太宰治 関連人物

太宰治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 03:11 UTC 版)

関連人物

  • 石井桃子 - 児童文学作家、翻訳者。井伏鱒二宅で偶然大宰と同席したことをきっかけに親交を深めた。太宰の死後、井伏との会話の中で「あたしだつたら、太宰さんを死なせなかつたでせうよ」と語っている。石井桃子#太宰治との出会いも参照のこと。
  • 石川淳 - 戦後、太宰・坂口安吾織田作之助とともにいわゆる無頼派の旗手とされた文学者。太宰とは昭和14年頃以来、4度ほど酒席をともにした。太宰の死に際し「太宰治昇天」と題した文章を発表(『新潮』第45巻第7号、1948年7月)。
  • 井伏鱒二 - 太宰の師。太宰自身の言によれば、太宰がまだ青森の中学生だった頃、井伏の『幽閉』(『山椒魚』の原形)を読んでその才能に興奮した。大学上京後から師事し、結婚の仲人も井伏に務めてもらった。戦後になって、太宰は井伏に複雑な感情を抱いていたようであり、遺書に「井伏さんは悪人です」と書き残していたことは話題になった。両者の確執には様々な説があるが、詳しくはわかっていない。
  • 伊馬春部 - 別名・伊馬鵜平。太宰の親友で、ユーモア作家として「畜犬談」を捧げられた。折口信夫に太宰作品を勧めたのも伊馬である。入水前に伊藤左千夫の「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」という短歌を録した色紙を伊馬宛てに残した。太宰嫌いで有名な三島由紀夫は目黒時代、伊馬家の隣家に住んでおり、強盗に押し入られて逃げ出したとき伊馬家に保護を求めたことがある。『桜桃の記』執筆。
  • 大西巨人 - 作家。『文化展望』編集者として原稿依頼し、「十五年間」を創刊号に掲載。1948年に「太宰治の死」と題する追悼文を発表している。
  • 賀陽治憲 - 賀陽宮恒憲王の第二王子。皇籍離脱後に外交官。1947年10月14日付の『時事新報』で「太宰治の“斜陽”はちょっと身につまされておもしろいですね」と発言。太宰は「如是我聞」で「或る新聞の座談会で、宮さまが、「斜陽を愛読している、身につまされるから」とおっしゃっていた」と言及している。
  • 川端康成 - 太宰が芥川賞候補になって落選したときの選考委員の一人。川端が「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあった」と批評したため、太宰は「川端康成へ」と題する短文を書いて抗議。川端は「太宰治氏へ芥川賞について」という短文を発表し、「根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい(…)「生活に厭な雲云々」も不遜の暴言であるならば、私は潔く取消」すと、冷静に釈明した。後に『社会』1948年4月号の志賀直哉廣津和郎との「文藝鼎談」での川端の発言に対して『新潮』1948年6月号掲載の「如是我聞(三)」で太宰は、「なお、その老人に茶坊主の如く阿諛追従して、まったく左様でゴゼエマス、大衆小説みたいですね、と言っている卑しく痩やせた俗物作家、これは論外。」と罵倒した。太宰の死後に代表作『斜陽』が翻訳出版された際、「太宰君がKeeneさんのやうな譯者に恵まれたことはまことに幸ひです」などの文面で書簡を送っている。アメリカ合衆国の出版社ニューディレクションズの担当者宛てだったが、ドナルド・キーンの翻訳に関する記述もあったためキーンのもとに届けられたという[83]
  • 今官一 - 太宰の同郷の友人。津軽出身の文士の中では唯一の理解者として、太宰から信頼されていた。短篇『善蔵を思う』には「甲野嘉一君」として登場する。
  • 佐藤春夫 - 太宰の師。太宰作品が芥川賞候補になったとき、薬物中毒時代の太宰から、賞を「何卒私に与えて下さい」と懇願する手紙を何通も送られた。結局、太宰が落選すると、太宰は短篇『創世記』を書いて佐藤を批判。これに対して佐藤は小説『芥川賞』を書き、太宰の非常識な行動を暴露して報復した。これ以降、太宰は佐藤と疎遠になったが、太宰の才能を認めていた佐藤はそのことを多少遺憾に思っていたという。太宰の『東京八景』にその後の経緯が記されている。外ヶ浜町の観瀾山にある太宰治文学碑の碑銘を揮毫。
  • 志賀直哉 - 小説『津軽』で太宰から名前を伏せて批判されている。その後、志賀は中村眞一郎佐々木基一との雑誌の座談会で、『斜陽』に登場する華族の娘の言葉遣いが山出しの女中のようで閉口した、もう少し真面目にやったらよかろう云々と旧制学習院出身で華族社会をよく知る立場から批判。逆上した太宰は、最晩年の連載評論『如是我聞』で志賀に反撃した。太宰の死後、1948年8月15日、志賀は「太宰治の死」と題する一文を草し、「私は太宰君が私に反感を持つてゐる事を知つてゐたから、自然、多少は悪意を持つた言葉になつた」と『津軽』の件で太宰に腹を立てていたことを認め、「太宰君が心身共に、それ程衰へてゐる人だといふ事を知つてゐれば、もう少し云ひようがあつたと、今は残念に思つてゐる」と、自分の対応が大人げなかったことを詫びている。
  • 杉森久英 - 編集者時代に太宰と交際。杉森は太宰の3歳下だったが、はるか年下と勘違いした太宰が画集を出してミケランジェロの偉大さを教えようとしたため、太宰に教えられなくても知っていると反感を持ったという。戦後には、たまたま「如是我聞」事件の発端となった座談会をセッティングしたため、太宰と志賀の反目をハラハラしながら見守っていた。『苦悩の旗手 太宰治』執筆。
  • 田中英光 - 小説家。太宰の弟子。オリンピック選手。青春文学「オリンポスの果実」で文壇に登場後、無頼派に転向。薬物中毒の果てに傷害事件を起こし、太宰の死の翌年、太宰の墓前で割腹自殺した[84]
  • 檀一雄 - 小説家。太宰の親友。「走れメロス」は檀との熱海でのエピソードがモデルになっているという説もある。
  • 堤重久 - 太宰が最も信頼していた弟子。のち京都産業大学名誉教授。『太宰治との七年間』の著書あり。
  • 豊島与志雄 - 太宰の先輩作家。太宰の死後、葬儀委員長を務めた。
  • 中井英夫 - 東大在学中、第十四次『新思潮』の編集者として、当時中井が最も心酔し反発もしていた太宰と交際(『続・黒鳥館戦後日記』に詳しい)。『禿鷹―あとがきに代えて―』などによれば、1948年5月16日に太宰宅を訪問したとき、太宰が八雲書店から届いた自らの全集を撫で回して嬉しそうにしているのを見て、作家の全集を生前に刊行するのを滑稽と考えていた中井は「先生はよくもうすぐ死ぬ、と仰いますが、いつ本当に死ぬんですか」と問い詰めたことがある。太宰は「人間、そう簡単に死ねるもんじゃない」と答えたが、その約一か月後に自殺した。のちに問い詰めたことを後悔したという。中井が『新思潮』に書いてもらったのは『』で、原稿料を一枚五十円支払ったという。のちに生活が苦しかった折、この直筆原稿を古書店に一万円で売り、翌日には店頭に五万円で売り出されていたと回想している。
  • 中野嘉一 - 太宰がパビナール中毒で東京武蔵野病院に入院していたときの主治医で詩人。太宰をサイコパスと診断した。『善蔵を思う』の甲野嘉一は名前をもじったもの。
  • 中野好夫 - 東大英文科教授。短篇『父』を「まことに面白く読めたが、翌る朝になったら何も残らぬ」と酷評し、太宰から連載評論『如是我聞』のなかで「貪婪、淫乱、剛の者、これもまた大馬鹿先生の一人」と反撃された。太宰の死後、『文藝』1948年8月号の文芸時評『志賀直哉と太宰治』のなかで、「場所もあろうに、夫人の家の鼻の先から他の女と抱き合って浮び上るなどもはや醜態の極である」「太宰の生き方の如きはおよそよき社会を自から破壊する底の反社会エゴイズムにほかならない」と太宰の人生を指弾した。
  • 中原中也 - 『青い花』の同人仲間。酒席での凄絶な搦みで有名な中原は「お前は何の花が好きなんだい」と訊ね、太宰が泣き出しそうな声で「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると、「チエッ、だからおめえは」とこき下ろした。太宰の側では中原を尊敬しつつも、人間性を嫌っており、親友山岸外史に対して「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃない」とこき下ろした。のちに中原の没後、檀一雄に対して「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。立原は死んで天才ということになっているが、君どう思う?皆目つまらねえ」と言ったという。
  • 野口冨士男 - 『文芸時代』の同人。日本文藝家協会書記局嘱託として葬儀で弔辞を読む。
  • 野原一夫 - 新潮社の担当編集者。『回想太宰治』などを書く。
  • 野平健一 - 新潮社の担当編集者。『週刊新潮』二代目編集長。『矢来町半世紀 太宰さん三島さんのこと、その他』などを書く。
  • 別所直樹 - 太宰の弟子。
  • 三島由紀夫 - 12歳の頃、『虚構の彷徨 ダス・ゲマイネ』を、同じ痛みを感得して読む[85][注釈 6]。その後、『斜陽』は雑誌連載時から読み、川端康成宛書簡には「『斜陽』第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります」[86]と記している。しかしのちのエッセイでは、この作品に登場する貴族の言葉遣いが現実の貴族とかけ離れていることを指摘している[87][注釈 7]。1946年12月14日、矢代静一に誘われて太宰と亀井勝一郎を囲む会合に出席した。矢代によれば「太宰が会ってくれることになった」と告げたとき、三島は目を輝かして「僕も連れてってよ」と邪気なくせがんだという[88]。三島はこの会合で、「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と「ニヤニヤしながら」発言し、これに対して太宰は虚をつかれたような表情をして誰へ言うともなく「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えたと三島は述懐している[87]。しかし、その場に居合わせた野原一夫によれば、三島は「能面のように無表情」で発言し、太宰は三島の発言に対して「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように言って顔をそむけたという[89]。三島はその後、しばしば太宰への嫌悪を表明し続けた[注釈 8]。『小説家の休暇』では、「第一私はこの人の顔がきらひだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ」「太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた」「治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない」と記し[90]、その他の座談会や書簡等にもその種の記述が見られる[注釈 9]。晩年には、1968年に行われた一橋大学でのティーチ・インにて「私は太宰とますます対照的な方向に向かっているようなわけですけど、おそらくどこか自分の根底に太宰と触れるところがあるからだろうと思う。だからこそ反撥するし、だからこそ逆の方に行くのでしょうね」[91]と述べた。また自決の2か月ほど前には、村松剛や編集者に対して「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と告白し、村松が「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、太宰治と同じじゃないか」と言うと、三島は「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」と言ったとされる[92][93]
  • 森鷗外 - 太宰は「たち依(よ)らば大樹の陰、たとえば鴎外、森林太郎」という文を書いた。また本人の墓石は、希望したとおり三鷹市禅林寺にある森鴎外の墓石と向き合うところ(正確には斜め向かい)に立てられている。ちなみに、刻まれた「太宰治」の文字は井伏鱒二の筆による。
  • 山岸外史 - 評論家。太宰の親友。1934年(昭和9年)に太宰と知り合い、『青い花』や日本浪曼派の同人として交友を深めた。自身も『人間キリスト記』などの著作により太宰の文学に影響を与えたが、戦後絶交状を送るなどして次第に疎遠となった。しかし太宰入水に際して遺体捜索には加わり、美知子夫人から「ヤマギシさんが東京にいたら、太宰は死ななかったものを」と泣かれたことなど、その複雑な交友の実態を回想録『人間太宰治』(1962年(昭和37年))、『太宰治おぼえがき』(1963年(昭和38年))の中で明らかにしている。
  • 吉本隆明 - 評論家。学生時代に『春の枯葉』の上演許可を得るため太宰の元を訪れ言葉を交わす。のちに太宰治論執筆。

注釈

  1. ^ 太宰が逗留した老舗旅館「ヤマニ仙遊館」は休業を経て2018年8月、土蔵をレストランとして再開した。太宰が使ったとされる文机などが残っている[14]。2019年4月27日には旅館業も再開した[15]
  2. ^ なお、この処分については、担当の宇野検事がたまたま太宰の父の実家である松木家の親類であることや、担当の刑事がたまたま金木出身であることが太宰にとって有利に作用したとする説もある[23]
  3. ^ 東京大学卒業に際して口頭試問を受けた時、教官の一人から「教員の名前が言えたら卒業させてやる」と言われたが、講義に出席していなかった太宰は教員の名前を一人も言えなかったと伝えられる。
  4. ^ 太宰治の作品に対しての著作権の保護期間は、第1次-第4次暫定延長措置及び1971年の改正著作権法が適用される。
  5. ^ 随筆『服装に就いて』[59]によれば565(約171.7cm)。
  6. ^ しかし『私の遍歴時代[要ページ番号]では、それらを読んだことを「太宰氏のものを読みはじめるには、私にとつて最悪の選択であつたかもしれない」と三島は述べている。
  7. ^ 貴族の娘が台所のことを「お勝手」と言ったり、「お母さまの食事のいただき方」(正しくは「召上り方」)、「かず子や、お母さまがいま何をなさっているか、あててごらん」(自分に敬語を付けている)というような敬語の使い方の間違いを指摘している。
  8. ^ 戸板康二『泣きどころ人物誌』、瀬戸内寂聴『奇縁まんだら』、出口裕弘『三島由紀夫・昭和の迷宮』などにその種の発言が記されている。[要ページ番号]
  9. ^ 不道徳教育講座』や「奥野健男著『太宰治論』評」など。

出典

  1. ^ a b 朝日新聞』東京西部版 2009年11月24日「カメラがとらえた作家太宰治 肖像写真86点展示 三鷹で来月23日まで/東京都」
  2. ^ 太宰治 “理系科目も優秀だった” 旧制中学校時代の成績表公開”. NHKニュース (2021年2月10日). 2021年2月18日閲覧。
  3. ^ 宇野俊一ほか編『日本全史(ジャパン・エミルカ‘クロニック)』講談社、1991年、1095頁。ISBN 4-06-203994-X
  4. ^ コトバンク - 太宰治”. 2019年10月12日閲覧。
  5. ^ 野原 1998, p. 34.
  6. ^ 野原 1998, p. 35.
  7. ^ 野原 1998, p. 40.
  8. ^ 野原 1998, p. 44.
  9. ^ 野原 1998, p. 47.
  10. ^ 猪瀬 2000, p. 31.
  11. ^ 野原 1998, p. 51.
  12. ^ 猪瀬 2000, p. 50.
  13. ^ 猪瀬 2000, p. 60.
  14. ^ 読売新聞』夕刊2018年8月7日掲載「太宰が自殺未遂後療養、老舗旅館がレストランに」[リンク切れ](2018年8月9日閲覧)
  15. ^ 『読売新聞』朝刊2019年5月3日「太宰の宿 4年ぶり再開/宿泊再開 5時代続く」
  16. ^ 野原 1998, p. 62.
  17. ^ 猪瀬 2000, pp. 70–71.
  18. ^ a b c 『太宰治に出会った日』所収、平岡敏男「若き日の太宰治」39-40頁
  19. ^ 猪瀬 2000, p. 110.
  20. ^ 猪瀬 2000, p. 109.
  21. ^ 猪瀬 2000, p. 125.
  22. ^ 猪瀬 2000, p. 132.
  23. ^ 中畑慶吉の談話[要文献特定詳細情報]
  24. ^ 野原 1998, p. 89.
  25. ^ 猪瀬 2000, p. 135.
  26. ^ 猪瀬 2000, p. 136.
  27. ^ 猪瀬 2000, p. 199.
  28. ^ 野原 1998, p. 117.
  29. ^ 猪瀬 2000, p. 257.
  30. ^ 猪瀬 2000, pp. 258–259.
  31. ^ 猪瀬 2000, p. 263.
  32. ^ 猪瀬 2000, p. 266-269.
  33. ^ 猪瀬 2000, pp. 275–276.
  34. ^ 猪瀬 2000, pp. 284–290.
  35. ^ 「芥川賞を私にください」太宰の書簡、川端康成邸で発見『朝日新聞』1978年(昭和53年)5月14日朝刊、13版、23面
  36. ^ 猪瀬 2000, pp. 296–299.
  37. ^ 野原 1998, pp. 213–214.
  38. ^ 猪瀬 2000, p. 351.
  39. ^ きらら山口
  40. ^ 猪瀬 2000, pp. 395–396.
  41. ^ 野原 1998, pp. 366–367.
  42. ^ 猪瀬 2000, pp. 402–406.
  43. ^ 野原 1998, p. 420.
  44. ^ 猪瀬 2000, p. 451.
  45. ^ 猪瀬 2000, pp. 439–440.
  46. ^ 猪瀬 2000, pp. 455–456.
  47. ^ a b c 『太宰治に出会った日』82-83頁
  48. ^ 新潮』1998年7月号に原文資料掲載、『朝日新聞』1998年5月24日記事。
  49. ^ 『太宰治全集 第9巻』筑摩書房、1990年10月25日、474頁。解題(山内祥史)より。
  50. ^ 猪瀬 2000, pp. 54–55.
  51. ^ 猪瀬 2000, pp. 55–60.
  52. ^ 猪瀬 2000, pp. 67–71.
  53. ^ 猪瀬 2000, p. 92.
  54. ^ 野原 1998, p. 78-79.
  55. ^ 猪瀬 2000, pp. 185–190.
  56. ^ 猪瀬 2000, p. 198.
  57. ^ 野原 1998, p. 106-108.
  58. ^ a b 嵐山光三郎『文人悪食』マガジンハウス、1997年、356頁。
  59. ^ 服装に就いて 青空文庫(2021年1月1日閲覧)
  60. ^ 津島 1997, p. 20.
  61. ^ 嵐山光三郎『文人悪食』マガジンハウス、1997年、364頁。
  62. ^ 大本泉『作家のごちそう帖』(平凡社新書 2014年)pp.150-158
  63. ^ 津島 1997, pp. 80–81.
  64. ^ 津島 1997, p. 30.
  65. ^ 津島 1997, pp. 164–167.
  66. ^ 津島 1997, pp. 150–151.
  67. ^ 鉄道ファン 2011年3月号(通巻599号)p.68-69
  68. ^ 陸橋(三鷹電車庫跨線橋)”. みたかナビ. 2017年10月9日閲覧。
  69. ^ 三鷹駅 「電車庫通り」を歩いて太宰治の散歩道だった跨線橋へ”. 朝日新聞デジタル (2015年10月6日). 2017年10月9日閲覧。[リンク切れ]
  70. ^ 2021年3月19日朝日新聞東京版「太宰が愛した跨線橋撤去か」
  71. ^ 三鷹こ線人道橋の今後の取り扱いについて”. 2021年9月14日閲覧。
  72. ^ 「吉川英治氏が250万円で筆頭 芸能人の所得番付」『日本経済新聞』昭和24年4月12日2面
  73. ^ 番組エピソード 文豪の世界への誘い〜大作家の作品のドラマ化〜 NHKアーカイブス(2021年1月1日閲覧)
  74. ^ 杉森久英『苦悩の旗手 太宰治』文藝春秋、1967年。
  75. ^ 太宰治著『女生徒』(角川文庫)、小山清の作品解説より。
  76. ^ “太宰作品にGHQ検閲=「神国」など削除指示-4短編集7作品、米で新資料”. 時事通信. (2009年7月31日). http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2009073101151 
  77. ^ 【be report】太宰治と二つの検閲 揺さぶられた本心、資料に探る『朝日新聞』土曜朝刊別刷り「be」2020年11月21日(4面)2021年1月1日閲覧
  78. ^ “韓国語版の太宰治全集 全10巻が完結”. 聯合ニュース. (2014年12月22日). http://japanese.yonhapnews.co.kr/relation/2014/12/22/0400000000AJP20141222002600882.HTML 2015年4月28日閲覧。 
  79. ^ 鎌田慧著『津軽・斜陽の家 〜太宰治を生んだ「地主貴族」の光芒』81頁)
  80. ^ a b 猪瀬直樹 (2000). ピカレスク 太宰治伝. 小学館. pp. 35-36 
  81. ^ 猪瀬直樹 (2000). ピカレスク 太宰治伝. 小学館. pp. 88-90 
  82. ^ “津島園子さん死去 太宰治の長女”. 産経新聞 (産業経済新聞社). (2020年4月20日). https://www.sankei.com/life/news/200420/lif2004200020-n1.html 2020年4月20日閲覧。 
  83. ^ 『朝日新聞』2016年10月25日37面
  84. ^ 田中英光 自殺から30年 眠っていた短編『朝日新聞』1979年(昭和54年)7月5日夕刊、3版 15面
  85. ^ 安藤武「年譜」(三島由紀夫『中世』)(講談社文芸文庫、1998年)
  86. ^ 三島由紀夫「川端康成への書簡 昭和22年10月8日付」(『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』)(新潮社、1997年。新潮文庫、2000年)
  87. ^ a b 三島由紀夫「私の遍歴時代」(『東京新聞』夕刊 1963年1月10日 - 5月23日号に掲載)。『私の遍歴時代』(講談社、1964年)
  88. ^ 矢代静一「太宰治と三島由紀夫」(新潮 1998年7月号に掲載)
  89. ^ 野原一夫『回想 太宰治』(新潮社、1980年)[要ページ番号]
  90. ^ 三島由紀夫『小説家の休暇』(講談社 ミリオン・ブックス、1955年)
  91. ^ 三島由紀夫「学生とのティーチ・イン――国家革新の原理」(『文化防衛論』)(新潮社、1969年)
  92. ^ 村松剛『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)
  93. ^ 井上ひさし・小森 陽一編著『座談会昭和文学史 第三巻』(集英社、2003年)
  94. ^ “井の頭公園に太宰治文学館/三鷹市が計画”. 東奥日報. (2017年1月24日). http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2017/20170124021799.asp 2017年1月25日閲覧。 
  95. ^ 文学施設の整備に向けた『基本的な考え方』をとりまとめました - 三鷹市ウェブサイト(2018年3月30日)
  96. ^ 太宰治文学サロン - 三鷹市(2020年10月4日閲覧)






太宰治と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「太宰治」の関連用語

太宰治のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



太宰治のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの太宰治 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2021 GRAS Group, Inc.RSS