奥州市 歴史

奥州市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 06:32 UTC 版)

歴史

沿革

原始

およそ500万年前、奥州市周辺が仙台から続く入り江になっていた頃の時代は、マエサワクジラなどの海棲哺乳類が棲んでいた。

約3万5000年前には、斜軸尖頭器を出土した柳沢舘遺跡(水沢)などが存在し、旧石器時代から人が住んでいたと考えられる。遺跡は中期旧石器時代で、片刃礫器、削器、斜軸尖頭形剥片などの石器があるが、後続する後期旧石器時代の遺跡は未発見である。

縄文時代の東北地方(特に北部)は、後世と比べ気候温暖であった。当時の東北地方はコナラ・クリなど の落葉広葉樹林に広く覆われ、海岸線は平野の中まで深く入り組んで、採集生活に適した環境を作り出した。なお縄文時代の文化は「東高西低」といわれ、西日本の人口密度が希薄だったのに対し、東北地方と関東地方は、日本列島の人口の過半が集中する、縄文文化の中心地であった。縄文時代の遺跡として大清水上遺跡などがある。

弥生時代の遺跡としては清水下遺跡などから石包丁が発見され、近くから水田の跡も見つかったことから当地方でも古くから稲作が行われていた。

古代

日本列島北端に位置する角塚古墳
胆沢城跡
長者ヶ原廃寺跡

この地方は古代、大和朝廷(大和王国)から日高見国(日高見王国)と呼ばれ、日本書紀には「日高見の国は土地が広大で肥沃である」と記されている。平安時代初期に編纂された続日本紀によると「水陸万傾の地」と記されており、古くから拓けた土地であった。

東北地方(宮城県・福島県・山形県・岩手県・秋田県・青森県)が大和王権(大和王国)とは異なる地方王国の時代から、仙台平野に次ぐ東北地方の住民の中心地の一つであった。のちに、東北地方北部(岩手県・秋田県・青森県)の住民は、大和王権(大和王国)からエミシ(漢字表記は蝦夷)と呼ばれ恐れられることとなる。

5世紀後半〜6世紀初、日本列島北端に位置する前方後円墳角塚古墳が造営された。当地には、古代から、豊かな国を支配する強大な権力を持った豪族がいたことを伺うことができる。

729年(天平元年)、東北地方初の寺院として、行基が黒石に東光山薬師寺(後の黒石寺)を建立する。

5世紀前後、宮城県仙台平野を中心とする東北地方南部が大和王権(大和王国)に服属すると、大和王権は岩手県の胆沢盆地を中心とする東北地方北部(岩手県・秋田県・青森県)の住民達と対立した。

780年宝亀11年)俘囚長、伊治呰麻呂が東北地方の長官達を殺害して反乱を起こすと、宮城県北部のエミシおよび岩手県の日高見王国と朝廷の間に「三十八年戦争」が始まった。伊治砦麻呂は宮城県栗原市から南下して陸奥国国府鎮守府である多賀城を攻撃し、朝廷軍圧勝して多賀城を焼き落とした。そのあと伊治砦麻呂は軍を率いて日高見王国(岩手県)に入り消息不明となった。それ以降も、胆沢江刺は日高見王国の本拠地であった。789年延暦8年)日高見王国の指導者・アテルイモレが率いる日高見王国軍は巣伏の戦いで朝廷軍に圧勝し朝廷軍を撃退した。しかし802年(延暦21年)、アテルイとモレは征夷大将軍坂上田村麻呂(朝廷)と和睦して、騎兵500で平城京(奈良府)まで進軍した。その際にアテルイとモレは朝廷に騙されて河内国(大阪府)で処刑された。こうして「三十八年戦争」の戦いの山場は桓武天皇の勝利となり、朝廷の勝利がほぼ決まった(こののち秋田県と青森県を征服して北東北征服戦争は終結)。戦後、朝廷は国府多賀城から鎮守府胆沢城へ移した。

平安時代後期、衣川を拠点とする豪族であった安倍氏俘囚長として奥六郡を支配し、近辺では国司よりもはるかに強力な勢力を持つに至った。しかし前九年の役で、出羽の俘囚長・清原氏の援軍を得た源頼義義家親子により滅ぼされた。衣川の地は、都人もあこがれた歌枕としても有名で、多くの歌人によって歌に詠まれた。

平安時代末期、前九年の役および後三年の役を経て、清原清衡(藤原清衡)が実父の姓に復して藤原氏を名乗り、根拠地を江刺郡豊田館から磐井郡平泉(現在の平泉町)に移して地方自治政権を打ち立て、政治文化の中心都市を造った。

世界遺産,平泉の市街地は衣川の北側にも広がっており、衣川をはさんだ南の政治都市と北の産業・商業都市が融合して機能する複合都市を形成していた。衣川には藤原基成源義経の居所である衣川館や、中尊寺の子院などが並び、一大産業・商業地があった。清衡が平泉に居館を移した後も、江刺では益沢院で中尊寺に奉納された金銀字交書一切経が書写されるなど、清衡の本拠地として重要な役割をもち続けた。

首都,京都藤原氏と同じ藤原氏である平泉の藤原氏,いわゆる奥州藤原氏(平泉藤原氏)は、約100年間(一世紀)に渡って東北地方全域を朝廷公認の自治政権として支配した。しかし平泉藤四代目当主・藤原泰衡のとき、源義経を匿ったことを口実に源頼朝の侵略を受けて滅亡した。

中世

鎌倉時代から室町時代にかけて頼朝から奥州総奉行に任じられた葛西清重を祖とする葛西氏が当地を治めた。初代清重は奥州藤原氏の要である胆沢郡、磐井郡牡鹿郡を与えられ、平泉ではなく石巻城に居を構えた。築城年代・築城者は不明だが、現地の伝承では、葛西氏家臣の蜂谷氏佐々木氏柏山氏などが水沢城を築城している。水沢城は葛西氏の胆沢平野支配の拠点の一つであったと考えられている。また、江刺郡には幕府御家人千葉頼胤の三男である胤道が配され、岩谷堂城を居城として江刺氏を名乗り、江刺氏配下の人首氏が人首城を築城している。

正法寺

1349年(貞和4年)無底良韶が黒石に正法寺を建立。奥羽二州(東北地方)における曹洞宗の本寺・日本第三の本山で、東北地方における曹洞宗の中心寺院として発展。かつては東日本各地に末寺が508ヶ寺や1200ヶ寺あったと伝えられている。

戦国時代末期になると、葛西氏は領土を胆沢郡、磐井郡、牡鹿郡から、登米郡本吉郡江刺郡気仙郡にまで拡大した。その一方で南部で隣接する大崎氏と衝突するようになった。このため大崎氏を挟み合う位置関係にある戦国大名、伊達氏と同盟し、伊達氏から当主を受け入れるなど、伊達氏と密接な関係を築いた。

伊達政宗の頃になると、葛西領は「伊達の馬打ち」と呼ばれる伊達氏の準領土となった。伊達氏は葛西氏の軍事指揮権を掌握したが、徴税権は葛西氏が握った。

伊達政宗が豊臣秀吉に屈服し、秀吉が奥州仕置によって葛西氏を滅亡させると、秀吉は葛西領を家臣、木村吉清に与えた。これに不満を抱いた伊達政宗は、旧葛西領および旧大崎領で「葛西大崎一揆」を起こさせた。しかし政宗の陰謀は秀吉に露見する。秀吉から一揆鎮圧の命令を受けた政宗は木村吉清を一揆勢から救出し、自ら一揆を鎮圧した。

戦後、秀吉は政宗から伊達郡などの先祖ゆかりの地や政宗が征服した会津地方を奪い取り、政宗に旧葛西領(現・岩手県南部)と旧大崎領(現・宮城県)を与えた。政宗は居城・岩出山城を築き、新しい領土の統治に当たった。こうして奥州市一帯は伊達領の一部となった。

豊臣秀吉が死ぬと伊達政宗は徳川家康の天下取りに協力し、1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いを経て翌年政宗は居城・仙台城と城下町を築いた。ここに仙台藩が誕生し、奥州市一帯は仙台領の一部となった。

近世

水沢城跡の姥杉
後藤寿庵廟(寿庵の館跡)

仙台領は現在の宮城県と福島県の一部、岩手県南部(北上市まで)となり、伊達氏家老には各領地が与えられ、市内には水沢城要害)、岩谷堂城(要害)、人首城(要害)、前沢城()がおかれた。

水沢には代官所が置かれ領主も転々と変わり、寛永6年(1629年留守宗利が入城すると近世城下町・水沢の原型が形成され、以後仙台藩一門三席留守氏の支配が幕末まで230余年間続く。なお、宗利は父留守政景(政宗の叔父)の代から「伊達氏」を名乗っていたため「水沢伊達氏」とも呼ばれる。水沢は奥州街道が南北を貫き、仙北街道(手倉街道)と盛街道が交差する交通の要所であったため宿場町として栄え、商人の町として町人文化も栄えた。

岩谷堂は仙台藩北辺の要害として、伊達家の重臣が治めた城下町として整備され、北上川の舟運や陸路交通の要衝地ということもあり、問屋町や馬市が開かれ栄えた。岩屋堂城は幾たびも領主が変わったが、慶長15年(1610年)岩城隆道が伊達家の家臣に取り立てられ伊達政隆と改名、岩谷堂の領主となり以後仙台藩一門六席岩谷堂伊達家」の時代が幕末まで続く。

1612年慶長17年)キリシタンである後藤寿庵は、見分村(現在の水沢福原)に千二百石を領した。彼は自分の家臣や領民をキリシタンに帰依させ、見分の知名をキリストの福音に満ちた地にしようという心から福原に変え、福原が東北地方のキリシタン布教の拠点となる。1623年(元和9年)にかけ、私財を投じて胆沢川の水を引く用水堰の開削に尽力したが、幕府による禁教令により逃亡。遺志を継いだ地域住民により寿庵堰が完成。胆沢平野が穀倉地帯となる基盤をつくる。

近代

かつて水沢県庁舎として使用されていた水沢県庁記念館(宮城県登米市)
緯度観測所旧本館(現・奥州宇宙遊学館)

戊辰戦争では、仙台藩は奥羽越列藩同盟(北部政府)をつくって明治新政府と戦った。仙台藩の一門である水沢伊達氏も白河の役に出陣したが、石切山などで敗れ、1869年(慶応4年/明治2年)6月12日に星隊長ら17人の死者を出した。新朝廷を創設する動きまであったが、敗戦により「東武朝廷」の誕生は成らなかった。

同年、伊達氏家臣は失領となり、胆沢郡は胆沢県、江刺郡には江刺県が開設された。胆沢県は当初仮県庁を前沢城に置かれ、後に水沢城が胆沢県庁となり、江刺県は岩谷堂城に県庁を置き、後に閉伊郡横田村へ移動となる。

さらに水沢伊達氏家中は陪臣であるからとして帰農を命じられ、仙台藩の士族籍を得られなかった。このため、士分を保つために家中一同そろって北海道開拓に参加すべきとの意見が出されたが、邦寧は病身のため極寒の気候に耐えられないであろうとの判断から仙台に残留し、吉田元俶・坂本平九郎が家中200名を率いて石狩国札幌郡に移住した。この時、水沢伊達氏家中によって拓かれたのが平岸村(現・札幌市豊平区平岸)である。

1876年(明治9年)廃藩置県の統廃合が続き、一関県(県庁は現在の一関市)、水沢県(水沢県の県庁は当初は水沢に置かれる予定であったが、現在の宮城県登米市に置かれた)、磐井県(県庁は現在の一関市)となり、岩手県(県庁は現在の盛岡市)に編入となる。

1878年(明治11年)胆沢・江刺郡役所が塩竈村(現在の水沢)に置かれる。

1889年(明治22年)町村制が施行され、胆沢郡には水沢町や衣川村等13町村、江刺郡には岩谷堂町等13町村が成立。

1890年(明治23年)薩長藩閥政治に反対し、国会を開き、国民の権利と議会政治の実現を求める自由民権運動は岩手県でも起こり、水沢には旧仙台藩士族の下飯坂権三朗を中心として立成社が結成された。岩手県成立後も、旧仙台領である胆沢、江刺、西磐井、東磐井、気仙の県南五郡は地形、産業、歴史上、南部領とは異なるとして、住民により県南五郡を宮城県へ編入する分県運動が自由民権運動とともに起きた。分県運動は署名運動がなされ、宮城・岩手両県の政治家により、衆議院、貴族院を通過したが、県南五郡を岩手県から離せば、県の財政基盤が崩れる点から、岩手県側から強い反対にあい、実行されなかった。

同年、日本鉄道水沢駅が開設される(現:JR東北本線)当初北上川東岸にある岩谷堂に敷設される予定だったが、住民の反対により同線が西岸側にあるルートへ変更となり、水沢への物流機能集積が始まる。

1899年(明治32年)水沢に緯度観測所(現・国立天文台水沢VLBI観測所)が開設され、緯度観測所初代所長の木村栄博士がZ項を発見した功績により国際極運動観測事業の中央局となる。

戦後 - 現代

1954年昭和29年) 胆沢郡水沢町姉体村真城村佐倉河村、江刺郡黒石村羽田村が合併し、水沢市となる。

1955年(昭和30年) 古城村白山村および東磐井郡生母村と合併し、新制の前沢町が発足。

1955年(昭和30年) 江刺郡岩谷堂町稲瀬村愛宕村田原村広瀬村梁川村玉里村藤里村米里村伊手村が合併し、江刺町となる。

1958年(昭和33年) 江刺町が市制施行、江刺市となる。

1967年(昭和42年) 胆沢村が町制施行し、胆沢町となる。

1977年(昭和50年) 東北自動車道(一関~盛岡間)が完成し、水沢インターチェンジが供用開始。

1985年(昭和60年) 東北新幹線水沢江刺駅開業

2006年平成18年) 水沢市江刺市胆沢郡前沢町胆沢町衣川村が合併し、奥州市が誕生する。これらの2市2町1村は、2000年国勢調査に基く水沢都市圏都市雇用圏 - 10%通勤圏)を構成する地方公共団体である。新市名の「奥州市」を発案したのは衣川村の職員らであった[5]

同年:県の出先機関である一関、花巻、北上、遠野、千厩の各振興局を水沢地方振興局に統合し、県南広域振興局が設置される。

2008年(平成20年) 岩手・宮城内陸地震が発生し、最大震度6強を観測。

2011年(平成23年) 東日本大震災が発生し、最大震度6弱を観測。

2022年令和4年)2月27日告示の奥州市議会議員選挙において定数を上回る届出がなかった為、立候補者全員に対し奥州市では初の無投票当選が成立[6][7]


  1. ^ 今尾恵介「マケドニア顔負け?日本の〝やり過ぎ〟地名とは」『読売新聞』室靖治、2019年3月12日。2024年1月17日閲覧。
  2. ^ 胆沢ダム工事事務所
  3. ^ 他に大型扇状地として那須野が原扇状地(4万ha)、黒部川扇状地(1.2万ha)などがある。
  4. ^ 江刺 過去の気象データ検索”. 気象庁. 2024年3月29日閲覧。
  5. ^ 齋藤俊明, 桒田但馬 (2021-07-05). “ポスト「平成の大合併」時代における自治に関する調査研究 ―岩手県内の合併検証からのアプローチ―”. 岩手県立大学総合政策学会 Working Papers Series (岩手県立大学総合政策学会) 152: 34. https://iwate-pu.repo.nii.ac.jp/records/3795 2024年1月17日閲覧。. 
  6. ^ 奥州市議選、初の無投票”. IWATE NIPPO 岩手日報. 2022年2月27日閲覧。
  7. ^ 選挙管理委員会のページ - 奥州市公式ホームページ”. www.city.oshu.iwate.jp. 2022年2月27日閲覧。
  8. ^ 『図典 日本の市町村章』2007年。p30。
  9. ^ 岩手)奥州市、住所の「区」廃止」『朝日新聞DIGITAL』、2018年4月2日。2024年1月19日閲覧。オリジナルの2022年12月3日時点におけるアーカイブ。
  10. ^ 水沢金ケ崎線廃止に伴う代替路線の運行について(4月1日から)”. 奥州市. 2024年4月6日閲覧。
  11. ^ 水沢金ケ崎線 路線廃止に伴う代替路線試験運行について”. 株式会社 野口. 2024年4月6日閲覧。
  12. ^ 星空号路線図 奥州市衣川バス 2023年10月27日閲覧。
  13. ^ 衣里線時刻表 奥州市衣川バス 2023年10月27日閲覧。
  14. ^ 国見平温泉、年末で休止方針 奥州市が判断岩手日報(2023年9月24日)2023年9月24日閲覧
  15. ^ 休館中の黒滝温泉、営業終了へ 老朽化受け奥州市が方針決定」『岩手日報』、2024年3月3日。2024年3月14日閲覧。
  16. ^ 斎藤実 いわての文化情報大事典”. いわての文化情報大事典. 2020年12月8日閲覧。
  17. ^ 【“魔女”菅原初代さん死去】モラハラ、離婚…闘病生活をしていた大食い女王の波瀾万丈な半生」『週刊女性PRIME』、2023年3月17日。2023年3月22日閲覧。






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