姜建銘
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全越運動棒球隊 監督 | |
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2014年7月18日 | |
基本情報 | |
国籍 | 中華民国 |
出身地 | 新北市 |
生年月日 | 1985年5月27日(38歳) |
身長 体重 |
175 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 2005年 |
初出場 |
NPB / 2006年6月14日 CPBL / 2009年4月2日 |
最終出場 |
NPB / 2007年8月11日 CPBL / 2010年8月15日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
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国際大会 | |
代表チーム | チャイニーズタイペイ |
WBC | 2006年 |
この表について
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姜 建銘 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 姜 建銘 |
簡体字: | 姜 建铭 |
拼音: | Jiāng Jiànmíng |
注音符号: | ㄐㄧㄤㄐㄧㄢˋㄇㄧㄥˊ |
和名表記: | きょう けんめい |
発音転記: | ジャン・ジェンミン |
英語名: | Chiang Chien-Ming |
獲得メダル | ||
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男子 野球 | ||
チャイニーズタイペイ | ||
アジア競技大会 | ||
金 | 2006 |
経歴
プロ入り前
最速148km/hの豪腕投手として高校時代から活躍し、国立体育学院に進学[1]。陳偉殷と同級生だった。
2005年5月に宮崎県で行われたアジア選手権の台湾代表に選ばれ、勝利投手になるなど活躍した。その際に巨人のスカウトの目に止まり、6月に入団テストを受け、まだ学生ながら入団が決定。7月初旬に訪日した。
巨人には、シアトル・マリナーズの誘いを断って入団した。理由は、プロ入り後も在学するつもりであった大学に関するサポートや学費等の支援が巨人の方が充実していたため。巨人入団後も国立体育学院に籍を置き、オフシーズン中に通学して単位を取得することになっていた。
プロ入りと巨人時代
入団後の2005年は二軍で基礎から育成された。
2006年開幕前の3月に開催された第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のチャイニーズタイペイ代表に選出された。シーズンでは一軍デビューを果たし、しばらくは中継ぎでの起用だったが、8月22日の対横浜戦で先発し、7回1失点(自責点0)で初先発初勝利を挙げ、以後は先発ローテーションの一角として定着する。初登板から28イニング連続無四球を記録し(初めての四球は敬遠)、9月3日の対中日戦では初完封勝利を無四球で飾った。被本塁打は59.2イニングで2本に抑え、先発に定着後は若手ながらエース顔負けの活躍をみせ、防御率1.81という好成績を残した。同年オフの契約更改では、球団の年俸アップの提示に対し、「私はまだ一流ではない」とこれを固辞した。オフの12月に開催されたドーハアジア競技大会の野球チャイニーズタイペイ代表に選出された。同大会では優勝を果たした。
2007年は開幕時から先発ローテーションに名を連ねたが、フォームを崩したためか打ち込まれるようになり、走者を背負った場面で本塁打を浴びることが多かった。途中からリリーフに配置転換され一軍と二軍を行き来するシーズンとなった。
2008年、自身が通っていたトレーニングジムの職員で同じ台湾出身の女性と婚約。1月2日に台北市で婚約式を行った。同年10月1日、巨人から戦力外通告を受けた。その後12球団合同トライアウトに参加したが、獲得を名乗り出る球団はなかった。
台湾・興農時代
2008年12月31日に行われた中華職業棒球大聯盟(CPBL)のドラフトにおいて、興農ブルズからドラフト9位で指名を受け入団。
2010年シーズンからはアンダースローに挑戦していたが、同年シーズン終了後に興農から戦力外通告を受け現役を引退した。
台湾・社会人野球時代
興農退団後は、台北市の貿易会社に就職した[2]。
2012年10月に社会人野球チームの崇越科技棒球隊に内野手として入団、2021年からは選手兼任コーチとなりプロ復帰を目指していたが[3]、2023年2月に現役引退を表明した[4]。
現役引退後
2023年5月11日、古巣である読売ジャイアンツに研修コーチとして入団したことが発表された[5]。背番号は130[5]。ただし監督・コーチとしてのコミッショナー登録はなされておらず、球団公式サイトのコーチ一覧にも記載はされていない。同年11月まで、読売ジャイアンツ球場において研修活動を行った[6]。
2024年2月、社会人野球時代の古巣である全越運動棒球隊[注 1]の總教練(監督)に就任した[7]。
選手としての特徴
テイクバックの小さな変則フォームからボールをテンポ良く投げ込み、手元で動く癖球とスライダー、カーブ、チェンジアップなどの多彩な変化球で打たせて取るタイプ。そのマウンド度胸も武器の一つ。
四球を出すことを特に嫌っている。球数が増え、体力を浪費するため、フォアボールを出すくらいならヒットを打たれた方がいいと語っている[8]。
打撃も上手く、二軍では三塁打を放ったこともある。また、台湾時代は遊撃手で起用された経験もあるように、フィールディングも高レベルにある。
注釈
- ^ 2023年2月に「安永鮮物棒球隊」から「全越運動棒球隊」にチーム名変更。
出典
- ^ a b 『プロ野球カラー名鑑 2008』ベースボール・マガジン社、2008年、11頁。ISBN 978-4-583-61526-4。
- ^ 25歲姜建銘 棄棒球轉戰珠寶界 運動大聯盟
- ^ 協會盃成棒/棄投從打敲4安 姜建銘還有職棒夢 ETtoday體育新聞
- ^ 春季聯賽》「錯過雅典奧運是最大遺憾」 姜建銘宣告退役 自由體育
- ^ a b “【巨人】元巨人投手の姜建銘氏が研修コーチ 背番号は「130」”. 日刊スポーツ. (2023年5月11日) 2023年5月11日閲覧。
- ^ “研修コーチの受け入れについて”. 読売ジャイアンツ (2023年5月11日). 2023年5月11日閲覧。
- ^ “棒球》全越運動教練團改組 倪福德離隊、姜建銘接教頭”. 自由體育 (2024年2月23日). 2024年3月2日閲覧。
- ^ 2006年9月3日 対中日戦でのヒーローインタビューにて
固有名詞の分類
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