奥入瀬渓流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/14 21:25 UTC 版)
概要
二重カルデラ湖の十和田湖が決壊して形成されたU字型の渓谷である[2]。1928年(昭和3年)には十和田湖とともに名勝及び天然記念物となった[2]。さらに1936年(昭和11年)には十和田国立公園(現:十和田八幡平国立公園)に指定された。1952年(昭和27年)には、特別名勝及び天然記念物に格上げされた。
渓流沿いには国道102号が走っており、それに沿って自然遊歩道(ネイチャートレイル)も整備されており、新緑や紅葉の時期は多くの観光客で賑わう[2]。
上流域(十和田湖・子ノ口~雲井の流れ付近)は、遡上する魚が十和田湖までたどり着けないことから「魚止めの滝」の別名がある銚子大滝(高さ7 m、幅20 m)や落差15mの九段の滝など、滝が連続して現れるため「瀑布街道」とも呼ばれている[3]。
中流域(雲井の流れ~奥入瀬バイパス入口付近)は阿修羅の流れや雲井の滝など景勝地が連続する[3]。石ヶ戸下流側や白銀の流れ右岸側には森が広がる[3]。
下流域(奥入瀬バイパス入口~焼山付近)は川幅が広くなるが惣辺や黄瀬にはブナやトチノキの森が広がり[3]、焼山エリアには奥入瀬渓流の資料の展示や物産の販売を行う奥入瀬渓流館がある[3]。
歴史
奥入瀬渓谷の形成
十和田湖は、十和田火山の活動でできたカルデラ湖である。約20万年前から始まった火山活動は、約5万5千年前から1万5千年前頃に大量の火砕流を噴出するような大規模な噴火を繰り返した。それにより火山体の中心部の陥没が進み、約1万5千年前には十和田湖の原型となるカルデラが形成され、やがて現在のような十和田湖ができたと考えられている(噴火の詳細は十和田湖#十和田火山の噴火史参照)[4]。
奥入瀬渓谷は、元々はカルデラから噴出した膨大な火砕流堆積物の軽石や火山灰などが堆積して圧縮・固結した溶結凝灰岩で構成された火砕流台地であったが、現在の十和田湖水の流出口の「子ノ口」部分が決壊し、大洪水が発生して侵食されたことにより深い谷ができ、現在みられるような滝や切り立った岩壁が形成された[4]。
奥入瀬開発・自然保護
1903年(明治36年)法奥沢村村長・小笠原耕一の具申により営林局の青森大林区署により奥入瀬渓流沿いの林道(焼山〜子ノ口間)が竣工[5]。1908年(明治41年)紀行作家・大町桂月が雑誌『太陽』編集長・鳥谷部春汀と奥入瀬渓流を訪れる[5]。大町桂月が『太陽』に紀行文「奥羽一周記」を発表。紀行文により無名だった十和田湖・奥入瀬が全国に名が知られるきっかけとなる。また紀行文を読んだ皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)から武田千代三郎青森県知事に「十和田湖を鑑賞できないか」と下問があった[6]。1912年(明治45年)武田知事が東奥日報紙で「十和田保勝論」を発表し、国立公園指定への気運が高まる[5]。1913年(大正2年)武田知事『十和田湖案内略』刊行。1916年(大正5年)農林省により十和田湖・奥入瀬渓流が風致保護林に指定される[5]。1920年(大正9年)青森県が内務省に十和田国立公園指定を陳情する[5]。1923年(大正12年)小笠原耕一の依頼で大町桂月が十和田国立公園の請願書を起草する。1928年(昭和3年)十和田湖および奥入瀬渓流が国指定名勝・天然記念物に指定される[5]。1932年(昭和7年)十和田湖が国立公園候補内に選定されるが、1934年(昭和9年)国立公園選定が見送られる。要因としては農林省の水資源を発電や灌漑に利用する「開発計画」と、内務省の国立公園指定を進める「自然保護」の対立があったためである[6]。1928年(昭和3年)農林省の三本木原開墾事業の計画で、水利用をめぐり開発推進と自然保護派の激しい対立は約10年に及ぶが、知識層と住民の長年の運動により1936年(昭和11年)国立公園に指定される[5]。しかし、自然保護を推す内務省と開発を進めたい農林省との協議の末、発電・灌漑、風致保護の3点共存を図るもので、1937年(昭和12年)「奥入瀬川河水統制計画」が策定され[6]、水資源を利用しつつ自然保護をするという妥協案としての国立公園指定となった[5]。しかし、太平洋戦争開戦による電力需要増強、食料政策強化による水利用計画が増強され、1940年(昭和15年)十和田発電所の建設が開始され、1943年(昭和18年)運転開始、翌年、稲生川への通水式が行われている[6]。発電事業は戦後、1955年(昭和30年)法量発電所、1961年(昭和36年)奥入瀬川水系の蔦川に蔦発電所が完成し、発電所建設事業は終了する。また、1960年(昭和35年)国営開墾事業も終了となる[6]。
1952年(昭和27年)十和田湖・奥入瀬渓流が特別名勝に変更される。1956年(昭和31年)八幡平地区が国立公園に追加指定され、十和田八幡平国立公園となる。1961年(昭和36年)奥入瀬渓流遊歩道整備事業が始まり、1975年(昭和50年)焼山〜子ノ口間の遊歩道が完工する。1953年(昭和28年)十和田湖畔に高村光太郎のブロンズ像「乙女の像」が建てられるが、国立公園指定に尽力した武田千代三郎・小笠原耕一・大町桂月の功労が台座に讃えられている[5]。
- ^ a b “十和田湖・奥入瀬渓流の魅力”. 一般社団法人 十和田湖国立公園協会. 2022年11月15日閲覧。
- ^ a b c 奥入瀬ビジョン~世界に誇れる奥入瀬を目指して~ 青森県 奥入瀬渓流利活用検討委員会
- ^ a b c d e 1.奥入瀬エリア 青森県上北地域県民局
- ^ a b “奥入瀬・十和田湖のなりたち / 奥入瀬フィールド ミュージアム”. 青森県 県土整備部 道路課. 2022年11月15日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “奥入瀬の歴史 / 奥入瀬フィールド ミュージアム”. 青森県 県土整備部 道路課. 2022年11月15日閲覧。
- ^ a b c d e “広報とわだ 2016年10月号” (PDF). 十和田市役所. p. 4. 2022年11月15日閲覧。
- ^ a b c d e “森林の生態系・自然の特徴”. 青森県 県土整備部 道路課. 2022年11月15日閲覧。
- ^ “日本の貴重なコケの森 NO.19”. 日本蘚苔類学会. 2022年11月15日閲覧。
- ^ a b c “水資源の利用”. 青森県 県土整備部 道路課. 2022年11月15日閲覧。
- ^ a b “十和田湖と水利用”. 東北電力. 2022年11月15日閲覧。
- ^ “十和田湖および奥入瀬渓流 / 記念物(名勝等)”. 青森県庁. 2022年11月15日閲覧。
固有名詞の分類
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