奈良時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 17:28 UTC 版)
概説
範囲
広義では、710年(和銅3年)に元明天皇によって平城京に遷都してから、794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間を、狭義では同じく710年から784年(延暦3年)に桓武天皇によって長岡京に都が遷されるまでの74年間を指す。
「奈良の都」の異名を持つ平城京に都が置かれたことから、「奈良時代」や「平城時代」という。740年から745年にかけて、聖武天皇は恭仁京(京都府木津川市)、難波京(大阪府大阪市)、紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)に、それぞれ短期間であるが宮都を遷したことがある。
特徴
平城京遷都には藤原不比等が重要な役割を果たした。平城京は、中国の都長安を模した都を造営したとされる。政治家や官僚が住民の大半を占める政治都市であった。
平城京への遷都に先立って撰定・施行された大宝律令が、日本国内の実情に合うように多方面から変更されるなど、試行錯誤を行ない、律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権を目指した時代であった。また、天平文化が華開いた時代でもあった。
710年(和銅3年)、元明天皇は藤原京から平城京への遷都を行い[3]、都は平城京に遷った。この時期の律令国家は、戸籍と計帳で人民を把握すると、租・庸・調と軍役を課した。遣唐使を度々送り、唐をはじめとする大陸の文物を導入した。全国に国分寺を建て、仏教的な天平文化が栄えた。『古事記』『日本書紀』『万葉集』など現存最古の史書・文学が登場した。この時代、中央では政争が多く起こり、東北では蝦夷との戦争が絶えなかった。
皇位は、天武天皇と持統天皇の直系子孫によって継承されることが理想とされ、天皇の神聖さを保つ観点から、近親婚が繰り返された。その結果として、天武天皇と持統天皇の直系の皇子の多くは、病弱であり、相次いで早死にした。そのような天武・持統の直系子孫による皇位継承の不安定さが、8世紀におけるさまざまな政争を呼び起こし、結果として、天武・持統の直系の断絶・自壊へとつながった。
政治的には、710年の平城京遷都から729年の長屋王の変までを前期、藤原四兄弟の専権から764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂の乱までを中期、称徳天皇および道鏡の執政以降を後期に細分できる[1]。
注釈
- ^ いわゆる鑑真将来経。
- ^ この「啓」は特殊な性質を持っている。唐六典一左右司郎中員外郎条や司馬氏書儀などの中国の書物によれば、官庁の長官に官人が上申する時に用いられる形式であるほか、親族間における尊属・長属や婦人の夫に対するもの、尊属だけでなく卑属の逝去を慰問する時、吉凶の挨拶や起居を通ずる場合、忠告・祝賀・謝礼・知人の推薦等、多岐に渡って用いられた。そのため「啓」は「私書」「家書」に分類され、「公文に施す所に非ず」、即ち、個人的な通信に使用するもので国家間の公式なやり取りにはふさわしくないものとされた。
- ^ ただし、地下式横穴墓や板石積石棺墓などの九州南部の地下式墓制を熊襲・隼人と直接結びつける考え方は、現在では行われていない。
出典
- ^ 北山(1979)[要ページ番号]
- ^ a b c 吉田(1992)
- ^ 小澤 (2005) pp.142-148
- ^ 佐藤 (2002) p.20
- ^ 鐘江 (2008) p.88
- ^ 石母田 (1989) pp.15-17
- ^ 酒寄 (2002) pp.271-272
- ^ 鐘江 (2008) p.134
- ^ 鐘江 (2008) p.78
- ^ 森公章『「白村江」以後』講談社、1998年、ISBN 4062581329
- ^ 酒寄 (2002) p.285
- ^ 酒寄 (2002) p.295
- ^ 石井(2003)
- ^ 酒寄 (2002) p.283
- ^ 酒寄 (2002) pp.296-305
- ^ 酒寄 (2002) p.274
- ^ 鐘江 (2008) pp.156-157
- ^ 鐘江 (2008) pp.158-159
- ^ 酒寄 (2002) pp.306-307
- ^ 鐘江 (2008) p.149
- ^ “「エミシ」と「エゾ」”. 青森県立郷土館. 2013年7月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月5日閲覧。
- ^ 酒寄 (2002) pp.280-281
- ^ 酒寄 (2002) pp.287-290
- ^ 酒寄 (2002) p.304
奈良時代と同じ種類の言葉
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