宮沢賢治
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家族
宮澤家の始祖は京都から花巻に移り住んだ藤井将監という人物とされる。子孫は明治の初めに姓を宮澤に改める。子孫の一人初代宮澤右八長昌は花巻に呉服屋「宮右」を繁盛させた。その子の二代目右八の代ではますます盛んになり、京都大阪からも仕入れをしていたという。右八の三男が賢治の祖父の喜助である。喜助は真面目で仕事熱心だったが、分家する時ほとんど財産を分けてもらえず、店頭に古着を並べ質屋を始めた[145]。喜助の長男政次郎は15歳の頃から家業を手伝いはじめ、17歳の時から鉄道で関西・四国に出向き、古着や流行遅れになった新古品を大量に仕入れ、店で売るだけでなく卸売もしていた。また株式投資でも成功し、近隣に多くの小作地を有するようになる[146]。花巻出身のジャーナリストで徳富蘇峰の秘書も務めた八重樫祈美子[147]は1935年の文章で、「宮沢先生の一族は、精神的にも物質的にも花巻を壟断する一大勢力」と記し、以後の賢治の研究書や解説書にもこれを踏襲した表現が見られる[148][注釈 9]。これについて研究者の上田哲(うえだ あきら、政治家の上田哲とは別人)は、当時の花巻には梅津家や瀬川家(瀬川弥右衛門が当主)、伊藤家(伊藤儀兵衛が当主)といったずっと規模の大きな「マキ」(岩手方言で「一族」の意味)があったことを指摘し、「『宮沢マキ』は、この地方での有力な一族ではあったが、このような情勢の中では花巻を壟断することはできえないことがわかると思う」と記している[148]。
- 祖父・喜助
- 1840年9月5日生 - 1917年9月16日没(享年77)
- 「石に金具を着せたような堅物」で家業を熱心に手伝っていたが、分家してからは古着屋兼質屋を細々と営んでいた。この店は「宮右」から分家(かまどわけ)したので「宮右かまど」と呼ばれた。
- 祖母・キン
- 1851年4月9日生 - 1913年3月12日没(享年61)
- 紫波郡日詰町(現・紫波町)の関家から嫁ぐ。関家は富裕で、囲碁・将棋や琴、三味線など芸事が好きだったが、キンは質実剛健な性格だった。賢治の弟の清六は、賢治の童話や詩に現れた一面はキンの持っていた芸術的素質から来たものが多いようだと述べている[150]。
- 父・政次郎(まさじろう)
- 1874年2月23日生 - 1957年12月1日没(享年83)
- 喜助から受け継いだ家業を盛り立て、「宮澤商店」を栄えさせる。仏教に関心が深く、自費で「花巻仏教会」を作って地元の人たちに毎年仏教講習会を催した。また民生委員、調停委員を長く務め、800件もの紛争をまとめた功績で藍綬褒章を受章している[151]。「自分は仏教を知らなかったら三井・三菱くらいの財産を作れただろう」と語っていたという[152]。
- 母・イチ(旧姓・宮澤)
- 1877年1月15日生 - 1963年6月30日没(享年86)
- イチの実家の宮澤家も藤井将監の子孫で、イチの父(賢治の祖父)・善治の店は「宮善」と呼ばれた。雑貨商などで巨万の富を築き、花巻銀行、花巻温泉、岩手軽便鉄道などの設立に尽力した[7][注釈 10]。慈愛に満ちた人柄で幼い賢治に添い寝しながら「ひとというものは、ひとのために、何かしてあげるために生まれてきたのス」と言い聞かせていたという[154]。
- 妹・トシ
- 1898年11月5日生 - 1922年11月27日没(享年24)
- 子供の頃から成績優秀で、岩手県立花巻高等女学校でも4年間首席、卒業式では総代として答辞を務める。卒業後、東京の日本女子大学校家政学部予科に入学する。女学校卒業前に音楽教師との恋の噂の記事が地元の新聞に掲載されたことに傷つき、実家を離れる進学が許可されたのではないかと言われる[155]。女子大卒業前に入院するが、卒業を認められる。体調が回復してから母校の花巻女学校教諭心得として英語と家事を担当するが、翌年喀血、以後は療養生活を送る[156]。1922年11月27日午後8時30分死去[56]。24歳だった。
- 妹・シゲ
- 1901年6月18日生 - 1987年9月20日没(享年86)
- 弟・清六
- 1904年4月1日生 - 2001年6月12日没(享年97)
- 賢治に代わって家業を継ぎ、建築材料の卸売・小売りやモーター・ラジオを扱う「宮沢商会」を開業、賢治が嫌っていた古着商からの転換を果たす[157]。賢治亡き後は、託された原稿の出版に奔走、全集や研究書の編纂に関わった[158]。
- 妹・クニ
- 1907年3月4日生 - 1981年1月12日没(享年73)
注釈
- ^ 献呈写真の自筆記入日付による[1]。
- ^ 佐藤隆房は旧暦7月19日出生、旧暦8月1日に旧暦で届けを出したための間違いと推測している[4]。
- ^ 千葉一幹は、賢治が「如来寿量品」の中の「良医病子」(毒を飲んだ子供が父の作った解毒剤を飲めず、「父が死んだ」と嘘を聞かされ、正気に戻って薬を飲んだという寓話)に自身を重ね、不幸は自分が飛躍する契機になると読み取ったのではないかと推測している[22]。
- ^ 文信社には、太平洋戦争後に釜石市長となった鈴木東民がおり、当時の模様を「筆耕のころの賢治」(筑摩書房版宮澤賢治全集別巻『宮澤賢治研究』、1958年)として書き残している。
- ^ 「雨ニモマケズ手帳」に高知尾から「法華文学」の制作を勧められたというメモが残っているが、高知尾によればそのような記憶はなく、ただ法華経修行は出家することではなく、農家は鋤鍬、商人はソロバン、文学者はペンを持ってそれぞれの道で法華経を広めるのが正しい修行と説いたという[45]。
- ^ 跡地はカザルスホールとなり、その位置はホールの舞台中央付近と推測されている[86]。
- ^ のちに棟方はこの仕事の記憶がほとんどないと回想している[89]。
- ^ 原子朗編の『新 宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍、1999年)の「レコード」の項では「ポリドールの社長からレコードがよく売れるので、花巻の高喜商店に問い合わせがあり、町一番のコレクター賢治の名を挙げたところ、社長から賢治あてに感謝状がきた」とある。
- ^ 一例として山内修(編)『作家読本 宮沢賢治』(河出書房新社、1989年)には「『宮澤まき(一族)』と言えば花巻を壟断する一大勢力であった」という記載がある[149]。
- ^ 実際は「尽力」というより「協力」と言った方が正確である[148]。花巻銀行は善治が役員に招かれただけ、岩手軽便鉄道も株主として協力した程度という[148][153]。ただし、経営状態が悪化した花巻銀行が1915年に再建された際には善治の息子・恒治(イチの弟)が中心となった[148]。
- ^ のちに推敲後『洞熊学校を卒業した三人』と改題[159]。
- ^ メーカーの公称ジャンルはRPGとなっている。
出典
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