孤立主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:19 UTC 版)
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その元々の源泉は、初代大統領ジョージ・ワシントンが離任に際しての告別演説の中で、「世界のいずれの国家とも永久的同盟を結ばずにいくことこそ、我々の真の国策である」と述べたことである(もちろん、厳密に言えばこれは「非同盟主義」の萌芽である)。
孤立主義は、第二次世界大戦序盤、どうしても対独戦争に参戦したいアメリカ北東部の金融資本家を中心とした干渉主義者の影響下にあるメディアや政治家が、非干渉主義を支持する大多数の国民を批難するために、国民に強い罪悪感を植え付けようとして使い出したプロパガンダ用語[3]。
背景
南北アメリカ大陸などのアメリカが権益を持っているところ以外の地域については、不干渉を原則とした。これは、アメリカは大洋の向こうにある国々と軍事的なかかわりを持つ必要が薄かったからである。また、移民国家であるアメリカに不必要な内紛が起こらないようにするためでもあった。
つまり、孤立主義は「アメリカ合衆国一国主義」「アメリカ合衆国単独行動主義」の消極的側面とも言える。モンロー主義の時代は南北アメリカ大陸の権益の独占を目指し先住民の掃討・米墨戦争をした「アメリカ合衆国一国主義」「アメリカ合衆国単独行動主義」の時代であるが、南北アメリカ大陸以外には不干渉の立場をとったため、ヨーロッパにとってはアメリカ合衆国の「孤立主義」の時代と言われる。
先住民掃討が完了した1890年の「フロンティア消滅宣言」前後からはアメリカ合衆国は太平洋にも権益を求め、米西戦争の結果キューバを保護国化し、フィリピン、プエルトリコ、グアム島などを植民地として取得しても、この原則は変わらなかった。
第一次世界大戦後、ウッドロウ・ウィルソンの下で一時的に積極的な国際関係を構築しようとする動きがあった。しかし、アメリカ合衆国連邦議会が国際連盟への加盟を否決するなど、アメリカ国民の支持は得られなかった。
対独戦争参戦を目論むフランクリン・ルーズベルト政権やロックフェラセンターに事務所を構えた英国安全保障調整局の工作により、非干渉主義の言論人や有名人は排斥され、干渉主義称揚映画(典型的な作品はアルフレッド・ヒッチコックの『海外特派員』)が制作された。
孤立主義の終焉
第二次世界大戦が始まっても孤立主義の支持は根強く、是非を問う論争が続いた。しかしながら、この論争は1941年12月7日(米国時間)の大日本帝国による真珠湾攻撃によって終息し、アメリカは第二次世界大戦に参戦した。そしてその勝利後にアメリカを待っていたのは、大戦を機に世界への軍事的影響力を増大させ、本格的に共産主義革命の輸出を目論む超大国へと成長したソビエト連邦だった。冷戦の時代の到来である。
長年に渡る孤立主義により、国力を蓄積・温存し、自らも全世界に影響力を持ち得る超大国となっていたアメリカは、東側陣営の増長の脅威に直面して、ここに一転して建国以来の国是であった孤立主義を放棄し、「世界の警察官」の語に象徴される内政干渉・覇権主義へと舵を切ることになった。
冷戦の終了後は「アメリカ帝国」「アメリカ合衆国単独行動主義」の傾向を強め、国際連合安全保障理事会決議なしのアフガニスタン紛争とイラク戦争を行うことになった。
- ^ 宮崎正弘・渡辺惣樹『激動の日本近現代史 1852-1941』ビジネス社2020年、pp.8-11
- ^ 渡辺惣樹『日米戦争を望んだのは誰か』WAC2020年、pp.1-pp.79
- ^ 宮崎正弘・渡辺惣樹『激動の日本近現代史 1852-1941』ビジネス社2020年、pp.8-11
- ^ “シリア介入:共和党も反対多数 米の「新孤立主義」拡大”. 毎日新聞. (2013年9月22日) 2013年9月22日閲覧。
- ^ “【一般教書演説】中間選挙向け「内向き」姿勢にじませ 中国の脅威には触れず”. 産経新聞. (2014年1月29日) 2014年2月13日閲覧。
- ^ “【正論】「8・15」に思う 「危険な台頭」が迫る日本の覚悟 杏林大学名誉教授・田久保忠衛”. 産経新聞. (2014年8月14日) 2014年8月15日閲覧。
- ^ トランプ・米大統領誕生なら日本はついに戦争に駆り出されるNEWSポストセブン 2016年1月2日
- ^ 安倍首相「信頼築けると確信」=トランプ氏と初会談-1時間半、再会で一致時事通信 2016年11月18日
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