宮沢賢治 人物像

宮沢賢治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 04:02 UTC 版)

人物像

幼少期の伝説

賢治には多くの「伝説」が語り継がれているが、特に本人が資料を残していない幼少期の神格化が甚だしいと指摘されている。こうした神格化を後押ししていたのが、父・政次郎や弟・清六であった。[要出典]伝説が嘘ではないにしても誇張や曲解が行われたのは関係者の思い入れと宮沢家への気遣いであろうと、山下聖美は推測している[107]。現代では吉田司の『宮沢賢治殺人事件』のように聖人イメージを破壊するという著作も現れている[108]

  • 生誕の約2ヶ月前である1896年6月15日に三陸地震津波が、誕生直後にも陸羽地震が発生した。清六は、賢治の生まれた年は東北地方に災害が多く、「それは雨や風や天候を心配し、あらゆる生物の幸福を祈って、善意を燃やし続けた賢治の生涯が、容易ならぬ苦難に満ちた道であるのをも暗示しているような年であった(兄賢治の生涯)」と述懐している[109]。また、1933年(没年)の3月3日に「三陸沖地震」(理科年表No.325)が発生し、大きな災害をもたらした。地震直後に詩人の大木実(1913年-1996年)へ宛てた見舞いの礼状[110]には、「海岸は実に悲惨です」と津波の被害について書いている[111]
  • 尋常小学校時代、赤いシャツを着てきた同級生が皆に囲まれ「メッカシ(めかしこんでいる)」とからかわれていた。賢治は間に入り「おれも赤シャツ着てくるからいじめるならおれをいじめてくれ」とかばった[112]
  • メンコで遊んでいた時、仲間の一人がメンコを追って指を馬車にひかれ出血した。賢治は「いたかべ、いたかべ」と言いながらその指を吸ってやった[112]
  • いたずらをした罰として水を満杯にした茶碗を持って廊下に立たされていた生徒がいた。先生の用で廊下に出た賢治は「ひどいだろう、大変だろう」と茶碗の水を飲み干してやった[112]
  • 尋常小学校2年の時、4人の小学生が豊沢川に流され2人が亡くなった。子供を捜索する船の明かりを大勢の人が集まり豊沢橋の上から見守っていた。賢治も同級生が流されたと聞いてこれを見ており、のちに創作のモチーフとなった[10]

科学

幼少期に石を好んで収集する鉱物愛好家だったことから、11歳頃より家族に「石コ賢さん」という愛称で呼ばれた[11]。盛岡中学校時代は、休日に盛岡周辺で鉱物採集をしたり、道中で「矢ノ根石」(石鏃)を収集するためあえて徒歩で帰省したりした[113]。盛岡高等農林学校研究生時代に、人工宝石製造業を東京で起業するプランを手紙で父に送ったこともあった(実現せず)[114]

作中には動植物、鉱物、地質学など科学用語や鉱物の名称が多く登場する[115]

大学で学んだ土壌学を農民へ還元する農業技術の指導員としての評価もある[116]

音楽

賢治は音楽に深い関心を持っており、暇を見つけてはレコードを買っていた。賢治が頻繁にレコードを買っていくため、地方の店の割に新譜レコードが多く売れるとして、行きつけの楽器店がイギリスに本社を置くポリドール・レコードから感謝状を贈られたという[117][注釈 8]

ベートーヴェンドヴォルザークの曲をよく聴いていた。農学校教員時代(1921-1923年)には自ら楽曲づくりも手掛けた。二十数曲を作詞し、うち八つは作曲もしている[118]

蓄音機でレコード針として使う竹針を傷め、音質を高める針を発明したこともある。米国ビクター社にサンプルを送り、製品化には至らなかったものの、その発想は高く評価された[119]

食生活と菜食主義

日蓮系教団では末法無戒を説くため菜食の必要は無いのだが[120]、賢治は法華経信仰に入った後、盛岡高農研究生になった1918年(大正7年)から5年間菜食生活をした[31]。5月19日付の保阪嘉内に宛てた手紙では、刺身茶碗蒸しを少量食べた後、食べられる生き物に同情する気持ちを綴っている[121]東京でトシの看病をするため宿泊していた旅館「雲台館」では、賢治のため精進料理を出してくれたという[35]。家出上京中は、豆腐油揚げばかり食べ[122]脚気になった時は、蕎麦がき麦飯冬瓜の汁を飲んだ[123]。1921年(大正10年)8月11日付の関徳弥宛の手紙では脚気の原因を肉食のせいにしている[124]

農学校教員時代は菜食にこだわらず、同僚や知人と外食を楽しんだ。花巻の蕎麦屋「やぶ屋」を「ブッシュ」と呼び、よく通っていた。天ぷら蕎麦サイダーを一緒に注文するのが定番だった[125]。また鰻丼天丼も好物だったという[126]。自分から進んでを飲むことはなかったが、付き合いで酒をすすめられるとでも飲むように飲み干して返盃した。時にたばこを吸うこともあった[127]。また教員仲間が集まった時、藤原嘉藤治から「人間は物の命を食って生きている。他を犯さずに生きうる世界というものはないのだろうか。」と問いかけられた答えとして『ビジテリアン大祭』を書いている[128]

羅須地人協会時代の自炊は極端な粗食だった。ご飯はまとめて炊いてザルに移して井戸の中に吊り下げて置き、冬は凍ったまま食べた。おかずは油揚げや漬物トマトなどだった[129][130]。賢治の体を心配した母のイチが小豆を入れたひっつみを届けたことがあるが、受け取らなかった[131]。急性肺炎で倒れ病臥生活になっても菜食はやめず、鶏卵牛乳も拒否した[132]。イチがの生き肝が肺炎に効くと聞いて、オブラートに包み薬と偽って飲ませたことがあった。弟の清六から中身を聞き出した賢治は涙を流し、「生き物の命をとるくらいならおれは死んだほうがいい」「これからは決してそんなことをしてくれるな」と真っ青な顔で言い、最期まで菜食主義をつらぬいた[133]

恋愛・性愛観

賢治は生涯独身だった。友人の藤原嘉藤治に「性欲の乱費は、君自殺だよ、いい仕事はできないよ。」と語り、性欲の発露を戒めた。関登久也はある朝、賢治に会うと、岩手郡の外山牧場に行って一晩中歩き、夜を徹して性欲と闘ったことを明かされた。農学校教員時代は見合いの話がいくつも持ち込まれ、両親も結婚させたがったが、賢治は頑として受け付けなかった[134]。藤原にはこう語っている。

新鮮な野の食卓にだな、露のようにおりてきて、あいさつをとりかわし、一椀の給仕をしてくれ、すっと消え去り、またあくる朝やってくるといったような女性なら、ぼくは結婚してもいいな。時にはおれのセロの調子はずれをなおしてくれたり、童話や詩をきいてくれたり、レコードの全楽章を辛抱強くかけてくれたりするんなら申し分がない。 — (『宮沢賢治の肖像』)[135]

童貞だったとも言われるが、「一関の花川戸という遊郭へ登楼してきたといって明るくニコニコ笑って話しました」(『宮沢賢治の肖像』)という証言もあり、真偽は不明である[136]。晩年、森荘已池を訪ねた時は禁欲主義については「何にもなりませんでしたよ」「まるっきりムダでした」と話し、さらに「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい」と語って、変節したことを認めた[137]

賢治は浮世絵コレクターで、特に「和印(春画)」を積めば高さ30センチメートルになるほど集めていた[138]。それら農学校に持ってきて、同僚と批評して楽しんだ[139]ハバロック・エリスの『性の心理』を持っていて、翻訳本で伏字になった部分を仙台の本屋まで行って原書で読んで確かめた[140]。この本のことを聞かれると「いなかの子ども(農学校の教え子)が性でまちがいをおこさないように教えたいと思って」と答え[138]、実際生徒に「猥談は大人の童話みたいなもので頭を休めるもの」「誰を憎むというわけでも、人を傷つけるというものでもなく、悪いものではない。性は自然の花だ。」と話したという[141]

盛岡高等農林学校在籍時に出会った一年後輩の保阪嘉内との間で、互いに「恋人」と呼び合うような親しい間柄になり、嘉内に宛てた書簡類では、親密な感情の表出、率直な心情の吐露が認められ、手紙に記された文面は、時にあたかも恋人に宛てたような表現になった。嘉内からは情緒的にも思想的にも強い影響を受け、とりわけ『銀河鉄道の夜』の成立には、20代の頃に嘉内と二人で登山し共に語り合って夜を明かした体験が濃厚に反映され、登場人物の「ジョバンニ」を賢治自身とするなら、「カムパネルラ」は保阪嘉内を表していると考える研究者もいる[142]

その他

  • 1916年春、盛岡高等農林学校の寮の親睦会で寸劇が企画され、当時1年生だった保阪嘉内が脚本を書いた戯曲『人間のもだえ』が上演された。2年生で室長でもあった賢治は「全知の神ダークネス」役を演じ、嘉内自身も「全能の神アグニ」を演じた。この嘉内の脚本に現れる「修羅」というキーワードは、『春と修羅』に代表される後の賢治の作品のキーワードでもある「修羅」という言葉に影響を与えたとされる[143][144]

注釈

  1. ^ 献呈写真の自筆記入日付による[1]
  2. ^ 佐藤隆房は旧暦7月19日出生、旧暦8月1日に旧暦で届けを出したための間違いと推測している[4]
  3. ^ 千葉一幹は、賢治が「如来寿量品」の中の「良医病子」(毒を飲んだ子供が父の作った解毒剤を飲めず、「父が死んだ」と嘘を聞かされ、正気に戻って薬を飲んだという寓話)に自身を重ね、不幸は自分が飛躍する契機になると読み取ったのではないかと推測している[22]
  4. ^ 文信社には、太平洋戦争後に釜石市長となった鈴木東民がおり、当時の模様を「筆耕のころの賢治」(筑摩書房版宮澤賢治全集別巻『宮澤賢治研究』、1958年)として書き残している。
  5. ^ 「雨ニモマケズ手帳」に高知尾から「法華文学」の制作を勧められたというメモが残っているが、高知尾によればそのような記憶はなく、ただ法華経修行は出家することではなく、農家は、商人はソロバン、文学者はペンを持ってそれぞれの道で法華経を広めるのが正しい修行と説いたという[45]
  6. ^ 跡地はカザルスホールとなり、その位置はホールの舞台中央付近と推測されている[86]
  7. ^ のちに棟方はこの仕事の記憶がほとんどないと回想している[89]
  8. ^ 原子朗編の『新 宮澤賢治語彙辞典』(東京書籍、1999年)の「レコード」の項では「ポリドールの社長からレコードがよく売れるので、花巻の高喜商店に問い合わせがあり、町一番のコレクター賢治の名を挙げたところ、社長から賢治あてに感謝状がきた」とある。
  9. ^ 実際は「尽力」というより「協力」と言った方が正確である。花巻銀行は善治が役員に招かれただけ、岩手軽便鉄道も株主として協力した程度という[151]
  10. ^ のちに推敲後『洞熊学校を卒業した三人』と改題[157]
  11. ^ メーカーの公称ジャンルはRPGとなっている。

出典

  1. ^ 『新校本宮澤賢治全集 第16巻(下)補遺・資料 補遺・伝記資料篇』筑摩書房、2001年、p.303
  2. ^ a b 盛岡高等農林学校 第13回得業証書授与式」『官報』1918年3月19日、2016年9月21日閲覧。(左ページ左下隅)
  3. ^ 加藤道理 『常用国語便覧』(改訂版) 浜島書店、2010年2月3日、343、354頁。ISBN 978-4-8343-1000-9 
  4. ^ a b 作家読本 1989, p. 12.
  5. ^ 堀尾 1991, pp. 25.
  6. ^ 作家読本 1989, p. 14.
  7. ^ a b 作家読本 1989, p. 13.
  8. ^ 千葉 2014, p. 38.
  9. ^ 作家読本 1989, p. 17.
  10. ^ a b 堀尾 1991, p. 29.
  11. ^ a b 堀尾 1991, p. 31.
  12. ^ 作家読本 1989, p. 19.
  13. ^ 作家読本 1989, p. 25.
  14. ^ 作家読本 1989, pp. 26–27.
  15. ^ 堀尾 1991, p. 54.
  16. ^ 作家読本 1989, pp. 34–35.
  17. ^ a b 作家読本 1989, p. 36.
  18. ^ 山下 2008, pp. 52–53.
  19. ^ 作家読本 1989, pp. 37–38.
  20. ^ 堀尾 1991, p. 69.
  21. ^ 千葉 2014, p. 86.
  22. ^ 千葉 2014, p. 88-91.
  23. ^ 作家読本 1989, pp. 42–43.
  24. ^ 作家読本 1989, p. 45.
  25. ^ 特待生選定 盛岡高等農林学校」『官報』1916年3月22日、2016年9月21日閲覧。(左ページ下欄)。
  26. ^ a b c 堀尾 1991, p. 124-126.
  27. ^ a b c 作家読本 1989, p. 54.
  28. ^ 作家読本 1989, p. 52.
  29. ^ 堀尾 1991, p. 95.
  30. ^ 堀尾 1991, p. 130-135.
  31. ^ a b 堀尾 1991, p. 96.
  32. ^ 堀尾 1991, p. 100-102.
  33. ^ 堀尾 1991, p. 146.
  34. ^ a b 作家読本 1989, p. 56.
  35. ^ a b 堀尾 1991, p. 103.
  36. ^ 作家読本 1989, p. 58.
  37. ^ 堀尾 1991, p. 106-109.
  38. ^ 作家読本 1989, p. 59.
  39. ^ 作家読本 1989, p. 62.
  40. ^ 堀尾 1991, p. 113-114.
  41. ^ 作家読本 1989, p. 64.
  42. ^ 山下 2008, p. 81.
  43. ^ 千葉 2014, p. 140.
  44. ^ 作家読本 1989, pp. 70–71.
  45. ^ a b 作家読本 1989, p. 74.
  46. ^ 山下 2008, pp. 84–87.
  47. ^ 堀尾 1991, p. 117-118.
  48. ^ 作家読本 1989, p. 77.
  49. ^ 山下 2008, p. 87.
  50. ^ 作家読本 1989, p. 80.
  51. ^ 堀尾 1991, p. 161.
  52. ^ 堀尾 1991, pp. 243–246.
  53. ^ 堀尾 1991, p. 210.
  54. ^ 堀尾 1991, p. 166.
  55. ^ 堀尾 1991, p. 208.
  56. ^ a b 作家読本 1989, p. 88.
  57. ^ 作家読本 1989, p. 89.
  58. ^ 作家読本 1989, p. 93.
  59. ^ 堀尾 1991, pp. 219–222.
  60. ^ 山下 2008, p. 121.
  61. ^ 堀尾 1991, p. 222.
  62. ^ a b 作家読本 1989, p. 108.
  63. ^ 作家読本 1989, p. 105.
  64. ^ 堀尾 1991, p. 235.
  65. ^ 堀尾 1991, pp. 240–241.
  66. ^ a b 作家読本 1989, p. 112.
  67. ^ 作家読本 1989, p. 119.
  68. ^ 千葉 2014, pp. 246–248.
  69. ^ 山下 2008, pp. 138–139.
  70. ^ 宮沢賢治. “七四三〔盗まれた白菜の根へ〕春と修羅 第三集”. 青空文庫. 2016年10月21日閲覧。
  71. ^ 宮沢賢治. “農民芸術概論綱要”. 青空文庫. 2016年10月21日閲覧。
  72. ^ 宮沢賢治. “〔それでは計算いたしませう〕春と修羅補遺”. 森羅情報サービス. 2016年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月21日閲覧。
  73. ^ 作家読本 1989, pp. 134–136.
  74. ^ 作家読本 1989, p. 139.
  75. ^ 山下 2008, pp. 143–144.
  76. ^ 堀尾 1991, p. 360.
  77. ^ 作家読本 1989, p. 153.
  78. ^ 山下 2008, p. 111.
  79. ^ 作家読本 1989, p. 154.
  80. ^ 堀尾 1991, p. 278.
  81. ^ 作家読本 1989, pp. 158–159.
  82. ^ 堀尾 1991, p. 287.
  83. ^ 堀尾 1991, p. 371.
  84. ^ 堀尾 1991, p. 379.
  85. ^ 作家読本 1989, p. 182.
  86. ^ 御茶ノ水スクエアA館 - NPO神田神田学会
  87. ^ 千葉 2014, p. 256-257.
  88. ^ 作家読本 1989, p. 191.
  89. ^ 作家読本 1989, p. 195.
  90. ^ 作家読本 1989, p. 199.
  91. ^ 作家読本 1989, p. 198.
  92. ^ 堀尾 1991, p. 462.
  93. ^ a b 作家読本 1989, pp. 207–209.
  94. ^ 千葉 2014, p. 259-261.
  95. ^ 山下 2008, p. 178.
  96. ^ 作家読本 1989, p. 214.
  97. ^ 作家読本 1989, p. 180.
  98. ^ 作家読本 1989, p. 181.
  99. ^ 宮沢賢治記念館 - 花巻市
  100. ^ 宮沢賢治、地図の裏に未発表詩 三十数年ぶりの新作”. asahi.com (2009年4月8日). 2016年10月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月13日閲覧。
  101. ^ 正木晃(話者) (2012年8月26日). 宮澤賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか. 日蓮宗.. http://www.youtube.com/watch?v=OQnEDI-QYhA&list=PL29809B3CE9F5C44B 
  102. ^ 定方晟『銀河鉄道の夜』と法華経」『東海大学紀要. 文学部』第64巻、東海大学文学部、東京、1995年、 110-88頁、 ISSN 05636760NAID 1100010484022016年9月21日閲覧。110頁。
  103. ^ 色川大吉 「歴史家の見た宮沢賢治の光と闇」 『色川大吉歴史論集:近代の光と闇』 日本経済評論社、2頁、2013年1月18日。ISBN 978-4-8188-2254-2NCID BB11426978 
  104. ^ 宮沢賢治・自訳エスペラント詩集”. 2016年9月3日閲覧。(このサイトには公表状態でなく、校訂された作品が掲載されている)
  105. ^ 河合隼雄 『猫だましい』 新潮社、2000年5月20日。[要ページ番号]
  106. ^ 南吉Q & A - 新美南吉記念館(「南吉は宮沢賢治を知ってたの?」を参照、20215月16日閲覧)
  107. ^ 山下 2008, p. 30-34.
  108. ^ 千葉 2014, pp. 2–3.
  109. ^ 作家読本 1989, p. 11.
  110. ^ 詩人大木実あて書簡 宮沢賢治学会・会報31号”. 宮沢賢治学会. 2006年2月7日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2010年11月10日閲覧。
  111. ^ 勉誠出版株式会社『月光』2、勉誠出版、2010年7月。ISBN 978-4-585-05226-5[要ページ番号]
  112. ^ a b c 堀尾 1991, p. 36.
  113. ^ 堀尾 1991, p. 63.
  114. ^ 堀尾 1991, p. 136.
  115. ^ 桜井弘『宮沢賢治の元素図鑑ー作品を彩る元素と鉱物』化学同人、2018年、p.3、ISBN 978-4759819663
  116. ^ 宮澤賢治関係資料 - 岩手大学農学部農業教育資料館
  117. ^ 作家読本 1989, p. 95.
  118. ^ 中村節也「作曲家・賢治の宇宙音感◇独特なリズムの8曲残す 童話生んだ音楽センス解明」『日本経済新聞』朝刊2018年7月17日(文化面)2018年7月27日閲覧。
  119. ^ 宮沢賢治を愛する会 『宮沢賢治エピソード313』 扶桑社、1996年10月、112頁。ISBN 4594021085NCID BN15493836 
  120. ^ 鎌田としき「宮沢賢治「ビヂテリアン大祭」考
  121. ^ 1918年5月19日 保阪嘉内あて 封書(封筒ナシ)”. 宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス. 2016年9月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月3日閲覧。
  122. ^ 作家読本 1989, p. 68.
  123. ^ 堀尾 1991, p. 456.
  124. ^ (1921年8月11日)関徳彌あて 封書”. 宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス. 2014年12月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月3日閲覧。
  125. ^ 宮澤賢治とやぶ屋”. 岩手花巻名物わんこそば やぶ屋. 2017年1月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年9月3日閲覧。
  126. ^ 山下 2008, pp. 156–157.
  127. ^ 作家読本 1989, p. 97.
  128. ^ 堀尾 1991, p. 214.
  129. ^ 作家読本 1989, p. 142.
  130. ^ 山下 2008, pp. 152–153.
  131. ^ 千葉 2014, pp. 36–30.
  132. ^ 1932年6月1日(森佐一あて) 下書”. 宮沢賢治の童話と詩森羅情報サービス. 2016年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月13日閲覧。
  133. ^ 堀尾 1991, p. 459-462.
  134. ^ 堀尾 1991, pp. 356–357.
  135. ^ 山下 2008, pp. 145–146.
  136. ^ 山下 2008, p. 105.
  137. ^ 作家読本 1989, p. 186.
  138. ^ a b 堀尾 1991, p. 355.
  139. ^ 作家読本 1989, p. 69.
  140. ^ 山下 2008, p. 106.
  141. ^ 山下 2008, p. 107.
  142. ^ 菅原千恵子 『宮沢賢治の青春: “ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』(初版) 宝島社、1994年8月5日、265頁。ISBN 4-7966-0839-7 
  143. ^ 宮沢賢治 『<新>校本宮沢賢治全集』 筑摩書房、1997年4月、472頁。 
  144. ^ 菅原千恵子『宮沢賢治の青春“ただ一人の友”保阪嘉内をめぐって』角川書店、1997年、第一章 2-3頁。
  145. ^ 堀尾 1991, pp. 13–15.
  146. ^ 千葉 2014, pp. 23–30.
  147. ^ 作家読本 1989, p. 10.
  148. ^ 山下 2008, pp. 16–17.
  149. ^ 堀尾 1991, p. 18.
  150. ^ 千葉 2014, p. 25.
  151. ^ 山下 2008, p. 33-34.
  152. ^ 千葉 2014, pp. 36–37.
  153. ^ 山下 2008, pp. 68–69.
  154. ^ 作家読本 1989, p. 85.
  155. ^ 作家読本 1989, p. 136.
  156. ^ 山下 2008, pp. 34–35.
  157. ^ 宮沢賢治『校本宮沢賢治全集 第7巻』筑摩書房、1973年。
  158. ^ 久世番子 『よちよち文藝部』 文芸春秋、2012年10月、98頁。ISBN 978-4-16-375750-6NCID BB10774414 






宮沢賢治と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「宮沢賢治」の関連用語

宮沢賢治のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



宮沢賢治のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの宮沢賢治 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2021 GRAS Group, Inc.RSS