奥田幹生 奥田幹生の概要

奥田幹生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/05 16:31 UTC 版)

奥田 幹生
おくだ みきお
生年月日 (1928-03-21) 1928年3月21日
出生地 京都府綾部市
没年月日 (2018-03-02) 2018年3月2日(89歳没)
死没地 京都府京都市
出身校 京都師範学校
早稲田大学政治経済学部
前職 読売新聞記者
所属政党 自由民主党加藤派
称号 勲一等瑞宝章
従三位

第122代 文部大臣
内閣 第1次橋本内閣
在任期間 1996年1月11日 - 1996年11月7日

選挙区旧京都1区→)
京都2区
当選回数 6回
在任期間 1980年6月23日 - 2000年6月2日
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奥田 幹生(おくだ みきお、1928年3月21日 - 2018年3月2日)は、日本政治家京都市会議長・衆議院議員(6期)・文部大臣などの要職を歴任。従三位

来歴・人物

京都府綾部市出身。京都師範学校を卒業後、教員生活を経て早稲田大学政治経済学部を卒業。早大卒業後、読売新聞記者となる[1]。その後京都市会議員・同市会議長・京都府議会議員を経て、1979年第35回衆議院議員総選挙自由民主党公認で旧京都1区から立候補し、落選した。翌1980年第36回衆議院議員総選挙では(現職の田中伊三次が公認を返上したため)唯一の自民党公認候補として選挙戦を戦い、初当選した(当選同期に古賀誠平沼赳夫川崎二郎柿澤弘治など)。当選後は宏池会に所属。

1996年に発足した第1次橋本内閣では文部大臣を務めた。同年の第41回衆議院議員総選挙では京都2区から立候補し、日本共産党井上哲士と後の民主党代表前原誠司を破り再選(次点の井上との差は849票、前原は比例復活した)。2000年第42回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界から引退した。

1999年、勲一等瑞宝章受章[2]

政界引退後は平安神宮の管理保存のための市民組織、平安講社の総長などを務めた。

2018年3月2日、老衰のため、京都市内の病院で死去[3]。89歳没。死没日をもって従三位に叙された[4]

脚注

  1. ^ 京都新聞『奥田幹生氏死去 元文相、89歳』2018年03月05日
  2. ^ 「99年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、外国人、在日外国人の受章者一覧」『読売新聞』1999年11月3日朝刊
  3. ^ 奥田幹生氏死去 元文相、89歳”. 京都新聞. 京都新聞社 (2018年3月5日). 2018年3月5日閲覧。[リンク切れ]
  4. ^ 奥田元文相に従三位”. 日本経済新聞 (2018年3月20日). 2018年3月29日閲覧。


議会
先代
原田昇左右
衆議院環境委員長
1993年 - 1994年
次代
持永和見
先代
浦野烋興
衆議院商工委員長
1991年
次代
武藤山治
公職
先代
島村宣伸
文部大臣
第145代:1996年
次代
小杉隆




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