姫路城
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歴史・沿革
代 | 城主 | 入城年 | 代 | 城主 | 入城年 |
---|---|---|---|---|---|
1 | 赤松貞範 | 1346年(貞和2年) | 10 | 小寺則職 | 1519年(永正16年) |
2 | 小寺頼季 | 1349年(貞和5年) | 11 | 八代道慶 | 1531年(享禄4年) |
3 | 小寺景治 | 1352年(文和元年) | 12 | 黒田重隆 | 1545年(天文14年) |
4 | 小寺景重 | 1357年(延文2年) | 13 | 黒田職隆 | 1564年(永禄7年) |
5 | 小寺職治 | 1403年(応永10年) | 14 | 黒田孝高 | 1567年(永禄10年) |
6 | 山名持豊 | 1441年(嘉吉元年) | 15 | 羽柴秀吉 | 1580年(天正8年) |
7 | 赤松政則 | 1467年(応仁元年) | 16 | 羽柴秀長 | 1583年(天正11年) |
8 | 小寺豊職 | 1469年(文明元年) | 17 | 木下家定 | 1585年(天正13年) |
9 | 小寺政隆 | 1491年(延徳3年) | 18 | 池田輝政 | 1600年(慶長5年) |
南北朝時代・戦国時代
1333年(元弘3年)、元弘の乱で護良親王の令旨を奉じて播磨国守護の赤松則村が挙兵し、上洛途中の姫山にあった称名寺[33][注釈 7]を元に縄張りし、一族の小寺頼季に守備を命じた[34][35]。南北朝の争乱で足利尊氏に呼応した則村が再度挙兵し、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)、次男の赤松貞範が称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とした[36][37][38]。1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)、貞範が新たに庄山城(しょうやまじょう、現在の飾東町にあった)を築城して本拠地を移すと、再び小寺頼季が城代になって以後は小寺氏代々が城代を務める[39]。
1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱を起こした赤松満祐・教康父子を山名宗全らが討伐軍を挙げ、赤松父子は城山城で自害し赤松氏は断絶し、赤松満祐に属していた城代の小寺職治は討死した。その後、山名氏が播磨国守護に、山名氏の家臣・太田垣主殿佐が城代になった。1458年(長禄2年)、長禄の変で後南朝から神爾を取り戻した功績で赤松政則(満祐の弟の孫)の時に赤松氏再興が許された。1467年(応仁元年)、応仁の乱で山名氏に対立する細川勝元方に与した政則が弱体化した山名氏から播磨国を取り戻し、姫路城に本丸、鶴見丸、亀居丸を築いた。
1469年(文明元年)、則村が隣国の但馬国に本拠地がある山名氏に備えるため新たに築いた置塩城に本拠地を移し、小寺豊職が城代になった。1491年(延徳3年)、豊職の子・政隆が城代になり、御着城(姫路市御国野町御着)を築城開始。1519年(永正16年)、政隆が御着城に本拠地を移し、子の則職が城代になった。
1545年(天文14年)、則職が御着城に移り、家臣の黒田重隆に城を預ける。黒田重隆・職隆父子が主君で御着城主の小寺政職(則職の子)の許可を受けて、御着城の支城として1555年(天文24年)から1561年(永禄4年)の間に、現在よりも小規模ではあるが居館程度の規模であったものから姫山の地形を生かした中世城郭に拡張したと考えられている。姫路(姫山)に城があったと確認できる一次史料は、永禄4年の『正明寺文書』に「姫道御溝」の記述や『助太夫畠地売券』に城の構えがあるという記述で、これらを根拠に姫路城の始まりという説もある[40][41]。職隆は百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、行商人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていた[42]。
1567年(永禄10年)、職隆の子・孝高(官兵衛・如水)が城代になった。1568年(永禄11年)、青山・土器山の戦いで赤松政秀軍の約3,000人に対して黒田軍(職隆・孝高父子)は約300人という劣勢で姫路城から撃って出て赤松軍を撃退する。以後、1573年(天正元年)まで孝高が城代を務めた。
安土桃山時代
1576年(天正4年)、中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国路の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立。最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。ただし小寺氏の家臣でありつつも早くから秀吉に誼を通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。1577年(天正5年)、孝高は二の丸に居を移し本丸を秀吉に譲った。
1580年(天正8年)、秀吉は三木合戦で三木城を、続いて英賀城などを落城させ、播磨を平定。孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言して姫路城を献上、自らは市川を挟んで姫路城の南西に位置する国府山城(こうやまじょう)[注釈 8]に移った[43]。秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名する[43][44][36]。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、城南の城下町を通るようにも改めている。同年10月28日、龍野町(たつのまち)に、諸公事役免除の制札を与える。この最初の条文において「市日之事、如先規罷立事」とあることから、4月における英賀城落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説がある[45]。1581年(天正9年)、秀吉は姫路城で大茶会を催した後、鳥取城攻略へ出陣した(中国攻め#鳥取城攻めと淡路平定 /天正9年)。
1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、天下人の地位へ駆け上っていく。このため1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移り姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが、1585年(天正13年)には大和郡山へと転封。替わって木下家定が入った[注釈 9]。
1600年(慶長5年)、池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田城(15万石から播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて1601年(慶長6年)から8年掛けた大改修で姫山周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築いた[46][47][48]。中堀は八町毎に門を置き、外堀からは城下と飾磨津を運河で結ぶ計画であったが、輝政の死去と地形の高低差の問題を解決できず未完に終わる[48]。運河計画は後の本多忠政の時代に船場川を改修して実現することになる。普請奉行は池田家家老の伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人 - 5千万人であろうと推定されている[49]。また、姫路城の支城として播磨国内の明石城(船上城)、赤穂城、三木城、利神城、龍野城(鶏籠山城[注釈 10])、高砂城も整備された。
江戸時代
「姫路藩の歴史」も参照。
1617年(元和3年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、山陽道の要衝を任せるには不安であることを理由に因幡国鳥取藩へ転封させられ、伊勢国桑名藩から本多忠政が15万石で入城した。忠政は城の西側を流れる妹背川を飾磨津までの舟運河川に改修して船場川と改名した[50][51]。1618年(元和4年)には千姫が本多忠刻に嫁いだ化粧料を元に西の丸が整備され[52]、全容がほぼ完成した。
城内の武士階級の人口は次の通り[53]。
- 池田氏時代(1603年頃):300石以上の中級武士が約500人。
- 本多氏時代(1617年から1639年):忠政の家臣が700人以上、忠刻の家臣が500人以上、足軽や小者を含め約4000人。
- 榊原氏時代(1649年から1667年、1704年から1741年):家臣・足軽など約3000人。
- 酒井氏時代(1749年から1871年):家臣・足軽など約2200人。
藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再び越前松平家、再び本多家、再び榊原家、再々度入封した越前松平家と目まぐるしく入れ替わる。1749年(寛延2年)に上野国前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の江戸幕府要職の責務も相まって藩の経済を圧迫していた。
幕末期、鳥羽・伏見の戦いにおいて姫路城主酒井忠惇は老中として旧幕府方に属し、先の将軍だった徳川慶喜とともに行動を共にしたため、慶喜とともに朝敵となり、姫路城は岡山藩と龍野藩を主体とする新政府軍の兵1,500人に包囲され、車門・市ノ橋門、清水門に兵を配置されている。この時、池田茂政の率いる岡山藩の部隊が景福寺山に設置した大砲で姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。両者の緊張は高まり、新政府軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定して新政府に恭順した。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避された。
明治時代
1869年(明治2年)の版籍奉還後、姫路城は国有化された[17]。当時城郭は軍事建築物だったので姫路城も初め兵部省が管理し、明治5年(1872年)の兵部省廃止後は陸軍省に引き継がれた[54]。大阪鎮台の管轄下になった[51]。同年に陸軍省は全国城郭の存廃を定め、姫路城は存置となったが、維持費が莫大なうえ、老朽化が著しく保存修理に着手できる見込みもなかったので、腐朽する前の除却に着手したが、明治天皇巡幸の際に名古屋鎮台司令長官四条隆謌の進言により除却が見合わせとなった[55]。
姫路城は民間に売却されることになり、公入札(競売)が行われ、姫路米田町の神戸清一郎が23円50銭で落札した[18]。落札の際、旧城主の酒井忠邦より東屋敷庭前に据え置かれた芥田匠作の雪見灯籠を購得し、これを1892年(明治25年)に歩兵第10連隊本部へ寄贈した際に「撮歴縁起」書と銀杯を拝受した。陸軍省と協力して城の永久保存をするために落札したという説と、城の古鉄または瓦を売るのが目的であったという説の2つがあるが、後者の説では、瓦を一般家屋に転用するには城の瓦は大きく重いことや解体費用が掛かりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も消失した。なお1927年(昭和2年)5月末には、その息子である神戸清吉が、姫路城は父が落札したはずなのにいつの間にか国有になっているとして、弁護士の長田三保二を雇って姫路城の所有権を主張し、大蔵省を相手取って訴訟を起こすことを検討していることを読売新聞などが報じている。それによると彼の父清一郎が落札したことは明らかだが、その後の事実関係が明瞭でなく、民法施行前のことでもあり、民法によるにしても時効にかかっているため、訴訟を断念したとしている[18]。別の新聞が後日取材したところでは提訴する意思がないことを述べており、また同記事で1874年(明治7年)に買い受けた後に陸軍省に買い上げてもらったとしている[56][2]。さらに後年の姫路市立城郭研究室による神戸氏の子孫への調査では、そもそも神戸清一郎という人名自体が誤りであり、さらに落札の範囲が不明瞭であると指摘されている[57]。
城跡は陣地として好適な場所であったことから陸軍の部隊は城跡に配置される例が多く、国有に戻った後の姫路城も1874年(明治7年)に三の丸を中心に歩兵第10連隊が設置され、この際に兵舎の増築のため本城と向屋敷、東屋敷等の撤去が行われた[19]。また1882年(明治15年)には失火で備前丸が焼失した[58]。1896年(明治29年)には姫路城南西に歩兵第39連隊が設置された。この頃の建物は第10師団兵器庫(1905年(明治38年)-1913年(大正2年)。現在の市立美術館)、第10師団師団長官舎(1924年(大正13年)。現在の淳心会本部)、旧逓信省姫路電信局(1930年(昭和5年)。後のNTT西日本兵庫支店姫路2号館、現在の姫路モノリス)などが残っている。中曲輪南東部(射楯兵主神社周辺)には第8旅団司令部や偕行社[注釈 11][59]が置かれた。
1873年(明治6年)から1876年(明治9年)にかけて東部外堀の東半分が埋め立てられ、生野銀山と飾磨津を結ぶ生野鉱山寮馬車道が整備された。
国有に戻った後も姫路城の腐朽は進み、1877年(明治10年)12月には陸軍少佐の飛鳥井雅古(飛鳥井家)が陸軍中将の西郷従道に宛てて『姫路城天守修繕之義ニ付伺』を提出して承認されている[60]。さらに1878年(明治11年)12月26日には姫路城の腐朽を憂いた陸軍省第四局長代理中村重遠大佐が名古屋城と姫路城を国内無比の名城となし、我が国往古の築城の模範としてこれを保存し、保存修理に要する費用は陸軍省に於いて負担すべき旨、陸軍卿山縣有朋に報告し、太政官に上申された結果、1879年(明治12年)1月29日の姫路城と名古屋城の保存が決定した[18]。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る[18]。1879年(明治12年)に行われた大天守の地階を補強支柱工事の文書が残っている。1890年(明治23年)にも補強のために大天守地階に支柱22本、筋違21本を入れる工事が行われた[20]。
しかしその後も年を経るにつれて腐朽は進み、いつ倒壊してもおかしくない状態になったため、更なる大規模工事が必要となった[20]。市民の間でも姫路城の保存修理を求める運動が高まり、1908年(明治41年)には白鷺城保存期成同盟が組織され、政府や衆貴両院に陳情を行った。その結果1910年(明治43年)第26回議会を通過し、9万円の予算をもっての「明治の大修理」が行われることになった[20][61]。
工事は1910年(明治43年)7月10日から1911年(明治44年)7月15日に行われ、修理個所は、大天守、東小天守、西小天守、乾小天守、はの渡櫓、ろの渡櫓、いの渡櫓、にの渡櫓、台所、水の四門、水の五門、水の六門が対象となった。
大正時代
明治の大修理終了後、姫路市は陸軍が使用していない本丸・二の丸と三の丸の一部の城域を借り受け、姫山公園として整備し、1912年(大正元年)8月から一般公開を始めた[62]。1919年(大正8年)には陸軍省が西の丸を修理している。城内にあった歩兵第10連隊は後に岡山市へ移転し、歩兵第39連隊は姫路所在のまま太平洋戦争の終戦を迎えた。1912年(大正元年)から1932年(昭和7年)にかけて南部中堀が埋め立てられ道路とされた[63](現在の国道2号)。
昭和時代
1928年(昭和3年)に姫路城は史跡に指定され、文部省の管理となる(実際の管理は姫路市)。次いで1931年(昭和6年)1月、大小天守など8棟が国宝に指定され、同年12月には渡櫓、門、塀等74棟も国宝に指定される。ただしこの時点での「国宝」は「旧国宝」と呼ばれるもので、1950年(昭和25年)施行の文化財保護法における重要文化財に相当するものである。
1933年(昭和8年)、本来は繋がっていない三の丸東部の内船場蔵と喜斎門南の下三方蔵を繋ぐ通路を整備、1957年(昭和32年)に拡幅した。1944年(昭和19年)、中村重遠大佐の顕彰碑を建立。
太平洋戦争中、姫路城の白壁は非常に目立ち、また陸軍の部隊が置かれていてかつ軍需産業の拠点でもあった姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網(擬装網)で城の主要な部分を覆い隠すこととした。しかし、1945年(昭和20年)7月3日の姫路空襲で城下は焼き尽くされた[64]。城内にも着弾したが本城跡にあった中学校校舎が焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、最上階南側の薄い窓板を貫通して横滑りするように、最も衝撃が小さく、爆発しにくい角度で城内に入り込んだため、不発であったこと[65]などにより、城郭建築の焼失は免れた。阿部知二は赤く燃える町の火炎の色を天守が映すさまを目撃し「妖しい生命を持った美しい怪鳥、生霊」と表している[66][67](清水橋西袂に文学碑が建つ[68])。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、姫路市民は涙したという[56]。この空襲の罹災者を西の丸に避難・収容した。擬装網は終戦後に撤去された。
かつて、姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったと言われていたこともあるが、獨協大学の四宮満の研究によって否定されている[69]。城内にも実際に着弾したものの、運良く破壊を免れただけのことであり、事前に爆撃対象から外されていたわけではなかったと考えられる。実際に内曲輪内の西三の丸にあった旧制姫路市立鷺城中学校(現姫路市立姫路高等学校)は爆撃によって焼失している[70][71]。当時のB-29の機長だったアーサー・トームズは戦後50年に来日し姫路を訪れた際に「私は城があることすら知らなかった。上官から城について何の指示もなかった。レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい」と語っており、実際の空爆時刻が夜間だったこともあって上空からは姫路城とは視認されず、レーダーには外堀の水が映ったことから姫路城一帯を沼地だと思い、沼地を攻撃しても意味がないと判断したため爆撃しなかったと回顧している[72][73][74]。
この戦争の前後、いわゆる「昭和の修理」が行われた。直接的な契機は1934年(昭和9年)の豪雨で櫓や石垣の一部が損壊したことによる[75]。この年から順次行われた修理は、戦時中の中断をはさんで1964年(昭和39年)まで続き、特に1956年(昭和31年)からの大天守の修理を「昭和の大修理」という[75](1934年からの修理全体を広義の「昭和の大修理」とする場合もある[76][77])。一連の修理は全解体を伴う大規模かつ抜本的なものであったことから「昭和の築城」の異名もとる[77](詳しくは#昭和の大修理参照)。なお、この機会に後出の俗謡にも歌われた城の傾きを改善するために、礎石の取替えが行なわれ、鉄筋コンクリート製の基礎構造物になった[78]。
1947年10月、三の丸を「三の丸野球場」として使用開始[79][80]。プロ野球の試合としては、1948年11月9日、阪急対中日、金星対南海のダブルヘッダーが行われた。また、1952年からは中曲輪の南西部(旧:武家地、現:大手門駐車場)にあった歩兵第三十九連隊跡地を「本町野球場」として1988年まで使用していた。ここでは、1958年3月9日に二軍のオープン戦として南海対巨人のダブルヘッダーが行なわれた。
1976年(昭和51年)から姫路公園整備計画が行われ城北の姫山住宅跡地が公園に整備され、野外ステージなどが建てられた[81]。この整備工事の過程で清水門の石垣が発掘された。
平成時代
1992年(平成4年)、日本は世界遺産条約を批准すると、世界遺産暫定リストに姫路城などを記載した。そして姫路城は最初に推薦された物件の一つとなり、1993年(平成5年)12月11日、法隆寺地域の仏教建造物とともに日本初の世界遺産(文化遺産)に登録された。後述するように、木造建築物であり抜本的な修理工事を経ている姫路城の登録は、文化財のオーセンティシティ(真正性、真実性)をどう評価するかという問題を改めて提起し、その後の世界遺産登録にも大きく影響した「奈良ドキュメント」成立につながった[82]。この年から石井幹子による夜間照明の演出が始まる[83]。令和5年から順次LED照明に切り替えられる。
この世界遺産登録を機に制定されたのが「平成中期保存修理計画」である。このときには大天守の修理は昭和の大修理から50年を経て別途検討することとなっていたが、その後の破損などを踏まえて計画が前倒しされ、2009年(平成21年)から2015年(平成27年)に姫路城大天守保存修理工事が行われることとなった。これがいわゆる「平成の大修理」である[84]。
注釈
- ^ 飾磨郡は飾東郡と飾西郡に分割、明治29年(1896年)に再び統合されている[13]。
- ^ 国宝指定の現存天守を持つ5箇所の城郭、すなわち姫路城、松本城、彦根城、犬山城、松江城を指す。
- ^ 赤松氏の傍系を先祖に持つ。
- ^ 橋本政次(1886 - 1973):郷土史家、作家。鷺城新聞社(姫路市南畝町に明治後期から大正時代にあった新聞社)、神戸新聞社で論説委員などをつとめる。姫路市・姫路城の研究で知られる。著書に『姫路城史』『千姫考』『播磨考』『姫路市町名字考』『姫路城の話』など。
- ^ 八代城の別名は白鷺城と書いて「しらさぎじょう」と読んでいる。
- ^ 姫路市学校園ホームページに校歌が掲載されている集計した時点で32校中15校の校歌に使用されている。
- ^ 現在は市内五軒邸に移転し正明寺(天台宗)になっている。市内飾東町にある称名寺(浄土真宗大谷派)は同名の別の寺。
- ^ 父の職隆が家督を譲り隠居していた城。別名は「妻鹿城」「甲山城」「功山城」「袴垂城」ともいう。
- ^ 関ヶ原の合戦後の1601年(慶長6年)、木下家定は備中足守2万5000石へ転封する。
- ^ 読みは「けいろうさんじょう」。別名:龍野古城・朝霧城。龍野市龍野町北龍野にあった赤松氏の居城の一つ。
- ^ 1878年(明治11年)から1882年(明治15年)3月までは「山陽博交社」だった。
- ^ 十字架のようにも見えるためキリシタン大名であった黒田孝高が城主であった頃の名残りと言われている。しかし、『フロイス日本史』によると孝高がキリスト教の洗礼を受けたのは1583年(天正11年)から1585年(天正13年)頃であり、これは黒田家による築城より後で孝高は秀吉に姫路城を譲って国府山城に移っている時期になる。
- ^ 史料によって3,000 - 4,000の開きあり。
- ^ 例えば橋の欄干、車止めブロックなどに丸・三角・四角の模様や穴が見られる。
- ^ 普段は木の蓋で塞がれているが、非常時にのみ開かれる。
- ^ 現存12天守では松山城(伊予国)が同じ構成である。
- ^ 天守南東部の「帯の櫓」にも座敷・床の間がある。
- ^ 忠政の息子で千姫の夫、忠刻の役職「中務大輔(唐名中書)」に由来する。
- ^ 千姫の号「天樹院」に由来する。
- ^ 新たな瓦は西谷増吉、福永正太郎、林営松らの瓦師によって制作された。
- ^ 息子の和田達也は姫路城管理事務所長。
- ^ 1964年までの工事を第2期第2次工事と呼ぶ。
- ^ 松本城の解体修理は1950年(昭和25年)から1955年(昭和30年)。
- ^ 三の丸広場北方にそのままの配置で移動された。
- ^ 森林鉄道では運材台車と呼ばれる2台1組の首振り機構のついた2軸トロッコの上に木材をまたがらせて輸送する。このため、極端に長い木材の場合、中央部に支えがなく、また木材自体を機関車の牽引力伝達に用いることから、停車時の衝撃や自身の重みなどで折れてしまう恐れがあった。
- ^ 「北」は「敗北」に通ずるので、北西に築いた小天守を「北西小天守」ではなく「乾小天守」と称している。戌亥(いぬい)つまり乾(いぬい)=北西の方角。
- ^ 官報告示は1952年1月12日(文化財保護委員会告示第2号)
- ^ 2015年7月17日、台風11号の影響による観光客の安全を考慮したため、年末の休城以外では初の休城となった。[309][310]。
- ^ 2016年度から英語、中国語(繁体・簡体)、韓国語、ポルトガル語、スペイン語、フランス語、ドイツ語、イタリア 語、ロシア語、フィリピノ語、ベトナム語、タイ語、マレー語、インドネシア語、タミール語、ヒンディー語、 オランダ語、スウェーデン語の 19 ⾔語に対応、2021年にはウクライナ語も追加された。
- ^ ただし本町68番地のうち、姫路医療センターを含む北辺の一部は野里小学校・城乾中学校の校区である。姫路市立学校校区規則
- ^ 『日産・スカイライン(白鷺篇)』 1973年 いわゆるケンメリと呼ばれるC110系スカイラインのCMシリーズに使用された。
- ^ 『変身忍者 嵐』 1972年 MBS系特撮テレビ番組(東映製作)1972年11月24日(34話)、12月1日(35話)放送など。
- ^ 史実では江戸城天守は1657年(明暦3年)の明暦の大火で焼失後、天守台は築かれたものの天守そのものは再建されなかったので、明暦の大火以降を描いた時代劇に江戸城天守が登場した場合、史実に即しているとはいえない。
- ^ 劇中で明確に語られていないが、時系列から稲葉山城との設定と思われる。
出典
- ^ 姫路城の基礎知識 2009, 螺旋状の堀と総構式.
- ^ a b c 平井聖監修『城 6.中国編』
- ^ 財団法人日本城郭協会監修『日本100名城公式ガイドブック』
- ^ 三浦正幸監修『【決定版】図説・天守のすべて』
- ^ a b 姫路城の基礎知識 2009, 天守.
- ^ 姫路城の基礎知識 2009, 最初の築城説.
- ^ 姫路城の基礎知識 2009, 国宝・重要文化財建造物一覧.
- ^ 中井均・三浦正幸監修 学習研究社編『歴史群像 よみがえる日本の城 4 姫路城』学習研究社 2004年
- ^ 姫路城跡 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ a b “特別史跡姫路城跡整備保存計画”. 姫路市. 2024年1月1日閲覧。
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- ^ 「オペラ『道化師』を100倍楽しむために」開催のお知らせ
- ^ 【姫路城、京都国立博物館!】
- ^ 盤上で“戦国合戦” 姫路城で「人間将棋」 西日本初
- ^ 姫路城で「人間将棋」白亜の大天守を背景に熱戦 平成の大修理終了記念
- ^ 姫路城で「人間将棋」平成の大修理完了
- ^ 姫路城グランドオープン記念!「祝賀・人間将棋 姫路の陣」開催結果のお知らせ
- ^ 姫路城グランドオープン記念!祝賀・人間将棋 姫路の陣
- ^ 「人間将棋 姫路の陣」開催結果のお知らせ
- ^ 世界文化遺産 姫路城 ナイトアドベンチャー 煌 ~KIRAMEKI~
- ^ 速報:電王戦第2局もPonanzaが勝利。序盤は佐藤叡王が優勢で進んだものの、受けきれず惨敗
- ^ 「第2期電王戦」第2局の舞台が姫路城に決定!
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- ^ 姫路城カレンダー 写真家・故北村さんの作品厳選
- ^ [TGS 2018]鳥山 明氏デザインのオリジナルキャラクターの発表など,内容盛りだくさんの「JUMP FORCE」ステージをレポート
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