安部公房
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安部 公房 (あべ こうぼう) | |
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『キネマ旬報』1967年1月正月特別号より。 | |
誕生 |
安部 公房(あべ きみふさ) 1924年3月7日 日本・東京府北豊島郡滝野川町 (現在の東京都北区西ケ原) |
死没 |
1993年1月22日(68歳没) 日本・東京都多摩市 |
墓地 | 上川霊園 |
職業 |
小説家 劇作家 演出家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(医学) |
最終学歴 | 東京大学医学部卒業 |
活動期間 | 1948年 - 1993年 |
ジャンル |
小説 戯曲 |
文学活動 |
第二次戦後派 シュルレアリスム |
代表作 |
『壁』(1951年) 『けものたちは故郷をめざす』(1957年) 『第四間氷期』(1959年) 『砂の女』(1962年) 『他人の顔』(1964年) 『燃えつきた地図』(1967年) 『友達』(1967年、戯曲) 『箱男』(1973年) 『密会』(1977年) 『方舟さくら丸』(1984年) |
主な受賞歴 |
戦後文学賞 (1950年) 芥川龍之介賞(1951年) 岸田演劇賞(1958年) 読売文学賞(1963年・1975年) 谷崎潤一郎賞(1967年) フランス最優秀外国文学賞 (1968年) 芸術選奨(1972年) |
デビュー作 | 『終りし道の標べに』(1948年) |
配偶者 | 安部 真知子(安部 真知)(1947年 - 1993年) |
子供 | 安部 ねり(長女) |
ウィキポータル 文学 |
概要
東京府で生まれ、満洲で少年期を過ごす。高校時代からリルケとハイデッガーに傾倒していたが、戦後の復興期にさまざまな芸術運動に積極的に参加し、ルポルタージュの方法を身につけるなど作品の幅を広げ、三島由紀夫らとともに第二次戦後派の作家とされた。作品は海外でも高く評価され、世界30数か国で翻訳出版されている。
主要作品は、小説に『壁 - S・カルマ氏の犯罪』 (芥川賞受賞)、『砂の女』 (読売文学賞受賞)、『他人の顔』『燃えつきた地図』『箱男』『密会』など、戯曲に『幽霊はここにいる』『友達』『棒になった男』『緑色のストッキング』などがある。演劇集団「安部公房スタジオ」を立ちあげて俳優の養成にとりくみ、自身の演出による舞台でも国際的な評価を受けた。晩年はノーベル文学賞の有力候補と目された[3]。ノーベル文学賞委員会のペール・ベストベリー委員長は読売新聞のインタビューで、「急死しなければ、ノーベル文学賞を受けていたでしょう。」と述べている[2]。
生涯
生後まもなく満洲へ
北海道開拓民の両親をもつ[注釈 2]安部浅吉と井村よりみの二男二女の長男として、1924年 (大正13年) 3月7日、東京府北豊島郡滝野川町 (現東京都北区西ケ原) に生まれる。 本籍地は北海道上川郡東鷹栖町 (現旭川市)。1923年 (大正12年)、満洲医科大学 (現中国医科大学) の医師であった浅吉は勤務先の奉天市から一時出向していた東京でよりみと結婚。翌年、よりみは公房を妊娠中に唯一の小説『スフィンクスは笑う』 (異端社)[注釈 3]を上梓するが、以後は一切の筆を折った。
1925年 (大正14年)、生後8ヵ月の安部公房は家族と共に満洲に渡り、奉天の日本人地区で幼少期を過ごした。小学校での実験的な英才教育「五族協和」の理念は、後に安部の作品や思想へ大きな影響を及ぼした。1937年 (昭和12年) 4月、旧制奉天第二中学校に入学。奉天の実家にあった新潮社の世界文学全集や第一書房の近代劇全集などを読み、特にエドガー・アラン・ポーの作品に感銘を受ける。1940年 (昭和15年)、中学校を4年で飛び級して卒業。日本に帰国し旧制成城高等学校 (現成城大学) 理科乙類に入学。ドイツ語教師の阿部六郎 (阿部次郎の実弟) からの影響で戯曲や実存主義文学を耽読する。在学中、高木貞治の『解析概論』を愛読し、成城始まって以来の数学の天才と称された[4]。
同年冬に、軍事教練の影響で風邪をこじらせ肺浸潤を発症。一時休学し、奉天の実家に帰り療養。恢復を待って1942年 (昭和17年) 4月に復学。同年12月9日、エッセイ『問題下降に依る肯定の批判』[5]を書き、翌年2月に発行された高校の校友会誌「城」の第40号に掲載される。これが安部の活字化された最初の作品となった。
1943年 (昭和18年) 3月、戦時下のため繰上げ卒業。この頃、安部の初の小説とされる『(霊媒の話より) 題未定』を書く[6]。同年10月、東京帝国大学医学部医学科に入学。1944年、文科系学生の徴兵猶予が取り消されて次々と戦場へ学徒出陣していく中、「次は理科系が徴兵される番だ」という想いと「敗戦が近い」という噂から家族の安否を気遣い、同年末に大学に無断で満洲に帰るが、友人が代返をして取り繕ってくれていた。1945年 (昭和20年)、奉天で開業医をしていた父の手伝いをしていた頃に召集令状が届くが、入営前に8月15日の終戦を迎えた。同年冬、発疹チフスが大流行して、診療にあたっていた父が感染して死亡する。
1946年 (昭和21年)、敗戦のために家を追われ、奉天市内を転々としながらサイダー製造などで生活費を得る。同年の暮れに引き揚げ船にて帰国。北海道の祖父母宅へ家族を送りとどけたのち帰京する。以後、安部は中国を再訪することはなく、小説家としても満洲における体験を書くことはなかった[注釈 4]。
帰国・作家デビュー
1947年 (昭和22年) 3月、女子美術専門学校 (現女子美術大学) の学生で日本画を専攻していた山田真知子 (後年、安部真知名義で安部の著書の装幀や芝居の舞台美術を手掛ける) と結婚し、それまで真知子が住んでいたアパートで同居生活を始める。同年、安部は満洲からの引き揚げ体験のイメージに基づく『無名詩集』を、謄写版印刷により自費出版する。ライナー・マリア・リルケやマルティン・ハイデッガーの影響を受けたこの62ページの詩集には、失われた青春への苦悩と現実との対決の意思が強く込められていた[8][注釈 5]。
1948年 (昭和23年)、東大医学部を卒業。ただし、医師にならないことを前提とした条件付きの卒業単位付与であり[注釈 6]、医師国家試験は受験しなかった[注釈 7]。
同年、安部は「粘土塀」と題した処女長篇を、成城高校時代のドイツ語教師・阿部六郎のもとに持ち込んだ。この長篇は、一切の故郷を拒否する放浪の末に、満洲の匪賊の虜囚となった日本人青年が書き綴った、3冊のノートの形式を取った物語であったが、阿部六郎はこの作品を文芸誌『近代文学』の編集者の1人である埴谷雄高に送った[12]。埴谷はただちに安部の才能を認めたが、当時の「近代文学」の編集は合議制であり、埴谷は同人の平野謙に却下されることを危惧し、他の雑誌へ安部を推挙した。その結果「粘土塀」の内の「第一のノート」が翌年2月の「個性」に掲載された。これが安部にとってはじめての商業誌への作品発表となる。これがきっかけとなり、安部は埴谷、花田清輝、岡本太郎らが運営する「夜の会」に参加。埴谷、花田らの尽力により、1948年10月、「粘土塀」は『終りし道の標べに』と改題され、真善美社から単行本で上梓された。
1949年 (昭和24年) 4月、初めてシュルレアリスムの手法を採り入れた短篇小説、『デンドロカカリヤ』を発表する[13]。
1950年代・芥川賞受賞
1950年 (昭和25年)、勅使河原宏や瀬木慎一らと共に「世紀の会」を結成。埴谷によると、この時期の安部は食うや食わずの極貧で、売血をしながら何とか生活をしているという有様であり、埴谷は幾度か安部に生活費をカンパしたほどだったという。 同年夏ごろ、日本共産党に入党[注釈 8]。1951年 (昭和26年)、「近代文学」2月号に安部の短篇「壁 - S・カルマ氏の犯罪」が掲載される。これは、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」に触発された作品であり、テーマとして満洲での原野体験や、花田清輝の鉱物主義の影響が見られる超現実主義的な内容である。
「壁 - S・カルマ氏の犯罪」は1951年上半期の第25回芥川賞の候補となり、選考委員の宇野浩二からは酷評されたものの、川端康成と瀧井孝作の強い推挙が決め手となり、同じく候補に挙げられていた石川利光の『春の草』とともに受賞を果たす。川端は『壁』のような作品の出現に今日の必然性を感じ、新味があり好奇心をそそったとしている[15]。同年5月28日、この短篇は「S・カルマ氏の犯罪」と改題され、短篇「バベルの塔の狸」と、4つのパートからなる中篇「赤い繭」を加え、石川淳の序文、勅使河原宏による装幀、桂川寛の挿絵を得て、安部の最初の短篇集『壁』が刊行された。
同年、友人である赤塚徹の伝手で画家の黒崎義介が茗荷谷に所有していた敷地内の納屋を借り、真知や友人たちの手を借りて改装し転居する。11月、短篇小説『闖入者』を発表。 1952年 (昭和27年) 5月、江馬修、徳永直、野間宏、藤森成吉らとともに『人民文学』に参加。『人民文学』が『新日本文学』と合流した後は新日本文学会に移る。6月、短篇小説『水中都市』を発表。
劇作への傾倒
1953年 (昭和28年) 3月、短篇小説『R62号の発明』を発表。7月、初の戯曲作品『少女と魚』[16]を発表。以後盛んに劇作をおこない、推敲を重ねて改作し様々な媒体で発表するようになる。1954年 (昭和29年) 2月、長篇小説『飢餓同盟』発表。 同年、長女誕生。真知の発案で宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」から採った「ねり」と命名する[17]。12月、小説『奴隷狩』[18]を翌年3月にかけて発表するが中絶。 1953年 (昭和28年) 3月、戯曲『制服』[19]を発表。6月、前年に未完のまま中絶していた小説を戯曲『どれい狩り』[20]として発表、劇団俳優座によって上演される。7月、小説『闖入者』を沼田幸二との共同脚本によるラジオドラマとして放送。同月、短篇小説『棒』を発表。8月、戯曲『快速船』[21]を発表。
1956年 (昭和31年) 4月、中野区野方の借家に転居。同月17日、新日本文学会と国民文化会議の代表としてチェコ作家大会参加のためプラハを訪問、スロヴァキア各国を周り6月24日に帰国する。11月から12月にかけてラジオドラマ『耳』および『口』[22]が放送される。 1957年 (昭和32年) 2月、前年に訪問した東欧の印象をまとめたエッセイ集『東欧を行く ハンガリア問題の背景』を刊行。4月、長篇小説『けものたちは故郷をめざす』を発表。5月、花田清輝、佐々木基一、関根弘、野間宏、勅使河原宏、長谷川龍生らと「記録芸術の会」[注釈 10]を結成する。6月、短篇小説『夢の兵士』発表。同月、子供向けのラジオドラマ『キッチュ・クッチュ・ケッチュ』[24]を田中明夫ほかの出演で放送。7月、『夢の兵士』をラジオドラマ化した『兵士脱走』放送。11月、短篇小説『鉛の卵』発表。同月、小説『棒』を戯曲化したラジオドラマ『棒になった男』[25]放送。12月、1954年から1957年にかけて書かれたエッセイをまとめた単行本『猛獣の心に計算器の手を』刊行。
1958年 (昭和33年) 1月より『群像』にエッセイ『裁かれる記録 映画芸術論』[26]を1年間連載。6月、戯曲『幽霊はここにいる』を劇団俳優座により上演。7月、長篇小説『第四間氷期』を発表。10月、短篇小説『使者』を発表。 1959年 (昭和34年) 3月、前年発表の『使者』が『人間そっくり』として戯曲化される。4月、勅使河原宏から譲り受けた調布市若葉町仙川の敷地に真知の設計になる新居を建て、家族とともに転居する。5月11日よりNHKラジオ第1放送にて子供向けのラジオドラマ『ひげの生えたパイプ』[27]を熊倉一雄ほかの出演により放送。8月23日よりミュージカル『可愛い女』[28]を千田是也の演出、黛敏郎の音楽、ペギー葉山ほかの出演で上演。10月、ラジオドラマ『兵士脱走』を和田勉の演出によりテレビドラマ化した『日本の日蝕』[29]をNHKにて放送。
1960年代・世界の前衛へ
1960年 (昭和35年) 3月、前年放送のドラマ『日本の日蝕』を再び戯曲化し、舞台劇『巨人伝説』[30]として劇団俳優座により上演。6月、長篇小説『石の眼』を発表。9月、短篇小説『チチンデラ・ヤパナ』を発表。同月より子供向けのラジオドラマ『お化けが街にやって来た』[31]を益田喜頓ほかの出演により1年間放送。10月20日、ルポルタージュの手法を採り入れたテレビドラマ『煉獄』放送。同月26日、安保闘争をテーマとした戯曲『石の語る日』を千田是也の演出、林光の音楽、久米明ほかの出演により、中国にて試演[注釈 11]。翌27日には小説「赤い繭」をラジオドラマ化した『ラジオのための作品 赤い繭』を諸井誠の音楽、芥川比呂志ほかの出演で、NHK第2放送およびNHK-FM実験放送にて放送[33]。12月15日、初めて自己の年譜を書く[34]。クリスマスには子供向けのミュージカル・コメディ『お化けの島』[35]を南美江ほかの出演にて上演。 1961年 (昭和36年)、日本共産党が綱領を決定した第8回党大会に批判的な立場をとり、党の規律にそむいて意見書を公表し、その過程で党を除名される。 4月、短篇小説『無関係な死』を発表。7月から9月にかけて福岡県の三菱鯰田鉱業所にて『煉獄』の脚本を改作した映画『おとし穴』(勅使河原宏監督作品)のロケ撮影が行なわれ、安部もエキストラ出演する。
1962年 (昭和37年)、昆虫採集の途次に迷い込んだ村に閉じ込められ、そこから脱出を図ろうとする教師とそれを阻もうとする村人を描いた『砂の女』を発表。以後は創作活動の比重を書き下ろし長篇に移し、都市に住む人々の孤独と他者との通路の回復を主たるテーマとして、次々と実験精神あふれる作品を発表し、国際的な評価を得るようになる。1964年 (昭和39年) 発表の『他人の顔』では事故で顔を失った男性が引き起こす騒動を、1967年 (昭和42年) の『燃えつきた地図』では失踪者を追う興信所員を主人公とし、その両者の末路を書いた。
1970年代・安部公房スタジオ
1970年 (昭和45年)、大阪万国博覧会に自動車館のシンクタンクとして参加する。1971年 (昭和46年) 3月より新潮社の雑誌『波』に「周辺飛行」と題するエッセイの連載を開始する。1973年 (昭和48年)、段ボール箱を被ったまま生活する男を描いた小説『箱男』を発表。同年、自身が主宰する演劇集団「安部公房スタジオ」を発足させ、本格的に演劇活動をはじめる。発足時のメンバーは、新克利、井川比佐志、伊東辰夫、伊藤裕平、大西加代子、粂文子、佐藤正文、田中邦衛、仲代達矢、丸山善司、宮沢譲治、山口果林の12名であった。以後安部公房スタジオは堤清二の後援を受け西武劇場を本拠地として活動する。
1975年 (昭和50年) 5月14日、アメリカ・コロンビア大学から名誉人文科学博士称号を授与される[注釈 13]。また、この年の6月に連載が完結した「周辺飛行」を再編集した単行本『笑う月』を11月に刊行。
1977年 (昭和52年)、病院を舞台とし、奇妙な病気にかかった患者とその治療に当たる奇妙な医者たちを描いた『密会』を発表。同年、アメリカ芸術科学アカデミーの名誉会員に推挙される。また、写真家のアンリ・カルティエ=ブレッソンが渋谷区宇田川町にあった安部公房スタジオの稽古場を訪れ、安部のポートレイト[37]を撮影する。1979年 (昭和54年) 5月、安部公房スタジオを率いて渡米。セントルイス、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、デンバーで行なった『仔象は死んだ』の公演はその斬新な演劇手法が反響を呼んだ。
1980年代・箱根での日々
1980年以降は、文壇との付き合いをほとんど断ち、真知とも疎遠となり、箱根の芦ノ湖を見下ろす高台に建てた山荘を仕事場として独居するようになる。同年1月より『芸術新潮』に自ら撮った写真を用いた『フォト&エッセイ - 都市を盗る』[38]を翌年12月にかけて連載する。 1982年 (昭和57年)、自身の体調不良を理由に安部公房スタジオの活動を休止する。1984年 (昭和59年) 11月、シェルター構想などをモチーフとしてワープロで執筆した初めての小説『方舟さくら丸』を発表。1985年 (昭和60年) 1月、NHK「訪問インタビュー」にテレビ出演する。番組では箱根での仕事ぶりが紹介され、以後も1987年まで同局の番組に数回出演した。1986年 (昭和61年) 9月、1980年代に書いたエッセイやインタビューをもとにした単行本『死に急ぐ鯨たち』を刊行。以後はいくつかのエッセイや寄稿を残して80年代を締めくくる。
1990年代・最晩年
1991年 (平成3年)、奇病にかかった患者を主人公とした小説『カンガルー・ノート』を発表。結果としてこれが安部公房が執筆した最後の小説となった。この頃、安部はクレオールに強い関心を寄せ、それをテーマとした長篇『飛ぶ男』の執筆に取り組んでいたが、同年12月1日に行なわれた談話ではそれに続く新しい構想として「アメリカ論」を挙げ、「チョムスキー風に言えば、学習無用の普遍文化。コカ・コーラやジーンズなどに代表される、反伝統の生命力と魅力をもう一度見直してみたい。」[39]と語っている。
1992年 (平成4年) 12月25日深夜、執筆中に脳内出血による意識障害を起こし、東海大学病院に入院。1993年 (平成5年) 1月16日には経過良好で退院したが、自宅療養中にインフルエンザを発症し、1月20日に多摩市の日本医科大学多摩永山病院に入院。1月22日には解熱し一時的に恢復したものの、就寝中の同日7時1分、急性心不全により死去。68歳没。1992年12月に執筆していた小説『さまざまな父』[40]が未完のまま絶筆[注釈 14]となった。なお、入院時に愛人であり女優の山口果林宅より搬出されたためスキャンダル扱いとされたが、最期は家族に看取られた。
死後
1月23日、自宅で通夜、翌24日に告別式が営まれる。安部が使用していたワープロのフロッピーディスクから執筆途中の『飛ぶ男』 162枚、『もぐら日記』 240枚などが発見された。妻の真知は安部の死後に癌を患い、同年9月22日に急性心筋梗塞で死去[42][43]。長女の真能ねりは、1997年 (平成9年) から2009年 (平成21年) にかけて刊行された全集の編集にも尽力した。2011年 (平成23年) 3月には、安部ねり名義で『安部公房伝』(新潮社)を上梓する。
2012年 (平成24年)、母方の実家に養子に入っていた実弟の井村春光宅(北海道札幌市)から、安部が1946年の引揚時に船内で執筆したと見られる未発表短編『天使』が発見され、同年11月発行の『新潮』12月号に掲載された[44][45]。
2013年、山口果林が自身のエッセイ『安部公房とわたし』で、安部との20年以上に亘る愛人関係を公表した。山口によれば、安部は1987年に前立腺癌を患い、闘病していたが、本人の強い希望で隠されていたとされる[46][47][48]。
2018年8月16日、長女のねりが胸部大動脈破裂のため死去。64歳没[49]。
注釈
- ^ 戸籍に振り仮名が存在しないため、後年は筆名をほとんど本名のように扱っていた。『群像』2009年9月号の加藤弘一によれば、本人のパスポートには〈KOBO〉と表記してあったという。
- ^ 安部浅吉の両親は香川県出身、井村よりみの両親は徳島県出身であった。
- ^ 2012年に講談社文芸文庫から復刻。
- ^ 満洲を舞台にした唯一の長篇小説『けものたちは故郷をめざす』も体験とはかけ離れたものであり、のちに安部はエッセイ「一寸先は闇」に私小説を書かない理由を記している[7]。
- ^ なお、この詩集には真知子に捧げた「リンゴの実」という作品も収載されていた[9]
- ^ 全集後半に何度か本人の弁がある
- ^ 後輩である養老孟司が本人から直接聞いた話によると、長谷川敏雄による卒業口頭試問では人間の妊娠月数を2年と答えたと伝えられている[10]が、大江健三郎によると、本人は象の妊娠期間19ヵ月を答えられなくて落ちたと言っていたという[11]。
- ^ 関根弘によれば、安部が入党した明確な日にちは不明としながらも、コミンフォルム批判に端を発した党派分裂を契機として所感派に入党したのではないかと推測している[14]。
- ^ 文化放送(「耳」はラジオ九州との共同制作)による「現代劇場 人間の顔シリーズ」 の第1作、第2作として1956年11月2日および12月7日に放送。
- ^ 他にもメンバーとして井上俊夫、岡本太郎、小林勝、杉浦明平、瀧口修造、武田泰淳、玉井五一、鶴見俊輔、徳大寺公英、中原佑介、長谷川四郎、羽仁進、埴谷雄高、林光、針生一郎、柾木恭介、真鍋呉夫らが在籍していた[23]。
- ^ 当戯曲は前橋市民主商工会の閉店ストライキをモチーフとして制作され、劇団俳優座・文学座・劇団民藝のメンバーで構成された訪中新劇団によって試演された[32]。
- ^ なお、初回放送時のラジオ台本は散逸しており、同年12月8日に草月会館で催された舞台上演時の台本のみ現存する。
- ^ 授与式の模様はNHKニュースセンター9時などで採り上げられ、安部は放送時のテレビ画面を写真撮影した[36]。
- ^ 安部の死後、フロッピーディスクから発見された文書データより絶筆と判定されている[41]。
- ^ 真知の命日は前者、直接の死因となった病名は後者の記述に拠る。なお、真知の命日について後者では9月23日と記載されているが、より刊行年の新しい前者の記述に拠った。
- ^ 安部は文壇付き合いについて「文学畑の人たちと付き合っていると疲れる、常識が合わない」と養老孟司に語っていたという[50]。養老はつづけて「理科系のわたし (養老) からすると、文学者は主観の塊で、根本的には度し難い人種なのである」と書いている。
- ^ キーンによれば、安部は国家主義こそ世界平和への最大の障害だと考えていたという[60]。
- ^ キーンから「これはあなたが読むために書かれたような小説だ」と言われたという[69]。
- ^ 安部は発売元だった西武自動車販売の広報用にチェニジーの装着方法を図解入りで執筆している[72]。
- ^ 近年では『安部公房全集』全30巻の箱裏と見返し、新潮文庫より刊行されている安部作品の表紙に使用されている
- ^ それ以前にも、1970年代末ごろから星新一など幾人かがワープロの使用を試みているが、平井和正 (1982年頃から使用) や村上春樹などを除き、いずれも程なくして断念したという。
- ^ リンク先にも安部が1985年のNHK訪問インタビュー出演時に同機器を操作した映像がある。
- ^ 新潮文庫旧版の戯曲集『友達・棒になった男』 (1987年)、『緑色のストッキング・未必の故意』 (1989年)に使用された。なお、後者では美術家の承諾を得て一部の彩色を変更している。
- ^ 収録作品:『砂の女』 『他人の顔』 『燃えつきた地図』 『友達 (戯曲)』 『デンドロカカリヤ』 『棒』 『水中都市』 『時の崖』 / エッセイ『一寸先は闇』 (月報収録)
- ^ 資料編の最終30巻目のみ、刊行が大幅に遅れた。
出典
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 45頁。
- ^ a b 「文藝春秋」写真資料部. “ノーベル文学賞に非常に近かった安部公房 | 「文藝春秋」写真資料部 | 文春写真館”. 本の話. 2023年5月26日閲覧。
- ^ a b 安部公房は受賞寸前だった…ノーベル委員長語る 読売新聞 2012年3月23日閲覧。リンク切れ
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- ^ 『安部公房全集 <001>』p.11-16
- ^ 安部ねり『安部公房伝』p.45
- ^ 初出:『新潮日本文学46 安部公房集』月報 (新潮社、1970年) / 再録:『安部公房全作品 15』(同、1973年)、『安部公房全集 <023>』p.24-26
- ^ http://booklog.kinokuniya.co.jp/abe/archives/cat283/ 紀伊国屋 書評空間 Booklog "阿部公彦"2011年4月18日のブログ
- ^ 安部ねり『安部公房伝』p.81
- ^ 養老孟司『小説を読みながら考えた』p.54-55
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- ^ 初出:「錨なき方舟の時代」 / 再録:『死に急ぐ鯨たち』、『安部公房全集 <027>』p.169
- ^ 安部ねり『安部公房伝』p.93
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- ^ 『安部公房全集 <010>』p.10-541. 所収
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- ^ 初出:『現代文学の実験室1 安部公房集』 (大光社) / 再録:『安部公房全集 <011>』p.201-224.所収
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- ^ 再録:『安部公房全集<012>』p.415-420.所収[注釈 12]
- ^ 初出:『新鋭文学叢書2 安部公房集』筑摩書房 / 再録:『安部公房全集<012>』p.464-467.所収。
- ^ 『安部公房全集 <012>p.469-491
- ^ 『安部公房全集 <025>』箱裏、安部ねり『安部公房伝』p.180-181
- ^ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』表紙、安部ねり『安部公房伝』p.184
- ^ 『安部公房全集 <026>』p.433-481 所収
- ^ 『われながら変な小説』(初出:「波」1991年12月号、新潮社) / 再録:『安部公房全集 <029>』p.212-215
- ^ 『安部公房全集 <029>』p.251-273 所収
- ^ 『安部公房全集 <029>』巻末作品ノート p.10-11
- ^ 妻子ある有名作家との23年間を、はじめて公に文藝春秋WEB、2013.09.26 リンク切れ
- ^ 安部ねり『安部公房伝』p.227および、谷真介『安部公房レトリック事典』p.430[注釈 15]
- ^ “安部公房さん未発表作発見 最初期の短編「天使」”. 共同通信社. 47NEWS. (2012年11月7日) 2012年11月20日閲覧。 リンク切れ
- ^ “安部公房の未発表短編見つかる=札幌の実弟宅で―「新潮」に掲載 - WSJ日本版 - jp.WSJ.com” リンク切れ
- ^ ノーベル文学賞候補といわれた作家・安部公房の封印されてきた過去ダ・ヴィンチ、2013年08月27日
- ^ 『安部公房とわたし』山口果林著 人生賭けた悲運の不倫劇産経新聞、2013.9.22 リンク切れ
- ^ 安部公房、隠し通した「がん闘病」 山口果林さん、手記で語る朝日新聞、2013年7月25日 リンク切れ
- ^ 作家・安部公房氏の長女、安部ねりさん死去 64歳 - 産経ニュース 2018年8月20日
- ^ 養老孟司『小説を読みながら考えた』p.210
- ^ 初出:『われながら変な小説』(初出:「波」1991年12月号、新潮社) / 再録:『安部公房全集 <029>』p.212
- ^ 初出:「すばる」(臨時増刊石川淳特集記念号) 1988年、集英社 / 再録:『安部公房全集 <028>』p.378-379
- ^ 最相葉月『星新一 1001話をつくった人』p.412
- ^ 『大江健三郎 作家自身を語る』p.294-295
- ^ 対談「明日を開く文学」 (初出:福島民報 1984年1月1日 / 再録:『安部公房全集 <027>』p.178-182.所収。) 対談「チェコ 演劇 三島由紀夫」同「クレオール 文学 国家」同「SF 分子生物学 意思」 (初出:朝日新聞 1990年12月17日-19日 / 再録:『安部公房全集 <029>』p.72-79.所収)
- ^ 『叙情と闘争』「芝居と現代音楽」p.225.
- ^ 『叙情と闘争』「芝居と現代音楽」p.228.
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- ^ 『思い出の作家たち』単行本 p.137. 文庫版 p.163
- ^ a b 1991年12月3日に行なわれた河合との対談「境界を越えた世界」(初出:トーハン「新刊ニュース」1992年2月号 / 再録:『こころの声を聴く - 河合隼雄対話集』p.41-62.所収、『安部公房全集 <029>』p.216-225.所収)
- ^ 1992年1月1日に行なわれた養老との対談「迷路を縫って」(初出:「新潮」1992年1月号 / 再録:『安部公房全集 <029>』p.232-243.所収)
- ^ 初出:『安部公房全集 <023>』贋月報 / 再録:安部ねり『安部公房伝』p.310
- ^ 山口果林『安部公房とわたし』p.125
- ^ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』p.58-59
- ^ 「負けるが勝ち カフカの生家を訪ねて」(初出:中央公論社刊 世界の文学18 ドストエフスキイ 付録)、「美しい石の都プラハ」(初出:世界文化社刊 世界文化シリーズ9 東ヨーロッパ) / 再録:『安部公房全集 <020>』p.131-133
- ^ 『安部公房全集 <027>』p.60
- ^ (初出:「地球儀に住むガルシア=マルケス」 / 再録:『死に急ぐ鯨たち』、『安部公房全集 <027>』p.122) なお、エリアスとその妻ベーツァの著作は岩田行一や池内紀などの訳出で法政大学出版局から出版されている。
- ^ 初出:「地球儀に住むガルシア=マルケス」 / 再録:『死に急ぐ鯨たち』、『安部公房全集 <027>』p.122
- ^ a b 『ダ・ヴィンチ解体全書vol.2 - 人気作家の人生と作品』p.122
- ^ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』p.50-51,66
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- ^ a b 安部ねり『安部公房伝』p.218
- ^ “文字とともに歩む――伊藤英俊氏に聞く”. 加藤弘一 (2003年4月15日). 2012年3月25日閲覧。
- ^ 夢みる機械~安部公房、キューブリック、ピンク・フロイドの眼 (その2) スローリィ・スローステップの怠惰な冒険 (2014年12月27日投稿)[注釈 22]
- ^ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』p.3
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- ^ ドナルド・キーン、安部公房『反劇的人間』
- ^ 『安部公房全集 <003>』p.85
- ^ 『死に急ぐ鯨たち』所収
- ^ 『新潮日本文学アルバム51 安部公房』p.59、安部ねり『安部公房伝』帯文
- ^ 初出:安部公房スタジオ会員通信8 / 再録:『安部公房全集 <026>』p.401
- ^ 『安部公房全集 <026>』巻末資料p.16
- ^ 『時間の園丁』「エピソード-安部公房の否(ノン)p.89.
- ^ 初出:『若い読者のための短編小説案内 第4回 小島信夫「馬」』(文藝春秋「本の話」1996年4月号) / 再録:『若い読者のための短編小説案内』(文庫版)p.66
- ^ 初出:『安部公房全集 <021>』贋月報 / 再録:安部ねり『安部公房伝』p.301
- ^ 初出:『安部公房全集 <021>』贋月報 / 再録:安部ねり『安部公房伝』p.302
- ^ 『大江健三郎 作家自身を語る』p.234
- ^ 友達 - MOVIE WALKER PRESS
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