奴隷 欧米

奴隷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/21 14:24 UTC 版)

欧米

古代

古代エジプトのファラオの奴隷(ジョン・コリア画)

ギリシア

古代ギリシャ世界では、戦いや祭祀の際に捧げる犠牲、農作業、雑用役などの労働に非常に盛んに使用され、多くはないが家内工業における職人もいた。ポリス市民の得た閑暇は公的生活への参加に向けられ[20]、労働は恥辱であることが公然と言明された[21]

ローマ

ギリシャと異なりローマ人は肉体労働そのものを卑しむ精神伝統はなかったが[22]、報酬として金銭を要求する職業を卑賎なものと見做す習慣があった[23]。そのため高い報酬を受け取るような職種であっても、彼らが担う場合も多かった。境遇は様々であり、後述の通り高待遇の者も存在した。

古代ローマは基本的には初期から滅亡まで奴隷制社会であるが、時代による変遷がみられる。共和制時代には小規模自営農が多数を占めていたが、そうした自営農もひとりかふたり程度を持つのが普通であった。この時代は、後世ほどには悲惨な境遇ではなく、大切な労働力、貧しい農民にとっての「高価な財産」として扱われた。

共和政ローマが征服戦争を推し進めるに随って獲得機会が増えると共に、価格も下がり、大量に使役するラティフンディウムが拡大した。そうした「安価な財産」の待遇は酷いものであり、様々な記録の中で悲惨さが描かれている[24]ほか、鉱山においても酷使された。ローマは4度にわたって、大規模な叛乱を経験している。従来の城郭都市近郊の小規模自営農は経済的に没落する一方でパトリキ(貴族)やエクィテス(富裕層)は大土地所有と奴隷労働により富を蓄積した。一方で、無産階級に零落したローマ市民権を持つローマ人は都市に流入した。

ローマでも奴隷の大半は農業や鉱山で使役されたが、多種の仕事に解放奴隷や稀に奴隷も従事した。彼等は奴隷所有者である主人の判断によっては、労働内容にみあう技能教育をされることがあったと考えられている[23]。また、ローマでは哲学や詩、歴史学などに熟達した高度技能を持つギリシア人奴隷が家庭教師として、他にも医術や算術(会計術)を身に付けた奴隷が医術師や会計役として重宝され高額で売買された。また官僚制が発達する以前においては、政治家が個人として所有する奴隷が、家産官僚の役割を担った(家産官僚制参照)。こういった高い教育を受けた知的労働に携わる奴隷は「高価な財産」として高待遇を受けていた。家庭教師は生徒(つまり主人の子弟)にちょっとした体罰を加える事もあったし、また属州総督が所有する奴隷は、属州民から見れば支配者階級の末端であった。商業を侮蔑し農業に立ち返る事を主張した大カトーも、能力のある奴隷を見いだして教育を受けさせ、高値で転売する事に限っては、利殖として認めている。

しばしば虐待の対象となり、アウグストゥス時代の富豪(ローマ騎士)Publius Vedius Pollioは怒りにまかせ池に投げ込み、魚のエサにしたとの話がある。一方で、老年まで勤め上げた奴隷を奴隷身分から解放する主人もいた。時代が下がるとともに奴隷の境遇も改善され、帝政期の特に2世紀以降になると虐待の風潮に対して、いくつかの保護法が制定された[25][26]コンスタンティヌス帝の319年の勅令においては主人は主人権を乱用し故意に奴隷を殺したときは主人を殺人罪に問うべしとした[27]。これらは主に2世紀以降に出されたが、パクス・ロマーナにより戦争や略奪による奴隷の供給量が減少したことが影響している。従って、上記の待遇緩和に先んじて、所有者が解放する人数に制限が加えられてもいる(アウグストゥス帝)。これによりラティフンディウムの制度は崩壊し、コロナートゥスに移行していった。

幸運に恵まれて解放奴隷身分になる者もおり、解放奴隷の子供の代になればローマ市民権を獲得する可能性が得られた、中にはペルティナクスのように皇帝になった者もいる。また債権者は返済不能となった債務者自身を奴隷として売却し貸付金を回収することが認められており、自由身分を喪失する者もいた。またローマには捨て子の習慣があり、拾われた捨て子は奴隷となった。

中世

中世西北ヨーロッパでは羊毛、皮革、毛皮、蜜蝋程度しか、オリエント東ローマに対して輸出できるものがなかったため、何世紀にもわたり西北ヨーロッパから東ローマやアジアへの主要な輸出商品の一つであった。ヴェネツィア(特に年少のうちに去勢されたイタリア半島内の奴隷は、イベリア、東ローマ、イスラム世界で重宝された)、フィレンツェトスカーナ地方の富の蓄積は奴隷売買によるところが大きかった[28]。また北アフリカやアンダルス・北イタリア・諸騎士団の海賊は、しばしば南欧の住民や地中海沿岸の敵対する勢力の住民を襲って拉致し、売っていた。これは西ヨーロッパと隣接する東ローマ社会では宮廷から生産労働まで大量の需要があり、またイスラム社会においては奴隷を必要とする社会でありながら、自由民を奴隷階級に落す事が禁じられ戦争捕虜や売買によって外部から供給を受けるしか方法が無かったからである。

西ヨーロッパの内部においては、上述の通り古代末期においてラティフンディウムの崩壊により奴隷の使用は少なくなる一方、コロナートゥスの進展により農奴と呼ばれる労働・居住の自由を持たない奴隷的な小作人が数多く存在した。

近世・近代

16世紀から19世紀にかけて、アフリカ諸地域から輸出された黒人奴隷(奴隷貿易)は、主に南北アメリカ大陸で、プランテーション農業などの経済活動に、無償で従事させられた。北米においては最初先住民族インディアンの奴隷化が試みられたが、彼らは社会の発展段階がまだ氏族社会の段階にあり、定住した勤労には不適で、農耕労働は強制力をもってしても強いることは出来なかった[29]。奴隷貿易に参加した国はポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、フランスの5カ国である。奴隷商人は、ヨーロッパから安物のビー玉、火器(銃器)、木綿製品を積載してアフリカ・ギニア湾岸に到り、海に面した国に上陸した。そこで、内陸国と交戦した海洋国と交渉し、彼らが捕虜にした黒人奴隷と交換し、奴隷をブラジルや西インド諸島で売り飛ばした。[30][31]


次にその金で土地の砂糖、綿花、タバコ、コーヒーなどの亜熱帯農産物を積み、ヨーロッパに帰ってくるのである。奴隷貿易で最盛期を迎えるのは18世紀である。推計では16世紀は90万人、17世紀は300万人、18世紀は700万人、19世紀は約400万人が売買されたといわれている。概算1500万人と言われているが、多数の奴隷船の一次記録の調査により、大西洋横断中の死亡率は13%程度であると想定され、近年では最大でも1100万人程度と推定されている。ただし、アフリカにおいて、ヨーロッパの奴隷貿易業者の手に渡るまでの期間の死者、即ち現地アフリカの勢力が奴隷狩り遠征その他の手段によってかき集めてから、ヨーロッパの業者に売られるまでの期間にどれだけの死者が出ていたかは調べられていない。

アメリカ大陸において民主主義の進展により市民が自由を得て、かつ君主もいなくなる一方で、人種差別と相まって奴隷の境遇が悲惨なものとなり、北アメリカでは奴隷は子孫に至るまで奴隷身分として固定されてしまい(one-drop rule「黒人の血が一滴の血でも混ざれば白人とはみなさない」)、自由民と奴隷の格差が非常に顕著になったのである[32]。南アメリカにおいては、混血児に対する扱いは北アメリカより寛大で、父親が認知すれば相続権も与えられた。

なぜ近代社会に入って奴隷制が容認されたのかという理由は、福音旧約聖書に奴隷制度を容認すると解せる記述があることが根拠とされ[33](当然、聖書の記述は古代社会であるにもかかわらず)、これを文字通り近代社会に当て嵌めうるとの解釈を強引に行ったからである[34]。これに対し殆どの教会牧師もこのこじつけの論理を黙認した。ジョージア州などでは、奴隷に読み書きを教えることは違法となっていた[35]

アメリカ合衆国では、南北戦争の時代にリンカーン大統領(→奴隷解放宣言)によって、奴隷制度が廃止されたが、大半の黒人は1971年まで、「選挙権はあるが投票権がない」状態だったなど、政治的な権利の制限は長く続いた(公民権運動、外部リンク参照)。19世紀における奴隷解放運動の活動家にはフレデリック・ダグラスなどがいた。

なお、中世・近世のように西ヨーロッパから東欧や西アジアへ奴隷が輸出されるような状況は、17世紀の人口減少による奴隷価格の高騰や西欧社会が再び奴隷を使用する社会となるにつれ減少していくが、北アフリカの海賊(バルバリア海賊)がヨーロッパ人を拉致して奴隷として売る状況は、1830年のフランスによるアルジェリア征服まで続いた。逆に、キリスト教徒海賊がギリシャやイスラム世界から拉致した奴隷を購入する事例もあった[36]


注釈

  1. ^ アルキダマス(紀元前400年頃)は紀元前370年にテバイ人がスパルタを打ち破ってメッセニア人を解放したことを擁護し、そのメッセニア演説において「自由な者としたのだ、万人を神は。何人をも奴隷とはしなかったのだ、自然は」と言ったとされている。(山川偉也 2007, pp. 11–12, 26)
  2. ^ 「きわめて多くの者たちが奴隷の輸出という、この呪われた業務に殺到した。莫大な利益となったので。というのも…大規模で豊かな市場がそれほど遠くないところにあったからである。それはデロス島で、ここでは1日に1万の奴隷を受け入れ、また送り出すことが出来た。」[StrabonXIV5:2](古山正人他編訳「西洋古代史料集[第2版]」東京大学出版会2002)直接の引用は篠原陽一によるサイト [1]
  3. ^ 一般に排水量が増えるほど必要とされる乗組員数は多くなる。
  4. ^ 1年毎、一隻に日本と中国の間での貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のキャプテン・マジョールの称号が与えられた[67]
  5. ^ 船倉内に可能な限り多くの奴隷を入れることを可能とした複層区画の奴隷船が登場するのは17世紀以降である。1570年セバスティアン1世 (ポルトガル王)は300トン以下、450トン以上の船の建造を禁止している[71][72]。ポルトガルは最盛期でさえも300隻以上の船を保有しておらず、1585年から1597年までにインドへ出航した66隻のうち無事に戻ってきたのは34隻だけであった[73]。16世紀から17世紀を通じてポルトガル―インド間を運行したナウ船の中でも最大級のものは載貨重量トン数600トン(現代の計算方法で換算すると排水量1100トン[74][75])にもなり乗組員、乗客、奴隷、護衛の兵士を含む400-450人を乗せることができたという[76]。排水量900トンのナウ船は77人の乗組員、18人の砲兵、317人の兵士、26の家族を乗船させることができた[77][注 3]。 日明間の航路については、貿易風の性質上、1年周期に限定されており、ナウ船1隻だけを使用することで利益を最大化した[78][注 4]。ポルトガルのナウ船は毎年1000〜2500ピコ(1ピコ=60キログラム)のを運んだという[79]。3000ピコは180トンの絹に相当するため船倉容積は250から400立方メートルと推定でき、それに武装、備品、乗組員、乗客、兵士、食料と水が加わっていたと推測される。日本からの積荷が硫黄、銀、海産物、刀、漆器等の特産品とするなら、積荷の量によって乗船できる人数は上下したと考えられる。
  6. ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」[85]のだという。
  7. ^ 江戸幕府が豊臣秀吉の遊郭を拡大して唐人屋敷への遊女の出入り許可を与えた丸山遊廓を島原の乱後の1639年(寛永16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている[86][87]。秀吉が遊郭を作ったことで、貧農の家庭の親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売りの仲介をする女衒が、年季奉公の前借金前渡しの証文を作り、性的サービスの提供を本人の意志に関係なく強要することが横行した。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発であり、宣教師が批判した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた[88]
  8. ^ 天正遣欧使節記の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。天正遣欧使節記はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがあるが、イエズス会1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[91]。イエズス会による抗議は1571年セバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[92]日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[93][94][95]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[96]。宣教師によって記述された情報は「ポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動」[97]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる。
  9. ^ 「薩摩の兵が豊後で捕らえた人々の一部は、肥後へ売られていった。ところが、その年の肥後の住民は飢饉に苦しめられ、生活すらままならなかった。したがって、豊後の人々を買って養うことは、もちろん不可能であった。それゆえ買った豊後の人々を羊や牛のごとく、高来に運んで売った。このように三会・島原では、四十人くらいがまとめて売られることもあった。豊後の女・子供は、二束三文で売られ、しかもその数は実に多かった。」ルイス・フロイス 著、松田毅一・川崎桃太 訳 『完訳 フロイス日本史』 8巻、中央公論新社〈中公文庫〉、2000年、268頁。 

出典

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  5. ^ 「奴隷制度のもとでは、生産関係の基礎は奴隷所有者が、生産手段を、また生産手段の働き手である奴隷を所有することであって、奴隷所有者は、奴隷を家畜同様に売り、買い、殺すことが出来る」「富者と貧乏人、搾取する者と搾取される者、完全な権利をもつ者と無権利な者、かれらの両者のあいだのすさまじい階級闘争、これが奴隷制の光景である」『弁証法的唯物論と史的唯物論』。(福本勝清 2007, p. 9)
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  11. ^ トゥキディデス著久保正彰訳「戦史(上)144-145P、147-148P、156P、164P、257P、259P、293P」「戦史(中)」「戦史(下)」「アレクサンドロス大王東征記」「アナバシス」等参照
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  21. ^ 「およそ自由人の身体あるいは精神を、徳の行使や実践のために役立たずにするような仕事や技術や学習は、卑しい職人向きのものとみなさなければならない」アリストテレス『政治学』(牛田徳子(訳)P.8、京都大学学術出版会2001年)直接の引用は河口明人 2010, p. 7
  22. ^ ローマ市民から構成される軍の兵士は常に街道の敷設や補修を行っていた。
  23. ^ a b 小林雅夫 1998, p. 1.
  24. ^ トゥキディデス著久保正彰訳「戦史(下)242-243P」、国原吉之助訳「ガリア戦記 259P、264P」など
  25. ^ 裁判官の許可を得ないで主人がその奴隷を猛獣と戦わせることを禁じる法律(帝政初期・時期不明)、主人が老年もしくは疾病の奴隷を遺棄したときは奴隷は自由人となり主人はその奴隷に対する主人権を喪失する規定(クラウディウス帝)、主人が奴隷を監禁することの禁止(ハドリアヌス帝)、主人が奴隷を殺したときはローマ市民を殺したと同様の制裁を主人に加えるべきとする規定(アントニヌス・ピウス帝)
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  27. ^ 『耶蘇教理カ羅馬奴隷制ニ及ホシタル影響ニ就テ』春木一郎(京都法学会雑誌第6巻第7号 明治44年7月)
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  31. ^ http://www.y-history.net/appendix/wh0901-054_2.html
  32. ^ マーク・トウェインアーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキーにおいて、古代・中世の奴隷を、その当時の黒人奴隷のような悲惨な境遇の者として描いている。
  33. ^ 創世記 14:14,15、出エジプト記 21:16、レビ記 25章39,40節、出エジプト記 22:3、申命記 15章13,14節、コリントの信徒への手紙 7:21,コロサイ書3:22等
  34. ^ 同様の解釈は一夫多妻制について、モルモン教徒によってなされている。
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  92. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  93. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 496-497 "If that is the case, the king had then sent copies of the same order to India at least three times: in 1603, when Aires de Saldanha published it, in 1604, with Martim Afonso de Castro, and in 1605."
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  109. ^ 1893年(明治26)外務省訓令「婦女ヲシテ妄リニ海外渡航ヲ企図セシメサル様注意セシム」”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月29日閲覧。 “外務省訓令第一号 警視庁 北海道庁 府県 近来不良の徒各地を徘徊し甘言を以て海外の事情に疎き婦女を誘惑し、遂に種々の方法に因りて海外に渡航せしめ、渡航の後は正業に就かしむることを為さず却て之を強迫して醜業を営まして、若くは多少の金銭を貪りて他人に交付するものあり。之が為めに海外に於て言ふに忍びざるの困難に陥る婦女追追増加し在外公館に於て救護を勉むと雖も或は遠隔の地に在りて其所在を知るに由なく困難に陥れる婦女も亦種々の障碍の為めに其事情を出訴すること能はざるもの多し。依て此等誘惑渡航の途を杜絶し且つ婦女をして妄りに渡航を企図せしめざる様取計ふべし 明治二十六年二月三日 外務大臣陸奥宗光 内務大臣伯爵井上馨”
  110. ^ (28)各府県知事ト在浦汐貿易事務館間婦女誘拐者ニ関シ直接通信ノ件 自明治三十六年八月 ※1903年(明治36年)在ウラジオストク貿易事務官から本国日本外務省への文書”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月29日閲覧。 “本邦無智の少女を誘拐して当港に来航する悪漢之有り候趣は本月八日付公第二〇三号を以て申進置候処、当港年来の商況不振は正当なる商業者より其職業を奪ひ新渡航者に対しては従前の如く容易なる生活の方法を与へず、意思薄弱なる本邦男児をして漸次堕落の境域に導き、茲に無頼の徒と化し賎業者の手に依りて漸く其口を糊するもの多きに至り候は、慨はしき次第に之有り候。而して是等無頼漢唯一の生命は実に本邦無智の少女に懸るを以て、彼等は出来得る限り好餌を捉へんと欲し、百方訏(?)策を廻らし在本邦の誘拐者と気脈を通じて、或は汽船に依り或は日本形小漁船等に依り無智の少女を誘致し之を奪食する者日一日増加の勢之有り候。”
  111. ^ 長田秋濤 『新々赤毛布 : 露西亜朝鮮支那遠征奇談』文禄堂、1903年、196-198頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761167/107。"醜業婦の出産地 西比利亜(シベリア)に渡航して行て醜業婦人と云ふ憐れむべき名称に甘んじて外国人に情を交はして、御髯の塵を払ふて居るもの共の出産地の戸籍を酔狂にも洗って見れば、大概は九州で其多数は九州の内で熊本県天草か、長崎県島原辺りの者で長崎市の内外も沢山ある、其の次は中国から中仙道に懸けてゞある…其事を聞き込んだる誘拐者が有らん限りの甘言を尽して之を誘ひ出し、自分の懐暖めの材料に做すと云ふ様な具合で、斯く一人連れ二人連れて行たのが今日の如く殖えたのである。"。 
  112. ^ 中村直吉, 押川春浪 『五大洲探険記. 第2巻 南洋印度奇観』博文館、1909年、13-14頁。"九州が醜業婦唯一の輸出地であることは、三歳の童子でも知ってる有名な事実だが、猶且此地方に出稼の醜業婦も、殆んど其の全部が九州出身で、長崎天草島原辺の者が多いやうである。  以前は誘拐の口実として種々の甘言を弄したので、無智の婦女はウカと夫に乗って、新嘉坡三界迄地獄の憂目を見に行くやうになったのであるが…"。 
  113. ^ (7)婦女誘拐者取締ニ関シ香港領事館ト内地地方庁間直接通信ノ件 自明治四十五年七月 ※1912年(明治45)在香港総領事から日本外務省への文書”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月29日閲覧。 “香港は南清南洋地方に於ける婦女誘拐の策源地とも見るを得べく、従て本邦より無智の婦女を誘拐し来るもの、或は斯る目的を抱きて当地より帰国する悪漢之有り。当館は斯るものに対し厳重監視致候へ共、法規の制裁之に伴はざるを以て、如何とも致難候。…”
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