天正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/07 07:58 UTC 版)
死去
- 元年
- 2年
- 3年
- 5月16日 - 鳥居強右衛門、戦国期の足軽、奥平信昌の家臣(* 生年不明)
- 5月21日 - 甘利信康、戦国期の武将、武田勝頼の家臣(* 生年不明)
- 5月21日 - 河窪信実、戦国期の武将、武田信玄の異母弟(* 生年不明)
- 5月21日 - 三枝昌貞(守友)、戦国期の武将、武田勝頼の家臣(* 天文6年)
- 5月21日 - 真田信綱、戦国期の武将、武田勝頼の家臣(* 天文6年)
- 5月21日 - 真田昌輝、戦国期の武将、信綱の弟(* 天文11年)
- 5月21日 - 土屋昌続(昌次)、戦国期の武将、武田勝頼の家臣(* 天文13年)
- 5月21日 - 馬場信春、戦国期の武将、武田家臣(* 永正12年?)
- 5月21日 - 原昌胤、戦国期の武将、武田勝頼の家臣(* 享禄4年)
- 5月21日 - 内藤昌秀(昌豊)、戦国期の武将、武田家臣(* 大永2年)
- 5月21日 - 望月信永、戦国期の武将、武田勝頼の従兄弟(* 天文20年)
- 5月21日 - 山県昌景、戦国期の武将、武田家臣(* 享禄2年)
- 5月21日 - 松平伊忠、戦国期の武将、徳川家康の配下(* 天文6年)
- 10月 - 南条宗勝、戦国期の武将、伯耆国の南条氏当主(* 明応4年?)
- 11月21日 - 秋山虎繁(信友)、戦国期の武将、武田勝頼の家臣(* 大永7年)
- 4年
- 5年
- 6年
- 7年
- 8年
- 9年
- 10年
- 1月4日 - 南部晴政、陸奥国の戦国大名(* 永正14年)
- 1月9日 - 宇喜多直家、戦国大名、宇喜多秀家の父(* 享禄2年)
- 1月24日 - 南部晴継、陸奥国の戦国大名、南部晴政の子(* 元亀元年)
- 3月2日 - 小山田昌成、甲斐武田氏家臣、信濃内山城代(* 生年不詳)
- 3月2日 - 小山田大学助、甲斐武田氏家臣、昌成の弟(* 生年不詳)
- 3月11日 - 武田勝頼、甲斐国の戦国大名(* 天文15年)
- 3月11日 - 武田信勝、戦国期の武将、武田勝頼の嫡男(* 永禄10年)
- 3月24日 - 小山田信茂、甲斐国都留郡の国人領主(* 天文8年)
- 4月3日 - 快川紹喜、戦国期の臨済僧(* 生年不明)
- 6月2日 - 織田信長、戦国期の武将、右大臣・右近衛大将(* 天文3年)
- 6月2日 - 森成利、戦国期の武将、織田信長の小姓(* 永禄8年)
- 6月2日 - 織田信忠、戦国期の武将、織田信長の嫡男(* 弘治3年)
- 6月2日 - 穴山信君、戦国期の武将、甲斐武田氏の一族(* 天文10年)
- 6月13日 - 明智光秀、戦国期の武将、近江国坂本城主(* 享禄元年?)
- 6月17日 - 斎藤利三、明智光秀の家老(* 天文3年)
- 11年
- 12年
- 13年
- 14年
- 15年
- 16年
- 17年
- 18年
- 19年
- 20年
- ^ 天正から文禄への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1593年1月10日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。文禄元年は西暦1593年1月10日から同2月1日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、天正20年=文禄元年=西暦1592年、文禄2年=西暦1593年となって実際とはずれが生じる。ただしユリウス暦では1592年12月31日でずれは生じない。
- ^ 例えば、ヨーロッパでも、ロシアがグレゴリオ暦を実施したのは1918年2月14日、同じくギリシャは1923年3月1日など、日本よりも遅い。
- ^ 日本の現行暦はグレゴリオ暦そのものではなく、神武天皇即位紀元(皇紀)を元にした暦である(閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号))。もっとも、グレゴリオ暦の特長である閏年の計算は、神武天皇即位紀元年から660を減じた年数(グレゴリオ暦の年数に等しい)を元に行う。そのため、日本の現行暦はグレゴリオ暦と大差無い。
- ^ 神田裕理『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』(校倉書房、2011年) ISBN 978-4-7517-4300-3 第一部第一章「織豊期の改元」
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