  5. ^ 『聞き書 宮澤喜一回顧録』(岩波書店、2005年)でも、昭和天皇への尊敬の念を語っている。
  6. ^ 田原はこの件について「結果として宮澤さんに迷惑を掛ける事になってしまった」と宮澤の死後、雑誌『リベラルタイム』で語っていた。
  7. ^ 日比谷高から早大を経て建築家になった(『文藝春秋』2010年10月号)。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 宮澤喜一 略歴
  2. ^ 清宮龍著『宮沢喜一・全人像』48頁
  3. ^ 城山三郎著『友情力あり』
  4. ^ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 206頁
  5. ^ 清宮龍著『宮沢喜一・全人像』69頁
  6. ^ 『新・護憲宣言:21世紀の日本と世界』朝日新聞社、141頁
  7. ^ 戸川猪佐武小説吉田学校』、小坂徳三郎田中角栄への説明として記述
  8. ^ 伊藤昌哉 『自民党戦国史』中巻 朝日文庫 pp.242-248 、毎日新聞記者から著者への確認取材による(1985年、原著1982年)
  9. ^ 伊藤昌哉 『自民党戦国史』下巻 朝日文庫 p.85 (1985年)
  10. ^ 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P25
  11. ^ 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P35
  12. ^ 銭其琛著濱本良一訳『銭其琛回顧録:中国外交20年の証言』3,p129、東洋書院、2006
  13. ^ a b c d 文藝春秋2018年二月号、~竹下から安倍まで~ 総理17人のベスト3 御厨貴後藤謙次、167頁
  14. ^ 冨森叡児『戦後保守党史』(岩波現代文庫、2006年)352頁
  15. ^ 戦後初の自衛隊海外派遣は、海上自衛隊のペルシャ湾派遣である。
  16. ^ 八幡和郎『歴代総理の通信簿』(PHP新書)宮沢の項
  17. ^ “宮沢喜一元首相が死去”. 朝日新聞. (2007年6月29日). http://www.asahi.com/special/07-08/news2/TKY200712010200.html 2020年1月21日閲覧。 
  18. ^ 6月号 「宮沢喜一と戦後日本」 - 三井物産戦略研究所 | 寺島実郎の発言[リンク切れ]
  19. ^ 田中秀征「自民党本流と保守本流」P123
  20. ^ 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P117
  21. ^ 田中秀征の一筆啓上 第36回「宮沢先生の思い出 前代未聞 倒閣した細川内閣に引き継ぎ」 2007年7月2日
  22. ^ 田中秀征「自民党本流と保守本流」P118から119
  23. ^ 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P115~116
  24. ^ 田中秀征「判断力と決断力」まえがき
  25. ^ 伊藤昌哉 『池田勇人とその時代』 朝日文庫 (1985年)p.284
  26. ^ 伊藤昌哉『自民党戦国史・上』 朝日文庫(1985年)pp.14-17
  27. ^ 『政治とカネ 海部俊樹回顧録』(新潮新書、2010年)
  28. ^ 「宮沢さんの無愛想の魅力」『FACTA』2007年8月号
  29. ^ 岡崎守恭『自民党秘史』(2018年、講談社現代新書)
  30. ^ 佐々淳行『後藤田正晴と十二人の総理たち』(文春文庫)
  31. ^ 宮沢喜一氏(元首相)が老衰のため死去 - おくやみ : nikkansports.com 私の履歴書 川淵三郎 W杯共催と宮沢氏の思い出 - 六川亨のフットボール覚書 『新時代へのキックオフ』仮野忠男著、角川書店、2001年9月。 『サッカー批評』長沼健回顧録、32号、33号、34号、双葉社、2006年-2007年。
  32. ^ 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 204頁
  33. ^ 平成12年12月21日. 武藤事務次官記者会見の概要
  34. ^ 財務省、新しい看板に。麻生氏が揮毫 産経新聞2016年6月6日
  35. ^ 田勢康弘『豊かな国の貧しい政治』
  36. ^ (3ページ目)DAIGO×宮澤エマ「おじいちゃんは総理大臣。家族に〈政治家になれ〉と言われたことは?」|芸能|婦人公論.jp” (日本語). 婦人公論.jp. 2020年9月2日閲覧。
  37. ^ 清宮龍著『宮沢喜一・全人像』49頁
  38. ^ 『豪閥 地方豪族のネットワーク』 445頁
  39. ^ 福山誠之館・宮沢裕
  40. ^ 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』 442頁
  41. ^ 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』 446-447頁
  42. ^ 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』 447頁
  43. ^ 特定商取引法に基づく広告表示有限会社クラブサー
  44. ^ a b c d 清宮龍著『宮沢喜一・全人像』59頁
  45. ^ 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』』 209頁
  46. ^ a b c d 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 205頁
  47. ^ 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 209頁
  48. ^ 広瀬隆『私物国家 日本の黒幕の系図』 (光文社、2000年、362頁)





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