奄美黒糖焼酎 歴史

奄美黒糖焼酎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 00:55 UTC 版)

歴史

鹿児島県では焼酎という語が書かれた1559年の木片[17]伊佐市郡山八幡神社から見つかっており、どぶろく同様に米、麦、キビなどが使われていたと考えられる。1623年ごろよりは、奄美群島から薩摩藩への焼酎献上が行われていたことも、文献に残されている[6]が、その原料は不明である。奄美大島にサトウキビ栽培は(すなおかわち)が1610年ころ中国福建から持ち帰り現在の大和村戸円礒平に植えたことに始まるされるが、醸造に使われるようになるには一定の時間を要したと考えられる。

江戸時代1850年ごろから1853年ごろに奄美大島遠島となった(なごやさげんた)によって書かれた『南島雑話』には、シイの実、ソテツの実(なり)のでん粉アワ、ムギ、サツマイモ、ユリの根によるものに加えて、サトウキビ汁(糖蜜)による焼酎作りが記録されており、「(とめじるしょうちゅう)」として登場する。しかし、この頃、薩摩藩は奄美で作られる黒糖は全て年貢として納めさせて資金源としていたので、サトウキビによる焼酎作りは禁止されたことも記されている。実際には密造もあったのか、江戸時代後期の『江戸買物独案内』(1824年刊)には「砂糖せうちう」が銘酒として挙げられている[18]

明治時代になって、自家製造焼酎としての黒糖焼酎が、奄美群島各地で造られる[6]ソテツでん粉で黄麹を作り、煮たサツマイモと砂糖を加えて発酵させるのが一般的であった[19]大正時代に入ると、1916年喜界島で喜禎酒造所(現朝日酒造)が開業[20]、1922年に奄美大島名瀬村で弥生焼酎醸造所が開業、1925年には沖縄の首里から西平家(現西平本家)が喜界島に移り住み泡盛を製造するなどして、販売を目的とした蒸留酒の製造が本格化した。しかし、第二次世界大戦によって、米不足となり、原料としての黒糖の重要性が増す一方、海軍特攻隊の中継地となっていた喜界島の蔵元は1945年に米軍の爆撃被害を受けて壊滅した。

1945年の敗戦により、奄美群島は沖縄本島宮古列島八重山列島吐噶喇列島などとともにアメリカ合衆国の統治下に置かれ、奄美大島臨時北部南西諸島政庁が開設された。奄美群島はもともと経済的自立が難しかった地域の上に、戦後は物資不足となり、11月から特例的に課税を前提に自家用酒の製造許可が出された。これによって奄美群島では各地の集落に小規模な醸造所が多数生まれた。もともと泡盛を作っていた蔵元は、での製造を始めたが、やはりの確保が難しく、生産量は限られた。米に代わって使われた原料は黒糖ソテツでん粉であった[21]。当時、稲の作付面積は少なく、不足した上に、従来日本の本土に出荷していた黒糖が出荷ができなくなって余ったため、代替の焼酎原料として使われた。

1947年には大島中央農業会が名瀬蘇鉄味噌工場で焼酎の製造を開始し、一般販売された[21]。他にも空襲の結果喜界島から移転を余儀なくされた西平酒造など、専門の蔵元が製造を開始し、同年の奄美群島の焼酎生産量は1000石(18万リットル)程度になり、食用にしにくいソテツでんぷんや屑芋だけで作るように呼びかけられることもあったが、自家用酒から得られる酒税は政庁の最大の税収となっていた。

1950年2月、大島酒造組合が衛生問題や脱税問題を理由に自家用酒製造の禁止を陳情、協議の結果、4月から自家用酒の製造は禁止となり、税務署の暫定的な免許を取得した上で集落毎に月産1石(180リットル)までの酒造所を設けることを認める方式となった[21]

1951年のサンフランシスコ講和条約調印によって、1952年4月1日から奄美群島は沖縄本島の琉球政府奄美地方庁の管理下に変わった。法律も琉球立法院が定めることとなり、1952年7月28日には琉球政府の立法である「酒税法」が定められた。焼酎の原料として、米、麦、などの穀物や馬鈴薯、甘藷などの芋の他、ソテツ、でんぷん、砂糖、糖蜜、糖水(サトウキビの絞り汁など)、酒粕が明記され、年間100石以上でないと製造免許が与えられなくなった[22]

1953年12月25日の奄美群島本土復帰によって、奄美群島の復帰に伴う法令の適用の暫定措置等に関する法律(昭和28年法律第267号)が施行され、日本の法体系が適用されるようになった。当時の酒税法では、焼酎の原料として砂糖などの含糖物質の記載がなかった。黒糖を使った蒸留酒はラム酒と同じスピリッツに属し、約3割高い税額となり、販売に支障がでるおそれがあったが、国税庁に陳情の結果、政令によって奄美群島への酒税法適用が1954年6月まで猶予された。合わせて、1954年5月には酒税法施行規則が改正されて、黒糖を原料にした乙類焼酎の製造が可能となり、さらに1959年12月25日に国税庁が基本通達を出し、大島税務署の所管する奄美群島でのみ米麹の使用を条件に認められることとなった[23]

1960年代以降、大島税務署の指導により「共同瓶詰会社」を設けて零細な蔵元から原酒を買い上げ、ブレンドした上で瓶詰めし出荷する体制が整備された。ブレンドにより酒質が安定すること、瓶詰会社に営業担当を置くことで零細蔵元は酒造りに専念できることなどの利点があり、奄美大島の大島食糧、徳之島の奄美酒類、沖永良部島の沖永良部酒造が発足している。これらの再編や名瀬市街での個人酒造場の廃業や法人化により、蔵元の数は減少した。また、1964年に施行された「甘味資源特別措置法」や国内での分蜜糖生産振興策によって、奄美群島のサトウキビ資源の多くが大規模な製糖工場で使われるようになり、黒糖生産量は減少したが、焼酎原料分はなんとか確保できていた。1970年代までの黒糖焼酎の生産量は一酒造年度(12か月)で4000キロリットル程度に過ぎなかったが、1980年代前半の焼酎ブームで、倍増した年度もあった。地元で確保しきれなくなった黒糖は沖縄県から調達された。1989年には砂糖消費税法が廃止され、酒税法の改正が行われた。

1990年の米不足と在庫過多により、製造量は減少し、米麹の原料は国産米からタイ米へ切り替えられた[24]。ただし、一部には風味を尊重して、現在も国産の破砕米を使用している蔵元もある。1990年代から、奄美大島内の周辺町村で新規事業者の参入や事業の拡大のための工場の移転などによって、蔵元は各市町村に分散化した。また、1991年には初の減圧蒸留装置を備えた大型工場が富国製糖内に誕生した[25]。原料需要も増えたことで、1993年以降、一部の工場では外国産の黒糖も使用されるようになった[26]

2000年代に入ると出荷量が拡大、特に関東地方などの県外への出荷が増え、2003年には生産量が10000キロリットルを突破した[23]。出荷量が増え、減圧蒸留や低度数で飲みやすさを追求した製品が増えた一方で、地元の黒糖使用にこだわった銘柄や、熟成方法に工夫を凝らした銘柄など、香りなどに特長を出して差別化を図る例も見られた。

2007年、東京農業大学小泉武夫教授の提案で、5月9日と10日が「こくとう」の語呂合わせ奄美黒糖焼酎の日となる。

2008年に改正された現行の酒税法第23条の規定では、1キロリットル当たりの酒税は、黒糖焼酎を含む蒸留酒類はアルコール度数21度未満は一律20万円、21度以上は1度ごとに1万円が加算され、度数×1万円となっているのに対して、ラム酒を含むスピリッツウイスキーブランデーは例外的に37度未満は一律37万円となった。このため、37度以上の場合、ラム酒と黒糖焼酎にかかる酒税は同額となった。

2009年2月6日、地域団体商標「奄美黒糖焼酎」の文字商標を登録。2010年8月6日、地域団体商標「奄美黒糖焼酎」の図形商標(ロゴマーク。太陽と海と奄美群島の地図をデザイン)を登録。産地、商品を明確に識別できるようにした。

2015年11月1日 - 鹿児島県酒造組合が募集、選出した第1回「ミス奄美黒糖焼酎」、「ミス薩摩焼酎」を発表、任期1年間でPR活動を担当。


  1. ^ 奄美大島酒造協同組合:地域団体商標”. www.kokuchu.com. 2021年5月31日閲覧。
  2. ^ 株式会社財宝
  3. ^ 株式会社甚松
  4. ^ もし蒸留後に砂糖を加えると本格焼酎とは名乗れず、焼酎乙類または単式蒸留焼酎という表示しかできない。
  5. ^ 清洲桜醸造株式会社の「黒糖太郎」。減圧蒸留、25度。
  6. ^ a b c 奄美黒糖焼酎について”. 鹿児島県酒造組合奄美支部・奄美大島酒造協同組合 (2012年). 2014年10月12日閲覧。
  7. ^ 安藤義則 ほか、「黒糖焼酎用酵母の分離について」『鹿児島県工業技術センター研究成果発表会予稿集』、2003年、鹿児島県工業技術センター。 [1]
  8. ^ 富田醸造場、天川酒造などが現在も行っている。
  9. ^ また、サツマイモは奄美群島や沖縄県ではイモゾウムシなどの害虫被害により、栽培に限界がある。
  10. ^ JOUGO、里の曙黒麹仕込、れんと、はなとりなど。
  11. ^ 「花恋慕」など。
  12. ^ にしかわの焼酎造り | 株式会社奄美大島にしかわ酒造”. にしかわの焼酎造り | 株式会社奄美大島にしかわ酒造. 2021年5月31日閲覧。
  13. ^ 渡邉泰祐、塚原正俊、外山博英、「沖縄の伝統発酵食品と微生物~泡盛を中心に~」『生物工学会誌』第90巻6号、pp311-314、2012年、日本生物工学会。[2]
  14. ^ 「花恋慕」、「れんと」など。
  15. ^ なお、規定上はサトウキビの他にサトウモロコシ(スイート・ソルガム)、トウモロコシの絞り汁から作った固形の含蜜糖も使えるが、使われてはいない。
  16. ^ 規定上、焼酎乙類と表示する場合で、エキス分2度未満ならば可能であるが、実際には作られていない。
  17. ^ 大口市焼酎資料館蔵
  18. ^ 原口泉、「焼酎の歴史と文化」『柴田書店MOOK 薩摩焼酎・奄美黒糖焼酎』p88、2001年、東京、柴田書店
  19. ^ 蟹江松雄、藤本滋生、水元弘二、「黒糖焼酎の登場」『鹿児島の伝統製法食品』、pp112-114、2001年、鹿児島、春苑堂出版、ISBN 4-915093-74-3
  20. ^ 朝日酒造株式会社ホームページ
  21. ^ a b c 吉田元、「軍政下奄美の酒(1)」『日本醸造協会誌』 2006年 第101巻 第11号 p.862-866, doi:10.6013/jbrewsocjapan1988.101.862, 日本醸造協会
  22. ^ 吉田元、「軍政下奄美の酒(2)」『日本醸造協会誌』 2006年 第101巻 第12号 p.862-866, doi:10.6013/jbrewsocjapan1988.101.935, 日本醸造協会
  23. ^ a b 山本一哉、「奄美の黒糖焼酎産業について(1)」『奄美ニューズレター』No.17 pp12-21、2005年4月、鹿児島大学
  24. ^ 松岡美根子、八久保厚志、須山聡、「奄美大島における黒糖焼酎生産の新展開」『奄美大島の地域性-地理学調査法 野外調査報告書-』、2003年、駒澤大学 [3]
  25. ^ 現奄美大島酒造。
  26. ^ 山本一哉、「奄美の黒糖焼酎産業について(2)」『奄美ニューズレター』No.18 pp39-47、2005年5月、鹿児島大学
  27. ^ a b 喜界町
  28. ^ 徳之島町。
  29. ^ 他に自社名義のスピリッツラム酒)であるルリカケス、徳州、原酒、神酒を製造。
  30. ^ 5蔵の共同瓶詰め事業。中村酒造は天城町、松永酒造場は伊仙町、他は徳之島町
  31. ^ 和泊町
  32. ^ 4蔵の共同瓶詰め事業。神崎産業は知名町、他は和泊町
  33. ^ a b 知名町
  34. ^ 久留ひろみ、濱田百合子、「パッション酒」『奄美の食と文化』p147、鹿児島、南日本新聞社、ISBN 978-4-86074-185-3
  35. ^ 川越政則、『焼酎文化図譜』pp497-499、1987年、鹿児島、鹿児島民芸館
  36. ^ 川越政則、『焼酎文化図譜』pp956-958、1987年、鹿児島、鹿児島民芸館
  37. ^ 川越政則、『焼酎文化図譜』pp474-477、1987年、鹿児島、鹿児島民芸館





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