太陽の王子 ホルスの大冒険 声の出演

太陽の王子 ホルスの大冒険

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 02:58 UTC 版)

声の出演

スタッフ

大田朱美
菊池貞雄
喜多真佐武
堰合昇
吉田茂承
相磯嘉雄
山下恭子
坂野隆雄
薄田嘉信
坂野勝子
黒澤隆夫
阿部隆
的場茂夫
池原昭治
服部照夫
角田紘一
村松錦三郎
石山毬緒
長沼寿美子
山田みよ
  • 背景:土田勇、井岡雅宏、内川文広
  • 演出助手:竹田満、笠井由勝
  • トレース:入江三帆子、黒澤和子
  • ゼログラフィ:加藤稔
  • 彩色:岸本弘子、宮本慶子
  • 特殊効果:平尾千秋
  • 検査:新納三郎
  • 調色:谷口洋平
  • 撮影:吉村次郎、片山幸男
  • 録音:神原広巳
  • 編集:千蔵豊
  • 音響効果:大平紀義
  • 記録:的場節代
  • 進行:吉岡修
  • 現像:東映化学工業株式会社
  • 音楽:間宮芳生
  • 演奏:新室内楽協会
  • 合唱:日本合唱協会

主題歌など

全て、作詞:深沢一夫、作曲:間宮芳生、演奏:新室内楽協会

  • 「主題歌」 歌:調布少年少女合唱隊
  • 「収穫の唄」 歌:日本合唱協会
  • 「子供の唄」 歌:調布少年少女合唱隊
  • 「婚礼の唄」 歌:水垣洋子、日本合唱協会
  • 「ヒルダの唄」 全て、歌:増田睦美、リュート:浜田三彦
    • ヒルダとホルスの出会いのシーンで流れる唄
    • 陽気な唄(自己紹介の後に歌う唄)
    • 荒野でひとりうたう唄
  • 「ヒルダの子守唄」 歌:増田睦美、リュート:浜田三彦
(朝日ソノラマ)

製作

東映動画では、『白蛇伝』以来、長編(上映時間80分相当)を年に1本製作・公開してきた。しかし、1963年に虫プロダクションの『鉄腕アトム』によってテレビアニメの時代が始まると東映動画もそれに追随せざるを得なくなる。同年に製作を開始した『ガリバーの宇宙旅行』は、その影響を受け、いったん製作が中断した[3][4]。1964年9月には、「当分のあいだ、長編アニメーションの制作は中止する」という方針が東映動画社長よりスタッフに伝えられる[5]。だが、『ガリバーの宇宙旅行』公開直前の1965年3月、企画部長の関政次郎から大塚康生に「来年をめど」とした長編次回作の作画監督が打診される[5]。大塚は、題材を『龍の子太郎』、演出(一般に言う監督に相当)を高畑勲とする条件で受諾すると文書で返答する[6][注 3]。最終的に大塚の要望が通る形となり、4月から大塚と高畑によって企画の検討が開始された[8][注 4]

当初の『龍の子太郎』は「久しぶりの長編アニメーションにふさわしいスケールが不十分」という理由から却下され、『春楡(チキサニ)の上に太陽』に変更となる[8][注 5]。だが、東映側はアイヌを題材にした『コタンの口笛』等の興行実績から難色を示し、舞台を北欧とすることで了承した[8]。この時点で約7か月が経過していた[8]。脚本の深沢一夫から初稿が提示されたのは1965年12月中旬で、高畑およびそれを支援した宮崎駿により、深沢との間で意見の提示と推敲が繰り返された[10]。宮崎は1983年にホルス制作当時について「僕はホルスについては語れないですよ。ほんとに。キザな話だけど、青春そのものなんですよ。あらゆる恥ずかしさが全部入ってる。僕もパクさん(引用者注:高畑の愛称)も若かったから出来たんですよ。もう、今なら恥ずかしくて口に出せないようなことも言ってましたからね。人間を描こうとか……野心に燃えてたんです。」と自分と高畑にとって青春時代であったと述懐しており[11]、2018年に高畑が亡くなった時のお別れの会で宮崎自ら涙しつつ読み上げた追悼文でもホルス制作が大きな部分を占めたほど思い出深いものになることとなった[12]

最終稿(第5稿)とキャラクター案(作画チーム全員から募集した案を大塚がクリンナップした)の完成は当初予定より2か月以上遅れた1966年3月後半で、4月より高畑と大塚による絵コンテ作業が開始され、作画もそれに続いて着手された[10]

しかし、スケジュールの停滞(当初は8か月間と予定されていた)から1966年10月に制作中断がスタッフに伝えられ、高畑と大塚の絵コンテ作業のみを続行し、作画スタッフはテレビアニメのチームに入った[13][注 6]。一方、高畑はシナリオ内容の映像化のために作品の尺(公開時間)を長くする要望を出していたが受け入れられなかった[13]。中断が決まった際に大塚は企画部長の関から「会社はきみたちにプレハブを作ってくれといっているのに、きみたちがやろうとしているのは頑丈な鉄筋コンクリートだ」と予算・納期の遅延について涙ながらに指摘を受けたという[13]。スタッフの側には「最後の本格的な長編になるかもしれない」という思いから、品質維持へのこだわりがあったことを大塚は記している[15]小田部羊一は、本作で高畑から求められた内容に対応したことで、それ以降「どんな仕事も恐くなくなりました」と証言している[16]。「登場人物」節にもあるように、本作はスタッフが出したアイディアを取捨選択する形で制作された。小田部が「組合を中心に全員が悩み苦しんで完成させたという点で、いい経験になりました」と回想する一方[17]、小田部の妻で同じく原画を務めた奥山玲子は(東映動画では)「初めて演出主導の中央集権的なスタイル」になった本作に参加した当初は「それまでの自由に任される空気とは違って、戸惑いを感じ」たと述べ[18]、「最初からスムーズにいったわけではなく、様々な葛藤があって完成した作品だと思います」と評している[19]

1967年1月に製作は再開され、動画の完成がそのほぼ1年後で、初号試写は1968年3月だった[13]。この製作期間に高畑は会社側との折衝で、動画となるカットの静止画(止め絵)への変更や時間の短縮などを余儀なくされた[13]。制作費は7000万円の予算に対して1億3000万円を要した[20]。宮崎駿は、先述の高畑の「お別れの会」で読み上げたコメントの中で、「迷いの森」のシーンの削除が高畑と会社の間で議論になり「カット数からカット毎との作画枚数まで約束し、必要制作日数まで約束せざるを得なくなっていた」ことや、納期や予算の超過に対して「その度にパクさんは始末書を書いた」ことに言及した[7]




注釈

  1. ^ このうち『ゲゲゲの鬼太郎』(TVブローアップ版)は、公開当時のフィルムが紛失していたため、テレビ放送版のフィルムを再編集して収録した。
  2. ^ 本作品には、制作開始から完成までの間に中断期間があり、その間に東映動画を退社、あるいは降板するなどしたためクレジットされていないが、林静一、倉橋孝治らも参加している[2]
  3. ^ 宮崎駿は当時この文書を大塚から見せられたと、2018年の高畑の「お別れの会」のコメントで述べている[7]
  4. ^ 大塚によると、関からは演出(監督)について芹川有吾矢吹公郎を勧められ、高畑については「もう少しあとでやってもらおうと思っている」と言われたという[6]
  5. ^ 『龍の子太郎』はそれから14年後の1979年に東映動画によって長編劇場アニメ化された(監督は浦山桐郎)。作画監督を務めた小田部羊一は東映動画から依頼があったときにスタッフの条件として「演出(監督)は高畑勲」と述べたが、東映動画側は「高畑は絶対に認められない」という返事だったと回想している[9]
  6. ^ 東映動画の社内組織上1965年3月に「長編漫画製作部」「TV漫画製作部」「技術部」が統合されて「製作部」となっていた[14]
  7. ^ 当時、ソ連が横浜港とナホトカ港を結ぶ定期船を運航していた。
  8. ^ 『東映まんがまつり』系統で、円谷プロ作品、ならびに同プロ製作のウルトラシリーズが上映されたのは、これが唯一のケースとなった(前年公開の『キャプテンウルトラ』は東映作品)。これ以降、ウルトラシリーズを筆頭とする円谷作品は、『東宝チャンピオンまつり』で上映されている。

出典

  1. ^ a b 松野本、2009年、p.38
  2. ^ a b c 大塚、2013年、pp.305 - 307
  3. ^ 大塚、2013年、p.151
  4. ^ 東映アニメーション、2006年、p.32
  5. ^ a b 大塚、2013年、p.159
  6. ^ a b 大塚、2013年、pp.160 - 161
  7. ^ a b c “高畑勲さん「お別れ会」 宮崎駿監督は声を詰まらせながら、亡き盟友を偲んだ(追悼文全文)”. ハフィントンポスト. (2018年5月15日). https://www.huffingtonpost.jp/2018/05/14/isao-takahata-farewell_a_23434642/ 2018年5月16日閲覧。 
  8. ^ a b c d 大塚、2013年、pp.162 - 163
  9. ^ 叶、2004年、pp.111 - 112
  10. ^ a b 大塚、2013年、pp.164 - 166
  11. ^ 富沢、1983年(同書収録のインタビュー)
  12. ^ 高畑勲監督お別れ会で号泣の宮崎駿監督...鈴木敏夫Pは「宮崎駿はただひとりの観客、高畑勲を意識して映画を作っている」と LITERA 2018年5月16日
  13. ^ a b c d e 大塚、2013年、pp.168 - 169
  14. ^ 東映アニメーション、2006年、p.33
  15. ^ 大塚、2013年、p.167
  16. ^ 社長が訊くニンテンドーDSi 小田部羊一さんと『うごくメモ帳』篇 - 任天堂
  17. ^ 叶、2004年、p.66
  18. ^ 叶、2004年、pp.100 - 101
  19. ^ 叶、2004年、p.102
  20. ^ a b 大塚、2013年、p.170
  21. ^ a b 大塚、2013年、p.171
  22. ^ 木村智哉「東映動画株式会社における映画製作事業とその縮小」谷川健司(編)『戦後映画の産業空間: 資本・娯楽・興行』森話社、2016年
  23. ^ なつぞら:劇中アニメを振り返り! 「神をつかんだ少年クリフ」 小田部羊一さん作「キアラ」も話題に 2019年9月24日 まんたんウェブ 2019年9月26日閲覧
  24. ^ a b 東映アニメーション、2006年、pp.42 - 43
  25. ^ a b 池田宏「永遠の『先達』のままで逝ってしまったパクさん」『キネマ旬報』2018年6月上旬特別号、キネマ旬報社、pp.18 - 19
  26. ^ 小田部羊一「"死"は"果種"(たね)なんだとパクさんは言った」『キネマ旬報』2018年6月上旬特別号、キネマ旬報社、pp.20 - 21
  27. ^ もりさんのヒルダ”. アニドウ. 2019年1月13日閲覧。
  28. ^ 鷲谷花「美しい悪魔の妹たち 『太陽の王子ホルスの大冒険』にみる戦後日本人形劇史とアニメーション史の交錯」『ユリイカ』2018年7月臨時増刊号(総特集 高畑勲の世界)、青土社、p.261
  29. ^ a b c 鷲谷、2018年、pp.265 - 266
  30. ^ a b 鷲谷、2018年、p.264
  31. ^ a b 鷲谷、2018年、p.268
  32. ^ 鷲谷、2018年、p.263
  33. ^ 鷲谷、2018年、pp.263 - 264
  34. ^ 岩井俊二「僕の「やぶにらみの暴君」 - スタジオジブリ(『王と鳥』公式サイト)





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