奴隷 イスラム

奴隷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/21 14:24 UTC 版)

イスラム

アジア

基本的に一般民との差異は労働に関する制約がほとんどで農奴に近い[37] といえる、もちろん賎民であり蔑視の対象ではあったものの、欧州圏とは異なり奴隷の殺害を罪に問う社会が多かった。また、身分の固定も強固なものではなく、奴隷身分からの脱出も欧州世界ほど困難ではなかった。

古代中国)は戦争奴隷を労働力・軍事力の基盤として、また葬礼や祭祀における犠牲として、盛んに利用していた。商(殷)までは奴隷制社会であったことは定説となっているが、いつまでであったかは諸説あり、奴隷制から封建制に変革されたとされる易姓革命、ないしは、商(殷)程ではないにせよ実質的には奴隷が生産力となっていた春秋時代までと考えられる範疇として議論されている。いずれにせよ、中原とは文化の異なる民族(蛮夷戎狄)との戦争で捕虜とした奴隷が労役に就かされたと考えられている。後漢末・魏晋南北朝以来の貴族制下では、律令により賎民に区分された雑戸官戸奴婢などの農奴と奴隷が政府や勢家の下に多く存在していた。宋王朝以降は官奴婢が禁止されたが、私奴隷は清王朝の時代まで少数ながら存在した。基本的には罪を犯した者が奴隷身分へ落とされ、欧州でいう所の農奴や官営工場の職人として強制的に有償労働へ就かされた。前漢衛青は奴隷の身分から大将軍まで上り詰めた。(中国の奴隷制参照)

丙子の乱で、清朝軍が李氏朝鮮を制圧した戦いの際に、清朝軍は50万の朝鮮人を捕虜として強制連行し、当時の盛京瀋陽)の奴隷市場で売られた。

タイの歴史上では、タートと呼ばれる自由を拘束された身分があった。そのほとんどが、未切足タートと呼ばれる、少額の負債を負った者が債権者に労働などで負債を返済する形式の者であり、多くはいわゆる奴隷的な身分ではなかった。しかし、一部には切足タートと呼ばれる多額の負債を負って奴隷身分となった者や、捕虜タートと言われる奴隷があり、これらは自由身分への復帰が非常に困難とされた。ポルトガルの奴隷貿易によって買われた日本人奴隷も、捕虜タートと同列に取り扱われた。[要出典]

インドカースト制を代表とする身分制度のうち、シュードラダーサを奴隷と訳すこともあるが、所有・売買の対象という意味では定義から外れる。他のカーストの下に置かれたことから奴隷の名を宛てる者もいる。時代による変遷があるため、ギリシャ人やローマ人が記録を残した時代のものは、家内奴隷で待遇もそれほど劣悪ではなく、ギリシャ人やローマ人の目に奴隷と映らなかったようである[38]

チャクリー王朝に入ってからラーマ1世によってこの切足タートや捕虜タートにも自由身分へ回復する事が制度的に可能になった。のちに、ラーマ5世チャクリー改革によってタートの制度は廃止された。

匈奴スキタイ柔然突厥ウイグルモンゴルなどの遊牧民が主体を構成する社会では、戦争捕虜、犯罪者、征服した部族の奴隷的使役、南の農耕地域から拉致した奴隷が多数居たことが確認されるなど[39]、類似した奴隷制社会の形態が見られる。その他の遊牧民による国家も同様と考えられるが、史料に乏しく実態はよく解っていない。

朝鮮

朝鮮では男の奴隷を奴、女の奴隷を婢と呼び、あわせて奴婢(ノビ)といった。また妓生と称して諸外国からの使者や兵士、両班階層に対し、楽技を披露したり、性的奉仕をするための婢が20世紀まで存在した。

朝鮮における奴婢の歴史は、中国の征服者箕子が興した箕子朝鮮の時代より始まるとされる。箕子は朝鮮を治めるにあたり、犯禁八条という厳格な刑法を制定した。その際に刑罰として敷かれた制度が奴婢制であった。人間は自らの労働によって生計を営まねばならない。仮に誰かが詐欺や暴力で他人の財産を横取りしたなら、論理的にも道徳的にもその者は被害者の所有物となるべきとの論理にもとづいて、窃盗犯はすべて被害者の奴婢になるという刑罰がつくられた。莫大な保釈金を払って奴婢の身分から脱することはできても市民としての信用は回復されることがなかった。姦通も奴婢法によって罰せられた。この場合、罪人は国の奴婢となり、王は彼を思いのまま高級官吏に下賜(かし)したりした。

この制度は紀元前193年までほぼ千年以上続いたが、当時の箕子朝鮮の最後の王・箕準(キジュン)が人の衛満によって追放され、廃止された。朝鮮半島の南方に追われて馬韓(バカン)という王国を建てた箕準は、そこで奴婢制をそのまま踏襲した。その後数百年間、この制度は存続と廃止を繰り返したが、918年、朝鮮半島が高麗王朝によって統一された後、再び一般化することになった。

奴婢の数は急速に膨れあがったが、彼らへの待遇は劣悪で残忍とさえ見なせるものだった。1198年、万積らが公私奴婢を集めて蜂起を画策したものの事前に発覚し、結果として300人を越す奴婢らが首に石を結びつけたまま礼成江(イェソンガン、高麗の都・開京(開城)郊外を流れる川)に放りこまれて処刑された。

李朝の四代国王であった世宗は性的搾取の対象であった妓生(婢)と良民の男が結婚すれば間の子供は父親の身分に従って良民になれるようにしていた既存の法律を廃止した。 さらに奴婢従母法(노비종모법)という法により、父が両班で母が奴だった場合は子も奴婢になり、奴(父親)の所有者がその子の所有権を持つように定められた。この法律は父が誰でどの身分でも、二人の間の全ての子供は母の身分に従って奴婢になるようにした法律でもあった。朝鮮の少女たちを貢女として中国(明)に捧げるために『進献色』という機構を設置した上に、処女進献を避けるために民衆の間が幼い年齢で早婚させることが流行すると即座に王族など高位層を除いて民衆のみに早婚禁止を実施した、また中国から来た使臣が1〜2か月かかる貢女を選び出す期間は半島全土に婚姻禁止令が下され選抜対象となった未婚女性は恐怖に震えた。太宗は「処女を隠した者、針灸を施した者、髪を切ったり薬を塗ったりした者等選抜から免れようとした者」を罰する号令も出し、世宗の時代も存続していた。朝鮮王朝実録には、世宗の治世が明に対する処女進献が最多と記録されている。

李氏朝鮮政府は妓生庁を設置し、またソウルと平壌に妓生学校を設立し、15歳〜20歳の女子に妓生の育成を行った。

1592年豊臣秀吉の軍が朝鮮半島に攻め込んだ(文禄・慶長の役)。この折、奴婢らが混乱に乗じて戸籍の消滅を図って景福宮に放火したため、王宮は漢陽陥落以前に焼失している。7年にもわたる戦乱で多くの男子が犠牲になったため、朝廷では奴婢のうち男性をその身分から解放した(しかし、実際は従来どおり男の奴婢もいた)。

1894年甲午改革で法的には撤廃されたが、1905年の段階でも多数の女が奴婢の身分に囚われていた[40]。彼女らはほとんどの場合、罪を犯した親戚の男の身代わりとして自主的に奴婢となったか、あるいはその身分を相続した者たちであった。

朝鮮にに「白丁」と呼ばれるもうひとつの賤民階級があり、奴婢とは区別されていた。彼らは倫理的保護の対象外として社会から厳しく差別・侮蔑される対象であり、化外の民であった。

朝鮮で実質的に制度が廃止されたのは日韓併合後であり、1910年に朝鮮総督府が奴隷の身分を明記していた旧戸籍を廃止し、全ての国民に姓を定めた新戸籍制度を導入した。

現在の北朝鮮に存在するとされる出身成分という身分制度も奴隷制の一つであるとされる。

日本

定義

日本において奴隷とは明治以降にSlaveの訳語として充てられるようになった単語であり、それ以前は奴婢と称した。

戦国時代に来航したポルトガル商人は主従関係などにより一時的にでも自由でない労働者を奴隷と考えており、ポルトガル商人の理解する奴隷は奴婢だけでなく下人や所従、年季奉公人等の様々な労働形態を含んでいたことが指摘されている[41][42]

それでは彼らが日本人の奴隷と考えたのは日本のどのような身分の者であったのか。……『日葡辞書』をみると、奴隷を意味する criado, servo とか captivo の語は、Fudaino guenin(譜代の下人)、Fudaino mono(譜代の者)、Fudasodennno mono(譜代相伝の者)、Guenin(下人)、Xoju(所従)、Yatçuco(奴)等の語にあてられている。彼等が日本の奴隷と解した譜代の者とか譜代相伝とか称せられた下人や所従は、農業その他の家庭労働に使役されていたし、実際国内では習慣法上売買の対象となっていた[41] — 人身売買 (岩波新書)、牧 英正、1971/10/20, p. 60

奴隷という用語が日本国内では異なると考えられてきた労働形態、社会集団を隠蔽していたという[42]

ポルトガル語で「奴隷」という語は一般的に「エスクラーヴォ escravo」と表される。日本でポルトガル人が「エスクラーヴォ」と呼ぶ人々には、中世日本社会に存在した「下人」、「所従」といった人々が当然含まれる。しかし、日本社会ではそれらと一線を画したと思われる「年季奉公人」もまた、ポルトガル人の理解では、同じカテゴリーに属した[42] — 日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話、東京大学史料編纂所 (著)、 中公新書、2014/12/19、p77-8.

ポルトガル人は日本で一般的な労働形態だった年季奉公人も不自由な労使関係から奴隷とみなすなど、多くの日本人の労働形態はポルトガル人の基準では奴隷であり、誤訳以上の複雑な研究課題とされてきた[42]。ポルトガルでは不自由な労使関係、主従関係における従属を奴隷と理解することがあり、使用される傭兵や独立した商人冒険家も奴隷の名称で分類されることがあった[43]

またポルトガル人は日本社会の使用人や農民のことを奴隷と同定することがあった。1557年、ガスパル・ヴィレラは日本には貴族と僧侶、農民の社会階層があると論じ、貴族と僧侶は経済的に自立しているというが、農民は前二者のために働き、自分たちにはごくわずかの収入しか残らない奴隷状態にあると述べている[44]コスメ・デ・トーレスは日本の社会について以下のように語っている。

(日本の社会において)使用人や奴隷は地主に仕え、ひどく崇拝する。なぜなら、どんな質の高い人でも使用人に不従順なところがあれば、殺してしまえと命令するからである。そのため使用人たちは主人にとても従順で、主人と話すときは、たとえとても寒いときでも、いつも頭を下げてひれ伏している[45][46]

コスメ・デ・トーレスは日本人の地主は使用人に対して生殺与奪の権力を行使することができるとして、ローマ法において主人が奴隷に対して持つ権利 vitae necisque potestas を例証として使い、日本における農民等の使用人を奴隷と変わらない身分とした[47]

中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民と奴隷の区別をいっそう困難にした[48]

アジア人奴隷

倭寇の奴隷貿易

前期倭寇は朝鮮半島、山東・遼東半島での人狩りで捕らえた人々を手元において奴婢として使役するか、壱岐対馬、北部九州で奴隷として売却したが、琉球にまで転売された事例もあった。後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行い、中国東南部の江南、淅江、福建などを襲撃し住人を拉致、捕らえられたものは対馬、松浦、博多、薩摩、大隅などの九州地方で奴隷として売却された[49]1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密貿易商人が支配する植民地はマニラ、カガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにもあった[50]乱妨取り文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大、東南アジアに拠点を拡張し密貿易も行う後期倭寇によりアジア各地で売却された奴隷の一部はポルトガル商人によってマカオ等で転売され、そこからインドに送られたものもいたという。イエズス会は倭寇を恐れており、1555年に書かれた手紙の中で、ルイス・フロイスは、倭寇の一団から身を守るために、宣教師たちが武器に頼らざるを得なかったことを語っている[51]

鄭舜功の編纂した百科事典『日本一鑑』は南九州の高洲では200-300人の中国人奴隷が家畜のように扱われていたと述べている。奴隷となっていた中国人は福州、興化、泉州漳州の出身だったという[52]

歴史家の米谷均は蘇八の事例を挙げている。蘇は浙江の漁師で、1580年に倭寇に捕らえられた。蘇は薩摩の京泊に連れて行かれ、そこで仏教に銀四両で買い取られた。2年後に彼は対馬の中国人商人に売られた。6年間、対馬で働き、自由を手に入れた蘇は、平戸に移り住んだ。平戸では、魚や布を売って生活していた。そして1590年、中国船でルソン島に渡り、翌年、中国に帰国することができたという[53]

文禄・慶長の役

文禄・慶長の役では、臼杵城主の太田一吉に仕え従軍した医僧、慶念が『朝鮮日々記』に

日本よりもよろずの商人も来たりしたなかに人商いせる者来たり、奥陣より(日本軍の)後につき歩き、男女・老若買い取りて、縄にて首をくくり集め、先へ追い立て、歩み候わねば後より杖にて追い立て、打ち走らかす有様は、さながら阿坊羅刹の罪人を責めけるもかくやと思いはべる…かくの如くに買い集め、例えば猿をくくりて歩くごとくに、牛馬をひかせて荷物持たせなどして、責める躰は、見る目いたわしくてありつる事なり — 朝鮮日々記

と記録を残している[54]。渡邊大門によると、最初、乱取りを禁止していた秀吉も方向転換し、捉えた朝鮮人を進上するように命令を発していると主張している[55]

多聞院日記によると、乱妨取りで拉致された朝鮮人の女性・子供は略奪品と一緒に、対馬、壱岐を経て、名護屋に送られた[56]

薩摩の武将・大島忠泰の角右衛門という部下は朝鮮人奴隷を国許に「お土産」として送ったと書状に書いている[57][58]

アフリカ人奴隷

弥助

弥助という名の宣教師の護衛をしていたアフリカ系の奴隷(または従者[59][60])が、戦国大名織田信長宣教師と共に謁見して気に入られ、武士の身分を与えられ家来として仕えたとの記録が残っている。宣教師の護衛として武術の訓練を受けていたと見られるため自由人や解放奴隷であったとの見解もあり、弥助が奴隷だったかについては諸説ある[59][60]。弥助を捕らえた明智光秀は

黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず — 岡田正人『織田信長総合事典』、雄山閣出版、1999年

として教会に送り届けるよう指示した[61]

日本人奴隷

縄文・弥生時代

一説には、すでに縄文時代に存在していたとされるが、歴史文書に初めて登場するのは弥生時代であり、『後漢書』の東夷伝に、「倭国王・帥升が、生口160人を安帝へ献上した」(西暦107年)という趣旨の記録がある。また、いわゆる『魏志倭人伝』にも、邪馬台国女王卑弥呼が婢を1000人侍らせ、西暦239年以降、王へと生口を幾度か献上した旨の記述がある(ただし、「生口」は奴隷の意味ではないと解釈する説もある)。

古墳時代

古墳時代に入ると、ヤマト王権によって部民制(べみんせい)が敷かれ、子代部(こしろのべ)、名代部(なしろのべ)、部曲(かきべ)などの私有民もしくは官有民が設けられた。部民制は、飛鳥時代大化の改新によって、中国唐帝国を模した律令制が導入されるまで続いた。

飛鳥・奈良・平安時代

日本律令制度では、人口のおよそ5%弱が五色の賤とされ、いずれも官有または私有の財産とされた。そのうち、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は売買の対象とされた。この2つの奴婢身分は、平安時代前期から中期にかけての公地公民の律令制度の解体と、荘園の拡大の中で寺社領に於いては減っていったが、皇家や公家の荘園では依然として存在し続けた。五色の賎は百姓の中かなりの割合(3分の1)を占め、良民との結婚などに制限があったが、良民の3分の1の口分田が班給されており、これらは中世以降の小作人や欧州の農奴に近い存在であった。ヤマト王権に恭順した蝦夷である俘囚には戦争捕虜も含まれており、そのまま兵士として動員された。また蝦夷もヤマト王権との戦争により戦争捕虜を得ていたが、蝦夷の捕虜となった和人の子孫なども混在していたとされる。

五色の賎には奴婢が規定され、朝廷が所有し76歳を越えると良民として解放される公奴婢(くぬひ)、民間所有のものを私奴婢(しぬひ)と言い、子孫に相続させることが可能であった。日本の律令制下における奴婢の割合は、全人口の10~20%前後だった[62] とされ、五色の賤の中では最も多かった。

飛鳥時代、丁未の乱(ていびのらん)で物部氏が滅ぼされた時、物部守谷の子孫従類273人が四天王寺の奴婢にされたとの記述が四天王寺御手印縁起、伝暦、御記、太子物、今昔物語、扶桑略記、元亨釈書等にあり通説となっている。

駆摂守屋子孫従類二百七十三人。為寺永奴婢。 — 四天王寺御手印縁起、続群書類従 巻第八百二

日本書紀によると奴(奴隷等の使用人、奴国、倭奴などにも使われた蔑称)との記述のみのため、後世の脚色だとする神野清一の異説もあるが、日本書紀に脚色が入る可能性は想定されていない。聖徳太子伝暦では「奴」ではなく「子孫資財」としている。通説では丁未の乱で物部の子孫が絶えず、奴婢に零落して生き続けたからこそ美化された伝説でなく、奴婢として記録に残ったという。

平安時代後期に、日本が中世へと移行すると、社会秩序の崩壊にしたがって人身売買が増加し、「略人」、「勾引(かどわかし)・人勾引(ひとかどい)」や「子取り」と称する略取も横行した。また、貨幣経済の発展に伴って、人身を担保とする融資も行われた。こうして、様々な事情で自由を失った人々が下人となり、主人に所有され、売買の対象になった。有名な『安寿と厨子王山椒大夫)』の物語は、この時代を舞台としている。このように、中世には人身売買が産業として定着し、略取した人間を売る行為は「人売り」、仲買人は「人商人」(ひとあきびと)や「売買仲人」と呼ばれた。また、奴婢が主人から逃亡することは財産権の侵害と見なされ、これも「人勾引」と称された。下人が夫婦を形成し子をなす場合、その子も主人の下人となり身分が世襲される譜代下人などが構成された。

鎌倉・室町・戦国・安土桃山時代

自力救済の時代である中世日本では、人身売買は民衆にとって餓死を免れるセーフティーネットとしての面も持つ行為であった[63][64]。身売りすることで近い将来に餓死する事だけは避けえたからである。鎌倉時代寛喜の飢饉と呼ばれる飢饉が発生した際に多くの人々が自身や妻子を身売りして社会問題となった。そのため、鎌倉幕府1239年になって人身売買の禁止を命じるとともに、例外として飢饉の際の人身売買とそれに伴う奴婢の発生は黙認する態度を示した(『吾妻鏡延応元年4月13日・5月1日条)。なお、災禍が治った後、親が買い戻すこともみられたが、その際には身売り時よりも相当の高額を要求されることが容認されていた[64]

貞永元年8月10日(1232年8月27日)に制定された御成敗式目では奴婢とその子供の所有権に関する定めがある。

一、奴婢雜人事 右任右大將家御時之例、無其沙汰過十箇年者、不論理非不及改沙汰、次奴婢所生男女事、如法意者雖有子細、任同御時之例、男者付父、女者付母也 — 御成敗式目 大永版、奈良女子大坂本龍門文庫善本電子画像集より

御成敗式目(室町末期版)にも同様の記述がある。奴婢雑人については(逃亡等により)10年以上放置すれば(人返しされなければ)無効になることが定められている。

天文永禄のころには駿河の富士の麓に富士市と称する所謂奴隷市場ありて、妙齢の子女を購い来たりて、之を売買し、四方に輸出して遊女とする習俗ありき」[65]と言う。

その後、元帝国高麗の連合軍が壱岐対馬九州北部に侵攻し(元寇)、文永の役では、捕らえられた日本人の婦女子およそ200人が、高麗王に奴婢として献上された。国内においては、鎌倉幕府朝廷は、人身売買や勾引行為に対して、顔面に焼印を押す拷問刑を課したこともあった。しかし、14世紀以降、勾引は盗犯に準ずる扱いとされ、奴婢の所有は黙認された。南北朝時代として知られる内戦期になると、中央の統制が弱まって軍閥化した前期倭寇が、朝鮮や中国で人狩りを行った。惣村社会では境界紛争の解決にしばしば下手人として奴婢を利用した。

いわゆる戦国時代には、戦闘に伴って「人取り」(乱妨取り)と呼ばれる略取が盛んに行われており、日本人奴隷は倭寇ポルトガル商人を通して東南アジアなどにも輸出された。軍資金を求めて領主が要求した増税は、国民の貧困化を招き、多くの日本人が奴隷制を生き残るための代替戦略として捉えた[66]

1514年にポルトガル人がマラッカから中国と貿易を行って以来、ポルトガル人が初めて日本に上陸した翌年には、マラッカ、中国、日本の間で貿易が始まった。中国は倭寇の襲撃により、日本に対して禁輸措置をとっていたため、日本では中国製品が不足していた[67]。当初、日本との貿易は全てのポルトガル商人に開かれていたが、1550年にポルトガル国王が日本との貿易の権利を独占した[67]。以降、年に一度、一隻に日本との貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のキャプテン・マジョールの称号、事業を行うための資金が不足した場合の職権売却の権利が与えられた。船はゴアを出航し、マラッカ、中国に寄港した後、日本に向けて出発した。南蛮貿易で最も価値のある商品は、中国の絹と日本の銀であり、その銀は中国でさらに絹と交換された[67]

1537年スブリミス・デウスにおいて教皇パウルス3世はアメリカ先住民の奴隷化を無効だと宣言していたが、1541年のポルトガル船来航以降にも奴隷貿易が行われてきた。日本マカオ間の定期航路の開通にともない行われた奴隷貿易に対して、1560年代以降、イエズス会宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易が日本におけるキリスト教宣教の妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えた。ポルトガル国王に日本での奴隷貿易禁止の法令の発布を度々求めており、ポルトガル王セバスティアン1世1571年に禁止を命令した[68]

ポルトガル王による1571年の人身売買禁止までの南蛮貿易の実態だが、1570年までに薩摩に来航したポルトガル船は合計18隻、倭寇のジャンク船を含めればそれ以上の数となる[69]。実際に取引された奴隷数については議論の余地があるが、反ポルトガルのプロパガンダの一環として奴隷数を誇張する傾向があるとされている。記録に残る中国人や日本人奴隷は少数で貴重であったことや、年間数隻程度しか来航しないポルトガル船の積荷(硫黄、銀、海産物、刀、漆器等)の積載量、奴隷と積荷を離すための隔離区間、移送中の奴隷に食料・水を与える等の輸送上の配慮から、ポルトガル人の奴隷貿易で売られた日本人の奴隷は数百人程度と考えられている[70][注 5][80]。16世紀のポルトガルの支配領域において東アジア人の奴隷の数は「わずかなもの」で、インド人、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった。[81]

関白豊臣秀吉は、天正15年(1587年バテレン追放令でこれを禁じたとされるが、実際に発布された追放令には人身売買を禁止する文が前日の覚書から削除されており、追放令発布の理由についても諸説ある[82]。天正18年(1590年)4月、豊臣秀吉は上杉景勝らの人身売買を禁止、同年8月、宇都宮国綱に人身売買の禁止と百姓などを土地に縛りつけ、他領に出ている者を返すことを命じ、労働供給の安定を図っており、人身売買や百姓の逃散欠落の禁止による人口流出の防止が豊臣秀吉の経済財政政策における基本方針だったとする説がある[83]伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[84][注 6]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった[注 7]。バテレン追放令後の天正19年(1591年)、教皇グレゴリウス14世はカトリック信者に対してフィリピンに在住する全奴隷を解放後、賠償金を払うよう命じ違反者は破門すると宣言、在フィリピンの奴隷に影響を与えた。

デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本文化宗教の道徳的退廃に対して批判が行われている[89]

日本人には慾心と金銭の執着がはなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235

デ・サンデ天正遣欧使節記はポルトガル国王による奴隷売買禁止の勅令後も、人目を忍んで奴隷の強引な売り込みが日本人の奴隷商人から行われたとしている[89]

また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235

デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲルと日本にいた従兄弟の対話録として著述されており[89]、物理的に接触が不可能な両者の対話を歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた[90]。遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差が伺える[注 8]

天正14年(1586年)『フロイス日本史』は島津氏豊後侵攻乱妨取りで拉致された領民の一部が肥後に売られていた惨状を記録している[注 9]。『上井覚兼日記』天正14年7月12日条によると「路次すがら、疵を負った人に会った。そのほか濫妨人などが女・子供を数十人引き連れ帰ってくるので、道も混雑していた。」と同様の記録を残している。天正16年(1588年)8月、秀吉は人身売買の無効を宣言する朱印状で

豊後の百姓やそのほか上下の身分に限らず、男女・子供が近年売買され肥後にいるという。申し付けて、早く豊後に連れ戻すこと。とりわけ去年から買いとられた人は、買い損であることを申し伝えなさい。拒否することは、問題であることを申し触れること — 下川文書、天正16年(1588年)8月

と、天正16年(1588年)閏5月15日に肥後に配置されたばかりの加藤清正小西行長に奴隷を買ったものに補償をせず「買い損」とするよう通知している。同天正16年(1588年)同様の命令があったことが島津家文書の記録として残っている。

江戸時代

元和2年(1616年)江戸幕府は高札で人身売買を禁止、元和四年に禁制を繰り返し、元和5年(1619年)12箇条の人身売買禁止令を発布、寛永4年(1627年)正月にも人身売買禁止令をだすなど、人身売買の禁令は豊臣秀吉以降も繰り返し行われた[98]

日本においては、中世に始まる下人が年季奉公の形を取り始めるのが江戸期であり、農村奉公人、武家奉公人、町家奉公人などの種類によって分けられる。江戸時代の代表的奉公には、子子孫々に至るまでの事実上の永代の身売りである譜代奉公、身代金を支払って請戻す本金返年季奉公、借金担保人質として奉公人を金主に渡し質流になれば譜代奉公に転じる質物奉公、そして年季を定めた普通の年季奉公があった。短期的な労働力を提供する種類である出替奉公とは別に、丁稚等の奉公は10年〜20年に及び、徒弟奉公も10年内外に及ぶのが普通だった[99]

江戸時代前期の年季奉公の主流は奴婢下人の系統を引くもので、奉公人は人身売買の対象となった。江戸幕府は法律上は営利的な人の売買を禁止したが、それは主として営利的な人の取引に関したもので、実際においては父や兄が子弟を売ることは珍らしくなく、また人の年季貫は非合法でなかった[99]。主人と奉公人との間には、司法上ならびに刑法上の保護と忠誠の関係があるべきものとされた。奉公人は主人を訴えることが許されず、封建的主従関係であったという[100]

江戸時代に入り雇用契約制度である年季奉公が一般に普及しはじめると譜代下人(または譜代奉公人)としての男性の売買は江戸時代中期(十七世紀末)にはほとんど見られなくなった。しかし遊女飯盛女の年季奉公ではいくつかの点で人身売買的な要素が温存された[101]

  1. 家長権を人主から雇い主へ委譲
  2. 転売の自由
  3. 身請け・縁付けの権利を雇い主に委譲
  4. 死亡後の処置も雇い主へ一任

中田薫 (法学者)は「奴婢所有権の作用にも比すべき、他人の人格に干渉し、其人格的法益を処分する人法的支配を、雇主の手に委譲して居る点に於て、此奉公契約が其本源たる人身売買の特質を充分に保存する」[102]として「身売的年季奉公契約」と名付けた[101]

幕府は元禄11年(1698年)には年季制限を撤廃して永年季奉公や譜代奉公 (生涯の奉公)を容認した[103]

江戸時代に勾引は死罪とされ、新規の奴隷身分も廃止されたが、年貢を上納するための娘の身売りは、前借金を伴う年季奉公の形で認められた。「人買」(ひとかい)は、こうした遊女の売買を行う女衒を指す語として、この時代に一般化したものである。

なお、刑罰(身分刑)として奴隷的身分に処するものとして、江戸幕府下においては「非人手下」や「奴刑」が残り、各藩においても同様の刑罰が残った[104]

江戸時代の平均的農民は幕藩領主によって土地緊縛されているところから、広義における農奴と規定する定説が認められている。本百姓と世襲的な借家・小作関係にある譜代下人等も存在し、家父長的奴隷制として規定することがある。地方によっては家抱、門屋、庭子、内百姓、名子と呼ばれ、強い隷属性を特徴とし、村内での地位は水呑百姓以下だったとされる。傍系家族・下人も含め名主家族そのものを広義の農奴の一存在形態とする見解もある。

明治・大正・昭和前期

明治5年(1872年)に横浜港で発生したマリア・ルス号事件では、国際紛争を引き起こす懸念が政府内にあったが、外務卿副島種臣人道主義と日本の主権独立を主張し、助けを求めた清国人の苦力らを奴隷と認定し解放している。1872年芸娼妓の年季奉公が人身売買であるとの認識から「芸娼妓解放令」を出した。「遊女芸者、その他種々の名目にて年期を限」るのはアメリカ合衆国の「売奴」と変わらないとし、遊女・芸妓等の人身売買を禁止するよう提議した[105][106]。また、それより以前の1870年には、外国人への児童の売却を禁ずる太政官弁官布告が出された。

芸娼妓解放令が有名無実なものとなると人身売買に対する法的規制が後退し、他人を売るより子孫を売る方が罪が軽く「和売」が行われていた。[107] 明治から昭和にかけての人身売買について牧英正は、農村の慢性的貧困、父権の強さが人身売買を発生させる温床となる構造上の理由を説明している。[108]

明治の日本では、女性を騙して海外へ連れ出し売春させるという手口が多発していた[109][110][111][112][113]

外務省訓令第一号

警視庁 北海道庁 府県

近来不良の徒各地を徘徊し甘言を以て海外の事情に疎き婦女を誘惑し、遂に種々の方法に因りて海外に渡航せしめ、渡航の後は正業に就かしむることを為さず却て之を強迫して醜業を営まして、若くは多少の金銭を貪りて他人に交付するものあり。之が為めに海外に於て言ふに忍びざるの困難に陥る婦女追追増加し在外公館に於て救護を勉むと雖も或は遠隔の地に在りて其所在を知るに由なく困難に陥れる婦女も亦種々の障碍の為めに其事情を出訴すること能はざるもの多し。依て此等誘惑渡航の途を杜絶し且つ婦女をして妄りに渡航を企図せしめざる様取計ふべし

明治二十六年二月三日

外務大臣 陸奥宗光

内務大臣 伯爵井上馨

19世紀から20世紀初頭にかけて、日本の売春婦が中国、日本、韓国、シンガポール、インドなどのアジア各地で人身売買されるネットワークがあり、当時「黄色い奴隷売買」として知られていた[88]。「からゆきさん」とは、19世紀末から20世紀初頭にかけて、貧困にあえぐ農村から、東アジア、東南アジア、シベリア(ロシア極東)、満州、インドなどに人身売買され、中国人、ヨーロッパ人、東南アジア原住民などさまざまな人種の男性に売春婦として性的サービスを提供した日本人少女女性のことである。中国での日本人売春婦の経験は、日本人女性の山崎朋子の著書に書かれている[114]

朝鮮や中国の港では日本国民パスポートを要求していなかったことや、「からゆきさん」で稼いだお金が送金されることで日本経済に貢献していることを日本政府が認識していたことから、日本の少女たちは容易に海外で売買されていた[115][116]。明治日本の帝国主義の拡大に日本人娼婦が果たした役割については、学術的にも検討されている[117]

バイカル湖の東側に位置するロシア極東では、1860年代以降、日本人遊女商人がこの地域の日本人コミュニティの大半を占めていた[118]。黒海会(玄洋社)や黒龍会のような日本の国粋主義者たちは、ロシア極東や満州の日本人売春婦たちを「アマゾン軍」と美化して賞賛し、会員として登録した[119]。またウラジオストクイルクーツク周辺では、日本人娼婦による一定の任務や情報収集が行われていた[120]

1890年から1894年にかけて、シンガポール村岡伊平治によって日本から人身売買された3,222人の日本人女性を受け入れ、シンガポールやさらなる目的地に人身売買される前に、日本人女性は数ヶ月間、香港で拘束されることになった。日本の役人である佐藤は1889年に、長崎から高田徳次郎が香港経由で5人の女性を人身売買し、「1人をマレー人の床屋に50ポンドで売り、2人を中国人に40ポンドで売り、1人を妾にし、5人を娼婦として働かせていた」と述べている[121]。佐藤は女性たちが「祖国の恥に値するような恥ずかしい生活」をしていたと述べている[122]

オーストラリア北部にやってきた移民のうち、メラネシア人、東南アジア人、中国人はほとんど男性で、日本人は女性を含む特異な移民集団だった[123]。西豪州や東豪州では、金鉱で働く中国人男性に日本人のからゆきさんがサービスを提供し、北豪州のサトウキビ、真珠、鉱業周辺では、日本人娼婦がカナカ族マレー人中国人に性的サービスを提供していた[124]

日本人娼婦は1887年に初めてオーストラリアに現れ、クイーンズランド州の一部、オーストラリア北部、西部などオーストラリアの植民地フロンティアで売春産業の主要な構成要素となり、大日本帝国の成長はからゆきさんと結びついた。19世紀後半、日本の貧しい農民の島々は、からゆきさんとなった少女たちを太平洋や東南アジアに送り出した。九州の火山性の山地は農業に不向きで、両親は7歳の娘たちを長崎県や熊本県の女衒に売り渡したが、5分の4は本人の意志に反して強制的に売買され、5分の1だけが自らの意志で売られていった[125]

人身売買業者が彼女たちを運んだ船はひどい状況で、船の一部に隠されて窒息死する少女や餓死しそうになる少女もおり、生き残った少女たちは香港クアラルンプールシンガポールで娼婦としてのやり方を教えられ、オーストラリアなど他の場所へ送られた[126]

戦後

戦後は日本国憲法が発布され、日本国憲法第18条にて国民に対し奴隷制度を禁じた。

第二次世界大戦直後は、未成年者が前借金で事実上売買され、作男や農業手伝いに従事する例が目立った。1950年に特殊飲食街が各地で形成され始めると売春婦として送り出されるケースが55%(前年は2%)に急上昇。次いで紡績女工子守女中が続いた。身売り元の多くは東北地方で、受け入れ地は東京都埼玉県などであった[127]

外国人技能実習制度が現代の奴隷制度と揶揄されている[128]

昆虫

ハチアリなどの社会性昆虫にも、人間の奴隷制と似た社会的行動をとるものがある。サムライアリは強力な軍隊(兵隊アリ)を持つが、労働力(働きアリ)はなく、自分では女王蟻や幼虫の世話も、巣作りや餌集めもできない。そこでクロヤマアリの巣を襲撃し、蛹や働きアリを強奪して自分の巣に運び、巣を支える奴隷として死ぬまで労働させる。


注釈

  1. ^ アルキダマス(紀元前400年頃)は紀元前370年にテバイ人がスパルタを打ち破ってメッセニア人を解放したことを擁護し、そのメッセニア演説において「自由な者としたのだ、万人を神は。何人をも奴隷とはしなかったのだ、自然は」と言ったとされている。(山川偉也 2007, pp. 11–12, 26)
  2. ^ 「きわめて多くの者たちが奴隷の輸出という、この呪われた業務に殺到した。莫大な利益となったので。というのも…大規模で豊かな市場がそれほど遠くないところにあったからである。それはデロス島で、ここでは1日に1万の奴隷を受け入れ、また送り出すことが出来た。」[StrabonXIV5:2](古山正人他編訳「西洋古代史料集[第2版]」東京大学出版会2002)直接の引用は篠原陽一によるサイト [1]
  3. ^ 一般に排水量が増えるほど必要とされる乗組員数は多くなる。
  4. ^ 1年毎、一隻に日本と中国の間での貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のキャプテン・マジョールの称号が与えられた[67]
  5. ^ 船倉内に可能な限り多くの奴隷を入れることを可能とした複層区画の奴隷船が登場するのは17世紀以降である。1570年セバスティアン1世 (ポルトガル王)は300トン以下、450トン以上の船の建造を禁止している[71][72]。ポルトガルは最盛期でさえも300隻以上の船を保有しておらず、1585年から1597年までにインドへ出航した66隻のうち無事に戻ってきたのは34隻だけであった[73]。16世紀から17世紀を通じてポルトガル―インド間を運行したナウ船の中でも最大級のものは載貨重量トン数600トン(現代の計算方法で換算すると排水量1100トン[74][75])にもなり乗組員、乗客、奴隷、護衛の兵士を含む400-450人を乗せることができたという[76]。排水量900トンのナウ船は77人の乗組員、18人の砲兵、317人の兵士、26の家族を乗船させることができた[77][注 3]。 日明間の航路については、貿易風の性質上、1年周期に限定されており、ナウ船1隻だけを使用することで利益を最大化した[78][注 4]。ポルトガルのナウ船は毎年1000〜2500ピコ(1ピコ=60キログラム)のを運んだという[79]。3000ピコは180トンの絹に相当するため船倉容積は250から400立方メートルと推定でき、それに武装、備品、乗組員、乗客、兵士、食料と水が加わっていたと推測される。日本からの積荷が硫黄、銀、海産物、刀、漆器等の特産品とするなら、積荷の量によって乗船できる人数は上下したと考えられる。
  6. ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」[85]のだという。
  7. ^ 江戸幕府が豊臣秀吉の遊郭を拡大して唐人屋敷への遊女の出入り許可を与えた丸山遊廓を島原の乱後の1639年(寛永16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている[86][87]。秀吉が遊郭を作ったことで、貧農の家庭の親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売りの仲介をする女衒が、年季奉公の前借金前渡しの証文を作り、性的サービスの提供を本人の意志に関係なく強要することが横行した。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発であり、宣教師が批判した日本人が同国人を性的奴隷として売る商行為は近代まで続いた[88]
  8. ^ 天正遣欧使節記の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。天正遣欧使節記はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがあるが、イエズス会1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[91]。イエズス会による抗議は1571年セバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[92]日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[93][94][95]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[96]。宣教師によって記述された情報は「ポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動」[97]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる。
  9. ^ 「薩摩の兵が豊後で捕らえた人々の一部は、肥後へ売られていった。ところが、その年の肥後の住民は飢饉に苦しめられ、生活すらままならなかった。したがって、豊後の人々を買って養うことは、もちろん不可能であった。それゆえ買った豊後の人々を羊や牛のごとく、高来に運んで売った。このように三会・島原では、四十人くらいがまとめて売られることもあった。豊後の女・子供は、二束三文で売られ、しかもその数は実に多かった。」ルイス・フロイス 著、松田毅一・川崎桃太 訳 『完訳 フロイス日本史』 8巻、中央公論新社〈中公文庫〉、2000年、268頁。 

出典

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  5. ^ 「奴隷制度のもとでは、生産関係の基礎は奴隷所有者が、生産手段を、また生産手段の働き手である奴隷を所有することであって、奴隷所有者は、奴隷を家畜同様に売り、買い、殺すことが出来る」「富者と貧乏人、搾取する者と搾取される者、完全な権利をもつ者と無権利な者、かれらの両者のあいだのすさまじい階級闘争、これが奴隷制の光景である」『弁証法的唯物論と史的唯物論』。(福本勝清 2007, p. 9)
  6. ^ 福本勝清 2007, pp. 6–7.
  7. ^ 福本によれば奴隷は①仲間を増やす手段でありかつ②従者を増やす手段であり、忠誠を誓うかぎり兵士でもありえ、その後に③交換のための奴隷や生産のための奴隷がくる、とする。(福本勝清 2007, pp. 6–8)
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  9. ^ 福本勝清 2007, p. 9.
  10. ^ 河口明人 2010, p. 5.
  11. ^ トゥキディデス著久保正彰訳「戦史(上)144-145P、147-148P、156P、164P、257P、259P、293P」「戦史(中)」「戦史(下)」「アレクサンドロス大王東征記」「アナバシス」等参照
  12. ^ 通商国家カルタゴ 興亡の世界史(3)343P、362-364P、386-389P参照
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  21. ^ 「およそ自由人の身体あるいは精神を、徳の行使や実践のために役立たずにするような仕事や技術や学習は、卑しい職人向きのものとみなさなければならない」アリストテレス『政治学』(牛田徳子(訳)P.8、京都大学学術出版会2001年)直接の引用は河口明人 2010, p. 7
  22. ^ ローマ市民から構成される軍の兵士は常に街道の敷設や補修を行っていた。
  23. ^ a b 小林雅夫 1998, p. 1.
  24. ^ トゥキディデス著久保正彰訳「戦史(下)242-243P」、国原吉之助訳「ガリア戦記 259P、264P」など
  25. ^ 裁判官の許可を得ないで主人がその奴隷を猛獣と戦わせることを禁じる法律(帝政初期・時期不明)、主人が老年もしくは疾病の奴隷を遺棄したときは奴隷は自由人となり主人はその奴隷に対する主人権を喪失する規定(クラウディウス帝)、主人が奴隷を監禁することの禁止(ハドリアヌス帝)、主人が奴隷を殺したときはローマ市民を殺したと同様の制裁を主人に加えるべきとする規定(アントニヌス・ピウス帝)
  26. ^ 『耶蘇教理カ羅馬奴隷制ニ及ホシタル影響ニ就テ』春木一郎(京都法学会雑誌第6巻第7号 明治44年7月)
  27. ^ 『耶蘇教理カ羅馬奴隷制ニ及ホシタル影響ニ就テ』春木一郎(京都法学会雑誌第6巻第7号 明治44年7月)
  28. ^ 松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』田中敏訳、文藝春秋、2005年、120-131頁。ISBN 978-4-16-366980-9
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  32. ^ マーク・トウェインアーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキーにおいて、古代・中世の奴隷を、その当時の黒人奴隷のような悲惨な境遇の者として描いている。
  33. ^ 創世記 14:14,15、出エジプト記 21:16、レビ記 25章39,40節、出エジプト記 22:3、申命記 15章13,14節、コリントの信徒への手紙 7:21,コロサイ書3:22等
  34. ^ 同様の解釈は一夫多妻制について、モルモン教徒によってなされている。
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  110. ^ (28)各府県知事ト在浦汐貿易事務館間婦女誘拐者ニ関シ直接通信ノ件 自明治三十六年八月 ※1903年(明治36年)在ウラジオストク貿易事務官から本国日本外務省への文書”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月29日閲覧。 “本邦無智の少女を誘拐して当港に来航する悪漢之有り候趣は本月八日付公第二〇三号を以て申進置候処、当港年来の商況不振は正当なる商業者より其職業を奪ひ新渡航者に対しては従前の如く容易なる生活の方法を与へず、意思薄弱なる本邦男児をして漸次堕落の境域に導き、茲に無頼の徒と化し賎業者の手に依りて漸く其口を糊するもの多きに至り候は、慨はしき次第に之有り候。而して是等無頼漢唯一の生命は実に本邦無智の少女に懸るを以て、彼等は出来得る限り好餌を捉へんと欲し、百方訏(?)策を廻らし在本邦の誘拐者と気脈を通じて、或は汽船に依り或は日本形小漁船等に依り無智の少女を誘致し之を奪食する者日一日増加の勢之有り候。”
  111. ^ 長田秋濤 『新々赤毛布 : 露西亜朝鮮支那遠征奇談』文禄堂、1903年、196-198頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761167/107。"醜業婦の出産地 西比利亜(シベリア)に渡航して行て醜業婦人と云ふ憐れむべき名称に甘んじて外国人に情を交はして、御髯の塵を払ふて居るもの共の出産地の戸籍を酔狂にも洗って見れば、大概は九州で其多数は九州の内で熊本県天草か、長崎県島原辺りの者で長崎市の内外も沢山ある、其の次は中国から中仙道に懸けてゞある…其事を聞き込んだる誘拐者が有らん限りの甘言を尽して之を誘ひ出し、自分の懐暖めの材料に做すと云ふ様な具合で、斯く一人連れ二人連れて行たのが今日の如く殖えたのである。"。 
  112. ^ 中村直吉, 押川春浪 『五大洲探険記. 第2巻 南洋印度奇観』博文館、1909年、13-14頁。"九州が醜業婦唯一の輸出地であることは、三歳の童子でも知ってる有名な事実だが、猶且此地方に出稼の醜業婦も、殆んど其の全部が九州出身で、長崎天草島原辺の者が多いやうである。  以前は誘拐の口実として種々の甘言を弄したので、無智の婦女はウカと夫に乗って、新嘉坡三界迄地獄の憂目を見に行くやうになったのであるが…"。 
  113. ^ (7)婦女誘拐者取締ニ関シ香港領事館ト内地地方庁間直接通信ノ件 自明治四十五年七月 ※1912年(明治45)在香港総領事から日本外務省への文書”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. 2021年9月29日閲覧。 “香港は南清南洋地方に於ける婦女誘拐の策源地とも見るを得べく、従て本邦より無智の婦女を誘拐し来るもの、或は斯る目的を抱きて当地より帰国する悪漢之有り。当館は斯るものに対し厳重監視致候へ共、法規の制裁之に伴はざるを以て、如何とも致難候。…”
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